教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|上巻・第十八章 シャロンとランス降伏/戴冠式
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アナトール・フランス著『ジャンヌ・ダルクの生涯(Vie de Jeanne d'Arc)』全文翻訳を目指しています。完訳達成。原著は1908年発行。
1920年:ジャンヌ・ダルク列聖
1921年:A・フランス、ノーベル文学賞受賞
1922年:ローマ教皇庁の禁書目録に登録
現在、禁書制度は廃止されてますが、教皇庁は「カトリック教義を脅かす恐れがある禁書だった本を推奨することはできない」という立場を表明しています。
▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか
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18.1 シャロンの町
トロワを出発した王軍は、シャンパーニュ地方のさびれた地域に入ると、アルシ(Arcis)の近くでオーブ川を渡り、シャロンから5リーグ(12.5マイル/20キロ)離れたルットル(Lettrée)に宿営した。
シャルル王はルットルから、使者モンジョワをシャロンの町に派遣し、王を迎え入れて服従を誓うよう求めた。[1471]
シャンパーニュ地方の町々は、まるで一本の手の指のように密接な関係で連なっていた。
王太子がまだブリニョン大司教(Brinion-l'Archevêque)の宿舎にいたころ、シャロン市民はトロワの同胞からこれまでの顛末を知らされていた。説教者のリシャール修道士が、ジャンヌ・ラ・ピュセルの手紙を持ってきたことさえ知っていた。
そこでシャロン市民も、ランス(⚠️トロワへの返信ではない。遠征軍の目的地ランス)市民に宛てて次のような手紙を書いた。
「リシャール修道士には驚かされる。
我々は、彼を立派な人物と評価していた。
しかし、彼は魔術師になってしまった。
トロワ市民が王太子の兵士たちと戦っていることを伝える。
我々も、全力を尽くして敵に抵抗する決意である」[1472]
とはいえ、彼ら(シャロン市民)は自分たちが書いたものを一言も信じておらず、ランス市民も本気にしないだろうとわかっていた。
しかし、別の君主を迎える前に、ブルゴーニュ公に対して強い忠誠心を示す(筋を通す)ことは重要だった。
シャロン司教兼伯爵のジャン・ド・モンベリアール=ザールブリュックは、国王を出迎えるためにわざわざルットルまで会いに来て、町の鍵を国王に渡した。彼はコメルシーの領主の一人だった。[1473]
⚠️コメルシーの領主(Sires de Commercy):上巻・第一章で、ジャンヌの故郷近郊を荒らし回っている略奪者の中に「コメルシーの若領主、ロベール・ド・ザールブリュック」と呼ばれる人物が何度か登場している。シャロン司教の息子か近親者と思われる。
7月14日、国王とその軍隊はシャロンの町に入った。[1474]
そこで、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)は故郷の村から来た農民4〜5人と、ジャンヌの親戚であるジャン・モレルと会った。
当時43歳くらいの農夫で、兵士たちが村を通り過ぎる際にダルク一家とともにヌフシャトーに避難したことがある。ジャンヌは彼に、自分が着ていた赤いガウンを贈った。[1475]
シャロンでは、モレルより10歳ほど若い、エピナル出身のジェラルダンという別の農夫にも会った。
ジャンヌは彼を「compère(代父・霊的な身内)」と呼び[1476]、ジェラルダンの妻イザベレットを「commère(代母)」と呼んだ。[1477]
なぜなら、ジャンヌは彼らの息子ニコラを洗礼盤の上で抱き上げた(名付け親になった)からで、霊的な意味で母親だったからである。
⚠️Commère:日仏辞典では「おしゃべり女、噂好きな人」と訳されているが、父・母に次ぐ「名付け親、共同親」のこと。古フランス語に由来する伝統的な言葉だが、現在も法律用語「共同親権者」という意味で使用されている。
村にいたころのジャンヌは、ジェラルダンがブルゴーニュ派だという理由で彼を信用していなかった。
しかし、シャロンでのジャンヌは、ジェラルダンに信頼を示し、軍の進軍状況について語りながら「裏切り以外は何も恐れていない」と言った。[1478]
すでにジャンヌは暗い予感を抱いていた。おそらく、これからは自らの魂の純真さ(frankness)と心の単純さ(simplicity)が、人々の邪悪さや、状況の混乱させる力によって、激しく攻撃されると感じていたのだろう。
⚠️ジャンヌの性質について補足。
🔸純真さ(frankness/candeur):相手のことを考えずに、ありのままに振る舞う性質。汚れを知らない純真無垢さ。
🔸単純さ(simplicity/simplicité):気取らない態度のこと。一般的なシンプル(simple)と違い、人の性質や概念を意味する。
どちらも人の性質を表す言葉で、ようするに「裏表がない」。正直さは信頼される一因になるが、配慮・遠慮のなさは相手を不快にさせることもある。ジャンヌは自分の性質を快く思わない者がいることに気づいていたのかもしれない。
聖ミカエル、聖カタリナ、聖マルガリータの言葉は、すでにその原始的な明瞭さをいくらか失っていた。なぜなら、それら「ジャンヌの声」は、もはや天上の事柄ではなく、フランスとブルゴーニュの国家機密を扱うようになっていたからである。
⚠️補足:世俗の事柄に深く関わることで、初期の神秘性を失いつつあった
シャロン市民は、ランス市民に宛てて「同胞のトロワ市民の例に倣って、フランス国王を迎え入れた」ことを伝える手紙を書き、「皆さんも同じようにするといい」と勧めた。
この手紙の中で、彼らは「シャルル王が親切で、優雅で、情け深く、慈悲深いことを知った」と述べている。実際、国王はシャンパーニュ地方の町々に対して寛大に接していた。
シャロン市民は、さらに「国王は偉大な精神と立派な態度の持ち主だ」と付け加えた。[1479] それは大いに意味のある、重要な発言だった。
18.2 ランスの町(1)主君を変える奸計
⚠️念のため補足:ランス(Reims)の町は、フランス王が聖別されて戴冠式を挙げるノートルダム大聖堂がある。フランス北東部シャンパーニュ地方の都市で、今回の遠征の最終目的地。当時はイングランドとブルゴーニュ公の支配下にあり、シャルル七世からすれば敵地に侵入するも同然だが、各都市の門をひらかせることで真のフランス王が誰であるかを知らしめる効果がある。
ランス市民はきわめて慎重に行動した。
フィリップ公(ブルゴーニュ公)およびブルゴーニュ軍とイングランド軍の隊長たちに使者を派遣して、「フランス王が町の近くに到着したら、町の門を開かざるを得ない」ことと、これまでに把握している「王軍の進行状況」を伝えて、敵の進軍に対抗するよう要請した。[1480]
しかし、ランス市民は救援を得ることを急がなかった。
もし援軍が来なければ、ブルゴーニュ側から非難されることなくシャルル王に降伏できる。どちらの陣営からもおびやかされる恐れがないようにと企んでいたからだ。
しばらくの間、ランス市民は両陣営への忠誠を維持した。
このようなやり方は、非常に困難で危険な状況下では賢明な判断だった。
シャンパーニュ地方のこれらの町が、いかに巧妙に「主君を変える」奸計を駆使していたかを観察する際には、彼らの生命と財産がかかっていたことを忘れてはならない。
*
早くも7月1日には、フィリベール・ド・モラン隊長(トロワに駐留していた守備隊の隊長)がノジャン=シュル=セーヌからランス市民に手紙を書き送った。彼はブルゴーニュ軍とともそこに滞在中で、「もし救援が必要なら、善良なキリスト教徒として助けにいく」と伝えた。[1481]
ランス市民は、この申し出を理解できないふりをした(無視した)。
結局のところ、フィリベール・ド・モランは、ランス市民が当てにできる隊長(指導者)ではなかった。彼の提案は、彼自身が言うように、キリスト教徒としての慈悲心・慈善行為にすぎなかった。
本心では援軍を望んでいないランスの有力者たちは、何よりもまず、彼らランス市民のもともとの解放者であり、町の総督かつフランス大執事長を務めるシャティヨン卿の動向に用心しなければならない。[1482]
「Et tribuit eis petitionem eorum.(神は彼らの要求を許した/願いを叶えた)」
イスラエルの民のようにならないよう、ランス市民は「願いが叶わない方法」で助けを要求しなければならない。
⚠️シャティヨン家(Chastillon):シャンパーニュ地方の伯爵家。サン=ポル、ブロワ、パンティエーヴル、シャルトルなどフランス各地に分家が拡散し、いずれも有力貴族。なお、シャルル七世に仕えるランス司教のルニョー・ド・シャルトルは分家筋。
⚠️イスラエルの民(Israelites):旧約聖書『出エジプト記』からの引用。虐げられていたイスラエルの民(ヘブライ人、ユダヤ人)は奴隷の身分から解放されたが、居場所を失い、長い間荒野をさまよう。
18.3 ランスの町(2)シャルル七世の手紙
フランス軍がまだトロワの城壁の前にいたころ、ランスの門前に伝令が現れた。国王が7月4日の月曜日にブリニョン=ラルシュヴェック(ブリニョン大司教の宿舎)滞在中に書いた手紙を託されていた。
この手紙は、すぐに町の評議会に届けられた。
「あなたがたはすでにご存知だろう」
手紙の中で、シャルル七世はランス市民に語りかけている。
「ランスの善良な民よ、あなたがたはすでに、
神が私たちに与えてくださった、
古くからの敵であるイングランドに対する
勝利と成功の知らせを聞いているだろう。
それは、オルレアン市の前で、
その後はジャルジョー、ボージャンシー、
ムン=シュル=ロワールで起こり、
それぞれの場所で敵は甚大な損害を受けた。
彼らの指導者および、その他4000人もの人々が
殺されるか、あるいは捕虜になった。
これらは、人智の力というよりも
神の恩寵によって起こったのである。
そこで私たちは、
血統貴族と王室評議会の助言に従い、
聖油を塗り(聖別し)、王冠を戴くために
ランスに向かっている。
したがって、あなたがたは、
私たちに負っている忠誠と服従に基づき、
歴代国王におこなってきたことと同じように
私たちを慣例通りに迎え入れる準備をするように」[1483]
そしてシャルル王は、トロワ市民に示したのと同じく、賢明で寛大な態度をランス市民にも示し、完全な赦免と忘却を約束した。
「過去の出来事や、私たちがそれを思い出すかもしれないという恐れに惑わされてはならない。現在のあなたがたが、私たちに対して当然の義務を尽くすならば、善良で忠実な臣民にふさわしい扱いをすることを保証する」
王はさらに、自分と交渉するために町の有力者を派遣するよう要請した。
「私たちの意図をもっと詳しく知るために、
ランス市民の何人かが、派遣した伝令とともに
来てくれるなら、私たちは大いに喜ぶだろう。
あなたがたが安全に来れることを保証する。
あなたがたが良いと思う人数で構わない」[1484]
王の手紙が届けられると、評議会が招集されたが、審議に必要な人数が足りなかったため決議できず、評議会メンバーは深刻な困惑から解放された。
そこで、一般市民が市内のさまざまな地区に集められた。
こうして市民から聞いた意見を取りまとめて、次のような狡猾な宣言文を作り上げた。
「私たち市民は、評議会および有力者たちと
生死を共にするつもりです。彼らの助言に従います。
ランスの司令官と副官による助言と命令がない限り、
私たちは不平を言わず、(シャルル七世に)返事も出さず、
協力して平和的に行動します」[1485]
⚠️王の一人称「尊厳/君主の複数」について補足:
英語でRoyal we、仏語ではNous de majestéという、君主特有の言葉遣い。
君主が自分自身を指して用いる複数代名詞で、「我々/私たち」となっているが王個人を指している。国家と個人が一体化している君主ならではの一人称。
一般人が自我を抑えて謙虚さを示すために用いる「私たち」と、君主の威厳を示す「私たち」を区別する必要がある……と辞書などに注意書きされているが、日本人にはなかなか理解しにくい。
一般的になじみがない言葉だが、現在も外交文書で使われている。
例えば、君主が君主に宛てた手紙では単数形の一人称(私)を用いるが、大統領や首相に宛てた書簡では君主の複数(我々/私たち)を用いる。
18.4 ランスの町(3)雄弁は銀、沈黙は金
当時、ランス市の司令官(Commander)だったシャティヨン卿は、二人の副官(Lieutenants)ジャン・コーションとトマ・ド・バゾッシュとともに、シャトー・ティエリーに駐留していた。二人とも騎士だった。
ランス市民は、彼にシャルル王の手紙を見せるのが賢明だと考えた。
代官(Bailie)のギヨーム・オディエルヌは、隊長領主(Lord Captain)でもある彼のところへ行き、手紙を見せた。
代官は、ランス市民の感情を非常に忠実に表現した。
シャティヨン卿に救援に来るよう頼んだが、彼が来れないような頼み方をした。
これこそが、最も重要な点だった。
なぜなら、救援を要請しなければ、市民は反逆罪で告発されるかもしれず、かといって、本当に救援が来たら、市民は悲惨で危険な包囲戦に耐えなければならない。どちらにしても市民は危険にさらされる。
この目的のために、代官は「ランス市民は隊長と連絡を取りたいと思っており、《《騎兵50騎まで》》なら受け入れる用意がある」と宣言した。
ここで市民は善意を示した。
ランスの町は「城壁内に軍隊を入れることを拒否する権利」を持っていた。
特権があるにもかかわらず、ランス市民は騎兵50騎、つまり戦闘員200人という条件付きで受け入れることに同意した。
⚠️補足:シャルル七世が率いる遠征軍の規模は3万人。
予想通り、シャティヨン卿は「その程度の人数では、自分自身の安全さえ確保できない」と判断した。
彼は、救援に出向く条件として、(1)町が食料を供給し、防衛態勢を整えること、(2)戦闘員300~400人を連れて入城すること、(3)城だけでなく町の防衛もすべて任せること、(4)町の有力者5~6人を人質として引き渡すことを要求した。
これらの条件を満たせば、シャティヨン卿は「ランス市民のために生死を共にする覚悟を決める」と宣言した。[1486]
実際に、シャティヨン卿は部隊を率いて町のすぐ近くまで進軍し、市民に救援に来たことを知らせた。[1487]
イングランド軍はあらゆる場所で兵士を募集し、あらゆる種類の人々を軍務に就かせていた。聖職者にまで武装させた。摂政(ベッドフォード公)は実際に、ウィンチェスター枢機卿がフス戦争に参戦する予定でフランスに上陸させた十字軍の兵士を、(フランス軍と戦うための)兵役に駆り立てていた。[1488]
そして、ヘンリー王の評議会(イングランド側)は、集めた軍勢の進軍状況についてランス市民に知らせることを忘れなかった。
7月3日には、イングランド軍が海を渡っていると伝えた。
7月10日には、ヴェルマンドワの代官であるコラール・ド・マイイが「軍隊が上陸した」と発表した。
しかし、これらの知らせは、シャンパーニュ地方の人々にイングランド軍を信頼させるほどの力がなかった。
シャティヨン卿が「(包囲戦に耐えれば)40日以内に海の向こうから大軍が到着する」と約束していた頃、シャルル王は兵士3万人を率いてランスの城門までわずか数マイルのところに来ていた。
シャティヨン卿は、以前から疑っていたとおり、自分はランス市民に欺かれたと悟った。市民は、要請した援軍を町に入れることを拒否したのだ。
彼に残された道は、引き返してイングランド軍に合流することだけだった。[1489]
7月12日、ランス市民は、ランス大司教で公爵のルニョー・ド・シャルトル卿から、国王の来訪に備えるよう求める手紙を受け取った。[1490]
その日、町で評議会が開かれ、書記官は審議の経過について公式報告書を作成した。
「……シャティヨン卿に、彼が司令官であり、領主たちと大衆が……であることを伝えたあと……」[1491]
それ以上何も書かれていなかった。
シャルル王の戴冠式の準備をしながら、イングランドへの忠誠を主張するのは無理がある。強制されたわけでもないのに、新しい君主を承認するのは賢明ではない。そう気づいた市民は、突然、雄弁という「銀」を放棄し、沈黙という「金」に逃げ込んだ。
⚠️雄弁は銀、沈黙は金(Speech is silver, Silence is golden):英語の慣用句。ようするに、ヘンリー六世からシャルル七世へ主君を乗り換えることは、どう言い訳しても筋が通らない。不義理・無分別な裏切り行為だと気づいたので、ランス市民は急に口をつぐんでしまった。経過報告をまとめた公文書もうやむやで歯切れが悪い。
18.5 戴冠式前夜、王権を象徴する至宝
7月16日の土曜日、シャルル王は戴冠式をおこなうランスから4リーグ(10マイル/16キロ)離れたセプト=ソール城に宿泊した。ここの要塞は、ルニョー・ド・シャルトル卿(ランスの大司教)の好戦的な先祖によって200年前に建てられたもので、その威風堂々とした主塔はヴェスル川の渡河地点を見下ろしていた。[1492]
そこでシャルル七世は、王に敬意を表すために来訪した大勢のランス市民を迎えた。[1493]
その後、王は乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)と全軍を率いて行軍を再開した。ヴェスル川の河岸に沿って、曲がりくねった街道の最後の区間を通り過ぎると、日暮れ時にシャンパーニュ地方の大都市ランスに入った。
南門のディウリミール門は、王を通すために跳ね橋を下ろし、二つの落とし格子を上げた。[1494]
伝統によれば、戴冠式は日曜日に行われるべきだった。
この決まり事は、ルイ八世の戴冠式から始まったとされる。権威があるとみなされ、儀式書にも記されていた。[1495]
ランス市民は、翌日までにすべての準備が整うように徹夜で作業した。[1496]
彼らは、フランス王に対して突発的な愛情を抱いていたが、国王とその軍隊[1497]が何日も居座るのではないかという恐怖にも駆り立てられていた。
門の中(町の中)に兵士を入れて、その状況を維持することへの嫌悪感は、あらゆる町の市民に共通していた。彼らには、アルマニャック兵もイングランド兵もブルゴーニュ兵も区別がつかず、戦々恐々としながら過ごした。
そのため、市民はあらゆることに勤勉だったが、できるだけ費用を安く抑えようとしたたかに決意を固めていた。
戴冠式は、市民にとって利益にも名誉にもならないと考えており、町の評議員たちはその負担を大司教に押し付けるのが常だった。大司教はフランスの貴族として[1498]、報酬を受け取るだろうからと彼らは主張した。

(CHARLES VII, KING OF FRANCE. From an old engraving)
先王シャルル六世の戴冠式の後、サン=ドニ大聖堂の聖具室に納められていたフランス王の装飾品は、イングランドの手に渡っていた。
歴代フランス王が戴冠式で授けられた、「ルビー、サファイア、エメラルドで輝き、4つのフルール・ド・リス(アヤメの紋章)で飾られたシャルルマーニュ(カール大帝)の王冠」を、イングランドは自国の王ヘンリー六世の頭上に載せようと画策していた。

⚠️フランス王の王冠について補足:ブルボン王朝以降の王冠は一代限定で、代替わりするごとに新規作成していたが、ヴァロワ王朝時代は「シャルルマーニュの王冠」と「聖王ルイの王冠(王妃用)」を代々継承していた。
他にも、彼らはこの幼い王(ヘンリー六世)に、シャルルマーニュの剣として名高いジョワユーズを帯びさせようとしていた。その剣は、菫色のベルベットの鞘に収められたまま、ブルゴーニュ派のサン=ドニ修道院長のもとで眠っていた。
同様に、イングランドの手中には、▼皇帝の衣装をまとった金のシャルルマーニュ像が頂上にある王笏、▼ユニコーンの角でできた「正義の手」が先端についた杖、▼聖王ルイのマントの金の留め具、▼金の拍車、そして▼銀メッキの七宝装飾(エナメル)の縁飾りが施された表紙の中に戴冠式の儀式書が収められた教皇典礼書もあった。[1499]
⚠️「訳者のこぼれ話:フランス王家の宝器について」で後述。画像付き。
そのため、フランス陣営は、ランスのノートルダム大聖堂の聖具室に保管されていた冠を代用して間に合わせなければならなかった。[1500]
初代国王クロヴィス、聖シャルルマーニュ、聖王ルイから受け継がれてきた王権を象徴するその他の品々も、できる限り再現しなければならない。
結局のところ、一度の遠征で勝ち取ったこの戴冠式が、これまでに費やされた労力と苦難を表現していることは悪いことではない。(むしろふさわしい)
この儀式が、王太子シャルルをここまで連れてきた兵士や庶民たちの英雄的な欠乏(heroic poverty)を暗示しているのは、良いことだった。
訳者のこぼれ話:フランス王家の宝器について
補足資料として、本文で登場した宝器を紹介します。
なお、画像はパブリックドメインです。キャプションは本文からの引用。
フランス王の戴冠式に使用された道具(Regalia du royaume de France)、すなわち「王家の宝器(Ornements Royaux)」はそのほとんどがフランス革命時代に当局によって破壊され、現存するのは(1)王剣ジョワユーズ、(2)シャルル五世の王笏、(3)ルイ15世の王冠の3点のみ。


(Le sceptre de Charles V)
革命の嵐を生き残ったのは上記2点とルイ15世の王冠(本作の時代ではないため省略)。シャルル七世が身につけ、ジャンヌが見た現物だと思うと感慨深いです。
その他の宝器はのちに復元されて、現在はサンドニ大聖堂またはルーブル美術館に保管されています。

(Main de justice)


18.6 戴冠式当日(1)聖油を注ぎ王位を継ぐ伝統の由来
王は油を塗られて聖別された。
なぜなら、油は名声、栄光、知恵を意味するからだ。
戴冠式当日の朝、ジル・ド・レ卿、ブサック元帥、グラヴィル卿、キュラン提督は、王から派遣されて聖油瓶(Sainte Ampoule)を取りに行った。[1501]
それは水晶の小瓶で、サン・レミ聖堂の修道院長が、修道院教会の主祭壇の後ろに安置された聖レミの墓の中に保管していた。この小瓶に、聖レミがクロヴィス王に塗った聖なる香油が入っている。
(小瓶は)鳩の形をした聖遺物箱に収められていた。最初のキリスト教徒の王(クロヴィス王)に塗る聖油とともに、鳩の姿をした聖霊が降りてきた伝説にちなんでいる。[1502]
実際、古い書物には、(鳩ではなく)天使が奇跡の聖油瓶を持って天から降りてきたと書かれている[1503]のだが、人々はそのような矛盾を気に留めず、キリスト教徒の間では、聖なる香油に奇跡の力があることを疑う者は一人もいなかった。
例えば、「聖油は使っても減ることなく、小瓶は常に満たされている」が、これはフランス王国が永遠に栄える予兆と誓約の証拠だといわれてきた。
先王シャルル六世の戴冠式を実際に見た人の証言によれば、聖油を使ったあとも小瓶の中身は減っていなかったという。[1504]
*
午前9時、シャルル・ド・ヴァロワ(シャルル七世)が多数の従者を連れて教会(ノートルダム大聖堂)に入った。
フランス王の紋章官は、王国の貴族12人を名指しで呼び出し、主祭壇の前に来るよう命じたが、12人のうち、世俗貴族6人は誰も応じなかった。
そこで、彼らの代理を、アランソン公爵、クレルモン伯爵、ヴァンドーム伯爵、ラヴァル卿、ラ・トレモイユ卿、マイエ卿が務めた。
残る聖職貴族6人のうち、3人が紋章官の呼び出しに応じて参列した。ランス大司教(公爵)、シャロン司教(伯爵)、ラオン司教(公爵)の3人だ。
ランジュル司教とノワイヨン司教が欠席したため、シーズ司教とオルレアン司教が代理を務めた。
なお、フランス大元帥アルテュール・ド・ブルターニュ(リッシュモン伯爵)は不在だったため、代わりにシャルル・ダルブレ卿が剣を掲げた。[1505]
⚠️補足:イエス・キリストの十二使徒にあやかり、フランス王の戴冠式(聖別式・塗油式)では12人の重臣が儀式に参列する。
祭壇の前に、胸と肩がひらいたローブを身につけたシャルル・ド・ヴァロワがいた。
王はまず、第一に教会の安寧と特権を維持すること、第二に国民を強要/搾取から守り、過度に重荷を負わせない(ようするに重税を課さない)こと、第三に正義と慈悲をもって統治することを誓った。[1506]
次に、親族のアランソン公から騎士の武具を授かった(騎士叙勲を受けた)。[1507]
それから大司教は、王に聖油を塗った。
聖霊は、この聖油を通して、司祭、王、預言者、殉教者を作り出すのだ。
こうして、この新しいサムエルは新しいサウルを聖別し、すべての権力は神に由来すること、そしてダビデの例に倣って、王は祭司であり、神の奉仕者であり、神の証人であることを明らかにした。
⚠️サムエル(Samuel):旧約聖書『サムエル記』に登場する預言者。イスラエルの民が王を求めたので、サムエルは神の指示でふさわしい人物を探し、サウルに油を塗ってイスラエル王国初の王が誕生する。しかし、サウル王は敵を絶滅することを拒んだために神に見放され、サムエルはひそかにダビデに油を塗る。
イスラエルの王たちの時代から続いてきた、この聖油を注ぐ伝統は、シャルルマーニュの時代から、いや、クロヴィス王の時代から「もっともキリスト教的な王(フランス王の尊称のひとつ)」たちを燃え盛り輝く光とした。
実際に、クロヴィス王が聖レミの手から受けたのは、聖油注ぎではなく洗礼と堅信礼だった。だが、シャルル王は、聖なる司教によって「キリスト教徒の王」として、神自身が過去の君主と未来の後継者に送ったのと同じ聖油を注がれた。[1508]
こうして、シャルル・ド・ヴァロワは、権力と勝利の象徴である油注ぎを受けた。
サムエル記にはこう記されている。[1509]
「サムエルは油の入った小瓶を取り、
サウルの頭に注ぎ、彼に口づけして言った。
『主(神)はあなたに油を注ぎ、その民の指導者とされた。
あなたは主(神)の民を治め、周囲の敵の手から
民を救わなければならない』」
(旧約聖書『サムエル記上』10章1節)
⚠️原著では、預言者サムエルの発言部分にラテン語が併記されているため、ラテン語からの訳出も載せておきます。
ラテン語と訳文:
Ecce unxit te Dominus super hereditatem suam in principem,
et liberabis populum suum de manibus inimicorum ejus, qui in circuitu ejus sunt.
(見よ、主はあなたをその相続地の君主として油を注がれた。
あなたはその民を周囲の敵の手から救うであろう)
18.7 戴冠式当日(2)参列したジャンヌの動向
古めかしい言い方で神秘劇(mystery)と呼ばれた儀式の間じゅう、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)は王のそばを離れなかった。[1510]
⚠️|神秘劇《ミステール》(英:mystery/仏:mystère):宗教儀式としての荘厳な秘伝・奥義のこと。または、中世に上演された聖書に基づいた聖史劇のこと。現代のミステリー(推理)とは別物。
以前、シャンドスの古い軍旗を退却させたあの白い軍旗を広げてしばらく掲げていたが、その後は、ジャンヌから片時も離れなかった者たち、小姓のルイ・ド・クートや、シャロンを経てランスまでついてきたリシャール修道士が、代わる代わるジャンヌの軍旗を持った。[1511]
⚠️シャンドスの軍旗(standard of Chandos):過去80年間、イングランド軍が勝利したときに翻った軍旗。オルレアン包囲戦ではグラスデールが掲げていた。詳しくは、第十三章「13.7 レ・トゥーレル奪還(2)総攻撃」を参照。
*
ジャンヌは最近見た夢の中で、シャルル王に王冠を授けていた。
そのため、この日のジャンヌは、夢で見た王冠が天からの使者によって教会に運ばれてくるのを待っていた。[1512]
通常、聖人たちは、天使の手から王冠を受け取るのではなかったか?
聖セシリアには、天使がバラとユリの花輪で飾られた王冠を授けた。
聖カタリナには、天使が不滅の王冠を授け、カタリナはそれをローマ皇后の頭上に置いた。
しかし、ジャンヌが待ち望んでいた、奇妙なほど豪華で壮麗な王冠は、最後まで出てこなかった。[1513]
ランスの大司教は、聖堂参事会(聖職者)が用意したさほど価値のない王冠を祭壇から取り上げると、両手で王の頭上に掲げた。王の周りに円を描くように並んだ12人の貴族たちは、腕を伸ばして王冠を支えた。
ラッパが鳴り響き、人々は「ノエル!(万歳)」と叫んだ。[1514]
かくして、フランス王シャルル七世は、偉大なるトロイア王国の気高きプリアモス王の血脈を受け継ぐ子孫として、油を注がれて戴冠した。
⚠️プリアモス王(Priam):ギリシャ神話に登場するトロイア王国最後の王。プリアモスはトロイア戦争で殺され、王国は滅亡するが、英雄アエネアスと結婚した王女とトロイア人の生き残りがイタリア半島に逃れてローマを建国。古代ローマの始祖となり、ローマ帝国滅亡後はヨーロッパ各地の建国神話で始祖とされた。フランス王家の場合、歴史上の祖先は初代国王クロヴィスだが、神話上のルーツはトロイア王家と英雄にさかのぼると主張していた。
正午から二時間後(午後2時)、神秘劇は終わりを迎えた。[1515]
その時、ジャンヌはシャルル王の前にひざまずき、泣きながらこう言ったと伝わっている。
「美しい王よ、今ここに、神の望みは達成されました。私がオルレアンの包囲を解いたのも、あなたをこのランスの町まで連れてきて、聖なる塗油式を受けさせて、あなたが真の王であり、フランス王国が帰属すべき御方であることを明らかにしたのも、すべては神の意志でした」[1516]
18.8 戴冠式当日(3)祝賀行事
シャルル王は、慣例の贈り物をおこなった。
聖堂参事会には、緑のサテンの垂れ幕、赤いベルベットと白いダマスク織の礼拝用装飾品を贈った。さらに、王冠を刻印した金貨13枚を詰めた銀の壺を祭壇に置いていった。(ようするに、シャルル七世からのお布施)
聖職者たちの主張にもかかわらず、大司教はそれを自分の所有物にしたが、ほとんど利益は得られなかった。なぜなら、彼はそれを手放さなければならなかったからである。[1517]
儀式の後、シャルル王は王冠を頭に戴き、金のフルール・ド・リスがちりばめられた、空のように青い王家のマントを肩に羽織り、軍馬に乗ってランスの街路を練り歩いた。
人々は大喜びで「ノエル!(万歳)」と叫んだ。
それは、ブルゴーニュ公が町に入城したときと同じ光景だった。
その日、ジル・ド・レ卿はフランス元帥に、ラ・トレモイユ卿は伯爵に叙せられた。あのラヴァル夫人の二人の息子のうち、ジャンヌがセル・アン・ベリー(現在のセル・シュル・シェール)でワインをすすめた長男ギー・ド・ラヴァル卿も伯爵に叙せられた。
また、ラ・イル隊長には、ロングヴィル伯爵領とともに、彼が征服できたノルマンディー地方の一部を与えられた。[1518]
*
シャルル王は、(ノートルダム大聖堂に隣接する)旧時代のトー宮殿にある大司教の館で食事をし、アランソン公爵とクレルモン伯爵が給仕役を務めた。[1519]
慣例通りに、王室の食卓は町中の通りにまで広がり、町全体で宴が催された。
その日は、好きなだけ酒を飲み、親睦を深める日だった。
家々で、戸口で、道端で、人々は楽しく過ごし、厨房は大忙しだった。
数十頭の牛、何百頭の羊、数千羽の鶏やウサギが消費された。香辛料をたっぷりと使い、ブルゴーニュワインを(喉が渇く日だったので)何杯も飲み干した。繊細な風味のボーヌ産ワインが特に人気だった。
ランスの町では、いつもは大司教の館の中庭に置かれている古めかしい青銅製の牡鹿像が、戴冠式のたびにパルヴィ通りに運ばれてくる。その像は中が空洞になっており、そこにワインが満たされて、町の人たちは噴水のようにそこから飲んだ。
祝福された聖レミの町(ランス)の市民とすべての住民は、金持ちも貧乏人も同じように、上等なワインをたらふく飲んで、ごちそうで腹を満たし、声が枯れるまで「ノエル!(万歳)」と叫び、最後にワイン樽と食事の残骸の上で眠りについた。
翌日、その残骸は、厳しい町の評議員と王の家臣たちとの間で激しい論争の原因となるだろう。[1520]
18.9 戴冠式当日(4)ジャンヌの父が課税免除を要求
ジャンヌの父ジャック・ダルクは、娘が熱心に尽力した戴冠式を見るためにランスへ来た。
彼は、パルヴィ通りにある、ローラン・モローの未亡人アリックスが経営する宿屋「縞模様のロバ」に滞在した。娘だけでなく、息子のピエールにも再会した。[1521]
ジャンヌが「ラッソワ叔父さん」と呼び、ヴォークルールの総督ロベール・ド・ボードリクール卿に会いに行ったときに同行したいとこ(親戚)も、戴冠式に来ていた。彼は国王に話しかけ、ジャンヌについて知っていることをすべて話した。[1522]
他にも、ランスの町でジャンヌは、ドンレミ村から7マイルほど離れたヴァルヴィル村の銅細工師で、若い同郷人のユソン・ル・メストルに会った。ジャンヌは彼を知らなかったが、彼はジャンヌの話を聞いたことがあり、(ジャンヌの父か兄)ジャックと弟ピエールのことをよく知っていた。[1523]
ジャック・ダルクは、故郷の村では有力者の一人で、おそらく最も優れた実業家でもあった。[1524]
ランスまで来たのは、娘が男装して馬に乗って町の通りを練り歩くのを見物するためだけではなかった。彼は間違いなく、自分自身のために、そして村を代表して、国王に課税免除を要求するために来たのだ。
乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)によって、国王に提出されたこの嘆願は認められた。
その月(7月)の31日、国王は「グルー村およびドンレミ村の住民は、人頭税、貢租税、補助金、助成金すべての課税から免除されるべきである」と布告した。[1525]
町の行政官は公費からジャック・ダルクの滞在費を支払い、ランスを出発するときには、故郷まで連れて帰る馬を贈った。[1526]
⚠️訳者の覚書
①フランス王国時代の税制4種について、②ジャンヌの父がやったことについて、少々わかりづらいので補足。
▼Tailles:タイユ。人頭税。
王国の一部が敵に占拠されたり被害を受けるなど緊急事態の際に、王がその権限に基づいて徴収する。
▼Aides:エイド。貢租税。
対象地域の領主の合意に基づいて徴収する。海・川・山など地域特性に合わせた公共設備を整備するために使われる。
▼Subsidies:
特定の商品の価格を維持するための補助金。財源はガベル税。
▼Subventions:
特定の活動を支援するための助成金。財源はシャルジュ税。
上記の税金4種のうち、後者2つはガベルとシャルジュだと思われる。
原文では補助金・助成金の名称になっているが、文脈的に「補助金の財源」徴税を免除する話をしているので。
▼Gabelle:ガベル。間接税。
よく塩税と訳されるが毛織物やワインも対象。
▼Charge:シャルジュ。賦課税。
収入に関係なく貧しい人も納付する基礎的な税。
ようするに、ジャック・ダルクは、娘ジャンヌの活躍と戴冠式の祝賀(王が断りにくい状況)を利用して、一家と故郷の村全体の課税4種を全額免除してもらう特権をもぎ取った…という話です。なお、この特権はフランス革命で王政が廃止されるまで360年続きました。
一般的に、ジャンヌ・ダルクとその家族といえば「学のない貧しい農民」の印象が強いですが、おそらく「田舎の狡猾な実力者(ボス)」のほうが実像に近い。
だって、活躍した本人と家族どころか、出身地と隣村の税金全部免除させることを画策(家族だけだと妬まれそうですからね)して、娘にそれを要求させる父親なんてエグすぎる。相当図太くないとできない。
18.10 ジャンヌの指輪、修道女コレットの模倣
ランスで過ごした5〜6日の間、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)は頻繁に町の人々の前に現れた。
貧しい人たちや身分の低い人たちが、ジャンヌのもとにやって来た。
善良な妻たちはジャンヌの手を取り、自分の指輪をジャンヌの指輪に触れさせた。[1527]
ジャンヌは真鍮の一種で、時にエレクトラムと呼ばれる小さな指輪をはめていた。[1528] エレクトラムは「貧乏人の金」と言われていた。
⚠️エレクトラム(Electrum):金と銀の天然合金のことだが、一般的には金の純度が低くて「金」と呼べないような代物を指す。古代から貨幣鋳造に利用されてきた。その色合いから「琥珀金」と訳されることもある。
石の代わりに、ジャンヌの指輪には「ジーザス・マリア(Jhesus Maria)」という言葉と3つの十字架が刻まれた台座がついていた。
ジャンヌはしばしば敬虔な眼差しでこの指輪を見つめた。
なぜなら、聖カタリナがそれに触れたことがあったからだ。[1529]
当時、「聖人が現れて実在する指輪に触れた」という話は、まったく信じられない与太話ではなかった。
16年前の1413年に、修道女コレットが処女の貞潔を誓った際に、王の中の王(神、キリスト)と霊的な結婚をした証として、聖母マリアの使徒が降臨して立派な金の指輪を受け取ったという話がすでに広まっていたからだ。
修道女コレットは、自分の修道会の修道女と修道士にこの指輪に触れることを許し、遠方の地に使者を派遣するときは、道中の危険から身を守るためにこの指輪を託した。[1530]
⚠️コレット・ド・コルビー(Colette de Corbie):シャルル七世やブルゴーニュ公とも面識があり、宗教的・政治的な対立を超えて支持された著名な修道女。
ジャンヌは、自分の指輪にも偉大な力があると信じていた。
だが、病人を癒すために、指輪の力を使ったことは一度もなかった。[1531]
病人を治癒する奇跡までいかなくても、ジャンヌのような聖人には、聖職者や時には魔術師に依頼するような、ささいな奉仕をすることが期待されていた。
例えば、戴冠式の前に、貴族や騎士たちはしきたりに従って手袋を与えられていた。そのうちの一人が手袋をなくしてしまい、ジャンヌに紛失物を見つけてくれるよう依頼した。他の人たちも、彼のために手袋を探してほしいと頼んだ。
しかし、ジャンヌは手袋を見つける約束をしなかった。
はじめから取り合わなかったにもかかわらず、この話は知れ渡ってしまい、人々はジャンヌの振る舞いについてさまざまな解釈をして、口々に言い合った。[1532]
18.11 ジャンヌはゴリアテを倒した羊飼いダビデなのか
シャルル王の戴冠式の後、パルヴィ通りで群衆に押されながら、想像力豊かなある書記官がノートルダム大聖堂の輝かしいファサード(正面玄関)に目を向けた様子を想像してみよう。
⚠️書記官(Clerk):書記官に限らず、事務員、聖職者、商店の売り子など肉体労働ではない文系職業に就いている人全般。
年代記(歴史)を知らず、自分の人生のみで時間を測っていた当時の人にとって(補足:過去から連綿と続く歴史を知らない当時の一般人は、自分の人生が時間のすべて)、時に「石造りの聖書」といわれる大聖堂は相当古いものに見えただろう。
バラ窓の上部の尖ったアーチの左側には、鎧を着て誇らしげにそびえ立つ巨人ゴリアテの彫刻があり、アーチの右側には、よろめき、倒れそうな人間の姿が繰り返される。これらと同じ彫刻を、当時の書記官も確かに見ただろう。[1533]
そして、この書記官は、旧約聖書『列王記・第一』に書かれている話を思い出したに違いない。[1534]
⚠️旧約聖書『列王記』について:現在の聖書では『サムエル記上下』と『列王記上下』に分割されているが、もともとは『列王記』第一・第二・第三・第四と呼ばれていた。古代ユダヤの歴史書で、イスラエル王の系譜が記されている。
「ペリシテ人の陣営から、
ガテ出身のゴリアテという名の
卑しい身分の男が出てきた。
男の背丈は6キュビットと1スパン
(約2.9メートル)だった。
⚠️1キュビット:肘から中指の先端までの長さ。およそ43〜53センチ。
頭に青銅の兜をかぶり、鱗状の鎖かたびらを身につけていた。
青銅製の鎖かたびらの重さは5000シェケル(約57キロ)だった。
彼は立ち上がり、イスラエル軍に向かって大声で呼びかけた。
『俺はイスラエル軍に恥辱を与える。
おまえたちの中から一人を選び、
下って来て一騎討ちをさせろ』
さて、ダビデは父の羊を放牧するためにベツレヘムに来ていた。
しかし、彼は朝早く起きると、羊の群れの世話を番人に任せて、
マガラの地へ行き、戦いに出ているイスラエル軍のもとへ来た。
ゴリアテを見て、ダビデはこう尋ねた。
『あの割礼を受けていないペリシテ人は何者か?
生ける神の軍隊に挑むとは』
ダビデがつぶやいた言葉はサウル王の耳に入り、王は彼を呼び寄せた。
ダビデはサウル王に言った。
『誰の心も、彼(ゴリアテ)のことで落胆させてはならない。
あなたのしもべである僕が行き、あのペリシテ人と戦おう』
するとサウル王はダビデに言った。
『おまえはあのペリシテ人に抗うことも戦うこともできない。
おまえはまだ少年だが、あいつは若い時から戦士なのだから』
ダビデは答えた。
『僕が行って、あいつに抗う。イスラエルの恥辱を取り除く』
そこでサウル王はダビデに言った。
『行きなさい。主(神)があなたと共におられますように』
ダビデはいつも手に持っていた杖を取り、
川から滑らかな石を5個選ぶと、
投石器(スリング)を手に取り、
ペリシテ人に向かって進み出た。
ペリシテ人(ゴリアテ)はダビデを見て、軽蔑した。
ダビデは若く、血色がよく、美しい顔立ちをしていたからだ。
ペリシテ人はダビデに言った。
『おまえが杖を頼りにして俺に挑むとは、
俺は犬なのか?』
ダビデはペリシテ人に言った。
『おまえは剣と槍と盾を頼りに、僕に立ち向かう。
だが僕は、おまえが挑んだ万軍の主、
イスラエル軍の神の名を頼りに、おまえに立ち向かう。
今日、主(神)はおまえを僕の手に引き渡すだろう。
主(神)は、剣と槍で救うのではないと
全世界に知らしめるためだ。
これは主(神)の戦いであり、
主(神)はおまえたちを僕たちの手に引き渡すだろう』
ペリシテ人(ゴリアテ)が立ち上がり、
接近して、ダビデに対峙しようとしたとき、
ダビデは急いで戦いに駆けつけ、
ペリシテ人に走って立ち向かった。
ダビデは袋に手を入れて石を取り出し、
投石器に投げつけ、それを振り回して
ペリシテ人の額に当てた。
石は彼の額に突き刺さり、
彼はうつ伏せで地面に倒れた」[1535]
*
さて、戴冠式を見物している書記官は、大聖堂の彫刻を見て聖書のこれらの言葉を思い出しながら、こんなことを考えただろう。
イスラエルを救い、羊飼いの少年の投石器でゴリアテを倒した不変の神が、「最もキリスト教的な王国(フランス王国の別名)」を救済し、ヒョウの王国(イングランド)に恥辱を与えるために、いかにして農民の娘を立ち上がらせたかを。[1536]
18.12 ブルゴーニュ公の使節(1)二通目の手紙
6月27日ごろ、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)はジアンで、ブルゴーニュ公に宛てた手紙を書かせ、シャルル王の戴冠式に来るよう呼びかけていた。
返事がなかったため、ジャンヌは戴冠式の日に、公爵に宛てて2通目の手紙を口述した。その内容は次のとおりだ。
「†ジーザス・マリア
高く、大いに畏れられる君主、ブルゴーニュ公よ、
ジャンヌ・ラ・ピュセルは、
彼女の正当な主君である天の王の名において、
あなたとフランス王が末長く続く
良い和平を結ぶようあなたに求めます。
善良なキリスト教徒として、
心から完全にお互いを許し合いなさい。
もし戦争をやりたいなら、
サラセン人(イスラム教徒)に立ち向かいなさい。
ブルゴーニュ公よ、私はあなたに乞い願い、
私の力でできる限り謙虚に懇願します。
聖なるフランス王国に対して
これ以上戦争を仕掛けないでください。
あなたの兵士たちを、聖なる王国の要塞や砦から
ただちに速やかに撤退させてください。
そして、美しいフランス王の名において、
もし必要ならば、王は名誉を守りながら、
あなたと和平を結ぶ用意があります。
天の王、私の至上の主君の名において、
あなたの利益と名誉と命のために言います。
あなたは忠実なフランス人との戦いで
絶対に勝てません。
聖なるフランス王国と戦う者はすべて、
天と地の王、私の正当な主君である
ジーザス王(イエス・キリスト)と
戦うことになります。
私は手を合わせて、あなたに乞い願い、
懇願します。
あなた自身も、あなたの人々と臣民も、
私たちに戦いを仕掛けたり、
戦争を始めたりしないでください。
あなたが私たちに対して
どれだけの数の人々を差し向けようとも、
何も得られません。
私たちに立ち向かう者たちの間で流される
大いなる戦いと血は、
痛ましい哀れみとなるでしょう。
3週間前、私はあなたに手紙を書き、
使者を派遣して、国王の戴冠式に来るよう伝えました。
国王の戴冠式は、今月17日の日曜日、
今日、ランス市で行われますが、
手紙の返事はなく、使者の消息も届きません。
私はあなたを神に委ねます。
もしそれが神の意志ならば、
神があなたを守ってくださいますように。
私は神が平和を確立するよう祈ります。
上記のランス市から、上記の7月17日に記す」
宛先:「ブルゴーニュ公爵へ」[1537]
*
もし、シエナの聖カタリナがランスにいたとしても、これ以上のことは書けなかっただろう。
⚠️シエナの聖カタリナ(Santa Caterina da Siena):14世紀後半にイタリアで活動した在俗修道女。著名な文学者で教会博士。中世カトリック教会の傑出した人物の一人で、アヴィニョンからローマへの教皇帰還(アヴィニョン捕囚の終焉)の黒幕といわれている。
ジャンヌのところに来る聖カタリナこと「アレクサンドリアの聖カタリナ」とは別人なので注意。
ジャンヌはブルゴーニュ人を好まなかったが、彼女なりにブルゴーニュ公との和平がどれほど望ましいかを強く理解していた。ジャンヌは手を合わせて、フランスとの戦争をやめるよう公爵に懇願している。
「もし戦争をやりたいなら、サラセン人に立ち向かいなさい」
すでにジャンヌは、イングランドに対して「フランスと協力して十字軍に参加するように」と勧めていた。
当時、異教徒の滅亡は、平和を愛する穏やかな人たちの夢だった。多くの敬虔な民衆は、ニコポリスで打ち負かされた騎士の息子が、かつての勝利に対する代償をトルコ人に高く支払わせるだろうと信じていた。[1538]
この手紙の中で、ジャンヌは天の王の名において、フィリップ公(ブルゴーニュ公)に「シャルル王と戦えば敗北するだろう」と告げている。
ジャンヌの「声」は、フランスがブルゴーニュに勝利すると予言していた。
だが、ジャンヌがこの手紙を口述していたまさにその瞬間、フィリップ公の使節がランスに来ていることを一言も告げなかった。これは紛れもなく事実である。[1539]
18.13 ブルゴーニュ公の使節(2)二枚舌外交と王の治癒力
ブルゴーニュ公フィリップは、シャンパーニュの支配者となったシャルル王を「考慮に値する君主」とみなし、アルトワの代官(Bailie)ダヴィッド・ド・ブリムを使節団の長としてランスに派遣した。
戴冠式当日、使節はシャルル王に挨拶して敬意を表し、和平交渉を開始した。[1540]
ブルゴーニュ公の使節団は、フランス宰相と評議会から心からの歓迎を受けた。彼らが出立するまでに、和平を成立させることが期待された。
アンジュー家に属する貴族たちは、この朗報をヨランド・ダラゴンと王妃マリー・ダンジューに知らせた。[1541] だが、これは、彼らがディジョンの老獪なキツネ(ブルゴーニュ公のこと)のやり方をいかに知らなかったかを示している。
フランスはまだ十分に強くなく、イングランドも十分に弱くはなかった。
(この時は和平締結まで至らず)8月にあらためて、アラスの町にいるブルゴーニュ公に使節団を送ることで合意した。
4日間の交渉の末、15日間の休戦協定が締結され、使節団はランスを去った。[1542]
この交渉と同時期に、パリに滞在していたブルゴーニュ公は「父の暗殺者であるシャルル・ド・ヴァロワを告訴する」準備を粛々と再開し、イングランド軍を支援するために軍隊を派遣することを約束した。[1543]
⚠️補足:ようするにブルゴーニュ公は、フランスとイングランドに対して二枚舌外交を展開していた。
*
フランス王シャルル七世は、ランス大司教公爵(ルニョー・ド・シャルトル)の甥であるアントワーヌ・ド・エランド[1544]をランスの総督に任命して町の指揮を任せると、7月20日に出立し、サン・マルクール・ド・コルブニーへと向かった。
コルブニーの修道院では、フランス王が戴冠式の翌日に、病(主に瘰癧)を癒すために患者に触れる習慣があった。[1545]
聖マルクールは、瘰癧を治した。[1546]
彼は王族の血を引いていたが、この力が顕現したのは死後かなり経ってからだ。(聖王ルイがこの修道院を巡礼して聖遺物に祈ったときに治癒の力を授かり)、それ以来、聖マルクールは首に傷のある病人を治すことができると信じられていた。
それは、聖クララが盲人に視力を与え、聖フォルが子供たちに力を与えるのと同じだった。
⚠️瘰癧(るいれき):頸部のリンパ節に結核菌が侵入して結節を作り、患部が壊死していく疾患。
フランス王は、瘰癧を治す力を聖マルクールと共有していた。
その力は、鳩が天から降ろした聖油から与えられたものだったため、戴冠式で聖油を塗られた直後がもっとも効果的だと考えられていた。
なぜなら、淫らな行い、教会への不服従、その他の不品行によって、国王が力を失う危険にさらされていたからだ。それは実際にフィリップ一世に起こったことだった。[1547]
⚠️フランス王フィリップ一世(Philippe I):カペー王朝の第四代国王。二つ名「好色王」で知られる暗君。太り過ぎを理由に王妃を塔に監禁して離縁を画策し、偽の家系図で夫婦の近親婚をでっち上げた。離婚成立後も王妃を監禁し続けて死なせ、未婚既婚問わず多数の女性と再婚を企てた。教皇から正式に破門され、自他ともに認めるクズだったため、本人の望み通り、王家の霊廟サンドニ大聖堂に埋葬されなかった。
なお、フィリップ一世自身も馬に乗れないほど肥満だった。
イングランド王も、フランス王と同様に瘰癧に触れて癒した。
特にエドワード三世は、傷跡で覆われた瘰癧患者に驚くべき治癒を施した。
これらの理由から、瘡蓋は「聖マルクールの病」あるいは「国王の病」と呼ばれた。英仏国王たちと同様に、処女もこの病気を治すことができた。
**
シャルル王は、聖マルクールの聖遺物を礼拝し、供物を捧げ、そこで患者の瘰癧に手を触れて癒やした。コルブニー滞在中にラオンの町から服従を得た。
翌日の22日、王は、エーヌ川の渓谷にあるランス大司教公爵の所有地で、ヴァイイと呼ばれる小さな要塞に向かった。ヴァイイではソワソンの町の服従を得た。[1548]
当時のアルマニャック派の預言者の言葉によれば、「戦争の門の鍵は、それを作った者の手を知っていた」という。[1549]
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