教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|下巻・第十六章 続・ラ・ピュセルの死後/バーゼル公会議のルーアン判事と国事詔書/復権裁判/セルメーズのラ・ピュセル/ル・マンのラ・ピュセル
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アナトール・フランス著『ジャンヌ・ダルクの生涯(Vie de Jeanne d'Arc)』完訳プロジェクト。原著は1908年発行。
1920年:ジャンヌ・ダルク列聖
1921年:A・フランス、ノーベル文学賞受賞
1922年:ローマ教皇庁の禁書目録に登録
現在、禁書制度は廃止されてますが、教皇庁は「カトリック教義を脅かす恐れがある禁書だった本を推奨することはできない」という立場を表明しています。
▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか
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16.1 ジャンヌを裁いた者たちの邂逅(1)バーゼル公会議
新約聖書『ヨハネの黙示録』に登場するドラゴンの長大なしっぽのように、バーゼル公会議の開催期間は毎年毎年、延々と審議を長引かせた。
教会とその構成員と指導者を一挙に改革するというそのやり方は、ローマ教皇と枢機卿団の心に恐怖を植え付けた。
アエネアス・シルウィウス(のちの教皇ピウス二世)は悲痛な叫びをあげた。
「バーゼルに集まっているのは、
神の教会ではなく、サタンの会堂だ」[1086]
⚠️アエネウス・シルウィウス(Æneus Sylvius):ローマ神話に登場する伝説上の王。15世紀にいるはずがないので引用元を当たったところ、ガストン・ボークール著『シャルル七世の歴史』第三巻。たまたま、同著を個人的に翻訳していた(未公開)ので確認したら、のちの教皇ピウス二世ことアエネアス・シルウィウス・ピッコローミニと判明。
⚠️アエネアス・シルウィウス・ピッコローミニ(Aeneas Silvius Piccolomini):神聖ローマ帝国の使節としてバーゼル公会議に参加し、教皇派と公会議派の対立を収束するために尽力。のちに教皇ピウス二世となり、晩年の回想録でジャンヌ火刑を知ったときのシャルル七世の反応をつづっている。
しかし、ローマ枢機卿ひとりの発言とはいえ、この表現は乱暴とは言いがたい。バーゼル公会議では(1)司教職の自由選挙を確立し、(2)パリウム(祭服)の授与権や初穂税、教皇庁への奉納金を取り立てる権利を廃止し、(3)教皇職を福音主義的な清貧さへと回帰させよう(ようするに教皇とその取り巻きの弱体化)と努めていたのだから。
⚠️パリウム(pallium):教皇や大司教が身につける肩掛けの祭服。
⚠️初穂税(annates):聖職禄を得た聖職者が、最初の1年分の収入を教皇や上位聖職者に納める年貢のこと。初年度収入税とも。
バーゼル公会議が、ローマ司教たちの野心と強欲さを抑制しようと試みた際、フランス王と神聖ローマ皇帝はその成り行きを好意的に見守っていた。
*
今、教会改革に最も熱意を示した神父たちの中には、パリ大学の教授や博士たち、ジャンヌ・ラ・ピュセルの裁判に列席していた者たち、とりわけ著名なニコラ・ロワズルール師とトマ・ド・クールセル師がいた。
シャルル七世は、バーゼルで制定された教会法を審査するため、王国の聖職者会議を招集した。会議は1438年5月1日、ブールジュの聖なる礼拝堂(サント・シャペル)で開かれた。
公会議の代表に任命されたトマ・ド・クールセル師は、ブールジュに派遣され、そこでカストル司教と協議した。
1438年当時のカストル司教は、かの上品な人文主義者、熱心な王室顧問であり、まさにキケロ風の雄弁な文体で、手紙の中で「自分の『教区』である宮廷にあまりに堅く縛り付けられているため、『妻』を訪ねる時間さえない」と嘆いていた。[1087]
このカストル司教とは、国王の聴罪司祭ジェラール・マシェのことである。
1429年にポワティエの聖職者たちと共にジャンヌを審議し、彼女の中に誠実さと善良さしか見出せなかったことを理由に、乙女を支持して予言の権威を主張(王に進言)した。[1088]
一方、(現在の協議相手である)トマ・ド・クールセル師は、ルーアンで乙女を拷問にかけるよう提案し、世俗の権力(処刑の執行者)に引き渡すよう強く主張していた。[1089]
ブールジュの会議でこの二人の聖職者は、「公会議の優位性、司教選挙の自由、初穂税の廃止、そしてガリア教会(フランス教会)の権利」について合意した。この時、彼らのどちらかが、あの哀れな乙女のことを思い出していたとは考えにくい。
トマ・ド・クールセル師が重要な役割を果たしたこのブールジュ会議の審議の結果、1438年7月7日に国王によって発布された厳粛な勅令、いわゆる『ブールジュの国事詔書(プラグマティク・ザンクション)』が生まれた。この勅令により、バーゼルで定めた教会法はフランス教会の憲法となった。[1090]
⚠️ブールジュの国事詔書(Pragmatic Sanction):教皇と対立しているバーゼル公会議を支持し、公会議が教皇よりも上位であると示すと同時に国王の教会監督権を宣言。国家教会を設立し、フランス国内で教皇が徴収していた奉納金(税金)を廃止し、教会禄の授与権も取り上げた。これはフランス国内の教会に対する教皇の権限を制限し、教皇の国政介入を低下させる事を目的としたもので、フランス教会独立主義(ガリカニスム)推進の嚆矢となった。
16.2 ジャンヌを裁いた者たちの邂逅(2)ピエール・コーション破門
フランス王に続き、神聖ローマ皇帝もバーゼル公会議の改革案に同意した。
しかし、公会議の神父たちはますます大胆になり、恐れ多くも教皇エウゲニウス四世を彼らの法廷に出頭するよう召喚した。
教皇が応じなかったため、彼らはエウゲニウス四世を罷免し、彼について「不服従、強情、反逆者、規則違反者、教会統一を乱す者、偽証者、分裂主義者、頑固な異端者、教会財産の浪費者、醜聞を招く不道徳者、聖職売買を行う者、有害かつ忌まわしい者」と宣言した。[1091]
これは、本書でおなじみのジャン・ボーペール師、トマ・ド・クールセル師、ニコラ・ロワズルール師といった面々が、他の博士たちと共に宣言した『聖なる神父たちの非難声明』である。この3人は皆、教皇への服従を拒んだことを理由に、ジャンヌを激しく攻撃していた連中だ。[1092]
ニコラ・ロワズルール師は、ジャンヌの裁判の間中、極めて精力的に活動していた。ロレーヌの靴職人と聖カタリナの役をかわるがわる演じ分け、ジャンヌが火刑台に引きずり出されるまで狂ったように彼女を追いかけた。[1093]
ニコラ師は、バーゼル公会議でも精力的に活動してある程度の名声を得た。彼は「教会法に基づいて招集される公会議は、教皇よりも上位にあり、教皇を罷免する権限を有している」という見解を支持した。
この(ルーアン教区の)聖堂参事会員は単なる学者にすぎなかったが、バーゼルの神父たちに強い印象を与え、1439年には法律顧問としてマインツの帝国議会に派遣された。
一方、ニコラ師の言動は、公会議へ彼を代表として派遣していた(ルーアンの)聖堂参事会に強い不快感をもたらした。ルーアンの参事会員たちはローマ教皇を支持し、公会議の神父たちに反対していたため、パリ大学と対立した。
もはやルーアン参事会はニコラ・ロワズルールを自分たちの代表とは認めず、1438年7月28日に彼を呼び戻すよう命じた。[1094]
⚠️補足:ニコラ・ロワズルールは聖職者としては身分が低く、ただの学者にすぎないのに、「ルーアンの地域代表」から逸脱して「公会議の代表」のように振る舞ったため、もともとの任命者(ルーアン参事会)から否認された。
トマ・ド・クールセル師もまた、教皇を「不服従、強情、反逆者」などと非難した連中の一人だったが、新教皇の選出を主宰する委員に指名され、ロワズルールと同様に、マインツの帝国議会に派遣される代表になった。
しかし、ロワズルールとは異なり、彼はもともとの任命者から否認されなかった。
なぜなら、彼はパリ大学の代表であり、公会議が定めた対立教皇フェリクス五世をキリスト教徒たちの真の父と認めていたからである。[1095]
1440年8月にブールジュで開かれたフランス聖職者会議において、トマ師はバーゼル公会議の神父たちを代表して演説した。彼は2時間にわたって熱弁し、国王を大いに満足させた。[1096]
シャルル七世は、教皇エウゲニウス四世への忠誠を保ちつつも、『ブールジュの国事詔書(プラグマティク・ザンクション)』を堅持した。トマ・ド・クールセル師は、これ以降、フランス教会の支柱の一人となった。
*
一方、イングランド政府は教皇を支持し、バーゼル公会議に反対すると宣言した。[1097]
⚠️補足:シャルル七世のフランス政府は「どっちも取り(教皇の権威を認めつつ、公会議の改革も支持)」、イングランド政府は「教皇一択(公会議の改革は認めない)」という対比。
この頃、リジュー司教となっていた(元ボーヴェ司教)ピエール・コーションは、バーゼル公会議でヘンリー六世の使節を務めていた。
そして、バーゼルでは少々不愉快な出来事が降りかかった。リジュー司教区への転任で生じた金貨400フローリン相当の初穂税を滞納していたのだ。
ドイツで、ローマ教皇の財務官から「長期間の猶予を与えたにもかかわらず、初年度税(初穂税)の未払いを理由に破門された」ことを告げられ、さらに「破門の身でありながら、差し出がましくも聖務(ミサ)を執りおこなったため、教会法の不正行為を犯した」と非難された。[1098]
この告発は、彼をかなり苛立たせたに違いない。しかし、結局のところ、こういう出来事は頻繁にあり、大したことではなかった。聖職者たちにとって、これらの雷(破門)は軽いもので、大きな痛手にはならなかった。
⚠️フローリン(florin):イタリアやドイツなど主に西ヨーロッパで流通していた金貨と銀貨。銀貨の方はギルダーとも呼ばれる。
16.3 シャルル七世のフランス再征服、百年戦争終結
1444年以降、フランス王国は敵からも味方からも等しく解放され、自由に働き、様々な職業に就き、商業を営み、富を築くことができるようになった。
戦争の合間や休戦期間中、シャルル王の政府は、天然産物や商品の交易によって、さらにセーヌ川、オワーズ川、ロワール川の通行料や課徴金の廃止によって、ノルマンディーの《《実質的な征服》》を成し遂げた。
したがって、《《名目上の征服》》の好機が訪れたとき、フランスはその地方(ノルマンディー)をただ手に入れるだけでよかった。ノルマンディー征服はあまりに容易になっていたため、1449年の迅速な軍事行動では[1099]、リッシュモン大元帥もアランソン公でさえも敗北しなかった。
シャルル七世は、この王らしい平和的なやり方で、ルーアンの町を再び手に入れた。それはちょうど20年前、トロワとランスを奪取したのと同様に、市民との合意の結果であり、恩赦および市民への権利や特権の付与と引き換えだった。
1449年11月10日の月曜日、シャルル七世はルーアンに入城した。
フランス政府は、実質的にイングランドの領土となっていたアキテーヌ地方の再征服を試みるだけの力がついたと感じていた。
⚠️補足:アキテーヌ(ギュイエンヌとも)は百年戦争勃発以前から数百年にわたりイングランド王の所領だったが、ヴァロワ王朝初代フィリップ六世は、王位継承を認めないエドワード三世からアキテーヌ領没収を宣言した。百年戦争の背景を考えると、アキテーヌ征服は歴代ヴァロワ王家の悲願といえる。なおシャルル七世はヴァロワ王朝5代目。
1451年、今やデュノワ伯となった「オルレアンの私生児」ジャン卿がブレイの要塞を占領した。ボルドーとバイヨンヌも同じ年に降伏した。
ル・マン司教は、最もキリスト教的な王(フランス王の伝統的な称号)の威厳にふさわしいこれらの征服について、次のように祝辞を述べた。
「メーヌ、ノルマンディー、アキテーヌ、これらの美しい地方は国王への忠誠へと立ち返った。フランス人の血をほとんど流すことなく、この偉業は成し遂げられた。多くの堅固な城壁で囲まれた町の塁壁を崩したり、町の防御施設を破壊したり、住民が略奪や殺害に苦しむ必要もなかった」[1100]
実際、ノルマンディーとメーヌは再びフランス領に戻ったことに大いに満足していた。
ボルドーだけが、イングランド人の撤退で町が破滅することを嘆いていた。
1452年に反乱を起こしたが、その後、多大な困難を経て、ついに完全に再征服された。
訳者のこぼれ話:傭兵くずれの略奪者たちはどこへ行ったのか?
本書のメインテーマから外れるので、ジャンヌの死後がダイジェストになってしまうのは仕方ないが…
フランス王国は敵からも味方からも等しく解放
ノルマンディー征服はあまりに容易になっていた
この1行でまとめられたことを成し遂げるために、シャルル七世と家臣団がたどってきた経緯を知っていると、もっとこう……深掘りしてねちねち語りたくなる。
本書の上巻〜下巻の半ばにかけて、フランス中で敵味方を問わず荒らし回っていた《《傭兵くずれ》》の略奪者たちはどこへ行ったのか?
もうすぐ完訳・完結するので、年明けから『7番目のシャルル』を再開する予定ではあるものの、筆が進まない場合は、『シャルル七世の軍事改革勅令』を公開するかもしれません(現在はpixivFANBOX支援者限定)。
ガストン・ボークール著『シャルル七世の歴史』も着手したい。←広辞苑を超えるボリュームで、全6巻中3巻途中で止まってる。
16.4 ジャンヌの復権裁判(1)教皇を動かすための方便
富と勝利を手中に収めたシャルル王は、1431年の判決によって自身の名声についた汚点を消し去りたい、全世界に向けて「自分を戴冠式へと導いたのは魔女ではない」と証明したいと願っていた。
そして今、王はジャンヌの有罪判決に対して上訴することを熱望していた。
しかし、この有罪判決は教会によって宣告されたもので、取り消しを命じることができるのは教皇だけだった。国王は、それが容易ではないと承知しつつも、教皇にこの件を取り計らってほしいと願っていた。
1450年3月、国王は予備調査に着手したが[1101]、教皇庁特使のデストゥートヴィル枢機卿がフランスに到着するまで進展は見込めず、塩漬け状態だった。
教皇ニコラウス五世は、フランス王とイングランドとの和平、およびトルコに対する十字軍参加について交渉するために、デストゥートヴィル枢機卿を派遣した。
ノルマンディー出身のデストゥートヴィル枢機卿は、ジャンヌの裁判の不備を見抜くのにまさにうってつけの人物だった。シャルル王の機嫌を取るため、彼は教皇特使として、フランス王国の異端審問官であり説教修道会(ドミニコ会)の修道士ジャン・ブレアルの協力を得て、ルーアンで新たな調査を開始した。
しかし、教皇は特使の介入を認めなかったため[1102]、その後3年間、再審理の手続きは進められなかった。ニコラウス五世は「最も神聖なる異端審問所の聖なる法廷が誤りを犯す可能性があり、一度でも不当な判決を下した」などと考えたくなかったのである。
また、ローマには、1431年の裁判に介入したくない、もっと強力な理由があった。
フランスは再審理を要求していたが、イングランドはそれに反対していたのである。教皇はイングランド人を怒らせたくなかった。なぜなら、当時のイングランドはフランスと同等かそれ以上に良きカトリック教徒だったからだ。[1103]
⚠️補足「当時のイングランドは良きカトリック教徒だった」:16世紀のイングランド王ヘンリー八世は、自身の婚姻問題に絡んでイングランド国教会をカトリックから分離させた。
ローマ教皇の困惑を和らげ、安心させるために、シャルル七世の政府はある方便をひねり出した。
国王は表立って訴訟に参加しない。王の代わりに乙女(ラ・ピュセル)の家族が原告として出るというものだ。
オルレアンで隠棲していたジャンヌの母イザベル・ロメ・ド・ヴートン[1104]と、彼女の二人の息子ピエールとジャン・デュ・リスが、再審理を請求した。[1105]
この法的な策略により、ジャンヌの裁判は政治的な訴訟から私的な訴訟へと転換した。
1455年3月24日、教皇ニコラウス五世が死去した。後継者のカリストゥス三世はボルジア家出身で、78歳の老人だったが、1455年6月11日付の教皇勅令で再審手続きの開始を認可した。
この目的のために、ランス大司教ジャン・ジュヴネル・デ・ユルサン、パリ司教ギヨーム・シャルティエ、クータンス司教リシャール・オリヴィエの3人を教皇代理委員に任命し、彼らはフランス大審問官と共同で活動することとなった。[1106]
16.5 ジャンヌの復権裁判(2)事情聴取
はじめに、最初の裁判に関わった特定の人物たちは「欺かれていた」ことを理由に、再審理に関与しないことで同意された。とりわけ、「国王の娘」であり「学問の母」であるパリ大学は、「12箇条からなる虚偽の起訴状によって誤った判断に導かれた」と認められた。
すべての責任は、ボーヴェ司教ピエール・コーションと異端審問検察官ギヨーム・デスティヴェに負わせるべきだと合意されたが、両名ともにすでに故人だった。
この予防措置は必要不可欠だった。もし講じなければ、国王に多大な影響力を持ち、フランス教会にとっても非常に大切な一部の博士たちが、大きな恥辱を被っただろう。
*
1455年11月7日、イザベル・ロメと彼女の二人の息子は、数え切れないほどの聖職者、世俗の一般人、高潔な女性たちからなる長い行列を従えて、パリのノートルダム大聖堂を訪れ、高位聖職者と教皇委員たちに正義(公正な審判)を求めた。[1107]
亡きジャンヌの裁判における密告者と告発者は、12月12日にルーアンに出廷するよう召喚されたが、誰一人として現れなかった。[1108]
亡きピエール・コーションの相続人たちは、故人の行為について一切の責任を負うことを拒否し、民事上の責任に関しては、ノルマンディー奪還の際に国王から与えられた大赦令を盾にとった。[1109]
予想通り、審理は何の障害もなく、議論の余地さえなく進行した。
*
ドンレミ、オルレアン、パリ、ルーアンで調査が開始された。[1110]
ジャネット(ジャンヌの幼名)の幼なじみたち、結婚してすでに年老いていたオヴィエット(Hauviette)とメンジェット(Mengette)、テヴナンの妻ジャネット、エステランの未亡人ジャネット、グルー村のジャン・モレル、ブルゴーニュ派だったジェラルダン・デピナルとその妻でジャック・ダルクの娘の名付け親だったイザベレット、鐘つきのペラン、ジャンヌの叔父ラッソワ、ルロワ夫妻、そしてドンレミの20人ほどの農民たちが全員出廷した。
63歳でフランス王の厩舎役となっていたベルトラン・ド・プーランジが聴取された。また、貴族に列せられ、現在はヴォークルールに住んで軍務に就いている、通称ジャン・ド・メスことジャン・ド・ヌイヨンポンも同様だった。
⚠️ベルトラン・ド・プーランジとジャン・ド・メス:ヴォークルールからシノンまでジャンヌを送り届け、その後も行動をともにしていた護衛たちの代表格。
ロレーヌやシャンパーニュの貴族と聖職者たちも尋問を受けた。[1111]
オルレアン市民も召喚されたが、その中で注目すべきは、織物商のジャン・リュイリエだ。彼は1429年6月にジャンヌのガウン用にブリュッセル産の上質な鮮紅色の布を仕入れ、その10年後には、火刑を逃れたと信じられていた自称ジャンヌ(アルモワーズ夫人)を称えてオルレアンの行政官たちが催した宴会に出席していた。[1112]
ジャン・リュイリエは証人たちの中で最も賢かった。他の証人たち、すなわち50歳から60歳くらいの男女の市民20人余りについては、ほとんど彼の証言を繰り返すにすぎなかった。[1113]
リュイリエは雄弁だったが、イングランド兵への恐怖で目がくらんでいたのか、実際よりも誇張された敵兵を目撃したようだ。
⚠️補足:ようするに、ジャン・リュイリエの記憶と証言は実際よりも誇張されている可能性がある。
16.6 ジャンヌの復権裁判(3)戦友たちの証言
ポワティエでの尋問に関しては、弁護士で従騎士で実業家であり、ジャンヌが尋問された当時は15歳だったフランソワ・ガリヴェルが召喚された。[1114]
召喚に応じた聖職者は、リムーザン出身のセガン修道士ただ一人だった。[1115]
ポワティエの聖職者たちは、ルーアンの聖職者たちと同様に、この件(ジャンヌの審査に関わったこと)でみずからを危険にさらすことを嫌がった。火傷をした子どもは火を恐れるものだ。
⚠️リムーザン出身の修道士セガン:ポワティエの審理では比較的ジャンヌに厳しかった(といっても異端審問の厳しさとは別物)ため、ジャンヌはセガンの南部訛りをからかって辛辣な態度で応じた。ジャンヌを全肯定する人たちから嫌われている人物だが、復権裁判の召喚に応じるなどの動向から察するに誠実な人格者だったと考えられる。
ポワティエの審理での質疑応答については、上巻・第七章『7.6 ラ・ローズ邸にて(4)修道士セガンとの論争』参照。
ラ・イルとポトン・ド・サントライユは、すでにこの世を去っていた。
オルレアン包囲戦とパテーの戦いの生存者たちが召喚された。
現在はデュノワ伯兼ロングヴィル伯となっている「オルレアンの私生児」ジャンは、まるで書記(聖職者)のように証言をした。[1116] 老ゴークール卿は85歳になっており、記憶を呼び覚まそうといくらか努力したが、それ以外はデュノワ伯と同じ証言をした。[1117] アランソン公はイングランドと同盟を結び、国王の命を奪うための粉末(火薬または毒薬)を手に入れようとしていたが[1118]、昔と変わらずおしゃべりでうぬぼれが強かった。[1119] ジャンヌの執事(従騎士)を務めていたジャン・ドーロンは[1120]今や正騎士となり、国王の顧問官およびボーケールの代官となっていた。そしてジャンヌの小姓だったルイ・ド・クートは、42歳の貴族となっていた。[1121]

修道士パスケレルも召喚されたが、彼は歳を重ねてもなお、浅薄で信じやすい性格のままだった。[1122]
また、ルネ・ド・ブーリニー師の妻だった未亡人マルグリット・ラ・トゥルルド嬢も聴取され、彼女は記憶していることを繊細かつ上品に語った。[1123]
16.7 ジャンヌの復権裁判(4)乙女を裁いた者たちの証言
ルーアン大司教ラウル・ルーセル氏は、ボーヴェ司教と並んで「乙女」を裁く場に列席していたにもかかわらず、裁判の実際の経緯に関する証人として召喚されないよう、細心の注意が払われた。
副審問官だったジャン・ル・メートル修道士に至っては、完全に無視されており、まるで死んでしまったかのようだった。
それにもかかわらず、陪席判事たちの一部は召喚された。
パリ、ブザンソン、ルーアンの参事会員ジャン・ボーペール、ノワイヨン司教ジャン・ド・マイイ、デメトリアド司教ジャン・ルフェーヴル、ルーアンのさまざまな参事会員と雑多な聖職者たちである。彼らの中には、愛想よくお世辞を言う者もいれば、厳しく顔をしかめている者もいた。[1124]
そして最後に、最も名高いトマ・ド・クールセル、その人はボーヴェ司教の最も勤勉かつ熱心な協力者だったにもかかわらず、復権裁判の委員たちの前に立ったときには、何も思い出せなかった。[1125]
ジャンヌに有罪判決を下すために最も熱心に働いた者たちが、今や彼女の名誉回復のために最も熱心に働いていた。
ボーヴェ司教の書記官たち、ボワギヨーム、マンション、タクィルといった、彼女の死刑判決のために使われた「教会のインク壺」たち全員は、その判決を取り消さなければならなくなったとき、驚くべき働きを見せた。
処刑裁判で示したすべての熱意を、今度はその再審理において発揮し、彼らは裁判のあらゆる欠陥をすすんで見つけ出す準備をしていたのである。[1126]
そして、この法を巧妙に操る善意の捏造者どもは、自分たちが正式な手続きに則って犯した残酷な不正を、なんとお粗末で卑しい口調で糾弾したことか!
その中には、法廷執行吏(案内係)のジャン・マシューもいた。彼はふしだらな司祭で[1127]、道徳観念のかけらもない人物だったが、それでも親切な人物だった。とはいえ、少々ずる賢く、コーションを貶める数々の馬鹿げた作り話をでっち上げた。まるで、あの老司教がこれまで十分に腹黒い人物ではなかったかのように。[1128]
復権裁判の委員たちは、ルーアンの説教修道会(ドミニコ会)の修道院から、マルタン・ラドヴニュ修道士とイザンバール・ド・ラ・ピエール修道士という哀れな修道士二人を連れてきた。
彼らは、かつて自分たちが異端者と断じ、次いで再犯者と断じ、最後には生きたまま焼き殺したあの哀れな「乙女」の敬虔な最期を語りながら、胸が張り裂けんばかりに涙を流した。
ジャンヌの裁判にかかわったことに、自責の念を感じている者はひとりもいなかったが、聖なる乙女の記憶を思い出しながら感動しなかった者もひとりもいなかった。[1129]
⚠️わかりにくいので補足:ジャンヌを断罪して処刑判決を下した当事者たちは、良心の呵責を感じるどころか、感動的な聖人伝をこしらえて涙ながらに証言している。当事者意識の欠如、無責任さに著者はかなり呆れている。
16.8 ジャンヌの復権裁判(5)奇跡が存在した理屈
フランス国内外の著名な博士、教会法学者、神学者、法律家によって作成された膨大な覚書が、復権裁判のために提出された。彼らの主な目的は、「ジャンヌが自身の言動を、ローマ教会と教皇の判断に委ねていた」ことを、スコラ学的な推論によって立証することだった。
これらの博士たちは、「1431年の裁判官たちは非常に神経質で、ジャンヌは非常に単純だった」と証明した。確かに、それは彼女が教会に服従していたことを証明する最良の方法であったことは間違いない。
しかし、彼らはやり過ぎてしまい、彼女をあまりにも単純な人物にしてしまった。
彼らによれば、「ジャンヌは完全に無知で、ほとんど白痴であり、何も理解しておらず、自分を尋問する聖職者たちだけが『戦う教会』を構成していると思い込んでいた」というのである。
これは、1429年当時のフランス陣営の博士たちが受けたジャンヌの印象だった。アンブラン大司教は「ラ・ピュセル(乙女)はアン・ピュス(une puce:蚤)である」と評していた。[1130]
しかし、ジャンヌをできる限り弱々しく愚かに見せかけたのは、もうひとつ理由があった。そのような描写は、彼女を通してフランス王をその継承地に復帰させた神の力を高めることになったからである。
ジャンヌに関するこの見解を裏付ける証言は、委員たちによってほとんどの証人から得られた。
彼女は単純だった。とても単純だった。完全に単純だった……、と証人たちは口々に繰り返した。そしてみんな、同じ言葉を付け加えた。
「そう、彼女は単純だった。ただし、戦争の技術に関しては別で、彼女は非常に熟練していた」[1131]
隊長たちは、彼女がいかに大砲の配置に長けていたかを語ったが、実際はそうではないことを彼らは重々承知していた。
しかし、《《神自身がジャンヌを導いてイングランド軍と戦わせた》》ならば、彼女が戦い方を熟知してないことがあり得ようか?
未熟な少女が戦争の技術を習得していた——、これこそがジャンヌの奇跡が存在した理屈なのである。
*
フランス大審問官のジャン・ブレアルは、自身の『回想録』の中で、ジャンヌが神から遣わされたと信じる理由を列挙している。
最も強く感銘を与えた証拠のひとつは、「彼女の到来が魔術師マーリンの予言で予告されていた」ことだという。[1132]
ジャン・ブレアルは、「ジャンヌの返答のひとつから、彼女が最初に幻視を体験したのが13歳だったことを証明できる」と信じ、この事実はいっそう信憑性が高いと主張している。
なぜなら、この「13」という数字は、聖なる三位一体を示す「3」と、十戒の完全な遵守を表す「10」から成っており、神の訪問にとって驚くほど好都合だからである、と論じている。[1133]
16.9 ジャンヌの復権裁判(6)公的な和解と、変わらない伝説
1455年6月16日、1431年の有罪判決は不当であり、根拠がなく、邪悪なものであると宣言された。以前の判決は無効とされ、法的効力を持たないと宣告された。
こうして、シャルル王を戴冠式へ導いた神の使者ジャンヌ・ラ・ピュセルの名誉は回復され、彼女の記憶は教会と和解した。
しかし、この子供(ジャンヌ)が現れたときに、あれほど多くの信心深い伝説や英雄的な寓話を生み出した豊かな源泉は、これ以降、すっかり枯渇してしまった。
また、復権裁判の審理は、民衆の間で流布している伝説にほとんど影響を与えなかった。火刑台から鳩が飛び立っただとか、炎の文字でイエス・キリストの名が記されただとか、灰の中から心臓が無傷のまま残っただとか、ありふれた処女殉教の常套句をジャンヌの死と結びつけることを可能にしただけだった。[1134]
邪悪な異端審問官たちが悲惨な死を遂げたことが強調された。
確かに、異端審問官検事のジャン・デスティヴェは鳩小屋で死体となって発見され[1135]、ニコラ・ミディはハンセン病にかかり、ピエール・コーションはひげを剃っている最中に死んだ。[1136]
しかし、ジャンヌを支援したり同行したりした仲間たちの中にも、不遇な最期を遂げた者が少なくなかった。
例えば、ジャンヌを国王のもとへ送り出したロベール・ド・ボードリクール卿は、トゥール教区の聖職者領を荒らした罪で破門され、獄死した。[1137] ジル・ド・レ元帥はおぞましい事件を引き起こして死刑を宣告された。[1138] アランソン公は反逆罪で有罪となり、一度は恩赦を受けたものの、再び罪に問われて獄中で死んだ。[1139]
16.10 乙女の後継者(1)セルメーズのジャンヌ・ラ・ピュセル
シャルル七世が1431年の裁判の予備調査を命じてから2年後、ある女がアルモワーズ夫人の例に続いて、ジャンヌ・ラ・ピュセルを名乗った。
当時、マルヌ川とムーズ川に挟まれたセルメーズという小さな町に、ジャンヌの2人のいとこ、ポワレソンとペリネが住んでいた。(ジャンヌの母)イザベル・ロメの兄で、生前は屋根葺き職人をしていた亡きジャン・ド・ヴートンの息子たちだ。
⚠️セルメーズ(Sarmaize):フランス北部オワール地方の町。
1452年のある日、セルメーズのノートルダム教会の主任司祭(curé)シモン・フォシャールが町の市場にいたところ、若者の格好(男装)をした女が近づいてきて、テニスをしようと誘った。
彼は承諾し、試合が始まるとその女は言った。
「はっきり言うけど、あなたはあのラ・ピュセルとテニスをしているんですよ」
この言葉を聞いて、シモン・フォシャールは大いに喜んだ。
その後、女は大工のペリネの家に行き、「私はラ・ピュセルです。いとこのアンリに会いに来ました」と言った。
ペリネ、ポワレソン、アンリ・ド・ヴートンの3人は彼女を歓待し、家に泊めて、好きなだけ飲み食いさせた。[1140]
やがて、彼女は満足すると立ち去った。
彼女はどこから来たのか? 誰も知らない。
彼女はどこへ行ったのか? おそらく、それから間もなく、髪を短く切り、頭にフードをかぶり、プールポワンと長靴下(ショース)を身につけてアンジュー地方を放浪し、みずからを「ジャンヌ・ラ・ピュセル」と名乗った女詐欺師と同一人物だろう。
博士や学者たちが裁判の再審理に従事し、王国各地からジャンヌの生涯と死に関する証言を集めていた頃、この偽ジャンヌは多くの人々から信頼を得ていた。
しかし、彼女はソムセーで貴婦人とのトラブルに巻き込まれて[1141]、ソミュールの牢獄に投獄され、3カ月間そこに留め置かれた。
刑期が終わると、彼女は善良王ルネ(シャルル七世の義弟ルネ・ダンジュー)の領地から追放され、ジャン・ドゥイエという男と結婚した。
1456年2月3日付の文書によれば、その後はまっとうに暮らし、男装をやめる条件でソミュールへ戻ることを許された。[1142]
16.11 乙女の後継者(2)ル・マンのジャンヌ・ラ・フェローヌ
ほぼ同じ頃、ル・マン司教区のラヴァルに、近隣のシャッセ=レ=ユッソン出身で18歳から22歳くらいの娘がやってきた。父親の名はジャン・フェロンといい、彼女は通称ジャンヌ・ラ・フェローヌと呼ばれていた。
彼女は天からの啓示を受け、イエスとマリアの名を絶えず口にしていたが、悪魔に容赦なく苦しめられていた。
アンドレ卿とギー卿の母であるラヴァル夫人は、当時かなりの高齢だったが、この聖なる乙女の信心深さと受難に驚嘆し、この娘をル・マンの司教のもとへ送った。
1449年以来、ル・マンの司教座はトゥーレーヌ出身のマルタン・ベリュイエが占めていた。若い頃にパリ大学で哲学と修辞学の教授を務め、その後は神学に専念し、ナバラ学寮の指導者の一人となった。高齢で体が弱っていたにもかかわらず、その学識は深く、復権裁判の委員たちから相談を受け[1143]、『乙女に関する覚書』を作成したほどだった。
その中でマルタン・ベリュイエは、「彼女は卑しく極貧で、使命に関すること以外ではほとんど白痴に見えた」という理由から、「彼女は真に神から遣わされた」と信じていた。彼が言うには、「神が乙女の助けを王に与えたのは、王の徳ゆえである」と主張している。[1144]
この考えは、フランス側の神学者たちに好意的に受け入れられた。
マルタン・ベリュイエ司教は、ジャンヌ・ラ・フェローヌの告解(懺悔)を聞き、新たな洗礼を施し、信仰を堅固にさせ、神の母である聖母マリアがそのしもべに与えた豊かな恵みに感謝して、彼女にマリーという名を与えた。
この娘は悪霊の激しい攻撃にさらされていた。
ル・マン司教は、彼女が血まみれの傷に覆われ、敵の手中に捕らわれてもがき苦しんでいる姿をしばしば目撃し、数回にわたる悪魔祓いで彼女を救った。
彼女は驚くべき秘密を明かし、敬虔な啓示と気高いキリスト教的な言葉を豊かに授け、司教は大いに教化された。彼は、ラ・フェローヌを称賛する手紙[1145]を王国の諸侯や共同体に多数書き送った。
当時、だいぶ高齢となり、ずいぶん前から夫と疎遠になっていたフランス王妃は、ル・マンの乙女(ラ・ピュセル)の噂を聞きつけ、マルタン・ベリュイエに手紙を書き、その娘を紹介してくれるよう頼んだ。
こうして、この歴史の中で何度も繰り返されてきたことが起こった。
瞑想にふけりながら暮らす信心深い人物が予言を口にすると、権力者たちが興味を抱き、その人物の内面に現れる善良さが真実か偽りかを知るために、教会の審判に委ねようとするのだ。国王の役人たちはル・マンのラ・フェローヌを訪れた。
フランス王国に関する啓示が下されていたので、彼女は彼らに次のように語った。
「国王陛下に謹んで私を推薦してください。そして、神が国王に与えた恩寵を認識し、民の重荷を軽くするよう伝えてください」
1460年12月、彼女はトゥールで開かれていた王室評議会に召喚された。その頃の国王は足に潰瘍を患い、レ・モンティル城に滞在していた。[1146]
ル・マンの乙女はジャンヌ・ラ・ピュセルと同様に尋問を受けたが、結果は芳しくなかった。彼女はあらゆる点で欠けていると判断された。
教会法廷に引き出された彼女は、詐欺の罪で有罪判決を受けた。
彼女は処女ではなく、それどころかある聖職者の愛人であり、ル・マン司教に仕えるある人物(黒幕)が彼女に何を言うべきかを教え込まれていた。司教マルタン・ベリュイエ師に与えた啓示の出どころは、告解(懺悔)の守秘義務のもとで、その黒幕から指示されていたことが判明した。
偽善者、偶像崇拝者、悪魔召喚者、魔女、妖術師、好色家、ふしだらな者、呪術師、虚偽の巣窟であるとして断罪された彼女は、愚者の帽子をかぶせられ、ル・マン、トゥール、ラヴァルの各都市で、公衆の面前で説教される刑に処された。
1461年5月2日、彼女はトゥールの民衆の前に晒された。紙の帽子をかぶり、頭上にはラテン語とフランス語で彼女の行いが記された巻物が掲げられていた。
王立ナバラ学寮の総長ギヨーム・ド・シャトーフォール師が説教を行った。それから彼女は投獄され、7年間にわたり、嘆きのパンを食べ、苦難の水を飲みながら自らの罪を悔いることとなった。[1147]
刑期が終わると、彼女は売春宿を借りて娼婦に身を落とした。[1148]
16.12 シャルル七世の崩御、皮肉な巡り合わせ
1461年7月22日の水曜日、シャルル七世は体の内外に潰瘍が広がり、おそらく根拠のないことではなかったが毒を盛られたと信じながら、メアン=シュル=イェーヴル城で崩御した。享年58歳だった。[1149]
8月6日の木曜日、シャルル七世の遺体は歴代フランス王の霊廟サンドニ大聖堂に運ばれ、ベルベットが掛けられた礼拝堂に安置された。身廊は黒いサテンで覆われ、丸天井はフルール・ド・リスの刺繍が施された青い布で覆われた。[1150]
翌日行われた儀式で、亡き国王シャルル七世を追悼する演説が行われた。
説教者は、パリ大学で最も名高い教授であり、ローマ教会の高位聖職者たちによれば、「いつも温和で慎み深く、ガリア教会(フランス教会)の自由を最も強く擁護した者で、枢機卿の地位を辞退し、むしろパリのノートルダム大聖堂参事会の長老という肩書きだけで輝かしい老境に差し掛かった聖職者」、ほかならぬトマ・ド・クールセル師だった。[1151]
こうして、ルーアンの陪席判事として、ジャンヌに残酷な有罪判決を下すために最も執拗に奔走していた人物のひとりが、乙女(ラ・ピュセル)が厳粛な戴冠へと導いた勝利王の記憶を称えるという、なんとも皮肉な巡り合わせとなったのである。
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