『チェンソーマン レゼ篇』感想「届かなかった贈りもの」第二部「水の記憶」プールから海へ
全三回。第二部(約4400文字)ネタバレあり
▶︎ 第二部:「水の記憶」プールから海へ
「教え・教えられる」関係
「誘惑の戦略」
「教えられた」のは誰?
「三匹のねずみ」
「水」のある風景
「教え・教えられる」関係
前半の叙情的な恋愛物語と、後半の激烈なバトル世界と、異なる世界が展開される映画だが、そんな異質な世界でも、共通する一つの「かたち」が残されていた。
それはレゼからデンジへ繰り返し贈り続けられていた「教え・教えられる」という関係のかたちだ。
レゼはカフェで、夜の学校で、そして夜のプールで、デンジにさまざまなことを「教え」つづける。それは「漢字」の読み方を教えたことから始まり、夜の学校での「算数」や「英語」、そして幻想的な夜のプールで「泳ぎ方」を教える場面で頂点に達する。
「教えてあげる。デンジくんの知らないこと出来ないこと、私が全部教えてあげる」
そんな台詞をなぞるように、彼女はさまざまな「教え」を実践し続ける。
後半、レゼの「真の目的」=「チェンソーマンの心臓の奪取」が明らかとなり、レゼ=ボムに変身し、その正体が明らかになっても、彼女は改めて「教え」を宣言し、デンジはそれを受け入れようとする。
「おいでデンジ君。私たちの戦い方ってのを教えてあげる」
「教えて もらおうか!」
ここでも前半に引き続き、「教え・教えられる」=「贈る・贈られる」関係が生きているのだ。
レゼ=ボムとしてデンジ=チェンソーマンに教える「私たちの戦い方」とは、「武器人間」としての特殊な戦い方という意味だ。
「爆弾」と「チェンソー」という「武器の悪魔」の心臓を宿している二人の戦い方。それは、爆弾の悪魔=ボムの場合、体の一部を切り離して爆弾化することや、爆発の反動を利用した高速移動など、人間離れした戦い方だ。そんな戦い方だからこそ、実践を通じて「教える」しかない。
それはまるで、レゼがデンジに手を取りながら教えた「泳ぎ方」と同じような「教え」。言葉ではなく、実際に見せて、真似させて、体で覚えさせる「教え」だ。
その姿が「武器人間」という異形に変わっても、ボムとチェンソーマンは、前半のレゼとデンジという二人の間の「教える・教えられる」交歓と同じかたちを繰り返していた。
「誘惑の戦略」
だが、前半のレゼがデンジに贈り続けていた様々な「教え」は、チェンソーマンの心臓を奪うための嘘。刺客という真の姿を隠しながら、デンジに近づくための偽りの行動だった。
レゼは、「チェンソーマンの心臓を奪う」という「真の目的」を達成するために何者かが差し向けた刺客である。
そのために、まず「仮の目的」として、デンジを「レゼ」という異性に夢中にさせ、恋愛状態に陥らせることで、デンジの隙を作り、そこで「真の目的」である心臓を奪取する。前段階としての「仮の目的」を達成するために用いられたのが「誘惑」=「教え」という方法であり、そうした二段階によって構成されたのがレゼが用いた「誘惑の戦略」だった。
「教え」や「誘惑」すること。それは「誘惑」する対象であるデンジの立ち位置を、「誘惑者」であるレゼの場所へずらすこと。それはレゼの言葉と身体表現を駆使して、デンジに語り続けること、すなわち「教え」を「贈り」続けることだ。
それでも、後半「真の目的」が明らかになってなお、「教え」を「贈り」続けるのはなぜだろうか?
レゼがボムとしての正体を明かし、チェンソーマンの心臓を狙う刺客であることが明らかになれば、彼女がデンジに「教える」理由などないはずだ。それなのに、ボムとしてのレゼは、デンジ=チェンソーマンに「私たちの戦い方」を教えてあげるというのだ。
それは「私たち」=「武器人間」の戦い方であり、その「教え」にあたって、彼の戦い方にダメ出しし続ける。
「デンジ君応用ができてないね チェンソーぶん回すだけじゃダメだよ」
「もっと自分の力を理解しなくちゃ」
ボム=レゼは、チェンソーマン=デンジに「教える」ことを、まるで楽しんでいるかのように見える。しかも、チェンソーマンと直接戦ってもなお「デンジ君」と呼びかけ続け、自分の不利になる「私たちの戦い方」を「教え」つづける。彼女はチェンソーマンにではなく、デンジに「教える」こと、自分の知識や技能を「贈ること」それ自体を「楽しんでいる」かのようだ。
レゼ=ボムは、デンジとの関係性の中で交歓される「教え・教えられる」「贈り・贈られる」関係を、純粋に求めていたのではないのだろうか。
おそらくレゼは、この段階で彼女自身も意識し得ない方向に踏み出していた。
「教えられた」のは誰?
「誘惑」によってデンジを自分に夢中にさせる。その「誘惑」は「教える」行為の延長上で繰り返し行われる。それはデンジに対してレゼが向ける「微笑み」「頬の赤らめ」「スキンシップ」という戦術によって実行されていく。(彼女は後に、それらが訓練によって身につけられた「嘘」であると明かす)
その過程で彼女はデンジの今を知る。
学校にも行かせてもらえず、組織の命じるまま、悪魔殺しを行わせられている。「普通の16才では当たり前の生活が奪われた男の子」。それは、のちに明らかになる「学校に行っていない」レゼ自身の過去と、その欠如を再認識させることにもなる。
レゼはデンジに「教える」ことにより、組織に飼われ、学校にも行けず、武器人間として殺し合いをしながら生きるしかない「自分自身の姿」を重ねていたのかもしれない。
更に、レゼがデンジに「公安という組織への疑問」を教え、彼の立ち位置自体に「自ら疑問を持つ能力を与えること」。それは同時に、レゼ自身の組織への忠誠や、現在進行形の「誘惑者」=「刺客」としての自分の立ち位置自体に、疑問を抱かせることになったのではないだろうか。
「教え」とは一方通行の行為ではない。「教え」によって相手を変容させると同時に、相手からも「教えられ」自らも変容する関係である。
その結果が、夏祭りの夜にレゼからデンジに贈られる告白だった。
「仕事やめて・・私と一緒に逃げない?」
これは刺客としてではなく、デンジに「教える」過程で気づいてしまった、彼女自身の「真の願い」=「田舎のねずみ」の生活でもあった。
「三匹のねずみ」
「田舎のねずみ」と「都会のねずみ」どっちがいい?
夜のプールでの交歓のあと、雨宿りする教室で、レゼがデンジに投げかける問い。それはイソップ寓話にある「都会のねずみ=刺激的な生活+危険」と「田舎のねずみ=慎ましい生活+安全」を意味するお伽話を借りた、レゼからデンジへ向けた問いかけだった。
デンジは迷わず「都会のねずみ」が良いと答える。
幼い頃から食べることにも事欠いているデンジにとって、三食寝床付きが保証された今の生活は「素晴らしき日々」そのものであり、それを放棄するなど考えられなかった。
レゼは「田舎のネズミのほうがいいよ平和が一番ですよ」と主張する。彼女はデンジにも同じ返答を期待していたのだろう。
その翌日、夏祭りの夜、夏祭り会場を見下ろす高台で「私と一緒に逃げない?」という告白を行ったレゼは、本気で、デンジとの逃亡の先に「田舎のねずみ」の生活を夢見ていた。唐突に見えた突然の告白だったが、その予兆は夜の教室にも静かに漂っていたのだ。
ところで、この映画では、二匹の他に、もう一匹の「ネズミ」が語られていた。それは、ボムとチェンソーマンの激闘を終えた翌朝。戦場のように荒廃した街で、被災者が運び出される様子を眺めながら、公安の岸辺が語るある実話だ。
ソ連の母親が子供を叱る時にするおとぎ話がある。親のない子供たちが弾薬庫の秘密の部屋に閉じ込められていて、自由を奪われて外にも出られず、死ぬまで体を実験に使われる。実は、その部屋は実在していて、デンジへの刺客=レゼ=ボムは、そこで「モルモット」と呼ばれた戦士の一人なのだという。
「田舎のネズミ」と「都会のネズミ」、そして「弾薬庫のモルモット」。ネズミはこの映画のなかで三種類語られていた。それはレゼにとって、「理想」である「平和に暮らしたいと願う女」と、「仮象」である「カフェでバイトする女の子」。そして「現実」としての「ソ連で訓練された戦士」を意味していた。
そのどれもが「レゼ」であり、それが彼女の複雑な陰影をかたちづくっていた。
「水」のある風景
この作品のなかで「水」は繰り返し描かれていて、デンジとレゼの印象的な出会いや、交歓を演出する重要な舞台装置になっている。
それは時に、突然降りだすにわか雨だったり、青白い夜の光に照らされたプールの水だったり、夜の教室から眺める雨宿りの風景だったりした。そこには湿り気や雨音、水しぶきの音と、五感を刺激する要素が幾重にも折り込まれていて、この映画に不思議な陰影を与えている。
ところが「水」のある場所は、レゼ=ボムにとって最も避けるべき場所である。指先や首のチョーカーピンで発火させ起爆させる彼女の戦闘シークエンスにとって、水気の多い場所は、刺客としての彼女自身の戦闘力を損なう可能性が極めて高い場所なのだ。
そんなレゼが、自ら「水場」であるプールにデンジを誘い出し、そこで彼に泳ぎを教える。これはいったいどういうことなのか?
彼女は刺客としての使命すら忘れたかのように、夜のプールにその身を投げ入れる。彼女が最も避けるべき水の中に、潜在的な敵対関係にあるデンジと一緒に入るのだ。
この映画の中でも特別な印象を残すこの場面は、「教えること」と「誘惑すること」と「贈ること」が一体になった不思議な空間であり、レゼにとって「仮象」も「理想」も「現実」もすべて忘れさせるような、「今・その時」を生きる特別な時間だった。
そしてこの「水」は、後半にも再び印象的なかたちで登場する。
街での激闘の末、チェンソーマン=デンジは、武器人間としての特徴を最大限生かしたチェーンによる絡めとり戦術(ボム=レゼに教えられた「私たちの戦い方」の実践)によって、ボムとチェンソーマンと一体となったその身体を海へ投げ入れる。
「水」は、この映画の中で、冷却材のような役割を演じている。
前半の夜の教室では、慣れない頭を使って「頭熱くなってきた」デンジの熱を冷ますように「少し冷やしますか」とレゼは彼をプールに誘っていた。後半、爆発と摩擦熱で熱くなった「武器人間」のからだを冷却するかのように、チェンソーマン=デンジのエスコートで、二人は真夜中の海に沈む。
ボム=レゼにとって死地である水の中に沈んでゆく彼女の脳裏には、まるで走馬灯のように、デンジと戯れた夜のプールの情景が思い出されていた。
海中に深く沈む二人の熱はしだいに冷やされ、熱く長い戦いはその幕を静かに閉じてゆく。
ここで起きているのは、ただの「水」の反復ではなく、「高さ(深さ)の変化」でもある。
低い場所としてのプールが親密さを支え、より深い場所としての海底が闘争の熱量を下げ、収束へ導いていく。
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▶︎ 「届かなさ」の向こうへ
