教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|上巻・第十七章 オセールとの休戦協定/修道士リシャール/トロワ降伏
【創作大賞2026参加中】期間限定で全体公開にします。
アナトール・フランス著『ジャンヌ・ダルクの生涯(Vie de Jeanne d'Arc)』全文翻訳を目指しています。完訳達成。原著は1908年発行。
1920年:ジャンヌ・ダルク列聖
1921年:A・フランス、ノーベル文学賞受賞
1922年:ローマ教皇庁の禁書目録に登録
現在、禁書制度は廃止されてますが、教皇庁は「カトリック教義を脅かす恐れがある禁書だった本を推奨することはできない」という立場を表明しています。
▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか
⚠️下記プラットフォームで公開中。
- note:各章をマガジンにまとめて投稿。一部有料。
- カクヨム:各話を分割して投稿。少しずつ読みたい人向け。
- pixivFANBOX:原文付き対訳バージョン。支援者限定。
⚠️字数が多い(24,000字)ため、訳者の裁量で小見出しをつけています。
17.1 オセールの町(1)緊急事態
6月27日[1368]、ブサック元帥、ジル・ド・レ卿、ラ・イル隊長とザントライユ隊長に率いられた前衛部隊が、ジアンからモンタルジ方面に向かって出発した。
彼らの目的は、サンスに進軍することだった。
サンスは、誤った情報に基づき、王太子に門を開ける可能性が高いと思われていたからだ。
しかし、町がイングランドとブルゴーニュへの忠誠の証として「聖アンドレの旗」を掲げたという知らせを受けると、軍は進路を変えた。力ずくで町を占拠することは、彼らの望むところではなかったからだ。
⚠️聖アンドレの旗:新約聖書に登場するイエスの使徒の一人。ブルゴーニュ公フィリップ善良公は、聖アンドレを守護聖人とする金羊毛騎士団を設立し、白地に赤十字の「聖アンデレ十字」を騎士団および公国の旗として用いた。
行軍ルートは、より好意的な歓迎が期待できるオセールへと向けられた。[1369]
乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)は焦りから国王を待たずに、最初に出発した部隊とともに馬に乗った。もし、ジャンヌが軍隊の指導者だったら、町の大砲が自分に向けられたとしても、背を向けて立ち去ることはしなかっただろう。
国王は2日後、血統貴族と多くの騎士で構成されたいわゆる「本隊」と呼ばれる主力部隊、そして遠征軍を指揮するラ・トレモイユ卿とともに出発した。[1370]
7月1日、全軍がオセールの町に到着した。[1371]
ぶどう畑と麦畑に囲まれた丘の中腹に、サンジェルマン司教の祝福された町の城壁、塔、屋根、鐘楼がそびえていた。
夏の日差しの中、勇敢な騎士団の仲間とともに、ジャンヌは美しい聖モーリスのように完全武装して馬を走らせていた。
今しがた向かっているその町は、わずか3カ月前、薄暗く曇りがちな空の下で、馬丁の少年のような格好をしたジャンヌが、貧弱な傭兵2〜3人とともに、王太子シャルルのもとをめざして、悪路を旅しながら眺めていた場所だった。[1372]
⚠️聖モーリス(Saint Maurice):ローマ軍のテバイウス軍団の軍人だったが、キリスト教徒だったために処刑された殉教者。軍人、兵士、剣士、歩兵たちの守護聖人。
*
1424年以来、オセール伯領は摂政ベッドフォード公から譲渡されて、ブルゴーニュ公の所有となっていた。ブルゴーニュ公は、代官(Bailie)と隊長を通じてオセールを統治していた。[1373]
かつてマンド司教だったオセール司教ジャン・ド・コルビーは、王太子の支持者だと考えられていた。[1374] しかし、大聖堂の参事会はブルゴーニュ派だった。[1375]
市民とその他の町民によって選出された陪審員12人が、オセールの行政を担っていた。
国王軍が近づいてくるのを見て、人々の心が恐怖に支配されたことは容易に想像できる。兵士たちが白十字(フランス軍兵士のお仕着せ)を着けていても赤十字(イングランド軍兵士のお仕着せ)を着けていても、市民から見れば恐怖の対象だった。
オセールの住民は、暴力と殺戮を引き起こす連中を、町の門前から追い払うためにもっとも効果的な手段、つまり財布の紐を緩めることを厭わなかった。
国王の使者は、オセールの住民に対して「シャルル王を彼らの自然で正当な君主として迎え入れるように」と呼びかけた。
だが、武力を背景にした呼びかけは、市民を非常に困惑させる立場に置いた。
拒否しても同意しても、善良な人々は大きな危険にさらされる。
忠誠を誓う相手を変えるのは簡単ではなく、彼らの生命と財産がかかっていた。
この緊急事態を見越して、自分たちの弱みを自覚していたオセールの住民は、シャンパーニュ地方の諸都市と同盟を結んでいた。
同盟の目的は(1)兵士を受け入れる負担軽減と、(2)敵対する2人の主君の争いに巻き込まれる危険から守るために、加盟都市が互いに助け合うことだった。
シャルル王の前に、オセールの住民の一部が現れて「トロワ、シャロン、ランスなどの都市が示すのと同じ服従をする」と約束した。[1376]
これは服従でも反抗でもなかった。
交渉が始まり、使節が町から野営地へ、野営地から町へと行き来した。
最終的に、知恵に欠けていなかった同盟者たちは、受け入れ可能な妥協案を提案した。それは、諸侯がいつも相互に締結していたもの、すなわち休戦協定だ。
17.2 オセールの町(2)休戦協定
オセールの町の人々は、国王に言った。
「どうかお通りください。そして、戦いを控えることに同意してくださるようお願い申し上げます」
そして、この要求を聞き入れてもらえるように、彼らは遠征軍を指揮するラ・トレモイユ卿に2000エキュドール(金貨)の賄賂を贈った。伝えられるところによると、ラ・トレモイユ卿はそれを恥じることなく受け取ったという。
さらに、オセールの住民は、代金と引き換えに遠征軍に食料を供給することを約束した。これは検討に値する申し出だった。遠征軍の陣営では、早くも食糧不足が始まっていたからだ。[1377]
しかし、この休戦協定は、兵士たちにとって決して喜ばしいことではなかった。
彼らは、凌辱や略奪で利益を得る絶好の機会を失ったのだ。
ざわめきが起こり、多くの領主や隊長たちが「町を占拠するのは難しくない。試してみるべきだ」と言った。常に「声」から勝利の約束を受け取っていたジャンヌも、兵士たちに武器を取るよう呼びかけるのをやめなかった。[1378]
王はこれらの騒ぎにまったく動じることなく、提案された休戦協定を締結した。
なぜなら、王は、平和的な手段で達成できる以上の利益を、武力で手に入れることを望まなかったからだ。
もし王がオセールを攻撃していたら、町を占拠して、慈悲によって保持できたかもしれない。だが、それは確実に、略奪、殺人、放火、凌辱が発生することを意味していた。王の後を追って、今度はブルゴーニュ兵がやって来て、また略奪、放火、凌辱、虐殺が繰り返されただろう。
町の人たちは、赤い帽子と白い帽子の両方を箱の中に隠し持ち、それを交互にかぶって情勢をやり過ごした。
それにもかかわらず、フランス人、イングランド人、ブルゴーニュ人によって入れ替わり立ち替わり破壊され、占領され、その後まもなく消えてしまった不幸な町が、これまでにどれほどあっただろうか。
これらの虐殺と忌まわしい行為に終わりはないのか?
人々の恨みは、アルマニャック派がイル・ド・フランス全体で呪われる原因となり、正当な王がパリの町を取り戻すことを非常に困難にしていた。
⚠️イル・ド・フランス(Île-de-France):首都パリを中心にした周辺地域のこと。直訳すると「フランスの島」だが、海に面しているわけではない。セーヌ川をはじめ、いくつかの河川に囲まれて島のような地形になっているためこう呼ばれる。
王室評議会は、これらの行為に終止符を打つときが来たと考えていた。
シャルル・ド・ヴァロワ(シャルル七世)が、力を誇示しつつも寛大な態度を示し、王の慈悲を行使すれば、相続地の奪還はより容易になるだろう。武器を手に取りながらも平和を追求し、ランスへの行軍は続けられた。[1379]
*
オセールの町の城壁の下で3日間過ごした後、回復した軍隊は、ヨンヌ川を渡ってサン・フロランタンの町に到着した。サン・フロランタンの住民は、すぐに国王に服従した。[1380]
7月4日、遠征軍は、トロワの町まで4時間ほどの距離にあるサン・ファルの村に到着した。[1381]
⚠️サン・ファル(Saint-Phal):オセールの西北西30キロ地点にある村。要塞があり、堀に囲まれている。
17.3 トロワの町(1)市民感情
この堅固な町(トロワ)には、多くても500〜600人ほどの守備隊が駐屯していた。[1382]
ジャン・ド・ダントヴィルという代官(Bailie)と、ロシュフォールとプランシーという隊長(Captains)2人が、ヘンリー六世とブルゴーニュ公のために町を統治していた。[1383]
トロワは工業都市で、その富の源泉は毛織物製造だった。
競争と市場の喪失によって、毛織物産業は長い間衰退していた。
その没落は、一般的な貧困と街道の治安悪化によって加速していた。
それでも、毛織物職人ギルド(組合)はまだ勢力を保っており、評議会に多くの行政官(Council)を送り出していた。[1384]
*
1420年、トロワの商人たちは英仏間で結ばれた条約を承認し、王太子シャルルの廃嫡と、イングランドのランカスター王家にフランス王位を約束する条約に誓約した。
当時のトロワは、イングランド人とブルゴーニュ人の言いなりだった。
毛織物を売りさばく大規模な定期市を開催するには、隣人のブルゴーニュ公と円満に暮らす必要があった。それに、もしゴドン(イングランドに対する蔑称)がセーヌ川の河川運輸から特定の荷物を締め出したら、トロワの人々は食い扶持を失って飢え死にしていただろう。
そのため、町の有力者たちはイングランド支持者に転向したが、だからといって彼らがずっとイングランドの味方であり続けるという意味ではない。
ここ数週間で、王国に大きな変化が起こっていた。
町の有力者であるジル・レギゼ家、エヌカン家、ジュヴネル家といった人々は、一方から他方へと権力が移り変わる運命の変遷(栄枯盛衰)の中で、変わらずにいることを誇りには思っていなかった。
フランスの勝利は、彼らにこれまでの方針を考え直すきっかけを与えた。
トロワ市内を流れる小川のほとりには、織物職人、染色職人、革なめし職人などが住んでいたが、彼らこそが真のブルゴーニュ派だった。[1385]
**
聖職者たちは、アルマニャック派(シャルル七世を支持する勢力)への愛情に心が動かされることはなかったが、シャルル王が「聖なる神の摂理(divine providence)」の特別な導きによってここまで遣わされたと感じていた。
このころのトロワ司教は、1420年の条約(トロワ条約)に最初に署名したユエ・レギゼの息子ジャン・レギゼだった。[1386]
聖堂参事会は、イングランド摂政(ベッドフォード公)の許可を待たずに、ジャン・レギゼをトロワ司教に叙任した。摂政は新しい司教を嫌っていたわけではなかったが、この叙任に反対を表明した。
⚠️聖堂参事会(Cathedral Chapter):各地の聖堂に属する聖職者たちで構成される合議体的な組織。
もともと、ジャン・レギゼは、母校のパリ大学から影響を受けて、アルマニャック派(シャルル七世を支持する勢力)への憎しみと、ランカスター家(イングランド王家)の薔薇への敬意を抱いていた。
しかし、ベッドフォード公は、自分の権利(聖職叙任権)を軽んじる行為は、いかなる理由であろうと許すことができなかった。
⚠️聖職叙任権:司教や修道院長など高位聖職者にふさわしい人物を選び、任命する権限のこと。中世ヨーロッパでは、聖職者と王侯がこの権利をめぐってよく揉める。
17.4 トロワの町(2)ベッドフォード公の叙任権闘争
⚠️「叙任権闘争」について背景事情を補足:
もともと、地域の領主が地元教会の聖職者を任命していた(聖職叙任権)が、教会財産の保護と聖職売買を防止するため、世俗権力を排除して聖職者たちの話し合いで選ぶようになった。
しかし、ペスト流行や教会大分裂、長い戦争の影響で、聖職者不在の教会が増え、冠婚葬祭ができなくなるなど日常生活に不具合が生じると、世俗の権力者が再び叙任権を発動するようになった。その結果、中世ヨーロッパでは聖職者と王侯貴族が聖職叙任権をめぐり頻繁に争っていた。
その後まもなく、ベッドフォード公はフランス中の教会すべてから非難を浴びた。
司教たちから、「聖書に記されているもっとも残酷な暴君たち、イスラエルを罰した際にレビ人を赦免したファラオ、ネブカドネザル、アルタクセルクセスよりも悪い」と断罪された。[1387]
彼ら(名前の上がった暴君たち)よりも邪悪で冒涜的だったベッドフォード公は、強硬手段に出た。
(1)聖座に代わって司教たちの後援権を奪い、
(2)フランスの聖職者に二重の「十分の一税」を課し、
(3)教会関係者が40年間受け取ってきた献金をすべて彼に引き渡すよう命じた。ガリカニスム(フランス国民教会主義)の特権をおびやかしたのである。
ベッドフォード公はローマ教皇の同意を得てから事に及んだが、それにもかかわらず、フランスの司教たちの目から見て、ベッドフォード公は「荒廃をもたらす忌まわしいもの」だった。
⚠️荒廃をもたらす忌まわしいもの(abomination of desolation):旧約聖書『ダニエル書』第11章31節、預言者ダニエルが最後に見た幻に登場。傲慢な異国の王が「荒廃をもたらす忌まわしいもの」を立てた後、世界は終わるとされる。訳語はさまざまだが、キリスト教の終末論で頻出する。
領主兼司教たちは、フランスの事情にうとい無知な教皇ではなく、もっと広い見識を持つ教皇に訴えることを決めた。彼らは「教皇権は、公会議の権威に比べれば取るに足りない」と考えていた。
⚠️補足:教皇1人の権力よりも公会議(聖職者会議)のほうが権威が高いとする思想。教会大分裂の時代だったので、聖職者たちはローマ教皇をチェンジしたがる。
聖職者たちは、うめき声をあげて嘆願した。
「呪われたもの(ベッドフォード公)は国土を荒廃させるにとどまらず、ガリアにおけるキリスト教をも荒廃させている」
ベッドフォード公は、反乱の声を上げたフランスの教会をなだめるために、パリ、トロワ、オセール、ヌヴェール、モー、シャルトル、オルレアンの司教区を含む、サンスの教区(教会管区、ブルゴーニュの一部)の司教たちをパリに召集した。[1388]
トロワ司教ジャン・レギゼも、この召集に応じてパリの教会会議に出席した。
この会議は、1429年3月1日から4月23日まで、大司教の議長の下、パリのサン・エロワ修道院で開催された。[1389]
出席した司教たちは、それぞれが自分の教区の悲惨な状況をベッドフォード公に訴えた。
兵士に略奪された農民はもはや義務を果たせず(教会への献金も、領主への納税もできない)、教会が所有する土地は荒廃し、公共の礼拝を支える資金がないため祭祀をおこなうこともできない。
彼らは満場一致で、ローマ教皇とイングランド摂政に二重の税金を納めることを拒否し、教皇から公会議に訴えると脅した。
さらに、「聖職者が過去40年間に受け取った献金まですべて奪い取るのは、神を冒涜する不敬虔な行為である」と宣言した。
そして、大きな慈悲をもって、ベッドフォード公に「不敬虔な者には、神の裁きによって定められた運命がある」ことを思い出させた。(歴史上、教会を弾圧した権力者の運命がその後どうなったかを説教した)
「君主は……」
彼らは口々に言った。
「神がご自身の尊い血で贖われた教会を、そのような要求で弾圧した暴君が、のちにこうむった悲惨な運命と悲しみを思い出すべきだ。ある者は剣で殺され、ある者は追放され、またある者は輝かしい権利を奪われた。したがって、神の花嫁である教会を奴隷にしようとする者は、神の神聖な恵み(恩寵)を授かる資格はない」[1390]
トロワ司教ジャン・レギゼの意見も、他の司教たちと同じだった。
とはいえ、トロワ司教が「この罪人(ベッドフォード公)の死を望んでいた」、あるいは「イングランドに敵意を抱いていた」と結論づけるのは間違いだ。[1391]
教会はつねに、世俗の権力(王権)に寄り添い妥協する。
その慈悲は広く、忍耐は大きい。
攻撃(異端宣告や破門など)する前にしばしば脅迫し、罪人が目を覚まして悔い改める兆候を見せたらすぐにそれを受け入れる。教会組織というものは、いつの時代もそうだった。
17.5 トロワの町(3)シャルル七世の情報戦
しかし、トロワ司教と聖堂参事会の聖職者たちが心の中で本当に恐れていた事態は、イングランド摂政ベッドフォード公との叙任権闘争ではなかった。
万が一、シャルル・ド・ヴァロワが王権を獲得して、シャルル七世として即位し、国王としてフランスの教会を保護する意志を表明した場合、(かつてトロワ条約を締結して王太子シャルルを廃嫡した)自分たちの運命がどのように処されるかだろう。
(トロワ条約を根拠に)シャルル王を拒絶するのは、神そのものを拒絶することを意味するのではないか? なぜなら、すべての力は、権力を委譲する神からもたらされるからである。
*
当のシャルル七世は、安全策を講じないままでシャンパーニュ地方に踏み入るような危険は冒さなかった。
シャルル王は、トロワの町で「頼れるものは何か」をよく知っていた。
彼は、トロワ市民の一部——有力者から《《取るに足らない》》下級市民に至るまで——と、ずいぶん前から秘密の通信を維持しており、彼らから情報提供と約束を取り付けていた。[1392]
5月の最初の2週間、ひそかに王のもとへ向かう途中だった王室公証人と書記官(聖職者)10人、そして商人ギルドの幹部が、パリ街道沿いの城壁のすぐ外で、イングランド軍を率いるシャトーヴィラン隊長によって逮捕された。[1393]
しかし、王に謁見する使命は、幸運にめぐまれた別の人々によって果たされた。
この秘密の謁見で、どのような問題が話し合われたかは容易に推測できる。
商人たちは、シャルル王が彼らの領主として君臨した場合、商取引の絶対的な自由を保証するかどうかを尋ねただろう。書記官(聖職者)たちは、教会の財産を尊重する約束を求めただろう。
そしてシャルル七世は、トロワ住民の要求を受け入れて、約束を守ることを惜しまなかった。
⚠️「5月の最初の2週間、ひそかに王のもとへ向かう」について補足:
オルレアン包囲戦は5月8日に終結。つまり、トロワ市民は早くも終戦直後からシャルル七世に接触しようと行動し、使者たちがイングランド軍に捕らわれてもなお、危険な賭けを試みていたことがわかる。
なお、ベッドフォード公が招集したパリの宗教会議の日程は3月1日から4月23日まで。包囲戦のさなかに2カ月近く開催されており、トロワ司教は自分の叙任にかかわる案件なので当然ながら出席している。
当時の伝達速度を考えると、トロワ市民の驚異的な速さの「てのひら返し」にある種の感動すら覚える。
また、ジャンヌと軍隊の動きは派手でわかりやすいが、このころのシャルル七世は水面下での動きが非常にめまぐるしい。王は軽薄で遊んでばかり…というイメージに反し、見せかけの姿と、本当の姿に大きなギャップがある。そこがいい。
17.6 修道士リシャール(1)終末思想
乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)は軍の一部隊とともに、サン・ファルの城砦の前で立ち止まった。この城は、ブルゴーニュ公に仕えるトネールの町の総督フィリベール・ド・ヴォードレが所有していた。[1394]
サン・ファルの地で、ジャンヌはフランシスコ会の修道士が近づいてくるのを見た。その修道士は、十字を切って聖水を振りかけた。ジャンヌが悪魔ではないかと恐れ、まず悪霊を祓わなければ近づく勇気がなかったのである。
トロワからやって来たリシャール修道士だった。[1395]
この修道士が一体何者だったのかを、わかる範囲で見ていくのは興味深いだろう。
⚠️トネール(Tonnerre):オセールの東35キロ地点にある町。トネールの北65キロ先にトロワ、北西70キロ先にサンス、南東125キロ先にブルゴーニュ公領の首府ディジョンがある。
⚠️サン・ファル(Saint-Phal):オセールの西北西30キロにある村と城砦。北東24キロ先にトロワがある。村に水源が8カ所もあり、周辺地域に水を供給している。小さな村とはいえ水資源を管理する重要な拠点で、立派な城砦があったが19世紀前半に解体された。
リシャールの出身地は不明だ。[1396]
ヴィンセント・フェリエ修道士とシエナのベルナルディーノ修道士の弟子で、師と同様に、アンチ・キリスト(反キリスト)の到来が差し迫っていること、そしてイエスの聖なる御名を崇拝することで信者が救われることを説いた。[1397]
エルサレムを巡礼してからフランスに戻り、1428年の待降節(Advent)の期間中にトロワの町で説教していた。
待降節は「聖マルティンの四旬節」とも呼ばれ、11月27日から12月3日までの間の日曜日から始まり4週間続く。期間中、キリスト教徒はイエス・キリスト降誕(クリスマス)の神秘を祝う準備をする。
「種を蒔きなさい、善良な人々よ」
修道士リシャールは言った。
「収穫に備えて豆を蒔きなさい。来るべき『彼』はすぐに来られるからです」[1398]
リシャールが言う「豆」とは、神が雲に乗ってやってきて、生者と死者を裁く前に、人がやるべき善行を意味する。収穫の時が近づいていたので、今こそ、善行(豆)を急いで蒔くことが重要だった。
アンチ・キリストの到来は、世界の終わりと時代の完成のほんの少し前に起こるはずだった。
1429年4月、リシャール修道士はパリに向かった。
ちょうど、サンス管区の教会会議が終盤を迎えていたころだ。
この善良な修道士(リシャール)は、会議に出席していたトロワ司教に招かれたのかもしれない。いずれにせよ、放浪する修道士がパリへ向かったのは、ガリア教会の権利を擁護するためではなかったようだ。[1399]
17.7 修道士リシャール(2)救世主と反キリスト
4月16日、修道士リシャールはサント・ジュヌヴィエーヴ修道院にて、パリで最初の演説をした。
その翌日から24日の日曜日まで、毎朝5時から10時または11時まで、罪なき幼子の墓地(納骨堂)に建てられ、「死の舞踏」が祝われた場所にある、野外の舞台に立って説教した。
⚠️死の舞踏(英:Dance of Death/仏:La Danse Macabre):中世末期の寓話。擬人化された「死」が人々を墓へ導き、逃れられない死の恐怖を前に人々が半狂乱になって踊り続けるという14世紀のフランス詩が起源とされる。長引く戦争とペスト流行による、当時の「諦観・死生観」がよく表れている。
高さ9フィート(約2.7メートル)の舞台の周りには、聴衆が5000〜6000人も集まり、リシャールは「アンチ・キリスト(反キリスト)の到来が間近に迫っている」ことと「世界の終わり」について語った。[1400]
「シリアで、私はユダヤ人の集団に出会った。
どこへ行くのかと尋ねると、こう答えた。
『私たちはバビロンに向かっている。なぜなら、
メシア(救世主)がそこで生まれたのは真実で、
彼は私たちの相続地を回復させて、
約束の地に再び連れて行ってくれるからだ』
シリアのユダヤ人はそう言ったが、聖書にはこう書かれている。
彼らが『メシア』と呼ぶ者こそが、実はアンチ・キリストである。
彼はペルシア王国の首都バビロンで生まれ、ベツサイダで育ち、
若いころはコラジンに住んでいる。それゆえに神はこう言われた。
『コラジンよ、汝に災いあれ! ベツサイダよ、汝に災いあれ!』」
⚠️コラジン(Chorazin)とベツサイダ(Bethsaida):どちらも新約聖書に登場するガリラヤの町。町の人々は、盲人を癒すなどの奇跡を目撃したにもかかわらず真の信仰には至らなかった。そのため、キリストは嘆いて厳しく叱責した。それが上記の言葉につながる。
リシャールは、さらに付け加えた。
「1430年は、これまで見たこともないような
奇跡を目撃する年となるだろう。[1401]
時は近づいている。罪人の子、破滅の子、
邪悪な者、深淵から吐き出された獣、
《《荒廃をもたらす忌まわしい者》》が生まれた。
彼はダン出身で、ダンについてはこう書かれている。
『ダンは路上の蛇、小道の毒蛇となる』
預言者エリヤ、エノク、モーゼ、エレミヤ、
福音者ヨハネがもうすぐ地上に戻ってくる。
ダビデとシビュラ(巫女)の証言に従い、
時代を挽臼で砕き、
摺鉢でつぶすかのごとく、
怒りの日がまもなく到来するだろう」[1402]
善良な修道士(リシャール)は、「悔い改め、償い(苦行)を行い、むなしい富を捨てるように」と呼びかけて話を締めくくった。
⚠️荒廃をもたらす忌まわしいもの(語:Abomination of desolation/仏:Abomination de la désolation):旧約聖書『ダニエル書』第11章31節、預言者ダニエルが最後に見た幻のこと。傲慢な異国の王が「荒廃をもたらす忌まわしいもの」を立てた後、世界は終わるとされる。ダニエル書以降もキリスト教の終末論として頻出する、いわば黙示録の原点といえる。
キリスト教圏のWikipediaはこのフレーズ単独で項目が作られるほど重要で、日本語の訳語「呪われたもの、忌むべきもの」は本来の意味よりだいぶ軽い印象。
なお、トロワ司教の叙任権をめぐり、ベッドフォード公はフランス中の聖職者たちから「荒廃をもたらす忌まわしいもの」と呼ばれ非難された。
聖職者たちによれば、修道士リシャールは信仰心の厚い能弁な演説家だった。リシャールの説教は、過去100年間に例がないほど人々の心を動かし、信心深さを思い出させた。
彼が現れたのは、まさに時宜を得たものだった。
当時、パリ市民の間では賭博が大流行しており、司祭までもが恥ずかしげもなく熱中していた。7年前には、ダイス(サイコロ)遊びの愛好家だったサン・マリー教会の参事会員(聖職者)が自宅で賭け事をしていたことが知られている。[1403]
戦争と飢餓に苦しんでいるにもかかわらず、パリジェンヌ(パリの女)は装飾品《アクセサリー》を身につけて着飾った。彼女たちは魂の救済よりも、自分の美しさを気にかけていた。
リシャール修道士は、男たちのチェッカー盤(チェス、将棋、囲碁など駒と盤があるゲームの総称)と女たちのアクセサリーに対して、ひときわ大きな声で雷のように非難した。
特に、ブローニュ・ラ・プティ(Boulogne-la-Petite)で説教していたある日、彼はダイス(サイコロ)とエナン(尖った髪飾り)を激しく非難し[1404]、聴衆の心を動かすほどの力強い言葉で熱弁を振るった。
人々は家に帰ると、賭博台、チェッカー盤、カード、ビリヤードのキューとボール、ダイスとその収納箱を通りに投げ捨て、家の前で大きな火をつけた。通りではこうした火が100件以上、3〜4時間燃え続けた。
パリジャン(パリの男)が示した模範に倣い、翌日にはパリジェンヌ(パリの女)も、頭飾り、詰め物、装飾品、そしてフードの前面を支えるために使う革片や鯨の髭・骨を公衆の面前で燃やした。
若い娘たちは、悪魔の装いを恥じて、悪魔の角[1405]としっぽ[1406]を脱ぎ捨てた。[1407]
⚠️悪魔の角:当時流行していた円錐状の髪飾り「ブロカール」のこと。
⚠️悪魔のしっぽ:ドレスの後ろに広がる引き裾《すそ》「トレーン」のこと。
17.8 修道士リシャール(3)禁じられた演説
また、善良な修道士リシャールは、多くの人が家に保管していたマンドレイクの根を同じように焼却させた。[1408]
この根は、奇妙で悪魔のような外観をした醜い小人の形をしていることがある。おそらくそのためか、特別な効能があると考えられていた。「小人」は上質なリネンやシルクの服を着せられ、幸運をもたらし、富を授けると信じられていた。
魔女たちは、マンドレイクの根を大切に保存していた。
だから、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)を魔女だと信じた人々は、彼女がマンドレイクを持っていると非難した。
リシャール修道士は、これらの「魔法の根」が富を引き寄せる力を持っていると信じて、なおさら強く憎んだ。富はすべての悪の根源だったからだ。
彼の言葉は再び聞き入れられ、パリ市民たちは恐怖に駆られて、多額の金銭と引き換えに「良識を超えた知識を持つ老女」から手に入れたマンドレイクを捨てた。[1409]
リシャール修道士は、パリ市民に、これらの邪悪な宝物の代わりに、より啓発的なもの、すなわちイエスの名前が刻まれたピューター製(スズ合金)のメダイを置くようにすすめた。リシャールは、イエスの名を崇拝することに特にこだわっていた。[1410])
町で10回、ブローニュの村で1回説教した後、この善良な修道士は「ブルゴーニュへ帰る」と言い、パリの人々に別れを告げた。
「私は皆さんのために祈ります。皆さんも私のために祈ってください。アーメン」
それを聞くと、身分の高いものも低いものも、すべての人が最愛の友を墓地へ送るかのように大声で号泣した。リシャールも彼らと一緒に泣き、出発を少し延期することに同意した。[1411]
5月1日の日曜日、彼は信心深いパリ市民のために、最後の説教をすることになっていた。
信者たちの集いの場として、かの聖ドニが殉教した地、モンマルトルの丘が選ばれた。
不幸な時代、この丘は誰も住んでいなかった。
だが、その日の前夜には、良い場所を確保しようと6000人以上の人々が丘に押し寄せ、そこで一夜を明かした。何人かは荒れ果てた廃墟で過ごしたが、ほとんどの人は星空の下に横たわって野宿した。
朝になってもリシャール修道士は現れなかった。
集まった聴衆はむなしく待ち続けた。失望と悲しみに暮れる中、人々は修道士が説教を禁じられたことを知った。[1412]
説教の中で、修道士リシャールはイングランドを怒らせるようなことは何も言わなかった。説教を聞いたパリ市民は、彼が摂政(ベッドフォード公)やブルゴーニュ公の良き友人であると信じていた。
おそらくリシャールは、パリ大学の神学者たちが自分を処罰しようとしていると聞いて、逃亡したのだろう。彼が主張する「世界の終わり」に関する見解は、確かに特異で、危険なものだった。[1413]
その後、リシャール修道士はオセールへ向かい、そこからブルゴーニュとシャンパーニュを説教してまわった。
彼が内心ではシャルル王の味方だったとしても、それを表に出すことはなかった。少なくとも6月時点では、シャンパーニュの人々、特にシャロンの住民は、リシャールを「ブルゴーニュ公に仕えている立派な人物」と思っていた。[1414]
そして、前述したとおり、7月4日時点のリシャールは「乙女(ジャンヌ)は悪魔か、悪魔に取り憑かれた人間」だと疑っていたことがわかっている。[1415]
17.9 修道士リシャール(4)世界が終わる前に
善良な修道士(リシャール)が十字を切って聖水を振りかけているのを見たとき、ジャンヌは、彼が自分を何か邪悪なもの、つまり「邪悪な霊によって作られた幻影」か、少なくとも「魔女」だと考えていることに気づいた。[1416]
しかし、ジャンヌは、ジャン・フルニエの悪魔祓いのときに感じたほどには腹を立てなかった。あのときは、告解していた顔見知りの司祭が、ジャンヌを善良なキリスト教徒であるかどうかを疑ったことが許せなかった。[1417]
⚠️ジャン・フルニエの悪魔祓い:ヴォークルールにいたころ、司祭ジャン・フルニエがジャンヌを悪魔祓いしようと試みた。上巻・第三章「3.9 悪魔祓いの試練を受ける」参照。
しかし、リシャール修道士はジャンヌを知らず、一度も会ったことがなかった。
それに、ジャンヌは、このような扱いを受けることに慣れ始めていた。
リッシュモン大元帥、イヴ・ミルボー修道士、そしてジャンヌのところに来たその他の多くの人々は、彼女が神からの使者なのか悪魔からの使者なのかを尋ねた。[1418]
ジャンヌは少し皮肉な口調ではあったが、怒る気配も見せずに、説教者にこう言った。
「大胆に近づいてください。私は逃げません」[1419]
リシャール修道士は、聖水の試練と十字の印によって、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)は悪魔ではなく、彼女の中にも悪魔はいないことを証明した。
そして、彼女が「神から遣わされた」と言ったとき、リシャールは心からジャンヌを信じ、神の天使だと思い込んだ。[1420]
リシャールは、自分が来た理由を打ち明けた。[1421]
トロワの住民は、ジャンヌが神からの使者であるかどうかを怪しんでいた。
その疑念を解消するために、彼はサン=ファルまで来たのだった。
今やリシャールは、ジャンヌが神からの使者であると知ったが、特に驚かなかった。
なぜなら彼は、以前から「1430年にこれまで見たこともないような大きな奇跡が起こる」ことを知っており、いつか預言者エリヤが人々と歩き、語り合うのを目撃するだろうと信じていたからだ。[1422]
この瞬間から、修道士リシャールは乙女と王太子の支持者になった。
彼がジャンヌに惹かれたのは、フランス王国の再建について予言したからではなかった。リシャールは「世界の終わりが迫っている」と信じていたため、狂人王の息子(シャルル七世)が王家の遺産を再び取り戻すことに関心がなかった。
しかし、「イエス・キリストの王国が、この百合の王国(フランス)に確立されるなら、預言者ジャンヌとイエス・キリストの世俗的な代理人であるシャルル王が、世界中のキリスト教徒を率いて《《聖なる墓》》を救い出す」だろうと期待した。
⚠️キリスト教徒を率いて聖なる墓を救い出す:エルサレム奪還のこと。
それは、世界の終わりが来る前に、果たしておかなければならない尊い仕事に違いなかった。
17.10 往復書簡(1)ジャンヌ→トロワ市民、トロワ市民→ランス市民
ジャンヌは、トロワの市民と住民に宛てて手紙を口述した。
その中で、ジャンヌは自らを「天国の王のしもべ」と称し、神自身に代わって、穏やかでありながらも切迫した言葉で「フランス王シャルルに従うように」と彼らに呼びかけた。
そして、彼らが望もうと望むまいと、ジャンヌは国王とともに聖なる王国のすべての町に入り、平和をもたらすと警告した。その手紙は以下の通りである。[1423]
「ジーザス † マリア
良き友であり、愛する皆さん、
トロワの町の領主、市民、住民の皆さん、
もしよければ、聞きなさい。
ジャンヌ・ラ・ピュセルは、
彼女の主君であり忠誠を誓うべきお方、
彼女が日々お仕えしている、
天国の王のしもべとして、
皆さんに呼びかけ、知らせます。
美しいフランス王に、真の服従と忠誠を誓いなさい。
誰が彼に抵抗しようとも、
彼はジーザス(イエス)の助けを得て、
まもなく手綱を取り、ランスとパリに、
そして聖なる王国の良き町々に入るでしょう。
忠実なフランス人の皆さん、
シャルル王のもとに身を寄せなさい、
決して見捨てないで(失望させないで)ください。
もし来るなら、
皆さんの肉体や財産を
心配する必要はありません。
もし来ないなら、
皆さんが命をかけて抵抗しようとも、
私たちは神の助けを得て、
聖なる王国のすべての町に入り、
そこで平和を確立すると、私は断言します。
私は、皆さんを神にゆだねます。
神の意志がそこにあるならば、皆さんを守って下さるでしょう。
すぐに返事をください。
トロワの町の手前、サン・ファルにて、
7月4日火曜日に記す」[1424]
裏面には「トロワの町の領主と市民へ」と書かれている。
乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)はこの手紙をリシャール修道士に渡し、彼はそれを町の人々に届けることを約束した。[1425]
*
フランス軍はサン=ファルを発ち、ローマ街道に沿ってトロワに向けて進んだ。[1426]
軍隊の接近を聞きつけた町の評議会は、7月5日火曜日の早朝に集まり、ランスの住民に宛てて手紙を送った。内容は以下の通りだ。
「本日、ヘンリー王とブルゴーニュ公の敵が
我々を包囲するために来ると予想される。
敵の目的について考察し、
我々の取るべき大義を思い出し、
我々の君主たちが約束した援助について検討した結果、
我々は、敵の力がいかに強大であろうと、
ヘンリー王とブルゴーニュ公への忠誠を貫き、
たとえ死に至ろうとも継続することを決意した。
さらに、我々はこの決意を、
イエス・キリストの尊い御体にかけて誓った。
つきましては、我々はランス市民の皆さんに、
同胞として、忠実な友人として、我々のことを思いやり、
摂政ベッドフォード公とブルゴーニュ公に、
この哀れな臣民を憐れみ、
救援に来てくれるよう嘆願していただきたく、
切実にお願い申し上げる」[1427]
⚠️訳者の覚書:第十三章は、シャルル七世の懐柔策によってトロワ市民が心変わりしていく過程、別名「華麗な手のひら返し」が見どころです。すでに上記の手紙の時点で、強気な泣き言がだだ漏れているのがおもしろい。
17.11 往復書簡(2)シャルル七世⇄トロワ市民、市民の反応
同日(7月5日)の朝、シャルル王は滞在先のブリニョン大司教(Brinion-l'Archevêque)の宿舎から、トロワに先触れの使者を派遣した。
トロワ市の評議会のメンバーに宛てて、王みずからの署名と印章が押されて封じられた手紙を託されていた。
その手紙の中で、王は「王室評議会の助言により、ランスに行って聖別式を受ける決意をした」こと、「明日トロワの町に入城する」つもりであることを知らせて、「当然のことながら、臣従の意を示して迎え入れるように」と命じた。
さらに、王は賢明にも、トロワ市民を安心させるために、「過去の復讐をするつもりはない」ことを強調した。
「そのようなことは私の望むところではない。トロワ市民が君主に対するふさわしい振る舞いをするなら、私はすべてを忘れ、市民への好意を維持するだろう」[1428]
トロワ市の評議会は、シャルル王の使者を町に入れることを拒否したが、王の手紙を受け取った。それを評議会で読み上げて審議し、話し合った結果を、王の使者に託すことにした。返事は以下の通りである。
「町に駐留している貴族、騎士、従騎士たちは、
ヘンリー王とブルゴーニュ公の名において、
『主君であるブルゴーニュ公の明らかな命令がない限り、
誰であろうと、我々よりも強い者を町に入れない』と
町の住民である我々とともに、誓いました。
この誓いを考慮すると、町にいる我々は、
シャルル王を迎え入れる勇気はありません」
それから、評議員たちは弁解を付け加えた。
「私たち市民が何を望もうとも、
町に駐留している兵士のことを考慮しなければなりません。
彼らは、私たち市民よりも強いのですから」[1429]
評議員たちは、シャルル王の手紙を掲示して、その下に返事を書き添えた。
*
このとき、トロワ市の評議会では、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)がサン・ファルで口述して、リシャール修道士に託した手紙も読み上げられた。
リシャールは、手紙を好意的に受け入れてもらえるように事前に準備をしていなかったため、評議員たちは(敵意も敬意もなく)心からそれを笑った。
「こっちの手紙には韻も理屈もない。これは単なる冗談だろう」[1430]
そう言うと、ジャンヌの手紙を暖炉の火に投げ込んで焼いてしまい、返事を出さなかった。彼らは「差出人は《《ほら吹き》》だ」[1431]と一笑に付し、さらにこのように語った。
「我々は、彼女が狂っていて悪魔に取り憑かれていることを証明する」[1432]
17.12 トロワ包囲(1)市民の本音と豆まき
同日(7月5日)午前9時、フランス軍は城壁に沿って進軍し、トロワの町を包囲した。[1433]
南西に陣を構えた者たちは、そこから広大な平原の真ん中に浮かび上がる長い城壁と堅固な門、高い塔と鐘楼を眺めることができた。
右側には、サン・ピエール教会が人家の上にひときわ高くそびえているが、巨大な建造物のわりに塔や尖塔はなかった。[1434]
8年前、そこでは、イングランド王ヘンリー五世とフランス王女カトリーヌ(シャルル七世の姉)の婚約を祝福していた。
トロワの町で、イザボー王妃とジャン公爵(ベッドフォード公かブルターニュ公と思われる)は、正気と記憶を失ったシャルル六世に、フランス王国の象徴である百合の紋章をイングランド王に譲渡し、王太子シャルル・ド・ヴァロワを破滅させる署名をさせた。
娘の婚約式に、イザボー王妃は青い絹のダマスク織のローブと、エルミーヌ(オコジョ)1500匹分のミネヴェール(白い毛皮)で裏地をほどこした黒いベルベットのコートを身につけて出席した。[1435]
式典の後、イザボー王妃は自分の楽しみのために、ゴシキヒワ、ズアオアトリ、マヒワ、ムネアカヒワなどの歌う鳥を連れて来させた。[1436]
⚠️ミネヴェール(minevers):斑点のない白い毛皮に灰色の縁取りが施されたもの。本来は「エルミーヌ(アーミン、オコジョ)の毛皮」を指すが、英語では「白い毛皮」の総称として定着。
*
フランス軍が到着したとき、町の住民のほとんどは城壁の上にいた。
敵意よりも好奇心が上回り、何も恐れていないようだった。
彼らは何よりも国王に会いたいと思っていた。[1437]
トロワの町は堅固に守られていた。
ブルゴーニュ公は長きにわたって、町の防御を強化し続けていた。
1428年のオルレアンと同じ目的で、1417年と1419年のトロワの人々は、(包囲戦に備えて)郊外の建物を取り壊し、城壁から200~300歩以内にある家屋をことごとく破壊した。
武器庫には十分に武器を備え、倉庫には食料で溢れていたが、イングランド・ブルゴーニュ連合軍の守備兵はわずか500~600人程度だった。[1438]
**
同日(7月5日)午後5時、トロワ市の評議会メンバーは、ランス市の人々に「アルマニャック派の到着」を知らせる使者を送った。
この使者は、①シャルル・ド・ヴァロワからの手紙、②それに対する彼らの返事、③乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)の手紙の写しを所持していた。つまり、トロワではこれらの手紙をすぐに燃やしたわけではないのだろう。
彼らは、もし救援を送ってくれるなら自分たちは死ぬまで抵抗する決意を伝えた。
同様に、シャロン市の人々に「王太子到着」を知らせる手紙を送り、さらに、ジャンヌ・ラ・ピュセルの手紙がリシャール修道士によってトロワに届けられたことも伝えた。[1439]
ようするに、トロワ市民はこれらの文書を通じて次のような本音を述べている。
(1)このような状況下にあるすべての市民と同じく、私たち(トロワ市民)はブルゴーニュ派かアルマニャック派のどちらかに絞首刑にされる危険にさらされている。これは非常に悲惨なことである。
(2)できるだけこの災いを避けるために、私たちは国王シャルル・ド・ヴァロワに、「守備隊が妨害しており、事実上、我々は弱い立場にあるため、門を開けることはできない」と理解してもらう。
(3)そして、我々は、領主である摂政(ベッドフォード公)とブルゴーニュ公に、「事実上、守備隊が我々を守るには弱すぎるため、救援を求めている」と知らせる。
(4)なお、我々は(本心では)救援が来ないことを願っている。もし救援が来たら、我々は包囲に耐えなければならず、攻撃を受ける危険を冒さなければならない。それは、商人にとって悲惨なことである。
(5)しかし、「救援を求めたが来なかった」となれば、我々は非難されることなく降伏できるだろう。
(6)重要なのは、幸いにも小規模な守備隊をどうにかして撤退させることだ。兵士500人は防衛するには少なすぎるが、降伏するには多すぎる。
(7)ランスの市民に、自分たちと我々のために救援を求める要請をしたが、それはブルゴーニュ公に対する我々の好意を証明するためにすぎない。好意を示したからといって、何か危険も冒すつもりはない。
(8)我々が信頼しているランス市の同胞たちは、「救援を求めても得られないよう巧妙に気を配り、強力な軍隊を率いてやってくるシャルル王に門を開けるきっかけを待つだろう」と知っている。
(9)結論として、我々は救援を受けたら死ぬまで抵抗する。だが、神よ、どうかそんなことが起きませんように!
こういったことは、シャンパーニュ地方の町の人たちの小賢しい駆け引きだった。
トロワ市民は、フランス軍に向けて石弾をいくつか発射した。
守備隊はしばらく小競り合いをした後、すぐに町に戻った。[1440]
***
その間、シャルル王の軍隊は飢饉に見舞われていた。[1441]
アンブラン大司教は「人間の知恵によって軍隊に食糧を供給する」よう助言したが、それを実行するのは難しかった。
陣営には、この1週間パンを食べていない兵士が6000〜7000人いた。
やむを得ず、兵士たちはまだ青い穀物の穂をすりつぶしたものや、(行軍の途中で)非常に豊富に生えている新豆を食べて飢えをしのいだ。
それを見て、トロワの人々は、聖マルティンの四旬節のころにリシャール修道士が言ったことを思い出した。
「豆を蒔きなさい。来るべき『彼』はすぐに来られるからです」
善良な修道士が、霊的な意味での「種まき(豆まき)」の時期について言ったことが、文字通りに解釈された。奇妙な誤解と偶然の一致によって、「救世主(メシア)の到来」について語られたことが「シャルル王の到来」に当てはまったのである。
これによって、リシャール修道士はアルマニャック派の預言者とみなされ、兵士たちは、この福音主義の伝道師が、人々が蒔いた豆を(ふさわしい時期に収穫できるよう)育てたのだと本気で信じた。
こうして修道士リシャールは、その卓越性と知恵、そして神の助言への洞察力(神の計画を見抜く力)によって、飢えた兵士たちに栄養源を供給した。ちょうど、神がイスラエルの人々に荒野でマナを与えたように。[1442]
⚠️「豆まきのすすめ」演説:詳細はこのページの『17.6 修道士リシャール(1)終末思想』参照。
17.13 トロワ包囲(2)駆け引きと偽りの攻撃
7月4日からブリニョンに滞在していたシャルル王は、8日金曜日の午後にトロワの前に到着した。[1443]
その日のうちに、国王は指揮官や血統貴族たちと軍議(軍事評議会)をひらき、約束[1444]または脅迫によって服従させるまで町の前に留まるか、それともオセールでやったように町を放置して通り過ぎるかを決めようとした。[1445]
議論が長引いていたところへ、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)がやって来て予言した。
「美しい王太子さま」
ジャンヌは言った。
「兵士たちにトロワの町を攻撃するよう命じ、長すぎる会議でこれ以上時間を無駄にしないでください。神の名において、3日以内に、私はあなたを町に入れるようにします。トロワの町は愛によって、あるいは力と勇気によって、あなたのものになります。偽りのブルゴーニュ人はひどく愚かに見えるでしょう」[1446]
彼らが、慣例に反してジャンヌを評議会に呼んだのはなぜだろう?
それは単に、砲弾をいくつか発射して城壁をよじ登るふりをする、ようするに偽りの攻撃(見せかけ)を仕掛けるだけの問題だった。
偽りの攻撃をせざるを得なかったのは、トロワの人々のせいでもある。
何らかの武力誇示(パフォーマンス)を見せつけなければ、彼らはまともに降伏することもできないのだ。町の下層階級はブルゴーニュ人の心を持っているので恐れをなすに違いない(彼らをおびやかす効果も期待できる)。
おそらく、トレヴ卿[1447]か誰かが、トロワの城壁の下に「小さな聖人(ジャンヌ)」が現れたら、町の織工たちに宗教的な畏怖を与えると判断したのだろう。
彼らはただ、ジャンヌを自由にさせておけばよかった。
*
評議会が終わると、ジャンヌは馬に乗り、槍を手にして堀へ急いだ。
騎士、従騎士、職人たちの群衆があとに続いた。[1448]
攻撃地点はマドレーヌ門とコンポルテ門の間、北西の城壁だった。[1449]
ジャンヌは、町は自分の手によって陥落すると固く信じていたので、夜通し人々を煽動して薪を集め、大砲を配置させた。
彼女は「攻撃開始」と叫び、堀にがらくたを投げ込むよう合図した。[1450]
この脅しは、期待通りの効果をもたらした。
下層階級の人々は、町がすでに占領されていると思い込み、フランス軍が略奪、虐殺、凌辱をしに来ると予想して、教会へ避難した。
町の聖職者と有力者にとって、これはまさに好都合だった。[1451]
国王シャルル・ド・ヴァロワから安全を保証されたため、司教ジャン・レギゼ、病院長ギヨーム・アンドゥイエ、聖堂参事会長、聖職者、有力者たちは国王のもとへ向かった。[1452]
トロワ司教のジャン・レギゼが、町の代表を務めた。
彼は国王に敬意を表し、町の人々の弁解を申し出た。
「国王ご自身の望みに叶うように、町に入城できなかったのは、市民のせいではありません」
彼は言った。
「代官(Bailie)と守備隊300〜400人が門を守っており、開門を禁じています。私が町の人々に話をつけるまで、どうかご辛抱いただきたく存じます。私が彼らに話せば、すぐに門をひらき、王に満足いただけるような服従を示すと信じています」[1453]
司教への返答で、王はこの遠征の理由と、自分がトロワの町に対して持っている権利について述べた。
「私は例外なく、過去のあらゆる行為を許す。そして、聖王ルイの模範に倣い[1454]、トロワの人々を平和と自由の中で守ることを約束する」
司教ジャン・レギゼは、(1)亡き国王シャルル六世によって聖職者に与えられた収入と後援(聖職禄)は彼らが保持すること、(2)イングランド王ヘンリーから同じものを与えられた者にも、その恩恵を保持することを認める勅許状を与えてほしいと要求した。
国王は快諾し、司教は彼(シャルル七世)の中に新時代のキュロス王を見出した。
⚠️キュロス王(Cyrus):アケメネス朝ペルシア帝国の初代皇帝キュロス二世のこと。古代オリエント諸国を統一して空前の大帝国を建国。ユダヤ人を「バビロンの捕囚から解放」した功績によって、キリスト教・イスラム教を問わず理想的な君主と評価され、ユダヤ教では「唯一の非ユダヤ人メシア(救世主)」とされる。
遺物のひとつ「キュロス王の円筒印章」には諸民族を解放し、弾圧や圧政を廃し、略奪を禁じ、寛容な支配を推し進めた治世が記されており、世界最古の人権宣言と呼ばれている。
国王と司教の会談の内容は、すぐに町の評議会に報告された。
審議の結果、「国王の法的権利を考慮し、すべての犯罪に対する恩赦を与え、市内に駐屯軍を残さず、ガベル税(塩税)以外のすべての補助税を廃止すること」を条件に、国王に忠誠を誓うことを決議した。[1455]
トロワ市の評議会は、またもやランス市民に宛てて手紙を送った。
この決議について知らせて、同じことをするように促した。
「こうすれば、我々は同じ君主を戴くことになる。
我々と同じことをすれば、あなたたちも命と財産を守れるだろう。
さもなければ、我々はことごとく破滅してしまうだろう。
我々は(シャルル七世に)服従したことを後悔していない。
我々の唯一の悲しみは、長い間ためらっていたことである。
あなたたちは、我々の先例に倣うことを喜ぶだろう。
なぜならシャルル王は、長年にわたり
フランスの高貴な家系に現れたどの君主よりも慎み深く、
賢明で、物分かりがよく(優れた判断力と理解力を持ち)、
しかも勇敢な君主なのだから」[1456]
17.14 トロワ包囲(3)降伏するための方便
修道士リシャールは、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)を探しに行った。
見つけるや否や、まだ距離があるうちから、リシャールはジャンヌの前にひざまずいた。ジャンヌもリシャールを見つけると、同じように彼の前でひざまずき、二人は互いに深々と頭を下げて礼を交わした。
この善良な修道士は、町に戻ると人々に長々と説教し、シャルル王に従うようにと勧めた。
「神は王の前に道を用意しておられます」と彼は言った。
「王に付き従い、聖別式(塗油式)へと導くために、神は聖なる乙女を遣わされた。私は固く信じている。福音者ヨハネを除き、彼女は天国にいるどの聖人よりも、神の神秘を体現する力を持っていることを」[1457]
善良な修道士は、少なくとも一人の聖人を、ジャンヌよりも上位の存在として認めざるを得なかった。それは、聖人たちの中の第一人者であり、イエスの胸に頭を預けた使徒であり、時が満ちる(時代が終わる)ときに再び地上に戻る預言者である。
⚠️福音者ヨハネ(Saint John the Evangelist):十二使徒の一人で、キリストにもっとも近い愛弟子。新約聖書『ヨハネによる福音書』の著者。洗礼者ヨハネと区別するために「使徒ヨハネ、福音記者ヨハネ」と呼ばれる。
なお、伝統的に「使徒ヨハネ」と「福音記者ヨハネ」は同一人物とされてきたが、近現代の聖書学では別人説が有力。
「もし彼女がそうしようと望むなら」
リシャール修道士はさらに続けた。
「彼女は城壁を越えて、あるいは彼女が望む他の方法で、王の兵士全員を町に連れてくることもできただろう。彼女は他にも多くのことができる」
町の人々は、雄弁に語るこの善良な修道士に、大きな信頼と自信を寄せていた。
リシャールが乙女について語った内容は、市民にとって素晴らしいことに思えた。そして、それほど強力な存在に付き添われた国王への服従を勝ち得る一因となった。彼らは皆、声を揃えて高らかに叫んだ。
「フランス国王シャルル万歳!」[1458]
*
さて、こうなったからには、トロワに駐留する代官(Bailie)と交渉して話をつける必要が出てきた。
代官は、町から陣営へ、陣営から町へと市民が行き来することを黙認していたので、近寄りがたい人物というわけではなかった。彼と協力して、駐屯軍を撤退させるために誠実な手段(方便)を考え出さなければならない。
このような目的を秘めて、司教に先導された大勢の庶民が、代官と隊長2人のもとへ行き、「町の安全を確保してほしい」と申し入れた。[1459]
しかし、彼らはこの要求に応えることができなかった。なぜなら、市民の意思に反して都市を守り、3万人ものフランス軍を追い払うことは、彼ら(駐留する守備隊)の戦力では到底不可能だったからである。
市民たちが予想した通り、代官はこの事態に大いに困惑した。
代官の狼狽ぶりを見て、町の評議員たちはこう言った。
「もしあなたが、公共の利益のために結んだ約束(誓い)を守れないなら、私たちはあなたの意思に関係なく、シャルル王の軍隊を町へ迎え入れます」
代官と隊長2人は、自分たちの主君であるイングランド王とブルゴーニュ公を裏切ることを拒否したが、町から立ち退くことに同意した。
それこそが、トロワ市民が求めていたことの全てだった。[1460]
17.15 トロワ包囲戦(4)王の機転と凱旋
トロワの町は、ついにシャルル王に門を開いた。
7月10日の日曜日、早朝の非常に早い時間に、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)は彼女が心から愛する庶民とともに、最初にトロワに入った。修道士リシャールも同行した。
ジャンヌは、行列が通る道沿いに弓兵を配置した。フランス王が、彼を気高く助けた軍の歩兵たちが二列に並んだ間を通って、町中を凱旋できるように準備した。[1461]
シャルル・ド・ヴァロワ(シャルル七世)が一方の門から入城している間に、ブルゴーニュ軍の守備隊はもう一方の門から出ていこうとしていた。[1462]
合意された通り、ヘンリー王とフィリップ公(ブルゴーニュ公)の兵士たちは、自分たちが所有する武器とその他の財産を持っていこうとした。
実は、彼らの《《所有物》》の中には、身代金目的で捕らわれていたフランス軍の捕虜が含まれていた。
当時の戦争の慣習からすると、彼らが間違っていたわけではない。
だが、シャルル王に仕える兵士たちが、主君が到着するまさにその時に、捕虜として連れ去られるのを見るのは痛ましい光景だった。
ジャンヌはこの話を聞いて、優しい心を動かされた。
町の門へ駆けつけると、そこには武器と荷物を持った兵士たちが集まっていた。
ジャンヌは、そこでロシュフォールの卿とフィリベール・ド・モラン卿(トロワに駐留していた隊長2人)を見つけると、隊長2人に挑みかかり、「王太子の兵士たちを解放するように」と要求した。
しかし、隊長たちは承諾しなかった。
「(ジャンヌの言い分は)約束に反する詐欺だ。不正で邪悪だ」
彼らはジャンヌにそう主張した。
その間、捕虜たちはひざまずいて、聖女に「自分たちをここに留めるように」と哀願していた。
「神の名において」
ジャンヌは叫んだ。
「彼らは行かせない!」[1463]
この口論の最中、あるブルゴーニュの従騎士がかたわらに立っていた。
アルマニャックの乙女(ジャンヌ)について、後に口にすることになるある考えが頭をよぎった。
「誓って言うが」
彼は思い出しながら、こう言った。
「あれ(ジャンヌ)は、これまで見た中で最も救いようのない馬鹿だ。言動には一貫性も理屈も(韻も道理も)なく、最も愚かな者と変わらない。マダム・ドールのような勇敢な女性とは比べ物にならないし、ブルゴーニュ人が彼女を恐れているように見せているのは、ただの冗談にすぎない」[1464]
この話の面白さを十分に理解するには、「宮廷道化師マダム・ドールはブーツと同じくらいの背丈で、フィリップ公(ブルゴーニュ公)の道化師の役目を果たしていた」ことを知っておく必要がある。[1465]
⚠️マダム・ドール(Madame d'Or):フランスの有名な宮廷道化師。ブルゴーニュ公が金羊毛騎士団を創設したときの式典ですばらしい演技を披露。比類なき美しさ、俊敏さ、高い運動能力を備えた体操選手のような女性だったらしく、「非常に優雅な道化師(moult gracieuse folle)」と称賛された。
ジャンヌは、ロシュフォール卿とモラン卿との間で、捕虜に関して合意に達することができなかった。
彼らの側に、正義(正当な権利)があった。
彼女にはただ、優しい心の衝動があるだけだった。
この言い争いは、両陣営の兵士たちに大きな娯楽を提供し、大いに楽しませた。
シャルル王がこのことを知らされると、彼は微笑んで、争いを解決するために捕虜の身代金を払うと申し出た。身代金は、捕虜一人につき銀1マルクと定められた。
身代金を受け取ったブルゴーニュ軍の兵士たちは、フランス王の寛大さを称賛した。[1466]
⚠️補足:ブルゴーニュ派はトロワ条約を根拠にシャルル七世のフランス王位継承を認めていないが、市民や兵士の反応を見るとだいぶ軟化している様子が窺える。なお、通貨単位のマルクは主にドイツ、イングランド、スコットランドで使用されていたもの。
同日(7月10日)日曜日の午前9時ごろ、シャルル王はトロワの町に入城した。王は祝祭用の礼服(ローブ)を身につけ、ベルベット、金糸、宝玉で輝いていた。
アランソン公と、旗を手にしたジャンヌが、王のそばを騎乗して進んだ。
その後に、すべての騎士団が続いた。
町の住民はかがり火を焚き、輪になって踊った。
小さな子供たちは「ノエル!(万歳)」と叫んだ。
修道士リシャールは説教していた。[1467]
ジャンヌは教会で祈りを捧げた。
ある教会で、ジャンヌは洗礼盤の上に赤ん坊を抱いた。
まるで王女か聖女のように、ジャンヌは頻繁に、知らない子供たち、二度と会うことのない子供たちの名付け親になるよう頼まれた。
ジャンヌは通常、王に敬意を表して男児にシャルルと名付け、女児には彼女自身の名前であるジャンヌを与えた。時には、母親が選んだ名前で子供たちを呼ぶこともあった。[1468]
*
翌日の7月11日、アンブロワーズ・ド・ロレ卿の指揮下で、城壁の外に残っていた軍隊が町を通過した。
兵士の入城は、ペストと同じくらい市民たちが恐れる災難だった。[1469]
シャルル王は、市民に被害を与えないように注意喚起し、災難を抑えるために措置を講じた。
王の命令により、伝令たちは大声で「兵士が家に押し入ったり、町の住民の意思に反して何かを持ち出した場合、絞首刑に処す」と宣言してまわった。[1470]
いいなと思ったら応援しよう!
最後までお読みいただきありがとうございます。「価値がある」「応援したい」「育てたい」と感じた場合はサポート(チップ)をお願いします。