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退職するベテランの「勘」を、AIに言葉として残せるか試した話

シリーズ:AI活用の考え方(第3回)

1. はじめに ── 「勘」は、辞めていく人の頭の中にある

製造業の現場には、図面にもマニュアルにも書かれていない判断が、いくつもあります。

長く現場にいる人が、データを見て「これはおかしい」と気づく。理由をうまく説明できないのに、結果として正しい。そういう「勘」のようなものが、たしかにあります。そして、その勘の多くは、ベテランが辞めると一緒に消えていきます。

「あの人が辞めたら、誰が判断するのか」。この不安を抱えている方は、少なくないと思います。私自身も、現場でその種の判断に何度も助けられてきました。

この記事は、「AIを使えばベテランの技能はこう継承できます」という解決策の紹介ではありません。むしろ逆です。ベテランの勘を、完全には残せないかもしれない。 その前提に立ったうえで、それでもAIとの対話で、勘を少しずつ言葉にしてみた。まずはその手探りの話を書きます。

そのうえで後半では、この方法を、退職が迫ったベテランの暗黙知を社内に残す場面に当てはめると、どうなるかを考えてみます。私が自分の手元で試したことを、人が辞める前の場面にどう使えるか。そこまで書いてみたいのです。

2. あの「待て」と言った声の正体

なぜ私がこのテーマを書こうと思ったか。きっかけは、過去の自分の小さな経験でした。

以前、部品の単価台帳を整える作業をしたことがあります。その経緯は別の記事に書きました。

参考記事:マスタ整備を外注せずに済んだ。PythonとAIで単価台帳を整えた話

このとき、私は単価がゼロのデータを「無効」とみなして、機械的に除外しかけました。数字がゼロなのだから、有効な単価ではない。プログラムでそう処理するのが、一見すると正しく思えたのです。

けれど、手が止まりました。うまく言葉にできない何かが、「待て」と言ったのです。単価がゼロになるのには、ゼロになるなりの事情がある。あとから考えれば説明はつきます。でも、あの瞬間に私を止めたのは、理屈ではありませんでした。現場で積み重ねた、言葉になる前の違和感でした。

私は今、こう思っています。あの「待て」という言葉にならない感覚こそ、ベテランの暗黙知の正体だ、と。判断の理由を整然と説明できるなら、それはもう暗黙知ではありません。説明できないのに正しい。そこに、辞めていく人と一緒に消えてしまう知が、ぎゅっと詰まっています。

だとすれば、暗黙知を残すという仕事は、立派な仕組みを作ることよりも先に、もっと地味なことから始まる気がしました。あの「待て」の中身を、少しずつでも言葉にしてみること。そこからです。

3. AIに「預ける」のではなく、AIと「言葉にしていく」

ここで、AIとの距離感の話をさせてください。私には、譲れない前提があります。

技能継承とAIを結びつける話を見ると、「動作をデータ化して、AIに学習させれば継承できる」という方向のものが目立ちます。たしかに、できることもあるのでしょう。でも私は、その入り方には少し慎重です。AIに勘を預けてしまうと、なぜそう判断したのかが分からなくなる。結局、ブラックボックスのまま別の場所へ移るだけ、という気がするからです。

私が前の記事で書いたのも、近い感覚でした。

参考記事:AIの答えを、私はまだ信じきれない。「検算する」という習慣の話

AIの答えを鵜呑みにせず、自分の判断を一度通す。あの「検算する」という距離感は、暗黙知の話にもそのまま地続きでした。

だから私は、AIに「勘を継がせる」のではなく、AIと一緒に「勘を言葉にしていく」という向き合い方を選びました。主役はあくまで人です。AIは、こちらの曖昧な感覚を、問いかけによって少しずつ引き出してくれる相手。そういう使い方です。

言葉にできれば、それは図面やマニュアルに書ける形に近づきます。完全な置き換えにはなりません。でも、頭の中にしかなかったものが、ほんの少し外に出る。その一歩には、たしかな意味があると感じています。

4. 私が試した、判断基準を言葉にする小さな手順

ここからは、設備のいらない、手元で再現できる試みの話です。私が実際にやってみたのは、AIを「聞き手」にして、自分の判断基準を言葉にしてみる、という地味な作業でした。

順番にすると、こんな流れです。

  • 自分が「なんとなく」で判断している作業を、一つ思い浮かべる

  • その判断を、AIに口頭で説明するつもりで書き出す

  • AIに「なぜそう判断したのか」「例外はないか」を質問してもらう

  • 答えに詰まったところこそ、言葉になっていない勘だと気づく

  • 出てきた言葉を自分でもう一度読み直し、現場の感覚とずれていないか確かめる

実際にやってみると、最初の説明はスカスカでした。「経験上そうだから」としか書けない。でも、AIに「その経験とは、具体的にどんな場面でしたか」と重ねて聞かれると、少しずつ思い出してきます。あのときは数字がこう動いていた。だから引っかかった。そうやって、後づけでも理由が言葉になっていきます。

大事なのは、AIの答えを正解として受け取らないことです。AIが整理してくれた文章は、あくまで叩き台です。それを現場の感覚と照らして、「ここは違う」「これは言い過ぎ」と直していく。検算と同じで、最後に判断するのは自分でした。

頭の中だけにあったものが、読み返せる文章になる。私の手元では、たしかにそこまで来ました。問題はここからです。これは私が、自分の勘を、自分で言葉にした話にすぎません。では、辞めていくのが自分ではなく、別のベテランだったら。同じやり方が、そのまま使えるのでしょうか。

5. この方法を、辞めるベテランに当てはめてみる

ここから後半です。私が自分の勘でやったこの方法を、退職が迫ったベテランの暗黙知を社内に残す場面に当てはめると、どうなるか。ここからは私の実体験ではなく、「こう使えるはずだ」という提案として書きます。

自分一人で言葉にするのと、辞める人の勘を残すのとでは、決定的に違う点があります。言葉にする中身を持っているのは、自分ではなく、その人だということです。だから、役割を分けて考える必要があります。

私が考える役割分担は、三つです。

  • ベテラン本人(語り手): 勘の中身を持っている人。判断の場面を思い出して語る

  • AI(問いかける聞き手): 「なぜそう判断したのか」「例外はないか」を、しつこく問い返す相手

  • 周りの人(検証役): 出てきた言葉が現場と合っているか、別の人が確かめる

私が手元でやったときは、この三つを全部、自分一人で兼ねていました。語り手も、AIへの問いかけも、検算する役も、私でした。でも、辞める人の暗黙知を残す場面では、語り手はベテラン本人です。そして検証役は、できれば本人以外の人がいい。

なぜAIを聞き手に置くと良さそうなのか。人が人に「なぜそうしたんですか」と何度も聞くのは、案外むずかしいものです。聞く側が遠慮します。聞かれる側も、当たり前すぎて答えに困る。AIなら、同じ問いを、角を立てずに何度でも返してくれます。「その例外は、どんなときに起きますか」。この問いを、嫌な顔をせず繰り返せる。そこが、AIを聞き手に置く意味だと思います。

6. 限られた時間で、どの「勘」から言葉にするか

辞めるベテランの暗黙知を残す。そう言うと立派ですが、現実には時間が限られています。退職まで何ヶ月、という中で、頭の中の全部は到底すくえません。だから、どの勘から言葉にするかの順番が大事になります。

私なら、こういう優先順位で考えます。

  • その人にしか分からない判断から先に(他の人が代われない勘ほど、消えると痛い)

  • 間違えると影響が大きい判断を次に(やり直しのきかない工程ほど優先)

  • 頻度は低いが、起きると困る判断も拾う(年に数回の異常への対応など)

  • 逆に、マニュアルで足りるものは後回し(すでに言葉になっている)

ありがちなのは、思い出した順、話しやすい順に書いていくことです。それだと、いちばん残すべき勘が、最後まで手つかずで残りがちです。だから先に、「この人が抜けたら、どの判断がいちばん困るか」を、周りの人と一緒に洗い出しておく。順番を決めてから始める。これだけで、限られた時間の使い方が変わると思います。

ここで、前半の「待て」の話が効いてきます。優先すべきは、本人が理由をうまく言えない判断です。説明できない判断ほど、暗黙知が濃く、消えると取り返しがつきません。「なんとなく、これは止める」。そういう判断こそ、時間をかけて言葉にする価値があります。

7. 「個人のメモ」で終わらせず、「社内の知識」にする

ここが、いちばん大事なところかもしれません。せっかく言葉にしても、それが本人のメモのままなら、辞めた瞬間に一緒に消えます。個人のメモを、社内の知識に変える。ここまでやって、ようやく「残した」と言えます。

私が考える、メモを知識にするための手順は、こうです。

  • 言葉にした判断基準を、他の人が読んで分かる形に書き直す(図番・工程名など、共通の言葉に直す)

  • どんな場面の、どんな判断かを手順書や判断の目安として整理する

  • なぜその判断が正しいのか、根拠をたどれるようにしておく(あのとき数字がこう動いた、という背景まで)

  • 本人以外の人が読んで、実際にその通りに動けるか試してもらう

最後の「本人以外が試す」が、前半で書いた検算の発想です。AIと本人の二人だけで完結させると、本人の思い込みを上手に整理しただけ、という危うさが残ります。別の人が読んで「ここは分からない」「現場では少し違う」と言える状態にして、はじめて社内の知識になります。

根拠をたどれるようにしておく、という点も大事です。「ベテランがそう言ったから」だけでは、その人が辞めたあと、誰も理由を確かめられません。なぜその判断になるのか、背景の数字や場面まで残しておく。そうすれば、あとから来た人が、自分で納得して使えます。言いっぱなしにしない。これが、メモと知識を分ける線だと思います。

8. それでも、こぼれ落ちるものはある

ここまで方法を並べてきましたが、できないことも正直に書いておきます。逆を書かないと、誠実ではないと思うからです。

まず、言葉にしても、こぼれ落ちるものがあります。 「なんとなく嫌な感じがした」という違和感を、いくら問い直しても、最後まで言葉にならないことがあります。理由を言えないまま正しい。それが暗黙知の厄介さであり、たぶん、本質でもあります。辞める人の勘を全部すくえた、と思った瞬間に、何か大事なものを取りこぼしている。そう考えておいたほうがいい気がします。

次に、これは個人の手元の試みを、人が辞める場面に当てはめた提案だということです。私自身が、辞めるベテランと一緒にこの作業をやり切ったわけではありません。実際にやれば、語り手が話してくれない、時間が足りない、周りに検証役がいない。そういう壁が、きっと出てきます。だから、ここに書いたのは完成した手順ではなく、始め方の見取り図です。

そして、組織として技能継承の仕組みを作るとなれば、もっと多くの人と、もっと丁寧な段取りが要ります。私が書けるのは、その手前の、いちばん小さな最初の一歩までです。

それでも、意味はあると思っています。完全に残せないからやらない、ではなく、少しでも言葉にしておく。残せた一割が、辞めていく人の頭の中から、誰かに渡るかもしれないからです。

9. おわりに ── 完全には残せない。それでも、辞める前に言葉にし始める

ベテランの勘を、AIで丸ごと継承できます。そう言い切れたら、気持ちいいのかもしれません。でも、私には言えませんでした。

私にできたのは、自分の中の「待て」と言った声を、AIに聞いてもらいながら、少しずつ言葉にしてみることだけです。残せたものより、こぼれ落ちたものの方が多かったかもしれません。それでも、頭の中にしかなかった判断が、読み返せる形になった。その手応えは、たしかにありました。

その手応えを、人が辞める前の場面にどう使えるか。後半で書いたのは、その当てはめです。語り手・聞き手・検証役を分けること。どの勘から言葉にするか順番を決めること。メモで終わらせず、根拠まで残して社内の知識にすること。どれも、立派な設備はいりません。辞める人がまだ社内にいる、その間にしかできないことです。

暗黙知は、辞めていく人と一緒に消えていきます。だからこそ、消える前に、不完全でもいいから言葉にし始める。全部は残せません。それでも、辞めてから「あの判断、どうしてたんだろう」と困るより、まだ本人がいるうちに、一割でも言葉にしておく。その差は、思いのほか大きいと思うのです。

製造業の現場で「ベテランが辞めたら、あの判断を誰がするのか不安」「現場の勘を、どう社内に残せばいいか分からない」というお悩みがあれば、コメントをください。
解決に役立つ、もう少し深堀した記事をお届けします。

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