狂気を孕む 第一章 二話
とある大学の第二講義室。
昼一番の講義が終わり、生徒たちがゾロゾロと席を立ち始めた頃。一人の男子生徒が、スルスルと人波を掻い潜り、帰り支度をする教授のもとへ歩む。
「セーンセ、キチショウカのおまじないって知ってる?」
深海(ふかみ)はニンマリと笑いながら問いかけた。
「キチショウカ? なんだ、そのトンチキな名前は」
余った配布資料を手早く回収し、年季の入った臙脂色の手提げかばんへ仕舞いながらセンセーー基、御門(みかど)教授は訝しげに問い返す。教員と生徒にあるまじき気安さが、二人の間にはあった。
「しらね」
「知らない? では、どういった字を書くんだ」
「しらねーよ。カタカナでいいんじゃねぇの?」
「自分から振っておいて知らないとは……」
御門は呆れたようにため息を吐いた。
「昼飯の時に知り合いから聞いただけだし。つうか、その様子じゃセンセは知らないのかぁ」
アテが外れたと言わんばかりに肩を落とす深海は、笑みを消してつまらなそうな表情でスマホを弄りだす。あまりの態度にはたいてやりたい衝動にかられながら、御門は口を開いた。
「それで、そのキチショウカとやらがどうしたんだ」
「んー……なぁんか、人にあんま話すのは良くねー気がするけどぉ……」
「なんだ、知り合いとやらに不幸でもあったか? まあ、昼に話をしたのならそうじゃないのだろうが」
はん、と鼻で笑ってそう言った御門に、深海は彼らしからぬ複雑な表情をする。
その様子に、嫌な予感が背筋を駆け抜けていった。
「知り合いっていうか、その人のお姉さんなんだけど……ーー腹が破けて、変死したんだって」
「ーーなに?」
あまりに不穏な内容だった。
こんな所でする話ではないと、二人は研究室に場所を移すことにした。
静寂に包まれた教員棟3階最奥に構える「御門研究室」である。
室内は四方の壁を本棚で埋めており、手狭な印象を抱かせるだろう。経済誌や論文資料、民俗学資料、考古学資料、宗教本、小説、ビジネス書など様々な書籍や雑誌、資料がジャンルごとに整理され、本棚に収まっていた。
奥にはスモークグレイで統一されたオフィスデスクとチェアが遮光カーテンで覆われた窓を背にして配置してある。デスクの上には几帳面に積み重ねられた論文、栞をや付箋を挟んだ書籍が重ねられており、デュアルディスプレイのモニターとキーボード、マウスがある。
「……それで、姉君とおまじないに何の関連があるんだ? まさか、変死におまじないが関係しているとでも?」
ギイ、と御門が腰掛けたチェアが鳴いた。
「それがさー……」
うんざりしたような声音で、深海は話し始める。
とある姉弟を襲ったナニカについてーー
姉が死んだ。その報せを聞いたのは、電話をした翌日のことだった。
警察の話によれば、第一発見者は異臭に気づいた隣人らしい。呼びかけに応答せず、管理人に異常を訴えて鍵を開けてもらい、中に入ったそうだ。
姉は寝室で死んでいたという。
通された遺体安置室に赴くと、変わり果てた姉がお粗末な台(おそらく、検死台)に横たえられ、裸体をツルツルとした薄い布で胸の下から足首辺りを覆っていた。白い布を顔に被せられた姉は、被ることのなかったヴェールを着けているようだ。人形のように血の気はなく、こびりついて落ちなかったのだろう血が、首や肩、髪に付着しているのに気づく。
共に駆けつけた両親は、祖母は、ガタガタと震える手で姉に触れた途端、電池の切れたおもちゃのようにその場にくずおれ、直後に慟哭を響かせた。
イツキは、現実味を感じられないままその光景を眺めていた。
死因は定かではない。ただ、異常な死に方をしたのだということはハッキリと分かった。
布に覆われている姉の腹部は、内臓が存在しないようにポッカリと凹んでおり、クレーターのようになっているのだ。
ひっそりと安置室から退出し、扉の側に控えていた一人の刑事を捕まえる。どこか憔悴しているように見える顔は、姉の死の異常さをまざまざと訴えかえるようだった。
「どうなってるんですか。姉さんは、なんで腹があんなに凹んでるんです。まさか、猟奇殺人の被害者に……」
「お姉さんは……すみません。とても酷いことになっていて、死因が不明なんです。まるで、腹部が内側から爆発したような有り様で……」
絞り出すような声で刑事は続ける。
「正直、こちらも参ってまして。こんな凄惨なご遺体は見たことがありません。現場に赴いた同僚たちも皆一様に体調を崩しました。きれいにされた今ならなんとか直視できるのですが、発見された当時の光景は、地獄の体現と言ってもいいのでしょう。……我々がこんな体たらくで、ご遺族の方には申し訳なく思っております……」
「赤ちゃん」
「はい?」
「……姉は、遺体発見前日に俺に電話をかけてきました。その時、赤ちゃんが生まれたと……姉の子供は、どこにいるんでしょうか」
刑事は信じられないと言いたげな表情をした。
「それは……本当ですか?」
「嘘をつく必要がないので」
きっぱりとそう言ったイツキを、刑事は痛ましいをものを見る目で見た。
意味がわからない。なぜ、そんな目で見られるのだろうか。
「それは、ありえないでしょう。我々も女性の腹部になにか原因があるのだろうと思い、調べてもらいましたが、その……子供を宿していた形跡は一切見つかっていないのです」
「は……?」
何を言っているのだろうか。イツキは刑事の言葉を理解できなかった。
「……こう言ってはなんですが、お姉さんが生前に言った冗談ではないでしょうか?」
イツキは呆然とする他なかった。ならば、ならばーーあの腹の中には一体ナニが育っていたというのだろう。
姉の死は、イツキに多くの謎と衝撃を叩きつけたのだ。
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