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『チェンソーマン レゼ篇』感想「届かなかった贈りもの」第三部「届かなさ」の向こうへ

最終回:第三部(約4700文字)ネタバレ含む

▶︎ 第三部:「届かなさ」の向こうへ

「嘘」と「ホント」
「一輪の花」
「再起動」する物語
「届かなかった贈りもの」
 参考文献

「嘘」と「ホント」

死闘の後に海底に沈んだ二人は浜辺に打ち上げられ、レゼはデンジの判断で蘇生された。

「信じられない・・どうして私を蘇らせたの・・?」というレゼの問いにデンジは答える。

「オレは素晴らしき日々を送っている」「でも・・ここでレゼを捕まえて公安に引き渡したら なんか・・魚の骨がノドに突っかかる気がする」

この段階になっても、レゼを蘇生させ、好意を寄せるデンジに、レゼは、最後通牒のつもりで、壮絶なネタ晴らしをぶつける。

「私がまだキミを本気で好きだと思っているの?」「キミに会ってからの表情も頬の赤らめも全部嘘だよ」「訓練で身につけたもの」

今まで「デンジくん」と呼び続けていたレゼ=ボムだが、ここでは常に「キミ」と言い換えて、あえて彼との距離を置こうとしている。レゼの態度は、確かに以前のデンジに対するそれとは異なっていたが、それでもデンジにレゼ本来の姿は見えていた。

「全部嘘だっつーけど 俺に泳ぎ方を教えてくれたのはホントだろう?」

レゼから教わった「泳ぎ方」、それを「教わった」時間は、デンジにとって、おそらくレゼにとっても特別な時間だった。その体験の前には、どんな言葉も意味をなさない。二人にとって、それは唯一無二の時間だったのだ。

先に言及したように、「教え」や「誘い」は、それ自体が一方的な行為ではない。「教える」つもりが「教えられ」、「誘う」つもりが「誘われ」と、相互変容し合うような複雑な交歓をともなった行為である。そこにデンジからの「贈る」「贈られる」関係も加わり、自らの「誘惑の戦略」すら崩壊し、彼女自身が「嘘」か「ホント」か混在した中に飲み込まれていった。
結果、自分の任務に失敗し、あまりに多くの人を殺しすぎたことを自覚しているレゼにとって、もはや、デンジと共に逃げるなど、考えられるはずもなかった。

そんなレゼに対して、デンジは「一緒に逃げよう」と提案する。
祭りの夜、レゼが「贈ろうとしたもの」を、今度はデンジが「贈り返した」のだ。
夏祭りの夜に自ら止めてしまった「贈り・贈られる」循環を、再び動かすように。まるで、胸のスターターを引いてチェンソーを再起動させるように。

デンジにとってそれは三度の飯と寝床と仕事が保証された生活を手放すことを意味する。彼は、レゼと一緒でいられるのならば、「素晴らしき日々」を投げ売ってもいいとまで言っているのだ。
だが、だからこそ、今度はレゼがデンジからの「贈りもの」を断ろうとする。
しかも、何度でも騙されそうになる人の良すぎるデンジに対して、キスする振りで首を折るという、最後の「教え」を行って、レゼは海岸を後にする。
そんな彼女の後ろ姿に向かって、デンジは声を振り絞る。

「今日の昼に・・!あのカフェで待ってるから!」

ここで、レゼ自身が断ち切ったように見えた「贈り・贈られる」関係だったが、それは彼女のなかでまだ息づいていた。

「一輪の花」

逃亡のために一人、街中をゆくレゼ。ふと街中で行われている募金活動に足を止める。悪魔被害者救済の募金。昨夜の戦闘によって破壊され傷つけられた人々を救済するための活動だ。

レゼは、そこに「募金」を行う。

「私は人をたくさん殺した」と自覚しているレゼは、それが偽善的な行為だということを承知している。それでもなお、募金を行ったのは、どうしてだろう?

彼女は戦闘を終え、自分が作戦に失敗し、多くの人を傷つけたことを自覚している。そんな彼女に、デンジは「一緒に逃げないか」と誘ってくれた。あれだけ騙されて、傷つけられてなお、「まだ俺は好きだし」と言ってくれたのだ。
恐らくレゼはこの時、あふれんばかりの「何か」を受け取ってしまっていた。

彼の仲間や、多くの人々を殺害し、さらに騙し続けた上に、直接命を奪おうとしたデンジから、それを知ってもなお「好意」を与えられることに、レゼは戸惑いを覚えたに違いない。
自分はそんな「幸せ」を受け取る資格はないことを、彼女は十分自覚していた。それなのに「何か」を「贈られてしまった」レゼは、少しでもそれを「贈り返そうと」したのではないのだろうか?

そんな矛盾を抱えた上で行った「募金」の返礼に、レゼは「一輪の花」を受け取る。

逃亡先へと向かう新幹線のホームで、その「一輪の花」を見つめ続ける。見知らぬ第三者から贈られた「一輪の花」。同じような花を、以前、誰かに贈られた気がする。。

新幹線をやり過ごし、ホームを後にしたレゼは、デンジの待つカフェ「二道」へ向かう。
レゼは募金の返礼として第三者から贈られた「一輪の花」に、デンジに初めて出会った時、彼から贈られた「一輪の花」を思い出していた。

その「一輪の花」から始まった「贈り・贈られる」「教え・教えられる」「誘い・誘われる」関係の連鎖と、二人だけの不思議な時間。そんなすべてが、この「一輪の花」に折りたたまれ詰まっているように感じたのだ。
そして、真夜中の死闘の後に、海中から引き揚げられ、再び命を得たこと。何より、自分が夏祭りの夜に贈った「一緒に逃げよう」という「贈りもの」を、デンジが遅れて「贈り返してくれたこと」に改めて気づいた。

彼女はデンジから「贈られた」大切なものを、デンジと同じように遅れて「受け取り」直したのだ。

彼女はデンジが待つカフェに向かう。デンジから贈られた「贈りもの」を、彼女自身が「受け取ったこと」を知らせるために。そして今度こそデンジに「贈り返す」ために。

だが、その「贈りもの」は最後まで、デンジに届くことはなかった。

「再起動」する物語

レゼの「贈りもの」は、デンジに届くことはなかった。彼女はカフェの手前で網を張っていたマキマたちの手により始末されてしまったからだ。レゼとデンジの関係は最初からマキマの管理下にあったのだ。

絶命する間際、レゼは、戦いの中でデンジから問われた「初めて会った時にさっさと殺しとくんだったな」という言葉を思い出していた。
「なんで初めて出会った時に殺さなかったんだろう」
それはレゼ自身にとっても、謎だったのだ。
そしてあの時返せなかった問いに答えるように、言い訳するかのように、こうつぶやいていた。

「デンジくん 本当はね 私も学校いった事がなかったの」

レゼがデンジを殺すことを遅延し続けたのは、あの電話ボックスで、「一輪の花」をデンジから贈られたからではなかったのか。あのとき、「一輪の花」を贈られたことはレゼにとって「特別なこと」になったのだ。

その「一輪の花」をきっかけに、レゼとデンジの関係は始まった。
そして「贈り・贈られる」「教え・教えられる」「誘う・誘われる」関係の連鎖と、二人だけの不思議な時間。そのたびに、レゼ自身にとっても、演技なのか、本心なのか、よく分からなくなる不思議な感情が揺り動かされて、デンジと二人だけの「時間」を、できるだけ長く続けていたかった。
それゆえに、彼女は「真の目的」を、遅延し続けたのではないのだろうか。

この物語は「一輪の花」をきっかけにしてはじまった。

「一輪の花」を贈るところから始まった二人の「贈る・贈られる」関係が、一度は断ち切られながら、再び別の第三者から贈られた「一輪の花」によって再起動する。
それが『チェンソーマンレゼ篇』という物語であった。

だが、デンジは、浜辺でレゼに贈った「一緒に逃げない?」という「贈りもの」を、レゼが一度は断りながらも、それを「贈りかえす」ために、戻って来たことを知らない。
レゼの決死の「贈りもの」は、デンジに届くことは無かったのだ。彼女のつぶやきも、彼に届くことはないだろう。

レゼがデンジのもとへ戻ってきたことを知っているのは、彼女の行く手を阻んだマキマと、手を下した天使の悪魔、そして、この映画をスクリーンの外側で見ている「観客」である僕たちだけだった。

そして、彼女の最後の言葉を受け取ってしまったのは、映画を見ている僕たちだけなのだ。

マキマの指示とはいえ、自らレゼに手を下し、デンジへの思いを直接断ち切らせてしまった「天使の悪魔」は、レゼを討ったビルの屋上で、一匹の都会のネズミに向かってこうつぶやく。

「ねえ、都会はいいとこかい?」

「届かなかった贈りもの」

僕たちは「贈りもの」を受け取ると、贈り返さずにいられない。
「何か」を受け取ってしまったと感じたとき、そのお礼を「誰か」に「贈り返し」たくなる。

だけど、その贈り主が、よく知らない人だったり、すでにこの世にいなかったり、特定の誰かではないことすらありえる。そもそも、その「贈りもの」が「何」なのか?「誰に贈られたものなのか?」すら分からないことだって多いのだ。

例えば「自然の中で 偶然美しい光景に 出会ったとき」「街中で、見知らぬ誰かから 親切を感じたとき」「映画を見て そこから何かを 感じたとき」

それは、誰に対して贈られたのかも、何を受け取ったのかさえ、はっきりしないものかもしれないけれど。それを受け取ると、なぜか嬉しい気持ちになる。

そんなとき、その気持ちを「誰に」「どのように」贈り返せばよいのだろう?

それは、デンジが、レゼがそうしざるを得なかったように、ほんの少しでもかまわないから、「誰か」に「贈る」こと。

僕たちはこの映画を見ることで、レゼがデンジだけに贈った「何か」を受け取ってしまった。
僕たちは、レゼがデンジから「贈られたもの」を受け取り直し、彼に「贈り返そう」としたことも、デンジがそれを知らないことも「知っている」。
どう考えても矛盾でしかないレゼの「教える=贈る」行為が、どこからきたのかも気づいている。

レゼからデンジに送った「最後の贈り物」は宛先に届かず、間違って僕たちに届いてしまった。僕たちは、そんな「ノドにつかえた魚の骨」のような「何か」について、考えざるを得ないのだ。
そして、その「何か」を、とつとつと誰かに語らずにいられない。

そして、レゼがデンジに贈った「贈りもの」は、僕たち観客という第三者を通じて、更に別の誰かに贈られる。その誰かも別の誰かに・・。

僕ら自身が、大切な「何か」を「贈られた」もしくは「与えられた」と感じた瞬間に、その「贈り・贈られる」循環ははじまっていて、それを、何らかの形で「返したい」という気持ちが芽生えてくる。
人はそれを「贈与」と呼んだり、「与え」と呼んだりするけれど、そうした「何か」が、たとえ、間違って届いたものだとしても、それは伝えていかなければならないのだと思う。

そうして『チェンソーマンレゼ篇』という物語から受け取った「何か」を、他の誰かに伝えるために、僕たちは語り続けることになるのだろう。
(了)


参考文献

『チェンソーマン』藤本タツキ#1~#11
『恋・花・チェンソー・ガイド』藤本タツキ
『贈与論』マルセル・モース
『愛と経済のロゴス』中沢新一
『贈与と交換の教育学』矢野智司
『贈与論―資本主義を突き抜けるための哲学』岩野卓二
『探究1』柄谷行人
『誘惑論』立川健二
『誘惑の戦略』ジャン・ポードリヤール
『エロティシズム』ジョルジュ・バタイユ
『存在論的・郵便的』東浩紀
『チェンソーマン』レゼ編 感想 (demio氏「はてなブログ」記事)

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