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『アルカディア航路』試し読み⑨|四月二十日(月)18:58 曇り

 四月二十日(月)18:58 曇り
 階段を下りているとき足を止め、ポケットから携帯を取り出すと、藤木真吾はディスプレイに目をやった。ちょっと早かったかも。真吾は苦い顔をした。だいたい本気なのかな、辰巳さん。ズキンと胸が痛み、昨日の朝方の会話が頭に浮かぶ。DJブースの近くで踊りまくってたら、リズム感いいね、初めて? って辰巳さんが声をかけてきた。はい、初めて来ましたって返したら、DJとかやってんの? って訊くから、ただの大学生ですって答えたら、DJやってみない? って誘われた。まだ十九ですよって言っても、俺もそんくらいで始めたからとか、やってみないとわかんないからとか上手いこと丸め込まれた。月曜の十九時に来てって言われたけど、冗談だったとか言われたら泣くなあ。
「ここまで来たら行くっきゃないよな」と呟き、真吾はまた階段を降り始めた。
 下まで降りて廊下を左に進むが、先週土曜日は店から漏れていた音がいまは聞こえないことに気づき、真吾は不思議な感覚に包まれた。店の前まで行ってもそれは同じで、まだ誰も来ていないのかもしれないと思いながら、恐る恐る取っ手を掴んで引いてみるとドアは開いた。中に入ってもやはり無音で、さらに土曜日は薄暗かった入り口付近が白色電球で明るく照らされていることに、真吾は戸惑った。通路を進んでいくと無人のダンスフロアは暗かった。左に顔を向けるとDJブースも暗かったが、右を向くとバーカウンター周辺だけは営業時間中のようにオレンジ色の優しい光に包まれていた。バーカウンターの前には辰巳がいる。上は黒一色のTシャツ、下はジーンズという昨日と同じ格好だった。バーカウンターの中には知らないモヒカンヘアーの男がいたが、そのTシャツに真吾は驚いた。赤と紺の縦縞の柄。あれってサッカーのユニフォーム? 見たことがあるような。
 二人はなにやら話していたが、真吾が近づくと二人ともすぐにこちらに気づき、笑顔で手を上げた。真吾も手を上げ声をかける。
「こんにちは辰巳さん」そこで一瞬間をあけ、モヒカンの男に顔を向けると真吾は頭を下げ、言い添えた。「こんにちは」
「真吾だろ? 俺は進士ね」モヒカンの男は言う。「月曜と木曜バーテンやってる。よろしく」
「真吾です。よろしくお願いします」
 そう言って真吾がもう一度頭を下げると、シンジというモヒカンの男に顔を向け、辰巳は口を開いた。
「これから月水土と真吾に入ってもらうから。月土は俺と亮五と真吾、水は俺と五月さんと真吾。今日は初回だから三、四十分くらい、DJレッスンだけ」
「へぇー、辰巳がDJを教えるとは」と驚いた顔でシンジという男は言い、真吾の方に顔を向けると付け足した。「こいつそんなことやる奴じゃないんだぜ。お前見込みあると思われたんだな」
 返事の代わりに真吾がにっこりとした笑顔を返すと、真吾に向かって、じゃあ行くか、と口にして、辰巳はダンスフロアの方に歩き出した。真吾もそれに続いたが、辰巳はすぐに立ち止まった。真吾の胸元に目をやり口を開く。「今日も無地のTシャツか。俺もそうだけど、いっつも無地なの?」
「そうっすね。なんか落ち着くんすよね」と微笑みながら答え、真吾は自分のTシャツに目を向けた。白一色のTシャツ。次いで真吾が顔を上げると、軽く首を捻り辰巳は前を向いて進み出した。真吾は後を追う。
 DJブースに入ると辰巳は左の壁に手を伸ばし、ダンスフロア壁際の照明と頭上のスポットライトをつけた。それからDJブースの中央まで進んでこちらを振り返ったが、出入り口付近で真吾がモジモジしていると、笑顔で手招きした。
「そんなとこにいちゃ教えられないよ」
 真吾は辰巳の隣に移動し、すると辰巳は後ろを向いてレコードが収められている左右の高い棚に挟まれた、高さも横幅も1メートル50センチほどの棚、その上に上下二段でずらりと並ぶCDを指さし、「ここにあるCDは自由に使っていい」と言った。それから前を向くとDJ機材が載っている台の左端を指さして付け足した。「ヘッドフォンはあそこに店のがあるから使っていい」
 続いて辰巳はDJ機材に目を向け、早口で説明し始めた。
「まずは機材の構成からだな。台の中央にあるのがDJミキサー。左右に一台ずつ置いてあるのがターンテーブル。その外側の左右にこれも一台ずつあるのがCDJ。レコードをかける場合にはターンテーブル、CDのときはCDJを使う。ミキサーには四つのチャンネルがあって、真ん中の白い線で区切られてるのがひとつのチャンネル。左から順番に1、2、3、4って番号がついてるのが見えるか?」
 そこで話すのを止め、真吾が頷くと説明を続けた。
「内側の二つ、2番と3番はターンテーブルに対応していて、外側の1番と4番がCDJ用。次は音量調節だな。各チャンネルの一番上にあるツマミをいじって音量を調節する。右に回すと音量が上がる。左に回すと音は下がる。必ず流す前に調節すること。音量によってこの部分(辰巳はツマミの左隣にある音量メーターを指さした)が緑から赤になるから、赤にならないくらいに。いじっていいのは一番上だけ。その下にあるツマミはいじらないこと。十二時を向いたまま。変にいじると原曲の良さが台無しだから」
 そこで辰巳は言葉を切った。真吾は黙って説明された箇所を凝視したが、少しして辰巳の方に顔を向け、すると辰巳は言葉を継いだ。
「ツマミの下にある、この縦にスライドするフェーダーで音源の出力を調整できる。フェーダーを上にスライドすると、そのチャンネルの音量が大きくなる。一番下は音量ゼロ。でも音量調節には縦フェーダーは使わない。音量調節はさっきのツマミでやる。音源をCDJにセットして曲選択したら、プレイボタンを押してモニターしながら必ず音量調節をすること」
「モニターってなんですか?」少し不安そうに首を傾げ、真吾は訊いた。
「ああモニター」辰巳は軽く笑いながら答える。「外に音を出さないで、次の曲だけヘッドフォンで聴くこと」辰巳は話すのを止めたが、真吾が相変わらず顔をしかめていると、ニカッとして付け足した。「縦フェーダーとCDJのキューボタン、この二つだけ今日は覚えて。縦フェーダーはさっきも説明した。上下することでスピーカーの音量を調節できる。次はキューボタンにいってみよう」
 辰巳は左に手を伸ばしヘッドフォンを取った。それを真吾に手渡し、ヘッドフォンのプラグをDJミキサーに差した。次いで真吾に顔を向け、つけて、真ん中に来て、と言って辰巳は右に寄り、すると真吾はDJブース中央に移動し、ヘッドフォンを装着したが、その間に辰巳は右のCDJに近寄り、こっちには、と口にしながらディスプレイを覗き込んで言った。「ラモーンズの『Commando』が入ってる。CDを再生するにはCDJのこのボタン(辰巳はCDJの左下隅にあるプレイボタンを指さした)を押す」
 辰巳はプレイボタンを押した。が、ヘッドフォンから音はしない。あれ? どういうこと? スピーカーは鳴ってる? そう思って真吾がヘッドフォンを外すと、店内は静かだった。
「音しないだろ?」
 辰巳は真吾に笑いかけた。不思議そうな表情を辰巳に向けた真吾だったが、もう一度つけて、と言われ、ヘッドフォンを装着した。
「これでどうかな」
 辰巳はDJミキサーの4チャンネル、その縦フェーダーの上にあるボタンを押した。と、ボタンに橙色の灯りが点き、ヘッドフォンからパンクロックが鳴り出した。ドラムが叩き出す平坦なビートに歪んだカッティングギターの音が乗る、断続的に差し込まれるかけ声がキャッチーな曲。音がデカい。真吾は目を見開き、ヘッドフォンを外した。ヘッドフォンを肩にかけて右に顔を向けると、辰巳が大笑いしていた。
「驚かせたな、ごめんごめん」楽しそうな顔で辰巳は言った。「いま押したのがキューボタン。このボタンが点灯してると、4チャンネルで再生した音源がヘッドフォンから流れる。これがモニターって言って——」
「どうしてスピーカーからは流れないんです?」
 不思議そうな顔をして真吾が訊くと辰巳は微笑み、4チャンネルの縦フェーダーを指さした。縦フェーダーのツマミは一番下まで下がっている。辰巳は言った。「下がってるだろ? このときはスピーカーから音が出ない。こうやってツマミを上げていくと」
 口を動かしながら辰巳は縦フェーダーのツマミを右手で掴み、ゆっくりと上げていった。するとスピーカーから音が流れ出し、その音は徐々に大きくなっていった。なるほど、あれの上げ下げでスピーカー出力を制御してるのか。あれ? この状態でも、と、そこまで考え、真吾はヘッドフォンを耳に近づけた。スピーカーと同じ音が流れている。なるほどなるほど、じゃあこうしたら。真吾は4チャンネルのキューボタンを押した。灯りが消え、同時にヘッドフォンからの音が止んだ。そういうことか! 真吾は微笑み、もう一度4チャンネルのキューボタンを押した。灯りがともり、音が鳴り出した。
 真吾は大きく頷き、再びヘッドフォンを外して肩にかけた。続いて右に顔を向けると、辰巳は笑顔だった。嬉しそうに口を開く。
「わかった? ポイントは縦フェーダーとキューボタン。こうやって縦フェーダーを操作して、スピーカーからの出力を調整し、キューボタンでヘッドフォンから聴く。音量調節って点では最初に説明したツマミでもできる。けどそれを変えると、スピーカーもヘッドフォンも音が変わる。縦フェーダーは違う。縦フェーダーを変えてもスピーカーの音が変わるだけ。縦フェーダーとキューボタン。この二つがわかれば最低限のことはできる。じゃあ練習しよう」そこまで口にしたとき曲が終わり、辰巳は苦笑いした。
「もう一度」と言い、辰巳は右のCDJのプレイボタンを押した。店内に同じ曲が頭から流れる。辰巳は付け足した。「左も使ってみよう。CDJになんか入ってる?」
「えーっと」と返しながら、真吾は左のCDJのディスプレイに目を向けて言った。「クラッシュの『Janie Jones』です」
「お、いい感じ。プレイボタン押して」
「あ、はい」と言って真吾は左のCDJ、その左下のボタンに人差し指を乗せた。これを押すとこっちのも流れるってことだよな。音が混ざってうるさいかも。真吾は恐る恐るボタンを押した。が、音はしない。変わらず右のCDJの音源——ラモーンズの『Commando』——だけが鳴っている。あれ? どうして? 真吾はCDJのディスプレイを覗き込んだ。再生時間は減っていっている。ちゃんと再生されてるみたいなのに、スピーカーから聞こえない。真吾はヘッドフォンを装着した。こちらでも『Commando』だけが鳴っている。あ、もしかして、と考え、真吾は1チャンネルのキューボタンを押した。と、ヘッドフォンから新たな音が聞こえた。『Commando』の音——平坦なビートで繰り返されるギターフレーズ——の合間に、『Janie Jones』の音——ペタペタとしたリズミカルなドラム音と歪んだギターの音、それにがなるように歌うボーカルの声——が聞こえる。いけた! 真吾は笑みを浮かべた。じゃあこうすれば。真吾はヘッドフォンを外して首にかけ、1チャンネルの縦フェーダーを上げていった。するとスピーカーからもペタペタしたドラムが聞こえ出した。思った通り!
 真吾は辰巳に笑顔を向け、すると辰巳も微笑み、DJミキサーはわかってきたな、と口にしたが、そのときまた『Commando』が止まった。辰巳は右のCDJに目を向け、しかしすぐに真吾の方を向いて続けた。「次はCDJをやろう。CDJはCDを再生する機械ってことは言ったけど、ここ(辰巳は左のCDJ、その直方体の手前の面にある開口部を指さした)に差し込み口があって、CDを押し込むとすーっと中に入っていく。いまはクラッシュのファーストが入ってるから、取り出してからじゃないと入れられない。取り出しボタンはここ(辰巳はCDJの右上のボタンを指さした)。プレイボタンはわかってるな、左下のボタン。その上のボタンで曲を停止する。で、曲選択とBPMの調整もCDJでやるんだけど。あ、BPMってわかる?」真吾は頭を振り、すると辰巳は顔に笑みを浮かべて言葉を継いだ。「BPMはどんくらい速いかってこと。一分間に打つ拍の数で、百より小さいとスローテンポ、百から百五十くらいまでミドルテンポ、それより速いとアップテンポって感じ。まあこれは目安で、八十なのに百六十にも聞こえる曲とかその逆もあって、そこら辺は感覚を掴んでいくしか——」
 そこで『Janie Jones』が終わり、ダンスフロアが静まった。辰巳は苦笑いし、次いでいま一度右のCDJのプレイボタンを押した。スピーカーから『Commando』が鳴りだした。どんまいどんまい、とニヤけ顔で言い、また真吾の方に顔を向けると辰巳は言った。
「まだ曲の頭出しとかいろいろあるけど、それは追々やっていこう。じゃあ実践編といこう。『Commando』が終わるタイミングで『Janie Jones』を流してみて」
 そこで辰巳は言葉を切り、両手を打ち鳴らすと同時に声を張った。
「スタート!」

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