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#481 なぜ反乱を起こした平将門が神様になったのか?

平将門と聞くと、

「平将門の乱」

を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。

平将門は、皇位を奪おうとした道鏡や天皇を裏切った足利尊氏と並んで日本三大悪人の一人として紹介されることもあります。

しかし東京の丸の内には、

平将門を祀る神社

が存在します。

しかも単なる歴史上の人物ではなく、「神様」として信仰されているのです。

なぜ朝廷に反逆した人物が神様になったのでしょうか。

その背景には、日本独特の信仰の歴史がありました。

平将門は何をした人?

平将門は平安時代中期に活躍した人物です。

現在の関東地方を拠点としていた豪族で、桓武天皇の血を引く桓武平氏の一族でもありました。

当時の関東では、

・土地争い
・豪族同士の対立
・朝廷からの支配への不満

などが存在していました。

将門も親族との争いを繰り返し、その中で勢力を拡大していきます。

やがて939年、朝廷から派遣された国司や周辺勢力と対立し、将門は関東一帯を支配下に置くようになります。

そして自らを

「新皇(しんのう)」

と名乗りました。

これは、新しい天皇になるという意味に近いものです。

朝廷から見れば、これは明らかな反乱でした。

こうして将門は朝敵として討伐されることになります。

朝廷から見れば完全な反逆者だった

現在の感覚では、地方の有力者が独立を目指したとも見えます。

しかし当時の朝廷にとっては違いました。

天皇を中心とする国家体制に対し、別の政権を作ろうとした人物と映ったのです。

そのため将門は討伐され、最終的には藤原秀郷らによって敗れます。

そして首は京都へ送られました。

ここまで見ると、将門は単なる反逆者に見えます。

しかし物語はここで終わりません。

関東では英雄でもあった

将門は朝廷から見れば反逆者でした。

しかし関東の人々から見ると、必ずしもそうではありませんでした。

当時の政治の中心は京都です。

関東は遠く離れた地方でした。

そのため、

「京都の貴族ばかりが利益を得ている」

という不満も存在していたと考えられています。

将門はそうした東国の豪族たちの代表的存在でもありました

つまり、

京都から見れば反逆者

関東から見れば英雄

という二つの見方が存在していたのです。

死後に始まった怨霊伝説

将門が神様になった最大の理由は、死後の伝説にあります。

伝承によれば、京都へ送られた将門の首は三か月もの間さらされ続けたと言われています。

しかし首は腐らず、夜になるとうめき声を上げたとも語られています。

さらに、首が関東へ向かって飛んでいったという伝説まで生まれました。

その後、

・疫病
・火災
・落雷
・政治的混乱

などが起きるたびに、

「将門の祟りではないか」

と噂されるようになります。

こうして将門は、恐ろしい怨霊として人々に恐れられるようになったのです。

日本人は怨霊を神様にする

ここで重要なのが、

日本独特の考え方です。

私たちは普通、神様=良い存在と思いがちです。

しかし日本では必ずしもそうではありません。

強い恨みを持った怨霊を鎮めるために、

あえて神として祀る

という考え方がありました。

これを

御霊信仰(ごりょうしんこう)

と呼びます。

有名な例が菅原道真です。

道真も死後に怨霊として恐れられ、後に天神様として祀られました。

平将門も同じ流れの中で、神として祀られるようになったのです。

将門は東京の守り神になった

現在、平将門を祀る神社として有名なのが

神田明神

です。

神田明神では将門は祭神の一人として祀られています。

また、

将門塚

も東京都千代田区に存在します。

オフィス街のど真ん中にありながら、今でも多くの人が手を合わせています。

特に、

・勝負運
・仕事運
・厄除け

の神様として信仰されています。

つまり将門は、

反逆者→怨霊→神様

という非常に珍しい変化をたどった人物なのです。

将門塚の「祟り」は本当?―平将門が恐れられたもう一つの理由

将門塚には、もう一つ興味深い伝説があります。

将門塚の周辺を整備する計画が持ち上がった際には、関係者の間で将門の祟りを恐れる声があったとも伝えられています。

実際に、以下のようなことが起きたと言われています。

明治4(1871)年の廃藩置県後、大蔵省は神田橋内の旧姫路藩酒井雅楽守(うたのかみ)邸跡に庁舎を置きますが、かねてよりここには将門の首塚がありました。明治7年、ここに内務省と合同の木造二階建ての新庁舎を建てますが、大正12(1923)年の関東大震災で焼失し、翌年、跡地に仮庁舎を建てる際に首塚が壊されました。

 その後、大正15(1926)年、第一次若槻礼次郎内閣で大蔵大臣であった早速整爾(はやみせいじ)(1868~1926)が突然亡くなり、管財局技師で工事部長だった矢橋賢吉(1869~1927)が亡くなるなど続けて不幸があったため、仮庁舎建設に際する祟りが噂されるようになり、昭和2(1927)年に鎮魂碑を立てたといわれています。

 大蔵省に関わる祟りが事実か否かは確かめようもありませんが、昭和15(1940)年6月には、落雷による大蔵省庁舎焼失を含む大手町官庁街の火災が起こり、また、太平洋戦争後、米軍が塚を整地しようとした時にブルドーザー横転事故が起きて運転者が亡くなっています。

大手町の首塚 国税庁

言わずもがな、実際に将門の霊が災害や事故を引き起こしたことを証明することはできません。

しかし重要なのは、人々が将門の祟りを恐れ続けたという事実そのものです。

反乱を起こして討たれた人物でありながら、将門は単なる「反逆者」として忘れられることはありませんでした。

むしろ、怨霊として恐れられたからこそ、その霊を鎮めるために祀られ、やがて神として信仰されるようになっていきます。

つまり、将門塚の「祟り」の伝説は、平将門が「反乱者」から「神様」へと変化していく歴史を考えるうえでも重要な存在なのです。

なぜ反逆者が神様になったのか?

平将門は朝廷に反乱を起こしました。

そのため歴史上では反逆者として扱われることもあります。

しかし同時に、東国武士たちの象徴でもありました。

そして死後には怨霊として恐れられ、最終的には神として祀られることになります。

日本では、善人だから神様になるのではありません。

人々に強い影響を与えた存在だからこそ神様になる場合もあるのです。

平将門の人生をたどると、

反逆者と英雄

怨霊と神様

という、一見すると矛盾した評価が共存していることが分かります。

そしてそれは、

歴史の評価は一つではない

ということを教えてくれる、日本史でも特に興味深い例なのです。

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