狂気を孕む 第一章 五話
総合病院の産婦人科、診察室にて。和夫(かずお)は、とあるエコー画像とカルテを机に広げ、深く思考に耽っていた。
和夫はこの病院の産婦人科医を勤めて二十年のベテランである。還暦を迎えた現在、退職時期を考え始めていた。そんな彼が、深刻な表情で机のカルテと画像を見つめたまま動かない。
こっそりと様子を伺っていた看護師は、心配そうな表情である。
「……先生。どうしました? そのカルテ……美桜さんのでしょう?」
「坂井くんか」
和夫はハッとした様子で顔を上げる。どうやら、気づいていなかったらしい。
「幸田(こうだ)先生。かれこれ三十分はそうしてましたよ? 今日はもう患者さんは居ないし、早めに上がってくださいな」
「ああ……そうしたいんだが……」
「美桜さんの件ですか」
その問いかけに、和夫は何も返さない。
「残念ですよねぇ…。あれだけ、子供を望んでいた子が、結局子供もできることなく、悲惨な死に方をするなんて……それに二十代で……」
ーー『子供もできることなく』か。
そう、それだ。
ピクリと片眉を動かして和夫は尋ねた。
「坂井さん。おかしなことを聞くけれど……このエコーには、何も映っていないかね?」
「ええ? 映ってませんよ、なぁんにも。どうしたんですか、先生」
不思議そうに答える坂井。
和夫は、ほんの少し動揺しながら言う。
「いや……いや、なんでもないよ。どうやら、すこし目が疲れてるようで」
「まあ。でしたら、もう上がってくださいな。いつもより三十分近く居座ってるんですもの」
「そうだね」
心配そうにそう言った坂井に、和夫は微笑んでカルテと画像をファイルに仕舞った。
病院から徒歩三十分ほどの場所にあるカフェテリア。大正ロマンをコンセプトとしたこの店は、知る人ぞ知る場所だ。カラン、と扉のベルを鳴らしながら入店する。途端にコーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。
向かうは一番奥の席である。高めの仕切りにより半個室的空間となっており、他人の目を気にすることもない。
先ほどと同じカルテと画像をテーブルに広げて考え込む。行儀は悪いが、足を雑に組み、電子タバコを咥えた。
(……やはり、おかしい)
フゥ、と煙を吐きながら和夫は目を細める。その視線は、エコー画像に固定されていた。
(坂井さんは、何も映っていないと言っていたが……)
何度見ても変わらない。変わったとすれば、自分以外の認識ーー。
白と黒、灰色の解像度が低いそれ。
ぐにゃり、ぐにゃりと動いてるように見えるソレ。
幸田和夫の視界では、胎児のようなものが、はっきりと映っていたのだった。
ーー「あたし、ほんとに心配してたんですよ。もうずっと、美桜さんは好きな人との子供を身ごもるんだって信じてましたからね」
ーー「残念ですよねぇ…。あれだけ、子供を望んでいた子が、結局子供もできることなく、悲惨な死に方をするなんて……それに二十代で……」
ーー「ええ? 映ってませんよ、なぁんにも。どうしたんですか、先生」
数ヶ月前、坂井が美桜にかけた言葉と先ほどの会話を思い起こす。
とても演技には見えなかった。そもそも、彼女は顔に出やすい性質であるため嘘や演技は苦手のはずだ。
おかしな話なのだ。患者である美桜に妊娠を告げたその場には、坂井が同席していたのだから。あんなに喜んでいたというのに、一体どうなっているのか。
涙を浮かべて祝福をしていた彼女が、まさか忘れるなんてあり得ないだろう。
彼女だけではない。美桜は妊娠の診断を受けた際エコー画像を受け取ってあるはずである。しかし、警察はそれを見つけた様子もなく、事務的な確認だけで妊娠について触れることすらなかった。
つまり、警察は産婦人科に通っていることは知っているものの妊娠について一切知らない。もしくは探知できていない。
あり得るはずがない。司法解剖をすでに終えているのなら、妊娠したと気づくはずだ。だというのに、何故ーー。
(まさか、妊娠の痕跡を発見しなかったのか……?)
ならば、ならばーー。
自身が診断し、彼女が腹に宿したモノは何なのだというのか。
ありえないの多さに辟易としながら、思考の海に沈む。
ーーぐにょり、グニャン。
そんな和夫を、画像に映る胎児が嘲笑うかのように歪んだ気がした。
深海と話した翌日、御門研究室。
「よい、しょっと……これで全部です、せんせい」
愛海は、研究室で新聞資料を仕分け、御門のデスク上に置いた。
「ああ、ありがとう」
「いいえ。それにしても、急に新聞だなんてどうしたんですか? 深海と話していた内容に関係が?」
「いや、個人的な調べ物だ」
実際はその通りなのだが。
御門はバッサリと否定した。
「そうですか。……それにしても、物騒な事件が多いですね」
トントンと細く長い指で一面を指差す。
「ーー不妊に悩む婦女子を狙った犯行か!? 増加する変死事件! ……なんて」
「……そうだな」
「ネットでも話題なんですよ? なんでも、ことごとく不妊治療に行ってた女性だったとか」
そう言いながらも、口元の笑みは揺るぎない。
探っているのだ。深海と御門が話していた内容を。
「特殊な思想を持った犯人なんだろう。完全な偏見であるが、猟奇殺人と称されるものは大概、人から外れた思考を持った人間が起こすものだと思っている。今夏に入って急増したことに疑問は持つが」
「せんせいは、いったいどんな思想を持った人が及んだ犯行だと思っているのですか?」
「……さてな。強いて言うなら、なにか強い感情や願望が発露したナニカの犯行だ」
「まるで人間じゃないみたいにおっしゃるのですね」
「人間を人間たらしめるのは欲望を制する理性を持っていることにあると私は思っている。ならば、欲望を解き放ち、理性が切れた人間は人間ではないよ」
「屁理屈ですねえ」
ころころと笑い声を漏らし、愛海は言った。
(むしろ、これを人間が起こしたのだとしたら……ーーきっと、何よりも恐ろしいだろう)
御門は、深海から聞いたおまじないの内容が、頭から離れなかった。
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