見出し画像

教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|下巻・第四章 サンピエール・ル・ムーティエの戦い/修道士リシャールと霊的な娘たち/ラ・シャリテ包囲

【創作大賞2026参加中】期間限定で全体公開にします。

アナトール・フランス著『ジャンヌ・ダルクの生涯(Vie de Jeanne d'Arc)』全文翻訳を目指しています。完訳達成。原著は1908年発行。

1920年:ジャンヌ・ダルク列聖
1921年:A・フランス、ノーベル文学賞受賞
1922年:ローマ教皇庁の禁書目録に登録

現在、禁書制度は廃止されてますが、教皇庁は「カトリック教義を脅かす恐れがある禁書だった本を推奨することはできない」という立場を表明しています。

総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか

⚠️下記プラットフォームで公開中。
- note:各章をマガジンにまとめて投稿。一部有料。
- カクヨム:各話を分割して投稿。少しずつ読みたい人向け。
- pixivFANBOX:原文付き対訳バージョン。支援者限定。


⚠️字数が多い(19,000字)ため、訳者の裁量で小見出しをつけています。

4.1 ブールジュで休息(1)風呂とサウナとベッドで歓待

 国王シャルル七世は9月14日にラニー=シュル=マルヌで宿泊し、その後ブレイでセーヌ川を渡り、サンス付近でヨンヌ川を徒歩で渡り、クールトネー、シャトールナール、モンタルジを経由して先へ進んだ。

 9月21日にジアンに到着した。そこで国王は、もはや報酬を支払うことができなくなった軍隊を解散させ、兵士はそれぞれの故郷に帰った。アランソン公は、自領のボーモン=シュル=オワーズに引き下がった。[217]

 王妃マリー・ダンジューが国王に会いに来ると知ったジャンヌは、先回りしてセル=アン=ベリーで王妃を出迎えた。[218]

 その後はブールジュへ連れて行かれ、そこでラ・トレモイユの異母弟であるドルー伯シャルル・ダルブレが、レニエ・ド・ブーリニーの家にジャンヌを預けた。

 レニエは当時、徴税長官(総収入役)だった。1408年にパリ大学が解任を求めた人物の一人だったが、彼は無用・無能であるどころか、国中の多くの混乱の責任を負わされていた。彼は王太子に仕え、王領の管理から税務の管理へと移り、王室の財政管理において最高の地位まで上り詰めた。[219]

 王妃に同行してセルまでやってきた彼(レニエ・ド・ブーリニー)の妻は、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)を見て驚いた。

 彼女には、ジャンヌが国王と王に忠誠を誓うフランスの人々を救うために神から遣わされた存在に思えた。彼女は、それほど遠くない昔、王太子と夫が金策(資金繰り)に困っていた日々を思い出した。

 名前をマルグリット・ラ・トゥルルドといい、(夫の地位にかかわらず)彼女はダーム(騎士の妻などの称号)ではなくダモワゼル(未婚者や下位貴族・ブルジョワの妻への称呼)で、実直なブルジョワジーの女性にすぎなかった。[220]

⚠️ダーム(Dame)とダモワゼル(Damoiselle)について補足:マダム(Dame)は既婚女性、マドモワゼル(Damoiselle)は未婚女性と思いがちだが、階級社会が厳格な時代は意味が異なるので注意。
この文脈では、夫のレニエは高官だが騎士階級(下級貴族)ではなかったため、妻は「Dame(マダム)」ではなく「Damoiselle(マドモアゼル)」と呼ばれたということ。

 ジャンヌは三週間、徴税長官(レニエ・ド・ブーリニー)の家に滞在した。そこで寝泊まりし、飲食した。

 ほぼ毎晩、マルグリット・ラ・トゥルルドはジャンヌと一緒に寝た。
 当時の礼儀作法(エチケット)ではそうするのが普通だった。
 ナイトガウンは着用せず、人々は広いベッドで裸で眠った。
 なお、ジャンヌは年配の女性と一緒に寝ることを嫌っていたようだ。[221]

 マルグリット・ラ・トゥルルドはそれほど年老いてはいなかったが、それなりに年配だった。[222] さらに、彼女は中年女性らしい豊富な経験があり、後述するように、「自分は中年女性の大半よりも多くのことを知っている(知的・物知り)」と主張していた。

 彼女は何度かジャンヌを風呂や発汗室(sweating-room)に連れて行った。[223]
 これも礼儀作法のひとつで、主人は客人を風呂に入れなければ歓迎していると見なされなかった。

 礼儀作法のこの点において、君主たちは模範を示した。
 王と王妃が家臣の邸宅で晩餐をとる際には、食卓につく前に、豪華に装飾された立派な風呂が用意された。[224]

 マルグリット・ラ・トゥルルドは、おそらく自宅に必要な設備がなかったのだろう。そのため、ジャンヌを「風呂」と「発汗室」に連れて行った。
 なお、これらは彼女自身の言葉であり、おそらく熱いお湯ではなく、蒸気風呂[225]を指している。

 ブールジュでは、発汗室はオーロン地区の下町、川の近くにあった。[226]

 ジャンヌは厳格な信心深さを持っていたが、修道院の規則は守っていなかった。そのため、貞淑なスザンナのように入浴することを許容したのかもしれない。(行軍中に)藁の上で眠った後では、入浴する必要が大いにあっただろう。[227]

 さらに注目すべきは、マルグリット夫人がジャンヌの入浴を見た後、外見上は処女であると判断したことだ。[228]

⚠️スザンナ(Suzannah):旧約聖書『ダニエル書』に登場する女性。老人に入浴を覗かれた上、言い寄られたところを退けるが、逆に姦通罪で告発されてしまう。しかしダニエルの知恵によってスザンナの貞淑さは証明される。中世・近世ヨーロッパの風俗画で好まれたモチーフ。

4.2 ブールジュで休息(2)ジャンヌの無知と機知

 徴税長官レニエ・ド・ブーリニーの家でも、他の滞在先でも、ジャンヌはベギン会の修道女のような生活を送っていたが、過度な禁欲はしなかった。

⚠️ベギン会(béguine):中世ヨーロッパで生まれた半聖半俗の姉妹団体。修道会とは異なり、正確にいえば修道女ではない。望まぬ妊娠をした人や行き場のない独身女性など、ある意味、教会が取りこぼした弱者の駆け込み寺のような互助組織・共同体。フランス革命を契機に衰退したが、かつてフランス王国だったオランダやベルギーに残っている。

 ジャンヌは頻繁に告解(懺悔)をした。
 しばしば女主人のマルグリットに朝の祈りに同行するよう頼んだ。大聖堂やコレツィアル(参事会)教会では、毎日4時から6時の間、日の出の時間に朝の祈りが捧げられていた。

 二人の女性はよく会話し、徴税長官の妻はジャンヌが非常に単純で無知であることに気づいた。この乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)が全く何も知らないことに驚きを隠せなかった。[229]

 その他の事柄も、老ロレーヌ公を訪ねて彼の邪悪な生き方を叱責したことや、ポワティエの神学者たちから受けた尋問についてもよく語った。[230]
 ジャンヌは、これらの聖職者たちが極めて厳しく尋問してきたと思い込み、彼らの悪意に打ち勝ったと固く信じていた。

 ああ! 彼女はもうすぐ、さらに融通が利かない聖職者たちを知ることになるだろう。

 ある日、マルグリット夫人はジャンヌに言った。

「戦っているときに怖くないのは、自分が殺されないと分かっているからよ」

 するとジャンヌはこう答えた。

「私も他の戦士たちと同じように、そのことについては確信が持てません」

 また、女性たちがしばしばブーリニーの家にやって来て、ジャンヌに触れてもらおうとロザリオやその他のささやかな信心道具(崇拝の対象物)を持ってきた。ジャンヌはよく、女主人に笑いながらこう言った。

「あなたが触ってごらん。私と同じくらい効果がありますよ」[231]

 この機知(repartee)に富んだ返答は、マルグリット夫人に、ジャンヌが無知(ignorant)だったとしても、会話の中で優雅さと常識を示す能力があることを気づかせたに違いない。

⚠️機知(repartee):機知、機転、当意即妙の会話・応答
⚠️無知(ignorant):無知、無学、無教養、礼儀知らず

 この善良な女性(マルグリット・ラ・トゥルルド)は、多くの分野についてジャンヌを「単純な人物」とみなしていたが、軍事に関しては達人だと考えていた。

 聖なる乙女の武器の腕前をじかに見て、彼女自身の意見を述べたのか、それとも単に噂話に基づいてそう言ったのかは定かではない。いずれにせよ、彼女(マルグリット・ラ・トゥルルド)は後に、「ジャンヌは馬に乗り、槍を操る腕前は最高の騎士にも劣らず、軍隊が驚くほどだった」と述べている。[232]

 実際、当時のほとんどの隊長は、それほど優れた腕前ではなかった。

**

 おそらく、ブーリニーの家にはサイコロとサイコロ箱があったのだろう。そうでなければ、ジャンヌが女主人に衝撃を与えた「ギャンブルの恐怖」を示す機会はなかっただろう。
 この点に関して、ジャンヌは仲間のリシャール修道士、そして善良な生活と優れた教義を重んじるすべての人々と意見が一致していた。[233]

 ジャンヌは持っていたお金をすべて「施し」として配った。

「私は貧しい人々や困っている人々を助けるために来たのです」

 よく、そう言っていた。[234]

 群衆はこの言葉を聞いて、この神の乙女は、フルール・ド・リスの栄光をたたえるためだけでなく、王国が苦しんでいる殺戮や略奪、その他、神への重大な罪などの悪を消し去るために来たのだと信じるようになった。

 神秘的な魂(神秘主義者たち)は、ジャンヌに教会の改革と地上におけるイエス・キリストの支配を期待した。

 彼女は聖人として崇められ、忠誠を誓う地域全体でジャンヌの彫刻や絵画が見られ、信者たちによって崇拝された。このようにジャンヌは生きているうちから、列福の特権の一部を享受していた。[235]


4.3 サンピエール・ル・ムーティエの戦い、ジャンヌの「幻視の軍勢」

 一方その頃、セーヌ川の北岸では、イングランド軍とブルゴーニュ軍がいつもの仕事●●を続けていた。ヴァンドーム伯とその部隊はサンリスに後退し、イングランド軍はサンドニの町に侵攻して再び略奪した。

 サンドニの修道院の教会で、彼らは乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)の甲冑を見つけて持ち去った。

 フランス陣営の聖職者によれば、これ(捧げ物を持ち去ったこと)は紛れもない冒涜行為だ。なぜなら、彼らは修道院の修道士たちに何も見返りを与えなかったからである。

 当時、国王はブールジュにほど近いメアン=シュル=イェーヴルにいた。

 そこには世界でも有​​数の美しい城があり、岩の上にそびえ立ち、街を見下ろしていた。偉大な建築家だった故ベリー公ジャン(シャルル五世の弟。シャルル七世の大叔父)は、芸術面でも常に細心の注意を払ってこの城を建てた。

 メアンは、国王シャルル七世のお気に入りの住まいだった。[236]

 アランソン公は、自身の公爵領を奪還することを熱望しており、ブルターニュとメーヌの国境を越えてノルマンディーへ同行する兵士を待っていた。彼は国王に使者を送り、乙女を彼(アランソン公)に授けることをどう思うか尋ねた。

「彼女と一緒なら喜んで来る者は多いでしょう。ですが、彼女なしでは、誰も家から一歩も出ようとしないでしょう」

 これを見る限り、パリ包囲戦の敗北は、ジャンヌの名声を完全に失墜させたわけではなかったようだ。

 ラ・トレモイユ卿は、アランソン公のもとにジャンヌを派遣することに反対した。彼はアランソン公を信用しておらず、また信用できなくて当然の理由があった。彼はジャンヌを、故郷のベリー地方で国王代理を務めていた異母弟のドルー伯シャルル・ダルブレに託して保護下に置いた。[237]

**

 王室顧問会議は、戴冠式の遠征の際にペリネ・グレサールに任せたラ・シャリテを奪還する必要があると判断した。[238] しかし、まずはベック・ダリエ(Bec d'Allier)への入口を見下ろすサンピエール・ル・ムーティエを攻撃することを決定した。[239]

⚠️ベック・ダリエ(Bec d'Allier):フランス最大の大河ロワール川の支流アリエ川が分岐する地点。そこを見下ろす位置に同名の町がある。なお、Becはフランス語でくちばしやタコのとがった口元を指す。

 この小さな町の守備隊は、イングランド人とブルゴーニュ人で構成されており、彼らは日ごろから村々を略奪し、ベリー地方とブルボネ地方の畑を荒らしていた。

 この遠征のための軍隊がブールジュに集結した。
 指揮官はダルブレ卿(ドルー伯シャルル・ダルブレ)[240]だったが、世間の噂では「ジャンヌが指揮を執った」と言われた。一般の民衆、町の市民、特にオルレアン市民は、ジャンヌ以外の指揮官を知らなかった。

 二、三日の包囲の後、国王軍は町に攻撃を仕掛けたが撃退された。
 ジャンヌの従騎士ジャン・ドーロンは、少し前にかかとを負傷して松葉杖をついて歩いていたが、他の者たちと共に撤退していた。[241]

 引き返す途中、堀のそばでほとんど一人で立ち尽くしているジャンヌを見つけた。彼女に危害がおよぶことを恐れて、ジャン・ドーロンは馬に飛び乗り、ジャンヌに向かって拍車をかけながら叫んだ。

「一人で何をしているんですか? なぜ他の者たちのように撤退しないんですか?」

 ジャンヌは兜(サレット)を脱ぎ捨て、答えた。

「一人じゃない。私には5万人の仲間がいる。町を占領するまで、ここから離れるつもりはない」

 ジャン・ドーロンが辺りを見回すと、ジャンヌの周りにはわずか4〜5人の男がいるだけだった。彼はさらに大きな声で叫んだ。

「ここから立ち去って、他の者たちと同じように退却してください」

 ジャンヌの返事はただ一つ、堀を埋めるためのたきぎと柵を求めた。すぐに、彼女は大声で叫んだ。

「薪と柵を持ってきて、みんなで橋を作れ!」

 兵士たちがその場に駆けつけて、ただちに橋が架けられた。
 すると、町はそれほど困難もなく占領された。

 少なくとも、善良な従騎士ジャン・ドーロンはこのように語った。[242]
 彼は、ジャンヌが幻視した「神霊の軍勢」5万人がサンピエール・ル・ムーティエを占領したのだと固く信じ込んでいた。

4.4 ジャンヌがライバル視した聖女(1)修道士リシャールの支配

 当時、ロワール川沿いの小さな軍隊には、ジャンヌのように特異な生活を送り、凱旋教会(Church Triumphant、神学用語で「聖人たちの魂の集合体」を指す)と交わる聖女たちが何人かいた。

 彼女たちはいわば、兵士たちに従うベギン会の遊撃隊のような集団を構成していた。

 そのうちの一人はカトリーヌ・ド・ラ・ロシェルと呼ばれ、他の二人は下ブルターニュ出身だった。[243] 彼女たちは全員、奇跡的な幻視を経験した。

⚠️下ブルターニュ(英:Lower Brittany、仏:Basse-Bretagne):ブルターニュ半島西部の古い名称。

 ジャンヌの場合、武装した聖ミカエルと、冠をかぶった聖カタリナと聖マルガリータを見た。[244]

 下ブルターニュのピエロンヌの場合、長い白いローブと紫のマントをまとった神を見た。[245]

 カトリーヌ・ド・ラ・ロシェルの場合、金の布をまとった白い貴婦人(聖母マリア)を見た。そして、聖体が奉献された瞬間、主(神)の深遠な神秘に関するあらゆる種類の驚くべき奇跡が彼女に啓示された。[246]

 ジャン・パスケレルはジャンヌの従軍司祭として、今もそばに付き添っていた。[247] 彼は、悔悛の身であるジャンヌをフス派と戦う十字軍に参加させたいと望んでいた。なぜなら、パスケレルが最も激しい憎悪を抱いていたのは、この異端者たちだったからだ。

 しかし、彼は(ジャンヌの従軍司祭としての地位を)フランシスコ会のリシャール修道士に完全に奪われていた。リシャール修道士はトロワで出会った後、ジャンヌがこれまで属していた托鉢修道会に加わった。

 リシャール修道士は、この啓示を受けた女性たちの小さな集団を統率・支配していた。彼は彼女たちから「良き父」と呼ばれ、彼女たちを指導した。[248]

 リシャールの計画は、ジャン・パスケレルの計画とそれほど変わらなかった。差し迫った世界の終末に先駆けて起こると(リシャールが)考えていた「十字架の戦い」に、彼女たちを導くつもりだった。[249]

 その間、リシャール修道士は彼女たちの間に良好な理解を築こうと努めていたが、雄弁な説教者だったにもかかわらず、それは非常に困難だった。

 姉妹団の中では、絶え間なく疑念と内紛が起きていた。

 ジャンヌは、ブリー地方のモンフォコンやジャルジョーではカトリーヌ・ド・ラ・ロシェルと友好的な関係だったが、今では彼女をライバル視して疑い始め、たちまち不信感を抱くようになった。[250]

 もしかしたら、ジャンヌが正しかったのかもしれない。

 カトリーヌや下ブルターニュの霊的な女性たちが、かつてのジャンヌと同じように起用される可能性はいつでもあり得た。[251]

 当時、女預言者はさまざまな場面で役に立った。
 民衆の啓蒙、教会の改革、兵士の指導、資金の調達、戦争と平和の両面において。
 各勢力はどこかで預言者が現れるとすぐに引き入れようとした。

 王の顧問官たちは、オルレアン解放のためにジャンヌ・ラ・ピュセル(乙女)を起用した後、今度はカトリーヌ・ド・ラ・ロシェルを使ってブルゴーニュ公との和平締結を考えていたようだ。この任務は、ジャンヌほど騎士道精神にあふれていない聖女にふさわしいだろう(ようするに、ジャンヌは好戦的すぎて和平交渉に向かない)。

 なお、カトリーヌは既婚者で母親でもあった。
 この事実は驚くには及ばない。なぜなら、処女に預言の能力が与えられるとしても、ユディットの例が示すように、神は民衆のために力強い婦人(処女ではない女性)を立たせることもあると証明されているからだ。

⚠️冒頭に出てきた凱旋教会(Church Triumphant)について補足
キリスト教の神学用語・概念。イエス・キリスト=神の勝利にあずかり、死後天国(永遠の栄光)へ至る魂の集合体のこと。キリスト教徒は天国をめざして下記の3段階を経るといわれる。

(1)闘う教会(Church Militant):地上で罪や悪や誘惑と戦っている魂
(2)清めの教会(Church Suffering):天国に入る前に煉獄で清めを受けている魂
(3)凱旋する教会(Church Triumphant):信仰の戦いを終え、天国で神とともに勝利の喜びを享受している魂=聖人

4.5 ジャンヌがライバル視した聖女(2)カトリーヌ・ド・ラ・ロシェル

 その姓が示唆するように、彼女がラ・ロシェル出身だと信じるならば、その出自はアルマニャック派に信用を与えたに違いない。

 ラ・ロシェルの住民は全員、多かれ少なかれ海賊であり、イングランドの船を襲撃することで莫大な利益を得ていたため、(彼らおよびカトリーヌが)王太子派を裏切る恐れはなかった。さらに、王太子(シャルル七世)は彼らの忠誠心に報いるために、貴重な商業特権を与えていた。[252]

⚠️ラ・ロシェル(La Rochelle):フランス西海岸の港湾都市で、シャルル七世が大西洋側で支配している唯一の軍港。百年戦争では、シャルル五世時代とシャルル七世の王太子時代に第一次・第二次ラ・ロシェル海戦がおこなわれた。

 ラ・ロシェルの人々はオルレアン市民に資金を提供(贈与)し、5月にシャルル公(オルレアン公)の都市が解放されたことを知ると、この喜ばしい出来事を記念して公的な祝祭を開催した。

 軍隊における聖女の第一の任務は、資金集めだったようだ。
 ジャンヌは常に手紙を送り、善良な町々に資金や軍需品の援助を求めた。町の人々はいつも彼女の要請に応じることを約束し、たまには約束を守ってくれた。

 カトリーヌ・ド・ラ・ロシェルは、軍資金に関して特別な啓示を受けていたようだ。したがって、カトリーヌの使命は財政的なものであったのに対し、ジャンヌの使命は軍事的なものだった。

 彼女は和平を締結するためにブルゴーニュ公のもとへ行くと告げた。[253]

 カトリーヌ・ド・ラ・ロシェルについて知られているわずかな情報から判断すると、この聖女の霊感は、それほど高尚なものでも、秩序立ったものでも、深遠なものでもなかった。

 ベリー地方のモンフォコン(またはジャルジョー)でジャンヌと初めて会ったとき、カトリーヌはこんな風に語りかけた。

「私のところに、金の布をまとった白い貴婦人が現れて、こう言ったの。——善良な町々を巡り、王に伝令とラッパを与えてもらい、『金、銀、隠した財宝を持っている者は誰でも、すぐにそれを出しなさい』と号令をかけるように」

 カトリーヌはさらに付け加えた。

「財宝を隠し持っているのに従わない者は、私が見抜いて、探し出してみせましょう」

 カトリーヌは、イングランドと戦う必要があると考えており、ジャンヌの使命は彼らを王国から追い出すことだと信じているようだった。カトリーヌは親切にも、自身の驚くべき奇跡で手に入れた戦利品のすべてをジャンヌに差し出した。

「あなたの兵士たちに支払う軍資金よ」

 カトリーヌはそう言ったが、ジャンヌは軽蔑するように答えた。

「あなたは旦那のところへ帰って、家事でもしながら、子供たちを養いなさい」[254]

 聖人同士の論争は、たいてい激しいものとなる。ジャンヌは、ライバルの使命(伝道活動)について愚かさと無益さしか見ようとしなかった。

 しかし、カトリーヌがいう「白い貴婦人の訪問」の可能性を否定することはできなかった。なぜなら、ジャンヌ自身のところにも、書物や修道院の壁に描かれた数と同じだけの聖人、天使、大天使が毎日降りてきたからだ。

 この件を決着させるために、ジャンヌは最も効果的な手段を採用した。

 博学な学者なら、物質と実体、観念(idea)の起源と形態、知性における印象の始まりについて論じるかもしれないが、羊飼いの娘はもっと確実な方法に頼った。自分の目で確かめるのだ。

 ジャンヌはカトリーヌに「白い貴婦人は毎晩来るのか?」と尋ね、そうだと知ると「一緒に寝ましょう」と誘った。

⚠️訳者の感想:客人をもてなすにしろ、ライバルを出し抜くにしろ、「一緒にベッドで寝る」シチュエーションが多すぎる。しかも当時はナイトウェアがないから、行軍中で服を脱がない状況でなければ、裸で寝るのが当たり前という…💦

4.6 ジャンヌがライバル視した聖女(3)白い貴婦人と乙女の評議会

 夜になると、ジャンヌはカトリーヌと一緒にベッドに入り、真夜中まで見張っていたが何も見つからないまま、いつのまにか眠りに落ちていた。ジャンヌはまだ若く、睡眠をたっぷり必要としていたからだ。

 朝、ジャンヌは目を覚ますと「彼女は来たの?」と尋ねた。

「ええ、来ましたよ」

 カトリーヌは答えた。

「あなたはよく眠っていたから、起こしたくなかったんです」
「明日は来ないの?」

 カトリーヌは「必ず来る」と保証した。

 今度こそ、ジャンヌは一晩中起きていられるように昼間のうちに寝た。
 おかげで、夜はカトリーヌと一緒にベッドに横になってからずっと目を覚ましていられた。ジャンヌは何度も尋ねた。

「彼女は来ないの?」

 すると、カトリーヌは答えた。

「はい、すぐに来ますよ」

 しかし、ジャンヌには何も見えなかった。[255]

 ジャンヌはこのテストがうまくいったと思った。
 それでも、「金の布をまとった白い貴婦人」のことが頭から離れなかった。

⚠️補足:キリスト教で白い貴婦人といえば、聖母マリアを彷彿させる。キリスト(神)の母であり、受胎告知では大天使が膝をつき、あらゆる聖人・聖女の上に君臨する存在。ジャンヌが「声」を聞き、幻視している大天使ミカエルや聖女たちよりも格上なので、ジャンヌは「聖なる乙女」の立場がおびやかされていると感じているのかもしれない。

⚠️さらに補足:実際、パリ包囲戦の敗北、聖カタリナの剣が折れた件など、最近のジャンヌは不運続きで、乙女の信用と影響力は落ち目になっている。そんなところへ、処女でもない子持ちの既婚女性が、新たな幻視者・預言者として認められるようになり、心中穏やかでいられないのは当然だろう。

 聖カタリナと聖マルガリータが、ためらうことなくジャンヌのところにやって来た時、ジャンヌはこの白い貴婦人について話し、彼女についてどう思うか尋ねた。二人の答えはジャンヌが予想した通りだった。

「このカトリーヌという女がやっていることは、無益で愚かなだけで何の意味もない」

 聖カタリナと聖マルガリータはそう断言した。[256]
 ジャンヌは思わず叫ばずにいられなかった。

「まさに、私が思っていたとおりよ!」

 この二人の女預言者の争いは、短い期間だったが激しいものだった。
 ジャンヌはいつもカトリーヌの主張に反対する立場を貫いた。カトリーヌがブルゴーニュ公と和平を結ぼうとしたとき、ジャンヌは彼女にこう言い放った。

「私は、槍の穂先でなければ(戦いなしで)、絶対に平和は得られないと思う」[257]

⚠️補足:ジャンヌは以前、ブルゴーニュ公に和平を求める手紙を送ったが無視された。そこへ、カトリーヌが和平を結ぶためにブルゴーニュ公のもとへ派遣されるという話を聞いて、ジャンヌのプライドは傷ついたと想像できる。和平が成立すればカトリーヌの功績になり、ジャンヌの聖女としてのアイデンティティは最大の危機を迎える。

⚠️さらに補足:このエピソードは、聖カタリナと聖マルガリータがジャンヌの深層心理の代弁者であることを示している。

 いずれにせよ、「白い貴婦人(カトリーヌ)」が「乙女の評議会(ジャンヌ)」よりも優れた預言者であることを証明する出来事がひとつあった。

 それは、ラ・シャリテの包囲戦である。ジャンヌがその町を解放しに行こうとしたとき、カトリーヌはジャンヌを思いとどまらせようとした。

「そこは寒すぎる」

 彼女は言った。

「私は行きたくないわ」[258]

 カトリーヌの理由は高尚なものではなかった。
 しかし、ジャンヌがラ・シャリテ包囲戦に行かない方が良かったのは事実である。

4.7 ラ・シャリテ包囲戦(1)ラ・トレモイユの復讐

 1422年に王太子(シャルル七世)がブルゴーニュ公から奪ったラ・シャリテは、1424年にペリネ・グレサール[259]によって再び奪い返された。

 ペリネは石工見習いからブルゴーニュ公の食料貯蔵室管理人(パントラー)へ出世し、イングランド王によってレニー領主に叙せられるほどの優秀な隊長だった。[260]

 1425年12月30日、ペリネの部下は、国王(シャルル七世)と公爵の間で果てしなく続く和平交渉のひとつで大使に任命されてブルゴーニュ公のもとへ向かっていたラ・トレモイユ卿を逮捕した。

 彼は数カ月間、捕虜となった者が指揮する要塞に監禁された。身代金1万4000エキュドール(金貨)を払わなければならず、王室の金庫から用立てたが[261]、それ以来、ラ・トレモイユはペリネへの恨みを決して捨てなかった。

 したがって、ラ・トレモイユがラ・シャリテに兵士を派遣したのは、(ペリネへの報復として)町を占領するためであり、ジャンヌに対する悪意があったわけではないと結論づけられる。

 このブルゴーニュの隊長(ペリネ)と大規模な略奪者に対抗するために派遣された軍隊(フランス軍)は、決して凡庸な人物で構成されていたわけではない。

 指揮官は、モンパンシエ伯ルイ・ド・ブルボン(クレルモン伯の弟)と、ラ・トレモイユの異母弟で、戴冠式の行軍でジャンヌの戦友だったドルー伯シャルル・ダルブレだ。

 ただし、この軍隊は間違いなく、物資と資金が足りていなかった。[262]

 とはいえ、当時の軍隊はそれが普通だった。国王が敵の拠点を攻撃したい場合、必要な物資を調達するために、善良な町々に要請して頼らなければならなかった。

 聖女であり戦士でもある乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)は、武器を調達することが得意だった。だが、すでに多くの物資を供給している町々の資源には限界があることを理解していなかった。

 11月7日、ジャンヌとアランソン公は、オーヴェルニュ地方クレルモンの住民に対し、火薬、矢、大砲を提供するよう求める手紙に署名した。

 聖職者、行政官、そして町の住民は、硝石200ポンド(100キロ)、硫黄100ポンド(50キロ)、矢2箱分を送り、これらに加えてジャンヌのために剣1本、短剣2本、戦斧1本を追加した。そして、ロベール・アンドリューに、この寄贈品をジャンヌとアランソン公に渡すよう命じた。[263]

⚠️ハンドレッドウェイト(hundredweight):19世紀まで使われていた質量の単位。1ハンドレッドウェイトは100〜112ポンド。およそ50キログラム。

⚠️補足:軍需物資のほかに、ジャンヌ個人に宛てて武器が贈られたのは、前述の「折れた剣」の話が広まっていたからだろう。

4.8 ラ・シャリテ包囲戦(2)ムーランのプティ・アンセル、聖コレット

 11月9日、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)はブルボネ地方のムーランにいた。[264]

 彼女はそこで何をしていたのか?
 正確なことは誰も知らない。

 当時、この町には非常に神聖で非常に尊敬されている女子修道院長がいた。彼女の名をコレット・ボワレという。聖クララ修道会の改革を試みたことで、すばらしい賛辞を得ると同時に、ひどい侮辱も受けていた。

⚠️聖クララ修道会(Ordre de Sainte-Claire):1212年にアッシジのキアラ(クララ)がフランシスコ会の創設者・聖フランチェスコに感銘を受けて創立した女子修道会。祈りと自給自足の観想生活を送る修道女たちの共同体。クララの死後、修道会の戒律はゆるんだが、コレット・ボワレが当初の厳格な戒律に戻した。

 コレットは、彼女が最近この町に設立したばかりの聖クララ修道女会の修道院に住んでいた。ジャンヌがわざわざムーランへ行ったのは、コレットに会うためだったと言われている。[265]

 しかし、まずは、この二人の聖女が互いに好意を持っていたかどうかを確かめなければならない。

 二人はどちらも奇跡を起こし、その奇跡はいくらか似ていた[266]が、だからといって、彼女たちが互いの交友に少しでも喜びを感じる理由にはならなかった。

 一人はラ・ピュセル[267]、もう一人はラ・プティ・アンセル[268]と呼ばれていた。

⚠️アンセル(Ancelle):ある英和辞典でankle(足首)のミススペルと書かれているが、「謙虚さを示す呼び名」という文脈と合わないので個人的に調べたところ、フランス語で「侍女」という意味だそうで。

⚠️ラ・ピュセル(La Pucelle):乙女と訳されがちだが、こちらもコレットの二つ名と同様に、言葉の本来の意図を汲むなら「女中、メイド」とすべきだろう。

 どちらも「謙虚さ」を意味するあだ名だが、二人の服装や生活様式は大きく異なっていた。

 ラ・プティ・アンセル(コレット・ボワレ)は物乞いのようなぼろを身にまとい、徒歩で旅をした。ラ・ピュセル(ジャンヌ)は金色の衣装に身を包み、貴族たちと共に馬に乗って出陣した。

 戒律を守らないフランシスコ会の修道士たちに囲まれたジャンヌが、聖クララ修道会の厳格な改革者を尊敬していたとは、到底考えられない。

 また、ブルゴーニュ派に強い愛着を持つ平和主義者のコレット[269]が、イングランド人から破滅の天使と見なされていた人物(ジャンヌ)[270]と会話を試みたことを示す証拠はひとつもない。

 ジャンヌはこのムーランの町から、リオンの住民に宛てて「サンピエール・ル・ムーティエが占領された」ことを知らせる手紙を口述筆記し、クレルモンの住民に求めたように、彼らにも軍需物資の提供を求めた。[271]

 手紙の内容は以下のとおりである。

「良き友であり愛する皆さん、
 サン・ペール・ル・ムーティエの町が
 嵐によって占領されたことは知っての通りです。

⚠️町の名前のつづりが間違っているが原文ママ。

 神の助けを得て、私たちは
 王に敵対する他の地域からも
 撤退させるつもりです。

 ですが、この町の前で、
 火薬、矢、その他の軍需品が
 大量に消費されました。

 この町の領主たちは、
 私たちがこれから立ち向かう
 ラ・シャリテを包囲するのに
 必要な備えがほとんどありません。

 私たちはもうすぐそこへ向かいます。

 国王の幸福と名誉、そして
 ここにいる他のすべての人々を愛するなら、
 あなたたちはすぐに私たちを援助し、
 火薬、硝石、硫黄、矢、強力なクロスボウ、
 その他の軍需品を届けてください。

 そうしなければ、
 火薬やその他の軍需品が不足したせいで
 包囲戦が長引き、
 あなたたちはこの件での怠慢さ、
 または不本意な非難を受けるでしょう。

 良き友であり愛する皆さん、
 神があなたたちを守ってくださいますように。

 11月9日、ムーランで記す。
 ジャンヌ

 宛先:良き友であり愛する皆さん、
 リオン市の聖職者、市民、町民の皆さん」[272]

 リオンの行政官たちは、自らの印章で封印した手紙の中で、ジャンヌとダルブレ卿(包囲戦の指揮官ドルー伯)に60エキュドールを提供することを約束した。
 しかし、攻城砲術の隊長たちがこの金額を要求しに来たとき、行政官たちは一銭も渡さなかった。[273]

4.9 ラ・シャリテ包囲戦(3)軍資金の調達、不名誉な敗北

 その一方で、オルレアンの人々は、またもや熱心で寛大な姿勢を見せた。彼らは、自分たちの町(オルレアン)から75マイル上流のロワール川を支配する町の陥落を切望していたからである。

 オルレアン市民は、フランス王国の真の救世主とみなされるに値する。
 彼らがいなければ、ジャルジョーもボージャンシーも6月に陥落することはなかっただろう。

 7月の初め、ロワール川流域の掃討作戦が継続されたときには、大型の臼砲「ラ・ブーグ」をジアンに送っていた。弾薬と食料もいっしょに送った。

 そして今、12月初旬には、国王が政務官に宛てた要請に応じて、ジアンから持ち帰った大砲をすべてラ・シャリテに送った。同時に、オルレアン公の旗と、胸に白十字の入った外套を羽織った市軍の兵士89人を派遣した。
 トランペット奏者を先頭に、ボワイヨ隊長が指揮を執り、あらゆる分野の職人、石工・大工・鍛冶屋の親方、砲兵のフォーヴォー、ジェルヴェーズ・ルフェーヴル、そしてオルレアンの灰色修道会の修道士ジャックが参戦した。[274]

 これらの大砲と勇敢な人たちはどうなったのだろうか?

 11月24日、ドルー伯シャルル・ダルブレ卿と乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)は、ラ・シャリテの城壁の前で苦戦していたため、ブールジュの町にも同様に援助を求めた。

 手紙を受け取ると、市民たちは1300エキュドール(金貨)を出すことを決定した。
 この資金を集めるために、彼らは決して珍しくない手段に頼った。
 それは、以前、ジャンヌに軍需品を提供するために、オルレアン市が特定の市民から塩を大量に買いつけ、市の備蓄倉庫で競売にかけた際に採用した方法だ。

 ブールジュの市民は、町で小売販売されるワインの13分の1に相当する年間収入を競売にかけた。

 しかし、こうして集められた資金は、結局目的地に届かなかった。[275]

**

 ラ・シャリテの城壁の下には、立派な騎士団が集結していた。
 モンパンシエ伯ルイ・ド・ブルボン(クレルモン伯の弟)とドルー伯シャルル・ダルブレ(ラ・トレモイユの異母弟)に加え、ブサック元帥、トゥールーズの執事長(Seneschal)ジャン・ド・ブーレー、そしてドーフィネの男爵レイモン・ド・モントルミュールがいたが、彼はここで戦死した。[276]

 厳しい寒さの中で、包囲軍は何も成し遂げられなかった。

 一カ月後、狡猾なペリネ・グレサールによって待ち伏せ攻撃に陥れられた。
 彼らは包囲を解かざるを得なくなり、善良な町々から提供された大砲、市民たちが倹約して貯めた資金で購入した立派な大砲を放棄した。[277]

 救援はなく、また救援を受ける見込みもない町は、遅かれ早かれ降伏する運命にあった。そのため、この無駄な軍事行動はなおさら許しがたいものであった。

 彼らは、国王から食料も金銭も送られてこなかったからだと弁解したが[278]、それは真っ当な言い訳とはみなされず、彼らの行為は不名誉とみなされた。

 戦争の礼儀作法(戦争で名誉となる行為は何か、その定義)に詳しいある騎士はこう述べている。

「食料と報酬を事前に確保せずに、決して包囲戦を仕掛けてはならない。要塞を包囲した後に撤退することは、軍隊にとって大きな不名誉であり、特に国王や国王の代理人(副官)が同行している場合はなおさらである」[279]

4.10 ジャンヌを告発する機運(1)非正規の修道士

 12月13日、ペリグーの町の人々に向けて、教皇マルティヌス五世の(この町での)内赦院を担当するドミニコ会修道士エリー・ブーダンが演説をおこなった。

⚠️内赦院(Penitentiary):教皇庁が管轄する最高裁判所・刑務所のこと。王侯が管轄する世俗の裁判所(高等法院、Parlement,)は犯罪や相続問題を扱うが、こちらは破門や免罪など宗教問題を扱う。

 彼は、この日の演説のテーマに、神が国王に遣わした乙女(ラ・ピュセル)の介入によってフランスで起こった偉大な奇跡を選んだ。この機会に市長と行政官たちはミサを聴き、ろうそくを2本捧げた。

 さて、当のエリー修道士は、2カ月前からポワティエ高等法院に出頭するよう命じられていた。[280] どのような罪状だったかは分からない。

 当時の托鉢修道士は、信仰と道徳に関する戒律をほとんど守っていなかった。

⚠️非正規の修道士について補足:どこかの修道会に所属している正規の修道士ではなく、住所不定の流れ者が「修道士」を名乗って伝道活動(?)をしている事例がよくあった。傭兵と略奪者の区別がつかないのと同様に、自称・修道士の正体は、物乞い、詐欺師、脱走兵、犯罪者、スパイなど、無法者がカモフラージュするのに都合がよかった。

 あのリシャール修道士の教義(終末思想)も、完全に疑いの余地がないわけではなかった(潔白とは言いきれない)。

 1429年のクリスマス、ベギン会の遊撃隊がジャルジョーに集まった際[281]、この善良な修道士(リシャール)はミサを執り行い、ジャンヌ・ラ・ピュセルに3回、下ブルターニュのピエロンヌに2回、聖体拝領を授けた。
 ピエロンヌは、主(神)と友人同士のように語り合う神秘体験を持つ「聖女たち」のひとりだ。

 このような行為(1日に何度も聖体拝領を授ける)は教会法の違反とまでいかなくとも、秘跡の不当な濫用とみなされる可能性があった。[282]

 当時は恐ろしい神学上の嵐(異端の摘発)が吹き荒れつつあり、リシャール修道士が手元に囲っている「霊的な娘たち」も巻き込まれようとしていた。

4.11 ジャンヌを告発する機運(2)ジェルソンの論文への反論

 パリ包囲戦の数日後、由緒ある大学は『善と悪の精神について(De bono et maligno spiritu)』という論文を執筆、あるいは書き写して発表した。アルマニャック派と共にパリの前に現れたリシャール修道士と女預言者ジャンヌに対する議論を引き出すことが目的だったと思われる。[283]

 ほぼ同時期に、法学部のある書記が、ジャン・ジェルソンの『乙女(ラ・ピュセル)に関する意見書』に対抗する簡潔な反論を発表した。

「自分が神から遣わされたと単純に断言するだけでは不十分だ」

 彼はこのように書いている。

「異端者は全員、そう主張するのだから。
 したがって、何らかの奇跡的な行為や、
 聖書に記されている何らかの特別な証言によって、
 神秘的な使命が真実であることを証明しなければならない」

 このパリの書記は、「乙女(ラ・ピュセル)がそのような証拠を提示したことはない」と否定し、「彼女の行いから判断するなら、神からではなく悪魔から遣わされた」と信じている。

 彼は、破門の罰則の下で女性に禁じられている服装をしていたことを根拠にジャンヌを非難し、ジャン・ジェルソンがこの件(男装)に関して主張したジャンヌの行動に対する弁解を論破している。

⚠️上巻・第十四章「14.7 ジャン・ジェルソンの意見書(3)男装について」参照。

 彼は他にも、ジャンヌの扇動によって、諸侯とキリスト教徒の間にこれまで以上の激しい争いを引き起こしたと非難。さらに、魔術を用い、偽りの予言をする偶像崇拝者とみなした。

 また、聖母マリアの二つの重要な祝祭、聖母被昇天祭(命日)と降誕祭(誕生日)に、人々をそそのかして同胞を殺害するよう仕向けたとして、ジャンヌを告発している。

「人類の敵が、この女を通して、創造主とその最も輝かしい母に対して罪を犯した。いくつかの殺戮が起こったが、神に感謝すべきことに、敵が意図したほど殺された者は多くなかった」

 この敬虔なパリ大学の息子はこう付け加える。

「これらすべての事柄が、(ジャンヌの)誤りと異端を明らかに証明している」

 その後、彼は「乙女は司教と異端審問官の前に引き出されるべきだ」と結論づけ、聖ヒエロニムスの次の言葉を引用して締めくくっている。

「不健康な肉は切り落とされなければならない。
 病気の羊は囲いから追い出されなければならない」[284]

⚠️聖ヒエロニムス(Saint Jérôme):四大ラテン教父のひとりで、聖書をラテン語に翻訳した聖職者。

 フランス陣営の聖職者たちが「主に遣わされた天使」と見なした彼女(ジャンヌ)について、パリ大学は満場一致で意見(反論)した。

 11月、ブリュージュ(フランドルのブルッヘ(Bruges)のこと。シャルル七世が統治するブールジュ(Bourges)ではない)では、「パリ大学がローマの教皇に使節を派遣し、乙女を偽りの女預言者であり欺瞞者として、彼女を信じる者たちとともに告発した」という噂が広まり、聖職者たちはこれを熱烈に歓迎した。

 この使節団の真の目的は不明である。[285]

 しかしこの時、パリの神学者と司教たちが、もし乙女(ラ・ピュセル)を手に入れることができたら、二度と彼女を手放さず、ローマで裁判を受けさせることも絶対にしないと固く決意したことは間違いない。
 ローマの裁きでは、ジャンヌは単なる懺悔で済まされ、教皇の傭兵(十字軍)の一人として雇われる可能性さえあったからだ。[286]

4.12 ジャンヌを告発する機運(3)焦げ臭いにおい

 イングランドとブルゴーニュが支配する地域では、聖職者だけでなくあらゆる身分の人々が、ジャンヌを異端者とみなしていた。
 これらの地域で、ジャンヌを好意的に思っていたわずかな人々は、自分の意見を慎重に隠さなければならなかった。

 サンドニからの撤退後、ピカルディ、特にアブヴィルには、フランスの女預言者に好意的な人々が残っていたかもしれないが、おおやけに話すことは許されなかった。

 アブヴィル出身の2人、ル・スール(Le Sourd)と呼ばれていたコラン・グイエと、ル・プティ(Le Petit)と呼ばれていたジャナン・デは、このことを身をもって思い知らされた。

⚠️ル・スールとル・プティ:前者は「耳が聞こえない」、後者は「小さい」を意味する。端的にいえば「つんぼ」と「ちび」と呼ばれていた。

 9月中旬頃、ル・スールとル・プティはこの町の鍛冶屋の炉の近くで、市民や町民たち、そして伝令官たちと一緒にいた。

 彼らは、キリスト教世界全体を大いに騒がせている乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)について話し始めた。伝令官の発言に対し、ル・プティは熱心にこう答えた。

「なるほど、なるほど! あの女がやること、言うことは全部、ただの欺瞞にすぎない」

 ル・スールも同様に言った。

「あの女は信用できない。彼女を信じる者は狂っている。そして、彼女の周りには『焦げ臭いにおい(persinée)』が漂っている」[287]

 この発言は、ジャンヌとその取り巻きたちの運命は明らかであり、異端者として火あぶりにされるのは確実だ、という意味だった。

⚠️焦げ臭いにおいがする(sentait la persinée):直訳すると「パセリのにおいがする」。当時のスラングで「異端の疑い」を意味する。

 そして彼は不幸にも、余計なことを付け加えた。

「この町には、『焦げ臭いにおい』を漂わせる者がたくさんいる」

 彼の発言は、アブヴィルの住民からすれば中傷も同然であり、疑惑の種となった。
 市長と町の評議員はこの一件を知ると、ル・スールを投獄するよう命じた。ル・プティも似たようなことを言ったに違いない。彼もまた投獄されたのだから。[288]

 ル・スールは、公衆の面前で「同胞市民の多くに異端の疑いがある」とほのめかしたせいで、司教や異端審問官から市民全体が悪名高い異端者や魔術師として追及される危険にさらしたのである。

 乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)について、軽い気持ちで「好意的に評価している」とほのめかしただけで「焦げ臭いにおいが漂う」と噂されるほど、これらの地域は敏感になっており、ささいなことで誰もが疑わしい存在とみなされていたのは間違いない。

4.13 修道士リシャールとの内紛、貴族へ昇格

 リシャール修道士とその「霊的な娘たち」が、イングランドやブルゴーニュの手に落ちれば悲惨な結末を迎える恐れがある一方で、この姉妹団には深刻な問題が持ち上がっていた。

 カトリーヌ・ド・ラ・ロシェルの件で、ジャンヌは「霊的な父」であるリシャール修道士と公然と対立・口論するようになった。

 リシャール修道士は、ラ・ロシェルの聖女(カトリーヌ)に働いてほしいと望んでいた。

 ジャンヌは、彼の助言が受け入れられることを恐れて国王に手紙を書き、カトリーヌをどう扱うべきかを伝えた。ようするに、彼女を夫と子供たちのもとへ帰すべきだと。

 ジャンヌが国王のもとを訪れたとき、最初に言ったことは「カトリーヌの行いは、愚かさと無意味さ以外に何もない」だった。

 リシャール修道士は、ジャンヌに対して強い不快感を隠そうとしなかった。[289] 彼は宮廷で高く評価されており、王室評議会の同意を得てカトリーヌを利用・雇用(employment)していたのは間違いないからである。

 乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)は成功した。
 その他の「啓示を受けた者」が成功しない理由はないだろう。

⚠️補足:利用する(employment)と訳すと、悪意が含まれているように聞こえるかもしれないが、「役立てる・雇用する・採用する・仕事をしてもらう」というニュアンスであり、ネガティブな意図はない。
なぜ今回補足したかというと、日本では一般的かつ軽はずみに「フランスはジャンヌを利用した」と訳され、シャルル七世およびフランス宮廷は悪意があってジャンヌを陥れたと解釈している日本人が多いからである。

 一方、王室評議会は、ジャンヌがフランスの大義のために果たした貢献を決して否定しなかった。
 パリとラ・シャリテ(包囲戦)の災難の後でさえ、以前と変わらずジャンヌの力を超自然的なものだと信じる者は多くいた。そして、宮廷内には、以前と変わらずジャンヌを利用しようと考える者もいた。そう信じるに足る理由があった。[290]

 たとえ彼ら(宮廷側)がジャンヌを切り捨てたかったとしても、彼女は今や、王家のフルール・ド・リスの紋章とあまりにも深く結びついていたため、ジャンヌを拒絶することは彼ら自身にも不名誉をもたらすことになる。

 1429年12月29日、メアン=シュル=イェーヴルにおいて、国王はジャンヌに、赤と緑の絹のストラップが二重にかけられ、緑色の蝋で封印された貴族の勅許状を与えた。[291]

 貴族の称号は、ジャンヌ本人、彼女の父と母、兄弟たち(たとえ彼らが自由人でなかったとしても)、そして男女を問わず彼らの子孫全員に与えられた。
 それは、ひとりの女性によって成し遂げられた特別な貢献に報いるための、特別な恩恵だった。

 この称号の勅許状で、ジャンヌは「ジョアンナ・ダイ(Johanna d'Ay)」と記述されている。おそらく、彼女の父の名前が、柔らかな訛りで話すロレーヌ人によって王の書記官に伝えられたからだろう。

 しかし、ジャンヌの名前がアイであろうとアルクであろうと、めったにその名前で呼ばれることはなく、一般的にはジャンヌ・ラ・ピュセル(Jeanne la Pucelle)と呼ばれていた。[292]


いいなと思ったら応援しよう!

しんの(C.Clarté) 最後までお読みいただきありがとうございます。「価値がある」「応援したい」「育てたい」と感じた場合はサポート(チップ)をお願いします。