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教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|上巻・第十一章 ブロワのラ・ピュセル/イングランド宛の手紙/オルレアンへ

【創作大賞2026参加中】期間限定で全体公開にします。

アナトール・フランス著『ジャンヌ・ダルクの生涯(Vie de Jeanne d'Arc)』全文翻訳を目指しています。完訳達成。原著は1908年発行。

1920年:ジャンヌ・ダルク列聖
1921年:A・フランス、ノーベル文学賞受賞
1922年:ローマ教皇庁の禁書目録に登録

現在、禁書制度は廃止されてますが、教皇庁は「カトリック教義を脅かす恐れがある禁書だった本を推奨することはできない」という立場を表明しています。

▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか

⚠️下記プラットフォームで公開中。
- note:各章をマガジンにまとめて投稿。一部有料。
- カクヨム:各話を分割して投稿。少しずつ読みたい人向け。
- pixivFANBOX:原文付き対訳バージョン。支援者限定。


⚠️字数が多い(10,000文字)ため、訳者の裁量で小見出しをつけています。

11.1 ブロワに集結

 乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)は傭兵に護衛されながら、フランス宰相ルニョー・ド・シャルトル卿とオルレアン総督ゴークール卿(ラウール・ド・ゴークール)と同時にブロワに到着した。[874]

 ジャンヌは、解放を切望しているオルレアン公の領地まで来た。

 ブロワの人々は、イングランド軍の捕虜となっているオルレアン公に忠誠を誓っていた。商人たちは、ブロワの町に牛、雄羊、雌羊、豚の群れ、穀物、火薬、武器を運び込んでいた。[875]

 オルレアンからは、キュラン提督とアンブロワーズ・ド・ロレ卿が、輸送隊の準備を指揮するために来ていた。

 シチリア女王(ヨランド・ダラゴン)自身もブロワに赴いていた。

 国王は当時、彼女に相談することはほとんどなかったが、アランソン公爵を派遣して、オルレアン市の救援策について彼女の意見を反映するよう命じた。[876]

⚠️シチリア女王ヨランド・ダラゴン:シャルル七世の義母(王妃マリー・ダンジューの母、アンジュー公夫人)だが、婚約を契機にシャルル七世は10歳からアンジュー家で養育されていたため、実質「養母」といって差し支えない。
ちなみに、複数の称号を持っている王侯貴族は高位の称号で呼ぶのが慣例なので、文献ではフランス貴族でありながら「シチリア女王」と呼ばれている。

 また、ラヴァル家出身でブルターニュ公爵家の血筋を引いており、気前がよく堂々とした24歳の青年貴族ジル・ド・レ卿もやって来た。メーヌとアンジューからの立派な一行とともに、礼拝堂のオルガン、聖歌隊、聖歌隊で学ぶ少年たちを連れて来た。[877]

 さらに、オルレアンからブサック元帥、ラ・イル隊長とザントライユ隊長もやって来た。[878]

 ブロワの町の城壁のもとに、7000人の軍隊が集結した。[879]

 今や待たれているのは、食料の費用と兵士の賃金を支払うために必要な金銭だけだった。

 隊長と兵士たちは、「信用貸し」で奉仕することはなかった。
 商人たちも、食料と命を危険にさらすリスクを冒して働くのは、稼げるチャンスがあるときに限られた。[880] カネがなければ、家畜も荷馬車もその場から動かなかった。

11.2 イングランド宛の手紙(1)ジャンヌの声明文

 3月、ジャンヌはポワティエの神学者の一人に、イングランドに対する短い声明文を口述筆記させた。[881]

 ジャンヌはそれを手紙にまとめて、何人かの仲間に見せた後、ブロワから使者を派遣して、サン・ローラン・デ・オルジェリルにいるイングランド陣営に送った。

 この手紙は、イングランド王ヘンリー六世と摂政ベッドフォード公、そしてソールズベリー伯の死後に包囲戦を指揮していた3人の隊長——スケールズ、サフォーク、タルボットに宛て​​た内容だった。

 以下は、その本文である。[882]

————————————
† ジーザス・マリア †

イングランド国王、
フランス王国の摂政を自称するベッドフォード公爵、
ベッドフォード公爵の副官を自称するサフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポール、
ジョン・タルボット卿、
トマス・スケールズ卿、

天の王の御前において、正しい行いをせよ。

天の王である神によってここに遣わされた乙女に降伏せよ、
あなたがたが奪い取り、荒廃させた[884]
フランスのすべての良き町[883]の鍵を明け渡せ。

乙女は神の名において、
王家の血統を主張するためにここに来た。[885]

乙女は和平を結ぶ用意がある。[886]

もし従うならば、あなたがたが、
フランスから奪ったものをフランスに返し、
償うことで、乙女を満足させることができる。

オルレアンの街の前にいる弓兵も戦友も、
身分の高い者もそうでない者も、
神の名において、あなたがた自身の国へ立ち去れ。[887]

もし従わないならば、
乙女は驚くべき業(働き・奇跡)によって
まもなくあなたがたに襲いかかり、
大いなる災いをもたらすだろう。[888]

イングランド王よ、
もし従わないなら、私は戦争の指導者として、
フランスのどこであろうと、
私はあなたの兵士たちに出会うたびに、
彼らを無理やりにでも立ち退かせる。

もし彼らが従わないなら、
私は彼らを皆殺しにするだろう。

私は天の王である神によって、
体と体を合わせて(corps pour corps)
彼らをフランス全土から一人残らず追い払うために
ここに遣わされた。

⚠️体と体を合わせて(corps pour corps):一対一で、直接対決すること。中世の法的な文脈で決闘状の決まり文句。

もし彼らが従うなら、私は彼らに慈悲を示す。

そして、あなたがたは、
天国の王である、祝福された聖母マリアの子である神から
フランス王国を手に入れることができるなどと
心の中であろうと考えてはならない。

なぜなら、真の後継者であるシャルル王こそが
それを手に入れるからだ。

天国の王である神がそう望んでおり、
乙女を通してシャルル王にそれを明らかにした。

王は立派な軍勢とともにパリに入城するだろう。

もしあなたがたが、
神と乙女によって成し遂げられた
これらの素晴らしい業(奇跡)を信じないのであれば、
どこにいようとも、我々は戦うことになる。

もしあなたがたが、正しい行いをしないならば、
フランスにおいて千年もの間なかったほどの騒ぎが起こるだろう。

そして、思い知るがいい。
天の王は、乙女と彼女の優秀な兵士たちに、
あなたがたがどんな戦いにおいても
打ち勝つことができないほどの偉大な力を送るだろう。

そして、最後には、天の神が
誰がより正当な権利を持っているかを
明らかにするだろう。

ベッドフォード公よ、乙女はあなたが
あなた自身に破滅をもたらさないよう祈り、懇願する。

もしあなたが、正しい行いをするならば、
あなたは彼女の軍勢に加わり、
フランス人がキリスト教国のためになされた
最も公正な行いをする場所(十字軍遠征)に行けるだろう。

もしあなたがオルレアンの町で平和を望むなら、答えよ。

もし従わなければ、
それはあなたがたにとって大きな損害となり、
まもなく災いをもたらすことを覚えておけ。

聖週間の火曜日に記す。
————————————

 ジャンヌがイングランドに宛てた手紙は、このような内容だった。

 それは新しい精神で書かれた。なぜなら、イエス・キリストの王権を宣言し、この戦いが聖戦であると表明したからである。

 この手紙は、ジャンヌ自身のインスピレーション(霊感)から生まれたのか、それとも聖職者たちの話し合いを経て口述された内容なのかを見極めるのは難しい。

 一見すると、司祭が思いつきそうなアイデアだ。
 これは旧約聖書『申命記』の教えからそのまま転用した内容である。

「ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、まず、降伏を勧告しなさい。もしその町がそれを受諾し、城門を開くならば、その全住民を強制労働に服させ、あなたに仕えさせねばならない。しかし、もしも降伏せず、抗戦するならば、町を包囲しなさい。あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。ただし、女、子供、家畜、および町にあるものはすべてあなたの分捕り品として奪い取ることができる。あなたは、あなたの神、主が与えられた敵の分捕り品を自由に用いることができる」
(旧約聖書『申命記』第20章10〜14節)

 少なくとも、この機会にジャンヌが自分の気持ちを表現したことは確かだ。
 のちに、ジャンヌは次のように言っている。

「私は和平を求めたが、拒否された場合はすぐに戦う覚悟ができていた」[889]

 ジャンヌはこの手紙を口述したが、書かれた内容を読むことができなかった。
 したがって、ペンを握った書記が(ジャンヌの口述に)何か書き加えたのではないかと、疑念が浮かぶかもしれない。

⚠️訳者の覚書…というか愚痴:
今回、手紙の翻訳がしんどすぎた…。
書かれている内容を伝えるだけなら、それほど難しくはないのですよ。
のちの異端審問で、さして重要でもなさそうな部分にジャンヌがこだわりを見せたり(宗教的な概念・思想などは説明が難しいから、翻訳では省略したいのに😭)特定の言葉を「言った/言ってない」など、こまかい語彙や文脈がしつこく追求されます。
意味を伝えるだけの翻訳ではカバーしきれない!
内容に矛盾が生じる場合は、のちほど手紙の訳文を改訂する可能性があります。


11.3 イングランド宛の手紙(2)托鉢修道士の思惑

 いくつかの文言が、聖職者の手で加筆されていることを示唆している。

 後年の異端審問で、ジャンヌは「体と体を合わせて(仏:corps pour corps/英:body for body)」と口述したことを覚えていなかったが、これはまったく重要ではない。

 ジャンヌは「私は戦争の指導者だ(仏:Je sui chief de guerre/英:I am chief in war)」と口述してないと主張した。

 他にも、自分が口述したのは「王に降伏せよ(仏:Rendez au Roi/英:Surrender to the King)」であって、「乙女に降伏せよ(仏:Rendez à la Pucelle/英:Surrender to the Maid)」ではないと断言した。[890]

 ジャンヌの記憶は曖昧だったのかもしれない。
 ジャンヌに限らず、記憶というものは必ずしも正確ではない。

 それにもかかわらず、ジャンヌは自分が言ったことに非常に自信があるようで、「私は戦争の指導者だ」と「乙女に降伏せよ」という言葉は手紙に口述してないと二度繰り返した。

 ジャンヌと一緒にいた修道士たちが、(王の世俗的な権力よりもジャンヌの霊的な力を上位に置くために)これらの表現を使ったのかもしれない。

 放浪する托鉢修道士にとって、封建領主たちの土地をめぐる争いはそれほど重要ではない。したがって、シャルル七世の王位継承と財産相続は、彼らにとって最大の関心事ではなかった。

 彼らが、フランス王国の幸福・利益を望んでいたことは間違いない。
 だが、それ以上にキリスト教世界の幸福・利益を強く望んでいた。

 ジャンヌの従軍司祭となった修道士パスケレルや、修道士リシャール(後述する)などの托鉢修道士たちがジャンヌに従うのは、彼女を利用して教会の利益を図ろうとする下心があるからだ。

 だからこそ、彼ら(聖職者、特に托鉢修道士)は手紙の中で、ジャンヌを「戦争の指導者である」と宣言させた。
 さらに、「乙女に降伏せよ(略)善良な町々の鍵を明け渡せ」という文言に示されているように、王の世俗的な権力よりもジャンヌの霊的な力(spiritual power)を上位に据えるのは、彼らの思想からすればごく自然なことだろう。

 この手紙は、彼ら(聖職者)がジャンヌに抱いた希望のひとつを示している。

 彼らは、ジャンヌがフランスで使命を果たした後、ヨーロッパのキリスト教国すべての軍隊——すなわち十字軍——をジャンヌの後に背負わせて、エルサレム征服に出発することを期待していた。[891]

 ちょうどこの頃、シエナの聖ベルナルディーノの弟子で、シリアからやってきたフランシスコ会の修道士リシャールが[892]、パリで説教をしていた。
 もうすぐジャンヌに会うことになるが(第十七章で詳述)、彼は「世界の終わりが近づいている」と説き、信者たちに反キリストと戦うよう檄を飛ばしていた。[893]

 当時、ニコポリスとセメンドリアで、キリスト教徒の騎士を征服したトルコ人(オスマン帝国)がコンスタンティノープルを脅かしており、ヨーロッパ中に恐怖を広げていたことを忘れてはいけない。

 教皇、皇帝、国王たちは、異教徒に対して一致団結して戦う必要があると感じていた。

11.4 イングランド宛の手紙(3)文体の特徴と評価

 イングランドでは、聖ドニ(フランスの守護聖人)と聖ジョージ(イングランドの守護聖人)の間に、ヘンリー五世とキャサリン王妃(フランス王女カトリーヌ)の間に、半分イングランド人で半分フランス人の男児(ヘンリー六世)が生まれた。その子はエジプトに行き、大トルコ人のひげをむしり取るだろうと言われていた。[894]

 征服者ヘンリー五世は、死の床で司祭たちが悔悛の詩篇を唱えるのを聞いていた。旧約聖書・詩篇51篇「神よ、御心のままに、エルサレムの城壁を築いてください(Benigne fac Domine in bona voluntate tua ut ædificentur muri Jerusalem)」という一節を聞いたとき、彼は死にゆく息でこうつぶやいた。

「私はいつもシリアに行き、異教徒の手から聖なる都を解放したいと考えていた」[895]

 これがヘンリー五世の最期の言葉だった。

 賢者たちは、キリスト教国の君主たちに、三日月(イスラム教のシンボル)に対抗して団結するよう助言した。

 フランスでは、王太子(シャルル七世)の評議会に出席していたアンブラン大司教が、イングランド国民の飽くなき残虐さと、キリストの十字架の敵(異教徒)を喜ばせるキリスト教徒間の戦争を呪った。[896]

 イングランド人とフランス人に、共に十字架を背負って共闘するよう呼びかけることは、91年間におよぶ暴力と犯罪の末に、世俗的な戦争(英仏百年戦争)の終結を宣言することであった。

 それは、フランス王フィリップ・ド・ヴァロワと、イングランド王エドワード・プランタジネットが「異教徒に対抗するために団結する」ことを教皇に約束した時代に回帰するように促すものだった。

 しかし、ジャンヌがイングランドに宛てて「フランス人と団結して聖なる戦いに参加するように」と呼びかけたとき、ゴドン(イングランド人への蔑称)がそのような神聖な呼びかけをどう受け止めたかは想像に難くない。

 そして、オルレアン包囲戦の当時、フランス側もクーエ(イングランド人への悪態)と共に十字架を背負わなかった正当な理由があった。[897]

 学者たちは、この手紙(ジャンヌがイングランドに宛てた手紙)の文体をあまり高く評価しなかった。

 オルレアンの私生児は、「言葉遣いが甚だしく単純」だと思った。
 また、数年後には、ある優秀なフランスの法律家が、この手紙の文体について「粗野で重苦しく、文体の構成が悪い」と評した。[898]

 我々は、博識な人物として知られる彼らよりも、優れた判断を下すことはできない。

 彼らから見て、ジャンヌの口述した文体・表現方法は、法的文書の正式なスタイルと異なるせいで悪文に見えたのかもしれない。

 ブロワから送られたこの手紙は、アラン・シャルティエによって磨かれる以前のフランス語散文の貧弱さを示しているが、当時の優れた作家が使わない用語や表現は含まれていない。

 理路整然と並んだ正確な文章ではないかもしれないが、その文体は生き生きとしている。

 この手紙の書き手が、ムーズ川の岸辺から来た(ジャンヌのこと)ことを示唆するものは何もなく、ロレーヌやシャンパーニュ訛りの痕跡も見当たらない。[899] それは事務的なフランス語である。

11.5 ジャンヌの兄弟といとこが合流

 イザベル・ド・ヴートン(ジャンヌの母の本名。ロメはあだ名)がピュイ巡礼に出かけている間に、末息子のジャンとピエールはフランスへ向かい、姉妹であるジャンヌに頼るか、国王に取り入ってひと財産を築こうと目論んでいた。

⚠️ジャンヌの兄弟:5人きょうだい(兄弟3人/姉妹2人)だが、それぞれの長幼については諸説ある。現在の定説では、①ジャック、②ジャン③ピエールまたはカトリーヌ、④ジャンヌ、⑤ピエールまたはカトリーヌ。

 同様に、ジャンヌの母方のいとこにあたる修道士ニコラ・ド・ヴートン(シュミノン修道院の司祭)も若き聖女に合流した。[900]

 ジャンヌが「オルレアンでしるしを示す」約束を果たす前に、次々と親族を引き付けたという事実から、ムーズ川のほとり(ジャンヌの故郷周辺)にジャンヌの使命の保証人がいたと考えられる。また、ロレーヌの貴族や高位聖職者たちも、フランスでのジャンヌの評判を広めることに一役買ったに違いない。

 ジャンヌの使命は真実であると保証したのは、ジャンヌに教えを刷り込み、予言を吹聴して彼女を信用させた者たちで間違いない。

 おそらく、ニコラ・ド・ヴートン自身もその一人だろう。

 軍隊で、ジャンヌは「聖なる乙女」とみなされていた。
 ジャンヌに仕える従者は、次のような構成だった。

  • 従軍司祭:修道士ジャン・パスケレル[901]

  • 小姓2人:ルイ・ド・クート、レイモン[902]

  • 兄弟2人:ジャン、ピエール(ジャンヌの兄弟)

  • 伝令官2人:アンブルヴィル、ギュイエンヌ[903]

  • 従騎士2人:ジャン・ド・メス、ベルトラン・ド・プーランジ

 ジャン・ド・メスは、王室から支給された金銭で満たされた財布を管理していた。[904]

 また、ジャンヌは他にも従僕を何人か抱えていた。

 国王から執事として与えられた従騎士ジャン・ドーロンが、ブロワで合流した。[905] 彼は王国で最も清貧な(資産のない)従騎士で、金貸しのラ・トレムイユ卿に完全に依存して生計を立てていたが、誇り高く知恵ある人物としてよく知られていた。[906]

**

 ジャンヌは、フランス軍の敗北の原因について、悪い女を連れて従軍したことと、神の聖なる名をみだりに唱えるせいだと考えていた。

 この考えは、ジャンヌ固有のものではなく、学識者や宗教家の間で広く浸透していた。彼らの理屈によれば、ニコポリスの惨事は、十字軍の中に娼婦がいたことと、騎士たちの残忍さと放蕩が原因だといわれていた。[907]

⚠️ニコポリスの戦い:1396年9月25日、ヨーロッパ諸国の連合軍とオスマン帝国がドナウ河畔のニコポリスで戦った。中世最後の大規模な十字軍遠征だったが、オスマン帝国側の圧勝で終わった。

11.6 ジャンヌと軍隊の関係、オルレアンへの行軍

 1420年から1425年にかけて、シャルル七世は何度か、神、聖母マリア、聖人たちの名を呪ったり否定したり冒涜することを禁じ、場合によっては罰金と身体刑を科した。

 この禁止を盛り込んだ法令の中で、「戦争、疫病、飢饉は冒涜が原因であり、冒涜者は王国の苦しみに部分的に責任がある」と主張されていた。[908]

 それゆえ、ジャンヌは兵士たちの間を歩き回り、軍隊についてくる女性たちを追い払い、神の名をみだりに唱えるのをやめるよう説いた。
 ジャンヌは彼らに、「罪を告白して、魂に神の恵みを受け入れるように」と懇願し、「魂が正しければ神が彼らを助け、勝利を与えてくれる」と主張した。[909]

 ジャンヌは、トゥールであつらえた軍旗(standard)をサン・ソヴール教会に持って行き、司祭に祝福してもらった。[910]

 トゥールで結成されたジャンヌの小隊は、ブロワで聖職者や修道士たちと合流した。彼らは、イングランド軍の接近を受けてブロワ周辺の修道院から一斉に逃げてきた人たちで、寒さと飢えに苦しんでいた。

 このような状況はよくあることだった。
 行き場のない修道士たちは、いつも軍隊に群がった。

 多くの教会とほとんどの修道院が廃墟と化していた。
 町の外に建てられた托鉢修道士たちの施設は、イングランド軍に略奪・放火されるか、町の人々によって取り壊されて、すべて消滅していた。なぜなら、包囲攻撃の脅威にさらされると、(敵の拠点にされることを防ぐために)住民たちはいつも町の郊外をこのように処理したからである。

 居場所を失った修道士たちは、物資を惜しむ都市では歓迎されなかったため、兵士たちとともに戦場に出て軍隊に従わざるを得なかった。
 このような状況で、修道会の戒律は損なわれ、信仰心も何も得られなかった。

 軍隊に所属する傭兵、荷役人、従者たちの中で、この飢えた流浪の修道士たちは、模範的な生活を送っていた。

 ジャンヌに同行した修道士たちは、他の者たちと比べて特に悪くも良くもなかっただろう。彼らは非常に空腹だったので、まず食べることが最優先だった。[911]

 兵士たちは、修道士と修道女が軍隊の中で肩を並べて従軍しているのを見慣れていたので、「聖なる乙女」がいかがわしい集団の中にいるのを見ても、特に驚きはしなかった。

 ジャンヌは奇跡を起こすと言われていたのは事実だった。
 それを信じる者もいれば、中には嘲笑して、大声であざける者もいた。

「見よ、あれがフランス王国を救うためにやって来た勇敢な従軍司祭(chaplain)であり隊長(captain)であるぞ」[912]

 ジャンヌは、修道士たちを集めて、兵士たちに祈りを呼びかけるためのバナー旗(banner)を作らせた。白い旗で、聖母マリアと聖ヨハネの間に十字架に架けられたイエスが描かれていた。[913]

 アランソン公爵は国王のもとに戻り、ブロワにいる部隊に必要なものを知らせた。
 国王はすぐに必要な資金を送り、ついに出発の準備が整った。[914]

 出発に際し、二つのルートが検討された。
 ひとつはロワール川の右岸に沿ってオルレアンに通じる道で、もうひとつは左岸に沿っていくルートだ。

 右岸ルートは、12マイルから14マイルほど進むとラ・ボース平原の端に出る。そこはイングランド軍が占領しており、マルシュノワール、ボージョンシー、ムン、モン・ピポー、サン=シジスモン、ジャンヴィルに守備隊が駐屯していた。

 つまり、右岸ルートは、オルレアンを包囲するイングランド軍を支援するためにやってくる敵の援軍と鉢合わせする危険があった。ニシンの戦いの経験から、そのような遭遇は恐れられていた。

 左岸ルートは、シャルル七世が支配しているラ・ソローニュ地区を通ることになる。また、川から十分に離れていれば、軍隊はボージョンシーとムンに駐屯するイングランド軍の視界から見えなくなる。
 ロワール川を渡らなければならないが、包囲された都市から5マイル東の上流まで行けば、オルレアンとジャルゴーの間で簡単に渡ることができる。

 慎重に検討した結果、ラ・ソローニュを通る左岸ルートに決まった。

 敵の要塞(堡塁)近くで、荷降ろしに時間がかかりすぎることを恐れて、食料は2回に分けて運ぶことにした。[915]

 4月27日水曜日、ジャンヌを連れた輸送隊が出発した。[916]
 先頭にバナー旗を掲げた司祭たちが『聖霊降臨の賛歌(Veni creator Spiritus)』を歌いながら行進を先導した。[917]

 ジャンヌは白い鎧を身につけ、自分の軍旗(standard)を持って彼らとともに馬に乗った。兵士と弓兵が続き、食料と弾薬を積んだ荷馬車600台と家畜400頭を護衛した。[918]

 長槍、荷馬車、家畜の長い列がブロワ橋を渡り、その先の広大な平原へ向かった。
 行軍初日、軍は轍(わだち)だらけの荒れた道を8リーグ(20マイル/32キロ)進んだ。
 夕暮れの鐘の音とともに、沈む夕日がロワール川に反射して、川面が暗い葦の列の間にある銅板のように見えるころ、行進は止まり[919]、司祭たちは『大天使ガブリエル(Gabriel angelus)』を歌った。

 その夜は野原で野営した。
 ジャンヌは鎧を脱ぐのを嫌がったため、四肢に痛みを感じて目を覚ました。[920]
 ジャンヌはミサを聞き、従軍司祭から聖体拝領を受け、兵士たちに常に罪を告白するよう勧めた。[921]

 その後、軍はオルレアンに向けて行軍を再開した。

⚠️訳者の覚書:ジャンヌの旗は3種類。
(1)軍旗(standard):トゥールで作成。粗い生地の白い布、またはバックラム(接着剤で強度を高めた粗い綿織物)でできており、絹の房飾り(フリンジ)で縁取られている。
(2)バナー旗(banner):トゥールで作成。天使の挨拶を受ける聖母マリアと、大小2つの盾型紋章(エスカッシャン)が描かれている。
(3)バナー旗(banner):ブロワで作成。聖母マリアと聖ヨハネの間に十字架に架けられたイエスが描かれた白い旗。

①と②の詳細は上巻・第九章「9.6 ジャンヌの装備(4)軍旗とバナー」参照。

⚠️軍旗について(再掲):原文は「standard/banner」だが、現代語と意味が異なるので注意。伝統的なバナーとは、王侯貴族の紋章のみが描かれた正方形の個人旗のこと。その中でも「国王のバナー」をロイヤルスタンダードと呼ぶ。ただし、本文でも触れられているように、中世末期になると、傭兵やならず者の集団が結束を固めるために自前の軍旗を掲げるようになった。その場合は、バナーは個人旗、スタンダードは軍団旗を意味する。



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