見出し画像

教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|上巻・第十九章 伝説の誕生(旧翻訳版・未収録)

【創作大賞2026参加中】期間限定で全体公開にします。

アナトール・フランス著『ジャンヌ・ダルクの生涯(Vie de Jeanne d'Arc)』全文翻訳を目指しています。完訳達成。原著は1908年発行。

1920年:ジャンヌ・ダルク列聖
1921年:A・フランス、ノーベル文学賞受賞
1922年:ローマ教皇庁の禁書目録に登録

現在、禁書制度は廃止されてますが、教皇庁は「カトリック教義を脅かす恐れがある禁書だった本を推奨することはできない」という立場を表明しています。

▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか

⚠️下記プラットフォームで公開中。
- note:各章をマガジンにまとめて投稿。一部有料。
- カクヨム:各話を分割して投稿。少しずつ読みたい人向け。
- pixivFANBOX:原文付き対訳バージョン。支援者限定。


⚠️字数が多い(12,000字)ため、訳者の裁量で小見出しをつけています。

19.1 英雄譚の森の中へ(1)おとぎ話と現実

 戦争で何が起きているかを見極めるのはいつも困難だ。
 当時は、物事がどのようにして起こったのかを明確に理解することはまったく不可能だった。

 オルレアン包囲戦では、行政官たちが集めた数々の巧妙な戦争兵器が相当役に立った。現場には、そのことを認識できる鋭い人もいたに違いない。

 しかし、人間は一般的に、結果を奇跡的な原因にしたがるものだ。
 オルレアンの人々は、自分たちの解放の功績を、当初は町の守護聖人である聖エニャンと聖ユヴェルトに、そして次に、神の乙女ジャンヌに帰属させた。彼らが目撃した出来事に対して、これほど簡単で、単純で、自然な説明はないと信じていたのである。[1550]

 オルレアンの元・行政官(町役人)で、シャトレの公証人だったギヨーム・ジロー(第十二章で登場)は、包囲戦の解放に関する短い記録をみずから書き、署名した。

 その中で彼は、昇天祭前日の水曜日、サン・ルーの要塞がまるで奇跡のように襲撃され占領されたと記している。

「神から遣わされたジャンヌ・ラ・ピュセルがそこに現れて、戦いを助けた」

 そして、翌土曜日には、(ロワール川にかかる)大橋の端にあるレ・トゥーレル要塞にて、受難以来もっとも明白な奇跡によってイングランド軍の包囲が解かれたと述べている。
 さらに、ギヨーム・ジローは、ジャンヌ・ラ・ピュセルがこの作戦を指揮したと証言している。[1551]

 包囲戦の目撃者であり、現場にいた当事者自身が、出来事の概要を明確に理解してなかったとしたら、現場から遠く離れた人々はなおさら、出来事についてまともに考えることが可能だろうか?

 フランス軍の勝利の知らせは、驚くほどの速さで広まった。[1552]
 信頼できる正確な記録は簡潔だ。しかし、おしゃべりな聖職者・書記官の雄弁さと、民衆の想像力によって「包囲戦の物語」はたっぷり補完された。

 ロワール遠征(オルレアン包囲戦後の残党討伐)と戴冠式に向かうシャンパーニュ遠征は、当初はほとんど知られておらず、おとぎ話のような伝聞だけが一人歩きして広まった。
 そういう眉唾な話を、人々はごく単純に超自然的な出来事として受け止めていた。

 王室秘書官が、王国各地の都市やキリスト教各国の君主たちに送った手紙の中で、ジャンヌ・ラ・ピュセルの名は、あらゆる勇敢な行為と結び付けられていた。
 ジャンヌ自身も、彼女に仕える修道士の書記官を通じて、自分が成し遂げたと固く信じている偉業を口述筆記させて全世界に知らせた。[1553]

 実際には、王の顧問や隊長たちがジャンヌに助言を求めたことはほとんどなく、聞いたとしてもごくわずかで、都合のよいときだけ彼女を呼び出した。ところが、事実に反して「すべてがジャンヌを通して行われ、王はすべてのことをジャンヌに相談した」と信じられていた。

 すべての功績が、ジャンヌのみに帰属されたのだ。

 ジャンヌの人柄・実像(personnalité)は「奇跡に見える行為」と結びつき、膨大な「奇跡の寓話のサイクル」の中に埋没して、英雄譚の森の中へと消えていった。[1554]

⚠️人柄・実像(personality):文脈的に、単なる性格・人格ではなく、伝説によって塗りつぶされる前の「一人の生身の人間としての実像」を指している。

⚠️さらに補足:英訳版序文で、著者は「私は、乙女(ラ・ピュセル)を命ある人間としてよみがえらせた。それが私の罪である」と述べている。
つまり本書は、聖人化される過程で剥ぎ取られたジャンヌの人間らしい魅力を取り戻すことを目的に書かれたことに留意したい。


19.2 英雄譚の森の中へ(2)黒幕の計画

 当時、悔悛の念にかられた人々がいた。彼らは、王国のあらゆる災難を民衆の罪のせいだと考え、謙虚さ、悔い改め、償い(懺悔)に救いを求めていた。[1555]

 彼らは悪の終焉と、地上における神の王国を期待していた。

 ジャンヌは、少なくとも当初は、そのような信心深い人たちの一人だった。
 ときどき、神秘主義の改革者らしく、「イエスこそが聖なるフランス王国の王であり、シャルル王は彼の代理人にすぎず、王国を『(神の)封建領地』として保持しているだけだ」と語っていた。[1556]

 ジャンヌは他にも、自分の使命はすべて慈善と平和と愛であるという印象を与える言葉を口にした。たとえば、「私は貧しい人や困窮している人を慰めるために遣わされた」といった発言だ。[1557]

 純粋で誠実で善良な世界を夢見た、心優しい悔悛者(懺悔者)たちは、ジャンヌを自分たちの聖人・預言者とみなした。彼らは、ジャンヌ自身が一度も口にしたことのない啓発的(教訓的)な言葉を、ジャンヌのものにした。

「乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)が王のもとに来たとき」

 彼らは言った。

「彼女は王に3つの約束をさせた。1つ目は、王国を放棄して、それを神に返すこと。2つ目は、彼に背き、彼を苦しめたすべての人を赦すこと。3つ目は、貧乏人も金持ちも、友も敵も、すべての者を好意的に受け入れるほどに自らを卑下すること」[1558]

 あるいは、以下のような単純で魅力的な寓話の中で、ジャンヌが使命を果たす様子を、繰り返し表現した。

「ある日、乙女は王に贈り物を授けてほしいと頼んだ。
 王が同意すると、乙女はフランス王国を要求した。
 王は驚いたが、約束を撤回しなかった。

 乙女は贈り物を受け取ると、
 王の公証人4人に贈与証書を粛々と作成させ、
 声に出して読み上げさせた。

 王が読み上げを聞いている間、
 乙女はそばに立っている人々に
 王を指してこう言った。

『見てごらん、王国で最もみじめな騎士だよ』

 それからしばらくして、
 乙女はフランス王国を放棄し、
 それを神に返した。

 その後、乙女は神の名において、
 シャルル王にそれ(王国)を授け、
 この厳粛な譲渡行為を
 文書に記録するよう命じた」[1559]

 ジャンヌは、「1429年の洗礼者ヨハネの日(6月24日)に、フランスにはイングランド人は一人も残っていない」と予言したと信じられていた。[1560]

 これらの単純な人々は、聖人(ジャンヌ)の約束が、彼女が定めた日に実現すると期待していた。

 彼らは、「6月23日にジャンヌがルーアン市(ノルマンディーの首府)に入り、翌日の洗礼者ヨハネの日に、パリの住民は自発的にフランス王に門をひらいた」と言い張った。

 実際、7月には、(事実と異なるにもかかわらず)これらの物語がアヴィニョンでまことしやかに語られていた。[1561]

 フランスおよびキリスト教世界全体に多数いたと思われる宗教改革者たちは、乙女がイングランド人とフランス人を修道院の方式で組織し、彼らをひとつの信心深い乞食(pious beggars)の国民、悔悛者の兄弟団にするだろうと信じていた。

⚠️信心深い(pious):立振舞いに表れた信心のこと。善人ぶった「偽善」の意を含む。なお、 devoutは心からの信仰をいい、外に表れるとは限らない。

 彼らによると、以下が両当事者の意図であり、条約の条項であった。

「国王シャルル・ド・ヴァロワは、
 普遍的な恩赦を与え、
 すべての過ちを忘れる用意がある。

 イングランドとフランスは、
 悔悟と悔い改めに立ち返り、
 善良で拘束力のある和平を
 締結しようと努めている。

 乙女自身が、彼らに条件を課した。

 乙女の意志に従い、
 イングランド人とフランス人は
 1年間または2年間、
 小さな十字架を縫い付けた
 灰色の修道服を着用すること。
 毎週金曜日は、パンと水だけで暮らすこと。
 妻と一体となって暮らし、他の女性を求めないこと。
 自国を防衛する以外の目的で戦争をしないことを神に誓う」[1562]

⚠️補足:ジャンヌを教唆している黒幕はおそらく、のちの宗教改革者につながる修道士たちで、彼らはジャンヌを通じてシャルル七世に上記の宣言をさせたかったらしい。
19.2前半部分の寓話と合わせて考えると、まずは国王に土地財産を放棄させて、みずからを卑下させて《《謙虚な身分》》におとしめ、最終的には英仏の国民全員を「信心深い乞食」に……よく言えば清貧な托鉢修道士にする計画だったと。どう考えてもカルトじゃないか!


19.3 英雄譚の森の中へ(3)典型的な騎士道物語

 戴冠式へ向かう遠征中、王の家臣とオセールの人々の間で休戦協定を結んだ。
 この合意を知らなかった人たちは、7月末ごろに、町は嵐のように強襲されて占領され、市民4500人が殺され、同様にブルゴーニュとサヴォワに属する1500人の兵士、騎士、従騎士が殺害されたと伝えられた。

⚠️唐突に登場したサヴォワ(Savoy)について:サヴォワ公アメデ八世は、シャルル七世とブルゴーニュ公の和解のために最初期から尽力していた重要人物で、二つ名「温和公」と呼ばれた。ジャンヌと接点がないせいか、日本語圏の百年戦争ものではスルーされがち。

 殺された貴族の中には、ヴァランボンの領主アンベール・マレシャルや、非常に有名な戦士ヴィオ・ド・バルの名が挙げられた。

 乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)とハートのジャックで有名な悪党(ラ・イル)が結びつけられ、裏切りや虐殺、恐ろしい冒険の物語が、まるで事実のように語られた。
 ジャンヌは「裏切り者12人の首を刎ねた」とまで伝わっている。[1563]

⚠️ハートのジャック(knave of hearts):現在はトランプのハートのジャックだが、元の意味は「ハートの従者/悪漢」。ラ・イルをモデルにしたと言われる。
なお、ハートのキングはシャルルマーニュ、ハートのクイーンは聖ユディトまたはヘンリー六世の王妃マーガレット・オブ・アンジュー(シャルル七世の姪)だとか。

 このような物語は、まさしく典型的な(架空の)騎士道物語だった。
 そのうちの1つを次に挙げる。

「イングランド兵2000人が王の陣地を取り囲み、
 王に危害を加える機会をうかがっていた。
 そこで、乙女はラ・イル隊長を呼びつけて言った。

『おまえはこれまで偉大な武勇を立ててきたが、
 今日、神はおまえのためにこれまで以上の
 偉業を用意しておられるぞ。部下を連れて、
 ここから2リーグ離れた木立へ行ってこい。
 そこでイングランド兵2000人が槍を手にして
 待ち構えているから、つかまえて殺せ』

 ラ・イルはイングランド兵のところへ向かい、
 乙女が言った通り、全員を捕らえて殺害した」[1564]

 ジャンヌについて語られたおとぎ話の数々は、単純で原始的な庶民たちの娯楽だった。彼らは、乙女が巨人を薙ぎ倒したり山を動かすといったアイデアを好んだ。

 オセールを略奪した物語の後には、「ブルゴーニュ公が大規模な戦いで敗北して捕らえられ、摂政(ベッドフォード公)は死亡し、アルマニャック派がパリに入城した」という続編が語られた。[1565]

 トロワ降伏の際には、驚異的な出来事があったと伝わっている。

 フランス軍が町に到着したとき、トロワの住民は城壁から、それぞれが手に白い長旗(ペノン旗)を持った兵士5000〜6000人の大群を目撃したという。

 フランス軍が町を出発するときに、彼らはまた奇跡を目撃した。
 シャルル王のすぐ後ろ、弓矢の一射程ほど離れたところに、またもや白いペノン旗を持った騎士の大群が一列に整列して現れ、王が去るとこれらの騎士たちも姿を消したという。

 その騎士たちは、少し前にブルターニュ軍が目撃したという、空を騎行する白いスカーフの騎士たちと同じくらい奇跡的だった。[1566]

19.4 英雄譚の森の中へ(4)伝説の肥大化

 オルレアンの包囲が突如解かれたときに、住民が目撃したもの。
 アルマニャック派の托鉢修道士や、シャルル王の書記官たちが語ったこと。
 人々はそれらすべてを貪欲に受け入れ、信憑性があると信じ、ジャンヌの話をさらに大きく膨らませた(拡大・拡散された)。

 シノンに来てから3カ月後には伝説となっていた。
 乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)の伝説はすぐに肥大化して増殖し、イタリア、フランドル、ドイツにまで広がった。[1567]

 1429年の夏には、この伝説はすでに出来上がっていた。

 ジャンヌの幼少期の《《福音書》》とでも言うべきもの、人生のすべての部分(幼少期間に空白がないほど大量のエピソード)の断片が、あちこちに散在し存在していた。

 7歳のとき、ジャンヌは父が飼っている羊の番をしていたが、オオカミが彼女の羊の群れを襲うことはなかった。
 ジャンヌが呼ぶと野原の鳥たちがやって来て、膝の上でパンをついばんだ。
 邪悪な人間は、ジャンヌの前では無力化されて何の力も持たなかった。
 ジャンヌと同じ屋根の下にいる者は、詐欺や悪意を恐れる必要がなかった。[1568]

⚠️福音書(Gospel):新約聖書に収められている、イエス・キリストの言行録。

 ラテン系の詩人がつづった作品の場合、ジャンヌの誕生にまつわる奇跡は、ローマ風の威厳を帯びて、古代の神話らしい堂々たる雰囲気をまとっている。
 1429年当時の人文主義者が、ザビレ・ロメの娘(ジャンヌ)のゆりかごにイタリアのミューズを呼び寄せているのは、なかなかに興味深い。

「雷鳴が轟き、大海は身震いし、
 大地は揺れ、天空は燃え上がり、
 全世界が目に見えて歓喜した。

 奇妙な恍惚と畏怖が混ざり合い、
 陶酔した人々の心を感動させた。

 この天上人(ジャンヌ)の誕生によって、
 フランス人のために用意された
 救済のしるしを目撃した人々は
 甘美な詩を歌い、調和のとれた身振りで踊った」[1569]

**

 さらに、イエス・キリストの降誕を告げた奇跡が、ジャンヌが誕生した際に繰り返されたことを描写する試みがなされた。

 ジャンヌは、公現祭の夜に生まれたと想像された(印象付けられた)。

 村の羊飼いたちは、原因はわからないが、言葉では言い表せない喜びに駆り立てられ、暗闇の中を駆け抜けて、驚くべき神秘に向かって急いだ。
 雄鶏たちはこの新たな喜びを告げる使者となり、異常な時期に鳴き、翼をばたつかせて、2時間も前から(ジャンヌ誕生を)予言していた。

 かくして、ゆりかごの中の子供(ジャンヌ)は羊飼いたちから礼拝を受けた。[1570]

⚠️公現祭(Epiphany):異邦人である東方の三博士によって幼子イエスが見いだされた=公に現れたことを記念し,救いがユダヤ人の外に広がったことを祝う祝日。宗派によって異なるが、一般的にクリスマス(12月25日)から数えて12日目の1月6日とされる。

19.5 歪曲されたシャルル七世とジャンヌ

 ジャンヌがフランスに来たときの話は、多く物語られた。
 シノン城で、ジャンヌはそれまで一度も会ったことのない王を見抜いた。王は質素な身なりで貴族たちに囲まれていたにもかかわらず、まっすぐに王のもとへ向かったと伝えられている。[1571]

 ジャンヌは王にしるしを与え、秘密を打ち明けたと言われている。
 その秘密は王だけが知っているもので、それが明かされると、王は天にも昇るような喜びに包まれたという。

 このシノンでの謁見について、実際に居合わせた人はほとんど何も語っていない。だが、そこにいなかった多くの人が話す物語は果てしなく、終わることがなかった。[1572]

 5月7日の午後4時、白い鳩が乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)の旗に舞い降りた。同じ日の攻撃中にも、2羽の白い鳥が乙女の頭上を飛んでいるのが目撃された。[1573]

 一般的に、聖人には鳩がよく訪れる。ある日、シエナの聖カタリナが布地屋(染物屋)でひざまずいていたとき、雪のように白い鳩が子供の頭に止まった。[1574]

 当時から流布していたある物語は、シャルル王とジャンヌの関係について広まっていた考えを示すものとして興味深い。

 それはまた、実際に起きた出来事に関する物語が、人から人へと伝わるにつれて、いかに歪曲されていくかを示す一例としても役立つ。

 以下は、ドイツの商人が収集した物語である。

「ある日、ある町で、ジャンヌは
 イングランド軍が近くにいると聞いて
 野原へ戦いに出かけた。

 町にいた兵士たち全員が馬に飛び乗り、
 すぐにジャンヌの後を追いかけた。

 一方、夕食中だった王は、
 兵士たちがジャンヌとともに
 出かけようとしていると知り、
 町の門を閉ざした。

 ジャンヌはその知らせを聞いても
 気にも留めず、平然としてこう答えた。

『午後の祈りの時間(午後3時)の前に、
 王は、私を非常に必要とするでしょう。
 拍車もつけず、外套を羽織る間もなく、
 すぐに追いかけて来るでしょう』

 そして、その通りになった。

 町に閉じ込められた兵士たちは、
 すぐに門を開けるよう国王に懇願し、
 さもなければ門を破壊すると脅した。

 門は開かれ、兵士たちは全員、
 王を見もしないで、ジャンヌのもとに急いだ。
 王はそれを見ると、あわてて外套を羽織り、
 彼らの後を追いかけた。

 その日は、大勢のイングランド兵が殺された」[1575]

 これは、5月6日にオルレアンで実際に起こった出来事を、非常に不正確に描写した物語だ。

 市民たちはブルゴーニュ門に押し寄せ、ロワール川を渡ってレ・トゥーレルを攻撃しようと決意した。
 門が閉まっているのを見て、市民は激昂し、門を守っていたゴークール卿に襲い掛かった。その様子を見て、老将は門を大きく開けると、市民に向かって「来なさい。私があなたたちの隊長になろう」と言った。[1576]

⚠️詳細は、第十三章「13.1 フランス軍の兵士とオルレアンの民兵」参照。

 この不正確な物語は、市民が兵士に置き換えられ、悪意を持って門を閉ざしたのはゴークール卿ではなく国王になっている。そんなことをしても、国王は何も得るものがないにもかかわらずだ。

 そして、イングランド軍を追い払うためにジャンヌを助けるどころか、国王は彼女の邪魔をし、結末ではいつも彼女の後を追いかける。
 このお決まりのプロットが、これほど早い時期から、人々の心に植え付けられていたとは驚くべきことである。

19.6 奇跡の力(1)ジャンヌは毎日予言した

 嵐の空の雲よりもさらに不明瞭な、この混沌とした物語群を一堂に集めて見ると、ジャンヌ・ラ・ピュセルは驚くべき奇跡そのものだ。

 彼女は予言し、その多くはすでに実現していた。
 彼女はオルレアンの解放を予言し、オルレアンは解放された。
 彼女は自分が負傷することを予言し、矢が右胸の上を貫いた。
 彼女は王をランスに連れて行くと予言し、王はその町で戴冠した。

 ジャンヌは、フランス王国について他にも予言していた。
 オルレアン公の救出、パリへの入城、聖なるフランス王国からイングランド人を追放するなどだ。そして、それらの実現が期待されていた。[1577]

 ジャンヌは毎日予言を口にしていた。
 とりわけ、彼女に対して敬意を払わない人に「悲惨な最期を迎える」と予言した。[1578]

 シノンで、ジャンヌが王のところへ連れて行かれる途中、城の近くで馬を乗り回していたある兵士が、彼女に見覚えがあると思って声をかけた。

「あれは乙女(ラ・ピュセル)ではないか? 神に誓っていうが、もし俺の思い通りなら、彼女はそれほど長い間、乙女のままでいられないだろう」

 それを聞いて、ジャンヌは予言を告げた。

「ハッ、あなたは神の名をみだりに唱えた。死がすぐそこまで迫っている!」

 1時間も経たないうちに、その男は水に落ちて溺死した。[1579]

 この奇跡は、すぐにラテン語の詩になって物語られた。
 オルレアン解放までのジャンヌの奇跡的な経歴を記録したこの詩の中で、すべての冒涜者と同様に悲惨な最期を迎えたこの淫らな冒涜者(ジャンヌに死を予告された男)は、フルティヴォラスという名の貴族だと記されている。[1580]

「……高貴な血筋の生まれで、
 その名はフルティヴォラス、
 この地の不当な愛欲に支配されし者」

 (この物語の原型と思われる実際の出来事では)イングランド軍のグラスデール隊長がジャンヌを「娼婦」と呼び、創造主を冒涜した。ジャンヌは、彼が血を流すことなく死ぬだろうと予言し、グラスデールはロワール川で溺死するに至った。[1581]

 これらの物語の多くは、当時広く読まれていた聖人伝のエピソードを明らかに模倣している。
 例えば、ある異端者の女が、聖アンブロジウスの法衣を引っ張ったところ、聖なる司教は「いつの日か神に罰せられないように気をつけなさい」と言った。翌日、その女は亡くなり、聖アンブロジウスは彼女を墓へ導いた。[1582]

 また、当時はまだ生きており、聖なる香りを漂わせながら死を迎えることになる修道女コレット・ド・コルビーは、彼女にとっての「フルティヴォラス」に出会って彼を罰したが、ジャンヌほど厳しい制裁ではなかった。

 ある日、コレットがコルビー修道院で祈っていると、見知らぬ男が近づいてきて淫らな言葉を投げかけた。

「神がお望みなら、あなたが今しがた口にした言葉の醜さを、あなたに思い知らせてくださいますように」と彼女は言った。

 その男は、恥ずかしさを感じてドアに向かった。
 しかし、見えない手が敷居のところで男を捕まえた。
 そのとき、男は自分の罪の重さに気づいて、聖女に赦しを請うと、ようやく自由の身になり教会から出ることができた。[1583]

⚠️コレット・ド・コルビー(Colette de Corbie):シャルル七世やブルゴーニュ公と面識があり、宗教的・政治的な対立を超えて支持された著名な修道女で聖人。1381年生まれで1447年没。

19.7 奇跡の力(2)実現しなかった予言

 国王軍がジアンから(ランスに向かって)出発した後、ジャンヌは「オセールとランスの間で大きな戦いが起こる」と予言したと言われている。[1584]

 このような、実現しなかった予言は、なかったことにされて忘れられた。

 また、本物の預言者もしばしば予言を間違える、そういうこともあると認められていた。

 ある狡猾な神学者は、予言を区別して、必ず実現する「運命の予言」と条件次第で実現しない「断罪の予言」があると言い、(予言が外れたからと言って)それを口にした者の誠実さを損なうものではないと主張した。[1585]

 人々は、農民の子供(ジャンヌ)が未来を予言できることに驚き、ジャンヌの使徒(伝道者)とともにこう叫んだ。

「父なる神よ、あなたを讃えます。
 なぜなら、あなたはこれらのこと(未来の予言)を、
 賢者や思慮深い者(知恵ある者)から隠し、
 幼子たちに明らかにしたからです」

 乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)の予言は、キリスト教世界のすみずみまで急速に広まった。[1586]

 (ドイツの)シュパイアーのある書記官は、ジャンヌに関する論文『フランスの女預言者(Sibylla Francica)』を執筆した。この論文は二部作で、前半は1429年7月以前に書き上げ、後半は同年9月17日付けと記されている。

 この書記官は、ジャンヌが占星術を用いて占いをしていたと考えている。
 プレモントレ修道会のフランス人修道士[1587]が、「ジャンヌは夜に天空を見上げて(研究して)楽しんでいる」と語っていたのを聞いたからだ。

 彼は、ジャンヌの予言はすべてフランス王国に関するものだったと指摘し、乙女が語った予言として次の言葉を引用している。

「20年間統治した後、
 王太子(シャルル七世)は
 父祖たちと共に眠りにつく。
 その後は現在6歳の長男(ルイ11世)が、
 シャルルマーニュ以降の
 どのフランス王よりも
 より輝かしく、より名誉に満ち、
 より強力に統治するだろう」[1588]

**

 ジャンヌは、遠く離れた場所で起きている出来事を観察する才能(透視能力)を持っていた。ヴォークルールでは、ニシンの戦いがあったまさにその日、ジャンヌは王太子の軍隊が深刻な損害を受けたことを知っていた。[1589]

 (ある物語では)ある日、王のそばに座って食事をしていたとき、ジャンヌは静かに笑い始めた。王はそれに気づいて問いかけた。

「私の愛しい人よ、なぜそんなに楽しそうに笑っているのか?」

 ジャンヌは食事が終わったら教えると答えた。
 そして、水差しが運ばれてくると、彼女は口をひらいた。

「陛下、今日、あなたに危害を加えるために、あなたの国へ渡ろうとしていたイングランド人500人が海で溺死しました。だから私は笑ったのです。3日後にはそれが真実だとわかるでしょう」

 そして、その通りになった。[1590]

 また別の日、王のいる城から数マイル離れた町にいたとき、ジャンヌが寝る前に祈っていると、王の敵の何人かが夕食に毒を盛ろうとしていることが、彼女に啓示された。
 ジャンヌはすぐに兄弟たちを呼び、王のもとへ派遣して、自分が到着するまで食事を摂らないようにと伝えさせた。

 ジャンヌが王の前に現れたとき、王は11人に囲まれて食卓についていた。

「陛下、料理を持ってきてください」と彼女は言った。

 ジャンヌはそれを犬に与え、犬はそれを食べるとたちまち死んでしまった。それから、王の近くにいた騎士1人と客人2人を指し示して言った。

「あなたを毒殺しようとしたのはあの人たちです」

 騎士はすぐにそれが真実だと白状し、その罪に見合う罰を受けた。[1591]

 この他にも、ジャンヌは、ある司祭がひそかに妾(内縁の妻)を囲っていることに気づいた。[1592]
 ある日、野営地で男装した女に出会ったとき、その女が妊娠していること、すでに子供を1人産んでおり、その子を始末したことを啓示によって明らかにした。[1593]

19.8 奇跡の力(3)透視能力

 ジャンヌは隠されたものを発見する力を持っていると言われていた。
 トゥールにいた頃に、ジャンヌ自身もそれは事実だと主張していた。

 サン・カトリーヌ(聖カタリナ)・ド・フィエルボワの礼拝堂の地面に剣が埋まっていることが啓示され、それはジャンヌが帯びていた剣だった。
 ある人は、それはシャルル・マルテルがサラセン人を倒した剣だと考えた。
 また別の人は、アレクサンダー大王の剣ではないかと推測した。[1594]

 同様に、ジャンヌは戴冠式の前に、誰の目にも隠されていた貴重な王冠のありかを知っていたと言われていた。それに関する物語は次のとおりだ。

「ある司教が、聖王ルイの王冠を所持していた。
 所有者がどの司教かは誰も知らなかったが、
 乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)はその人に使者を派遣し、
 手紙で王冠を譲るよう求めたことが知られていた。

 司教は『乙女は夢でも見たのだろう』と答えた。

 乙女は二度目に、神聖な宝を譲るよう求め、
 司教は同じ返事をした。

 そこで乙女は、彼の司教区の市民に手紙を書き、
 王冠を王に譲らなければ、
 神が町を罰するだろうと伝えた。

 すると、すぐに激しい雹の嵐が到来し、
 人々は皆驚いた。

 魔法使いはよく雹の嵐を起こすが、
 今回は、エジプトを十の災いで苦しめた
 神が送った災厄だった。

 その後、乙女は市民に三度目の手紙を送り、
 司教が隠している王冠の形状と様式を書き連ね、
 王冠を手放さなければ、
 さらに悪いことが起こると警告した。

 司教は、王冠のみごとな黄金の飾り輪について
 知っているのは自分だけだと信じていたので、
 手紙に記されていることに驚いた。

 司教は自分の不道徳を悔い改め、
 大いに涙を流し、その王冠を
 王と乙女のもとに送るよう命じた」[1595]

 この物語の起源を見つけるのは難しくない。

 歴代フランス王が戴冠式で身につけたシャルルマーニュの王冠は、イル・ド・フランスのサン=ドニにあり、イングランド人の手に渡っていた。

 ジャンヌは「天使が運んできた貴重な王冠をシノンで王太子に贈った」と誇らしげに語り、彼女の言葉によれば「この王冠は戴冠式のためにランスに送られたが、間に合わなかった」と主張した。[1596]

 司教が王冠を隠したというアイデアは、おそらくランス大司教ルニョー・ド・シャルトル卿のよく知られた《《強欲さ》》から生まれたのだろう、彼は、聖堂参事会のために用意され、王が式典後に主祭壇に置いた銀の壺を横取りし、自分のものにした。[1597]

 この他にも、ランスで紛失した手袋のことや、ジャンヌが見つけたカップなど、同じような物語があった。[1598]

 乙女ことジャンヌ・ラ・ピュセルは、戦士であると同時に、平和を愛する人で、ベギン会修道女、預言者、魔術師、神の天使、人食い鬼女でもあった。
 あらゆる人が、それぞれの流儀に従って彼女を観察し、それぞれの印象をもとに彼女を作り上げている。

⚠️ベギン会(béguine):中世ヨーロッパで生まれた半聖半俗の姉妹団体。修道会とは異なり、正確にいえば修道女ではない。望まぬ妊娠をした人や行き場のない独身女性など、ある意味、教会が取りこぼした弱者の駆け込み寺のような互助組織・共同体。フランス革命を契機に衰退したが、かつてフランス王国だったオランダやベルギーに残っている。

 信心深い人は、ジャンヌに無敵の魅力/魔力や神の慈悲の賜物をみいだす。
 素朴で純粋な人は、ジャンヌを素朴で純粋な少女にする。
 粗野で乱暴な人は、ジャンヌを巨大で滑稽で恐ろしい存在として描き出す。

 私たちは、ジャンヌ・ラ・ピュセルの本当の顔、本当の姿を見つけることができるだろうか?

 見よ、彼女は最初から、そしておそらく永遠に、伝説の花咲く茂みの中に閉じ込められているのだ!

 上巻・完結。


いいなと思ったら応援しよう!

しんの(C.Clarté) 最後までお読みいただきありがとうございます。「価値がある」「応援したい」「育てたい」と感じた場合はサポート(チップ)をお願いします。