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『チェンソーマン レゼ篇』感想「届かなかった贈りもの」要約版

はじめに

映画を観終わってから、何度もこの物語について考えている自分がいました。誰かに語らずにいられない「何か」を受け取ってしまったのだと気づいたとき、この感想を書くことにしました。

この文章は、「一輪の花」から始まる「贈り・贈られる」関係を軸に、デンジとレゼの物語を三部構成で読み解いたものです。

それが先日公開した三部作=「届かなかった贈りもの」です。12000文字を超える長文でしたので、少しでも読みやすくなるように、その要約版を作ってみました。三部作の理解の助けになれば幸いです。(約4400文字)

第一部:「一輪の花」から始まる物語

「何か」を贈られる

映画から贈られた「何か」を受け取った人が、別の誰かにそれを伝える。 そんな連鎖が続いているからこそ、『チェンソーマンレゼ篇』は静かに広がっているのかもしれません。
さて、この映画から、僕たちは「何を」を贈られたのでしょうか?

「贈り・贈られる」物語

雨の日、電話ボックスで偶然出会ったデンジとレゼ。
唐突な出会いに大笑いしながら涙するレゼに、デンジは「一輪の花」を贈ります。これがこの『チェンソーマンレゼ篇』という物語の始まりです。

レゼは一輪の花のお礼に一杯のコーヒーを贈り返します。デンジはそれに答えるようにカフェに一週間続けて通い続け、レゼは笑顔とスキンシップを交えながら勉強を「教えること」を「贈り返し」ます。

電話ボックスで、静かなカフェで、忍び込んだ夜の教室で、そして二人だけの夜のプールで、デンジとレゼとの関係は「贈り・贈られる」連鎖を紡ぎながら、より深まっていきました。

「断ち切られた」関係

「贈る」「受け取る」「返礼する」という三つのかたちが流れるように循環していくことによって成立しているデンジとレゼの関係ですが、あるきっかけで、その流れが断ち切られることになります。

夏祭りの夜、レゼは一緒に逃げないかとデンジを誘いますが、彼は現状の生活に満足していることなどを理由に、レゼの申し出を断ります。それは、レゼが贈った「贈りもの」を、デンジが受け取らなかったことを意味します。

それまで二人の間にゆるやかに流れていた「贈り・贈られる」循環が、デンジの「受取の拒否」によって断ち切られたのです。

レゼは、打ち上げ花火が弾けるタイミングで、デンジの舌を噛み切ります。 以降、前半の静かな叙情的な世界とは真逆の、壮絶な破壊と殺戮を伴った戦いが繰り広げられます。

「相反する」世界

前半の穏やかな世界は、まるで古いヨーロッパ映画のような叙情的な空気感を漂わせて描かれています。
ところが後半、その世界は反転するかのように装いを変えます。すでに人外となった悪魔や魔人を含めた戦いは、人間の関与を受けつけない、まるで「怪獣バトル」と化します。
物語世界の急激な転換は、この作品の大きな特徴となっています。
前半の静かな抒情的な世界と、まるで反転するかのように、動的で攻撃的なB級アクション映画のような世界の対比は、その効果音や音楽の対比も相まって、分裂的な印象を僕たちに与えます。


第二部:「水の記憶」プールから海へ

「教え・教えられる」関係

前半の叙情的な恋愛物語と、後半の激烈なバトル世界と、異なる世界が展開される映画ですが、そんな異質な世界でも、共通する一つの「かたち」が残されていました。

それはレゼからデンジへ繰り返し贈り続けられていた「教え・教えられる」という関係のかたちです。

後半、レゼの「真の目的」が明らかとなり、レゼ=ボムに変身し、その正体が明らかになっても、彼女は改めて「教え」を宣言し、デンジはそれを受け入れようとします。
ここでも前半に引き続き、「教え・教えられる」=「贈る・贈られる」関係が生きているのです。

「誘惑の戦略」

レゼは、「チェンソーマンの心臓を奪う」という「真の目的」を達成するために何者かが差し向けた刺客です。

そのために、まず「仮の目的」として、デンジを「レゼ」という異性に夢中にさせ、恋愛状態に陥らせることで、デンジの隙を作り、そこで「真の目的」である心臓を奪取します。
そうした二段階によって構成されたのがレゼが用いた「誘惑の戦略」でした。

それでも、後半「真の目的」が明らかになってなお、レゼ=ボムが「教え」を「贈り」続けるのはなぜでしょう。

彼女はチェンソーマンにではなく、デンジに「教える」こと、自分の知識や技能を「贈ること」それ自体を「楽しんでいる」かのようです。

おそらくレゼは、この段階で彼女自身も意識し得ない方向に踏み出していました。

「教えられた」のは誰?

レゼはデンジに「教える」ことにより、組織に飼われ、学校にも行けず、武器人間として殺し合いをしながら生きるしかない「自分自身の姿」を重ねていたのかもしれません。
更に、レゼがデンジに「公安という組織への疑問」を教え、彼の立ち位置自体に「自ら疑問を持つ能力を与えること」。それは同時に、レゼ自身の組織への忠誠や、現在進行形の「誘惑者」=「刺客」としての自分の立ち位置自体に、疑問を抱かせることになったのではないでしょうか。

「教え」とは一方通行の行為ではありません。「教え」によって相手を変容させると同時に、相手からも「教えられ」自らも変容する関係です。

その結果が、夏祭りの夜にレゼからデンジに贈られる告白でした。
これは刺客としてではなく、デンジに「教える」過程で気づいてしまった、彼女自身の「真の願い」=「田舎のねずみ」の生活でもありました。

「三匹のねずみ」

レゼたちが寓話として語る「田舎のネズミ」と「都会のネズミ」、そして岸辺が実話として語る「弾薬庫のモルモット」。

この映画の中で、ねずみは三種類語られていました。それは二匹は寓話として、一匹は実話として。

それはレゼにとって、「理想」である「平和に暮らしたいと願う女」と、「仮象」である「カフェでバイトする女の子」。
そして「現実」としての「ソ連で訓練された戦士」を意味していました。
そのどれもが「レゼ」であり、それが彼女の複雑な陰影をかたちづくっていました。

「水」のある風景

「水」は繰り返し描かれていて、デンジとレゼの印象的な出会いや、交歓を演出する重要な舞台装置になっています。

ところが「水」のある場所は、レゼ=ボムにとって最も避けるべき場所です。そんなレゼが、自ら「水場」であるプールにデンジを誘い出し、そこで彼に泳ぎを教えます。
彼女は刺客としての使命すら忘れたかのように、夜のプールにその身を投げ入れます。

この場面は、「教えること」と「誘惑すること」と「贈ること」が一体になった不思議な空間であり、レゼにとって「仮象」も「理想」も「現実」もすべて忘れさせるような、「今・その時」を生きる特別な時間でした。

「水」は、この映画の中で、冷却材のような役割を演じています。
海中に深く沈む二人の熱はしだいに冷やされ、熱く長い戦いはその幕を静かに閉じてゆきます。


第三部:「届かなさ」の向こうへ

「嘘」と「ホント」

海から引き揚げられたレゼに、デンジは「一緒に逃げよう」と提案します。 祭りの夜、レゼが「贈ろうとしたもの」を、今度はデンジが「贈り返した」のです。

夏祭りの夜に自ら止めてしまった「贈り・贈られる」循環を、再び動かすように。まるで、胸のスターターを引いてチェンソーを再起動させるように。

でも、レゼは、デンジの申し出を受け入れません。その上、自分の表情も、頬の赤らめも、全部嘘だと言います。それでもデンジは、「俺に泳ぎ方を教えてくれたのはホントだろう?」と答えます。
二人にとって、プールでの体験は、唯一無二の時間だったのです。

「一輪の花」

ひとりで逃亡中に、レゼは募金の返礼として「一輪の花」を受け取ります。
見知らぬ第三者から贈られた「一輪の花」。
レゼは募金の返礼として第三者から贈られた「一輪の花」に、デンジに初めて出会った時、彼から贈られた「一輪の花」を思い出していました。

その「一輪の花」から始まった「贈り・贈られる」「教え・教えられる」「誘い・誘われる」関係の連鎖と、二人だけの不思議な時間。
そんなすべてが、この「一輪の花」に折りたたまれ詰まっているように感じたのです。

彼女はデンジから「贈られた」大切なものを、デンジと同じように遅れて「受け取り」直したのです。

彼女はデンジが待つカフェに向かいます。デンジから贈られた「贈りもの」を、彼女自身が「受け取ったこと」を知らせるために。
そして今度こそデンジに「贈り返す」ために。

「再起動」する物語

しかし、レゼは、デンジが待つカフェの目前でその命を絶たれてしまいます。最後の瞬間、彼女は「なんで初めて出会った時に殺さなかったんだろう」と自問します。
レゼがデンジを殺すことを遅延し続けたのは、あの電話ボックスで「一輪の花」をデンジから贈られたからではなかったでしょうか。

「一輪の花」を贈るところから始まった二人の「贈る・贈られる」関係が、一度は断ち切られながら、再び別の第三者から贈られた「一輪の花」によって再起動します。それが『チェンソーマンレゼ篇』という物語でした。

ですが、デンジは、レゼが一度は断りながらも、それを「贈りかえす」ために、戻って来たことを知りません。
レゼがデンジのもとへ戻ってきたことを知っているのは、マキマと天使の悪魔、そして、この映画をスクリーンの外側で見ている「観客」である僕たちだけでした。
彼女の最後の言葉を受け取ってしまったのは、映画を見ている僕たちだけなのです。

「届かなかった贈りもの」

僕たちは「贈りもの」を受け取ると、贈り返さずにいられません。
僕たちはこの映画を見ることで、レゼがデンジだけに贈った「何か」を受け取ってしまいました。

レゼからデンジに送った「最後の贈り物」は宛先に届かず、間違って僕たちに届いてしまったのです。

僕たちは、そんな「ノドにつかえた魚の骨」のような「何か」について、考えざるを得ません。そして、その「何か」を、誰かに語らずにいられません。
レゼがデンジに贈った「贈りもの」は、僕たち観客という第三者を通じて、更に別の誰かに贈られます。その誰かも別の誰かに。

僕ら自身が、大切な「何か」を「贈られた」もしくは「与えられた」と感じた瞬間に、その「贈り・贈られる」循環ははじまっていて、それを、何らかの形で「返したい」という気持ちが芽生えてきます。

そうした「何か」が、たとえ、間違って届いたものだとしても、それは伝えていかなければならないのだと思うのです。
(了)

この文章は、三部作=「届かなかった贈りもの」の要約です。詳細はかなり省かれていてますので、物足りない部分も多いと思います。本文では、より踏み込んだ記述をしていますので、キーワード集と照らし合わせながら、ぜひ読んでみてください。また、後日になりますが、第三部の最後に付けた、引用文献の解説も予定しています。そして、三部作に盛り込むことができなかった「最初の贈与」についても触れる予定です。お楽しみに。

上記の三部作の読解をしやすくするため作ったキーワード集です↓


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