『アルカディア航路』試し読み⑦|四月十八日(土)06:55 薄曇り
四月十八日(土)06:55 薄曇り
車の音で目が覚めた。向こうにガードパイプがある。その先を車がびゅんびゅん走って行く。頭が痛い。臭い。そう思って下を見ると、パーカーがゲロまみれだった。慌てて汚物を手で払いのけ、その手をジーンズに擦り付ける。それから立ち上がろうとした剛也だったが、足に力が入らない。ここどこだ? 手がかりを求めて後ろを振り返った。コンクリートの壁。ビルか。再び前を向くと道路は片側三車線ある。これは靖国通り、ということは店と駅の途中? 剛也は左右に目を向けた。ここは歩道か、人がいなくてよかった。何時だろ? 剛也はジーンズの右ポケットに手を突っ込んだ。携帯を取り出して折りたたみを開く。六時五十六分。充電が二十パーセントを切っている。海本からメールが来ていた。開いてみると今日の一時に届いたメールで、『今日どっか遊び行かない? 昨日の埋め合わせするよ。』とある。剛也は渋い顔をしてため息をつき、携帯をポケットにしまった。空に目をやると雲に太陽が隠れている。曇りでよかった。いま陽の光を浴びたら溶けちゃいそうだ。さあ、いつまでもここにいるわけにはいかない。剛也は思い切り息を吸った。それを吐き出すと同時に壁面に手をついて立ち上がった。だが体がよろけ、壁に寄りかかる。そのとき何か変だと思った。何かが違う。剛也はパーカーのポケットに手を突っ込んだ。だが何も入っていない。いや、元から入ってなかった。じゃあなんでだろうと考えたとき、お尻の違和感に気がついた。押しつける感触がない。後ろに手を回してポケットを探る。ない、財布がない。ぼんやりしていた頭が一気にクリアになった。どこだ、立ち上がったとき落とした? 剛也は地面に目を向けたが、ゲロが散らばっているだけでどこにも財布はない。左右に目を向けても見える範囲の歩道に財布はなかった。どうしよう? どうすればいい? 対策を考えようとするが、焦りが募って上手く頭が働かない。そのことがさらなる焦りを生みパニックになりそうになって、神様、助けてください、と胸の中で念じたとき、海本の顔が頭に浮かんだ。そうか、アイツに相談しよう。こくりと頷き、携帯を取り出して折りたたみを開いた。次いで電話帳を起動したが、画面を目にして驚いた。昨日まで十人も登録されていなかった電話帳に、新たに十人くらい登録されている。エリ、マイ、タイキ、……。各々電話番号とメールが登録されていた。いつの間に交換したんだろう? 大体わかるけどフウタとタツミってのがわからん。昨日話したっけ? 剛也は頭を振り絞った。すると少しして髪も髭もぼうぼうに生やした男の顔が浮かび上がってきた。そうか、アイツ、フウタって言ってた。バーテンダーやってた男だ。スペシャルとかいうめちゃくちゃ濃い酒を出してきた。あとそうだ、タツミはDJだ。あのクエみたいな顔のDJ。思い出せてすっきりし、笑顔を浮かべた剛也だったが、それどころではなかったことに気づき、そそくさと海本に電話をかけた。呼び出し音が鳴る。なかなか出ない。まだ出ない。剛也は気づいた。いま早朝だった、あいつまだ起きてないんだ。ああどうしよう、後でっていっても当分起きないだろうし。剛也は苦い顔になった。次いで電話を切ろうとしたとき声がした。
「はい、どうした?」
ガラガラ声が聞こえ、剛也は笑みを浮かべた。
「海本?」
「何時だと思ってんだよ」
「ごめんごめん」
「寝たの三時間前だぞ」
「ごめん緊急事態で。財布がないんだ」
「へ、ないってどした?」
剛也は簡単に状況を説明した。
「なるほど」と海本は冷静に言う。「そりゃ盗まれたか落としたかだな」
「そんなことわかってんだよ」苛立った声を上げた剛也だったが、すぐに弱った調子で言った。「どうしようか」
「いまどこにいるかわかんない? いまいる場所から何が見える?」
「えーっと」と言って、剛也は周囲を見回した。「目の前にたぶん靖国通りがあって、後ろにはビルばっか。あとは」と言って、剛也は顔を上げた。右斜め上に目を向けると向こうのビルの一番上、そこの看板に『角海老』とある。そのことを告げると「ちょっと待って」と海本は言い、少しして声がした。
「お前そんなに店から離れてないぞ。四分くらいで戻れる。ビルを背にして左方向に進んでけ。どっかに財布が落ちてるかもしれない。あとは店にあるとか」
「なかったらどうするんだ」剛也は不安をぶつけるように海本に言った。
「そんときゃ交番に届けるしかない」海本はケロッと返す。「新宿の東口に交番あるから。盗難に遭いましたって。まあまず出てこないだろうけど」
「そんなこと言って、財布がなかったらどうやって寮に戻るんだ」
「そんくらい交番で貸してくれるよ」海本は当然と言った口調で言い、さらに続けた。「貸してくれなかったらまた電話しろ。俺が行ってやるから」
「はー、なんてこった」
「それはこっちが言いたいよ。遊びに行って財布なくすとかアホ過ぎるだろ」
「はー、なかったらどうしよう」
「あんま期待すんな。落としたにしてもネコババされてるかもしんないし」
「嫌なこと言うなよ」
「現実だよ現実。大体お前は大学院のときから夢見がちっていうか、浮世離れし過ぎてんだよ」
「おいおいいまそれ言うか? 弱ってんだからもうちょい労ってくれよ」
「よく言うわ。クラブ楽しかったんだろ? 良かったじゃんか」
「うんまあ、楽しかったは楽しかった」
「俺も連れて行けよ、今日か来週か」
「今日は無理だろ」
「確かにな、出てこなかったら申請しないとな、クレジットとかキャッシュカードとか」
「そっかー」
ため息をつくように語尾を伸ばして剛也が言うと、海本は付け加えた。「そうだ。おい、社員証は大丈夫か? あれ無くすとめんどいぞ」
「社員証は大丈夫、いつもちゃぶ台の上」
「じゃあクレジットとキャッシュカードだけか。すぐ銀行に連絡しないと」
「クレジットカードは持ってない。キャッシュカードだけだな、あとは現金」
「よし、じゃあ健闘を祈る」
「おい、まだ切らないでくれよ」
「いいや切る。休みだってのに起こしやがって、じゃあな、何かあったらまた電話しろよ」
携帯をポケットにしまい、剛也は左に歩き出した。地面を凝視しながら歩を進める。しかし何も見当たらない。それでため息をついた剛也だったが、すぐに顔を上げて深呼吸をすると、再び下に目を向け足を動かした。
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