「楽になるから,やめる」のではなかった― あゆみをやめる前に,教職員と共有したこと
前回,私は「あゆみ」の代わりに,
何を保護者へ伝えるのかについて書いた
あゆみをやめる
けれど,評価をやめるわけではない
子どもの学びを伝えなくなるわけでもない
むしろ,子どもの学びを,
より具体的に,
より早く,
より次につながる形で返したい
そう考えていた
ただし,それは校長一人の考えだけで進められるものではない
学校として本当に大切なのは,
「なぜ,あゆみをやめるのか」
「何を残し,何を変えるのか」
「子どもや保護者に,何をどう伝えていくのか」
を,教職員と共有することだった
学校運営協議会での声を,教職員に伝えた
学校運営協議会で「あゆみをやめたい」と話したあと,私は
その場で出た声を教職員に伝えた
正直なところ,
もっと反対の声が出るかもしれないと思っていた
「あゆみがないと不安です」
「成績が分からなくなるのでは」
「学校が評価をしなくなるように見えるのでは」
そんな声が出ても不思議ではないと考えていた
ところが,実際には賛同する声が多かった
「あゆみをもらっても,マル(○)の数を数えるだけ」
「ほとんど見ない」
「マル(○)の数できょうだいげんかになる」
そうした率直な声があったことを,
教職員にも伝えた
それは,私たちが感じていた違和感が,
学校の中だけのものではなかったということでもあった
教師は,あゆみを書くために多くの時間をかけている
子どもの姿を思い浮かべ,言葉を選び,成績をまとめる
けれど,受け取る側では,必ずしもそのように読まれていないことがある
その現実を,教職員とも共有したかった
それでも,「何もいらない」ではなかった
ただし,学校運営協議会で出た声は,単純に
「あゆみはいらない」というものだけではなかった
大切な意見もあった
「あゆみに代わるものがあれば嬉しい」
「成績が分かるようなものは欲しい」
「個別懇談会などで,具体的に知りたい」
この声は,とても大事だった
保護者が知りたいのは,抽象的な評価だけではない
たとえば,算数で「おおむねできている」と書かれていても,
実際には何が分かり,何につまずいているのかは見えにくい
わり算の計算の手順でつまずいているのか
文章題の意味を読み取るところで困っているのか
図に表すことが難しいのか
単位の意味があいまいなのか
保護者が本当に知りたいのは,そういう具体的なことなのだ
「算数が苦手です」ではなく,
「わり算の筆算で,商を立てるところに迷いがあります」
「文章題では,何を聞かれているのかを整理するところに支援が必要です」
「図や線分図に表すと,考えやすくなります」
そうした具体的な助言があれば,
家庭でも子どもの学びを支えやすくなる
だから,あゆみをやめることは,
情報を減らすことではない
むしろ,より具体的に伝えることが求められる
このことも,教職員と確認した
「楽になるから,やめる」のではなかった
あゆみをやめるという話をすると,もしかすると,
こう受け取られるかもしれない
「先生たちの仕事を減らすためですか」
「働き方改革ですか」
「評価を簡単にするのですか」
もちろん,教職員の働き方は大切だ
学期末に多くの時間をかけてあゆみを作成してきた現実もある
けれど,今回の見直しは,単に業務を減らすためのものではなかった
なぜなら,あゆみをやめても,指導要録は作成する必要があるからだ
教職員からも,確認の声が出た
「でも,指導要録は残りますよね」
その通りだった
あゆみをやめても,
評価そのものがなくなるわけではない
子どもの学習状況をみとることもなくならない
指導要録に記録する必要もある
つまり,これは大きな働き方改革にはならないのだ
むしろ,評価について考える手間は,別の形で残る
保護者へ具体的に伝える責任も残る
子どもに学びを返す責任も残る
だからこそ,ここははっきり共有しておきたかった
あゆみをやめるのは,楽になるからではない
評価の仕事を減らすためでもない
評価の意味を問い直すためだった
自由進度学習の評価を,あゆみにまとめきれるのか
教職員との共有の中で,もう一つ,大切な声が出てきた
「自由進度だと評価が難しいです」
この言葉は,反対の言葉ではなかった……
むしろ,
個別最適な学びや自由進度学習に,
本気で取り組んできたからこそ出てきた言葉だった
子どもたちは,学習の見通しをもつ
自分のタイミングで自己決定する
自己選択する
友だちの考えを参照する
自分の学びのヒントを得る
そして,自ら学習のゴールへ向かっていく
そこでは,子どもたちは
同じ時間に,
同じ場所で,
同じことをしているわけではない……
ある子は,基礎に戻っている
ある子は,発展問題に取り組んでいる
ある子は,友だちの考えを見ながら,自分の考えをつくり直している
ある子は,教師と一緒に一つずつ確認している
どの姿も,その子にとって必要な学びである
けれど,学期末になると,それを一つの形式にまとめようとする
同じ欄に,同じ観点で,同じように示そうとする
もちろん,成績をまとめることはできる
これまでも,そうしてきた
制度として必要な評価もある
けれど,そこにはどこか,少し強引にまとめているような感覚があった
子どもたちが,自分の道筋で学んでいる
必要な支援も違う
進み方も違う
つまずきも違う
表現の仕方も違う
その学びを,一律一斉評価にまとめることは,
本当に今の授業に,今の時代に,合っているのだろうか……
教職員の声は,そこを問い直すものだった
評価しなくなるのではなく,評価をどこで返すのか
あゆみをやめることは,評価をしなくなることではない
むしろ,評価をどこで返すのかを考え直すことだった
学期末にまとめて渡すのか
単元ごとに返すのか
授業中に返すのか
個別懇談で対話として返すのか
デジタルドリルの結果をもとに,すぐに振り返るのか
評価は,一つの形に閉じ込めなくてもよいのではないか
子どもの学びは,日々動いている
つまずきも,
成長も,
分かりかけている瞬間も,
授業の中で起きている
ならば,評価もその近くにあるべきではないだろうか
「できた」「できなかった」をあとから知らせるだけではなく,
「次に何をすればよいか」が分かるように返す
「あなたはこの位置です」と並べるのではなく,
「ここからこう進めるよ」と支える
そういう評価に変えていきたい
このことを,教職員と共有したかった
強引にまとめる違和感を,そのままにしない
私は,あゆみそのものを否定したいわけではない。
これまで,あゆみには大切な役割があった。
学校と家庭をつなぐものでもあった。
子どもの成長を記録し,伝えるものでもあった。
しかし,個別最適な学びや自由進度学習を進める中で,
見えてきたものがある……
子どもたちの学びは,一人ひとり違う
学びのスタートも違う
必要な支援も違う
進み方も違う
その違いを大切にしようとしているのに,
最後だけ一つの形式に押し込める
そこに,どうしても違和感が残った
もちろん,まとめることはできる
けれど,まとめられることと,
それが子どもの学びに返っていることは同じではない
その違和感を,そのままにしたくなかった
学校として確認したこと
教職員と共有する中で,私たちは改めて確認した
あゆみをやめるのは,楽になるからではない
指導要録は残る
評価の見取りは続く
保護者に伝える責任も残る
だから,評価の仕事がなくなるわけではない
それでも見直すのは,子どもの学びと評価の形を,
もう一度合わせ直したかったからだ
評価とは,子どもを並べるためのものではない
評価とは,子どもの学びを前に進めるためのものだ
あゆみをやめることは,評価の仕事を減らすことではなかった。
評価の意味を問い直すことだった。
次回は,この考えをもう一度,学校運営協議会へ伝え,
保護者へ伝えたことを書いてみたい
