教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|下巻・第六章 ムランの堀のラ・ピュセル/ルース卿(熊屋の旦那)/ラニーの赤子復活
【創作大賞2026参加中】期間限定で全体公開にします。
アナトール・フランス著『ジャンヌ・ダルクの生涯(Vie de Jeanne d'Arc)』全文翻訳を目指しています。完訳達成。原著は1908年発行。
1920年:ジャンヌ・ダルク列聖
1921年:A・フランス、ノーベル文学賞受賞
1922年:ローマ教皇庁の禁書目録に登録
現在、禁書制度は廃止されてますが、教皇庁は「カトリック教義を脅かす恐れがある禁書だった本を推奨することはできない」という立場を表明しています。
▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか
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6.1 ムランの堀の中で、聖女たちの不吉な予言
復活祭(イースター)の週、ジャンヌは傭兵団を率いてムランの城壁の前にいた。[345] ジャンヌは、休戦協定の期限が切れたまさにそのとき、戦いに間に合うように到着したのだ。[346]
⚠️ムラン(Melun):フランス中央部、パリの南東に位置する都市。セーヌ川を挟んで南岸地区と北岸地区に分かれている。
⚠️補足:前年の戴冠式の後に交わしたブルゴーニュ公との休戦協定の期限はイースターまで延長されていた。なお、1430年のイースターは4月16日。
シャルル王[347]の支配下にあったはずのこの町が、これほど自発的に(libéralement:自らの意志で、惜しみなく身を投じること)やってきたジャンヌとその仲間たちを拒むなどあり得るのか? ……どうやらそうだったようだ。
ジャンヌは、ムランのカルメル会修道女たちと連絡を取ることができたのか?
おそらくできたのだろう。
ムランの町の門で、彼女にどんな災難が降りかかったのだろうか?
ブルゴーニュ軍からひどい扱いを受けたのか?
それは分からない。
何にせよ、ムランの堀にいたとき、ジャンヌは聖カタリナと聖マルガリータが自分にこう告げるのを聞いたという。
「あなたは聖ヨハネの祝日の前に捕らえられるでしょう」
ジャンヌは二人に懇願した。
「私が捕らえられたら、長く苦しまずにすぐに死なせてください」
すると声は、ジャンヌが捕らえられ、そうなる運命なのだと繰り返した。
そして優しく付け加えた。
「心を乱さず、(運命を)感謝して受け入れなさい。神はあなたを助けてくださるでしょう」[348]
聖ヨハネの祝日は6月24日だ。あと10週間もない。
その後、ジャンヌは何度も聖人たちに「いつ自分は捕らえられるのか?」と尋ねたが、彼女たちは答えてくれなかった。そのため、疑念を抱いたジャンヌは、自分の考えに従うことをやめ、隊長たちに相談するようになった。[349]
5月、ムランからラニー=シュル=マルヌへ向かう途中、ジャンヌはコルベイユを通過しなければならなかった。
おそらくその時、ジャンヌに同行していた下ブルターニュ出身の信心深い二人の女性、ピエロンヌと彼女の霊的な姉妹が、コルベイユでイングランド軍に捕らえられてしまった。[350]
⚠️コルベイユ(Corbeil):パリの南部に位置する都市で、軍事と商業の町。セーヌ川とエソンヌ川の合流地点にあるため、川の利点を生かして製粉業と火薬製造が盛ん。平時は「コルベイユの大水車」を稼働させてフランス王にパンを供給している。
⚠️さらに補足:現代人としては「粉塵爆発が起きそうな業種を集約させるのは危険なのでは……」と思っていたら、案の定、17〜18世紀にたびたび爆発事故が起きている。軍事と商業の町というより、粉物の町。
6.2 ラニーの戦いで捕虜を手に入れる
パリの東部・郊外にあるラニーの町は、シャルル王の支配下に入ってから8カ月間、アンブロワーズ・ド・ロレ卿によって統治されていた。彼は、パリをはじめとする各地のイングランド軍と精力的に戦っていた。[351]
当面の間、アンブロワーズ・ド・ロレは不在だったが、副官のジャン・フーコーが守備隊を指揮していた。
ジャンヌがこの町に到着して間もなく、ブルゴーニュ公に忠誠を誓うピカルディとシャンパーニュ出身の部隊300〜400人がイル・ド・フランス地方を荒らしまわり、多くの戦利品(略奪品)をかかえてピカルディへ帰還する途中だという知らせが届いた。隊長は、勇敢な兵士として知られるフランケ・ダラスという男だった。[352]
フランス軍は、彼らの退路を断つことを決意した。
ラニーの副官ジャン・フーコー、ジョフロワ・ド・サン=ベラン、スコットランド人のヒュー・ケネディ、そして(ジャンヌとともにシュリーを旅立った)バルトロメオ・バレッタ隊長の指揮の下、彼らはラニーの町から出陣した。[353]
ジャンヌも彼らと行動を共にした。
ラニー近郊でブルゴーニュ軍と遭遇したが、奇襲には失敗した。
フランケ・ダラス(敵軍)が率いる弓兵たちは、イングランド軍のように生垣を背にして陣を整える時間があった。シャルル王の軍勢(フランス軍)は敵軍の数をわずかに上回っていた。
当時、フランス軍にいた書記が、この戦闘について書き残している。
彼の生まれつきの才覚は揺るぎなかった。彼は率直な常識に照らして、「このわずかな数的優位が、自軍にとってこの作戦を非常に困難で苦難に満ちたものにした」と述べている。[354]
戦いは、実に激戦を極めた。
ブルゴーニュ軍は「乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)は魔女であり、悪魔の軍勢を率いている」と信じていたため、非常に恐れていた。それにもかかわらず、彼らは勇敢に戦った。
フランス軍は二度撃退されたが、三度目の攻撃を試み、最終的にブルゴーニュ軍は全員殺害されるか捕らえられた。[355]
勝利者たちは戦利品を満載し、捕虜を連れてラニーに帰還した。
捕虜の中には、フランケ・ダラスも含まれていた。
貴族の生まれで荘園領主だった彼は、慣習に従い、身代金が期待できる身分だった。
サンリスの代官(Bailie)ジャン・ド・トロワシー[356]とジャンヌの二人が、彼を捕らえた兵士に「身柄を引き渡すように」と要求した。最終的にジャンヌの手にゆだねられた。[357]
ジャンヌは金銭と引き換えに彼を手に入れたのだろうか?
おそらくそうだろう。兵士たちは、高貴で利益をもたらす捕虜を無償(ただ)で手放すことはなかった。
しかしながら、のちに、この件について問われたジャンヌは、自分はフランスの支配者(maîtresse)でも財務官(argentier)でもないのだから、金銭を出す立場にはないと答えた。したがって、誰かがジャンヌの代わりに金銭を支払ったと推測せざるを得ない。
いずれにせよ、フランケ・ダラス隊長はジャンヌに引き渡され、彼女は彼をイングランド軍が捕らえているある捕虜と交換しようと試みた。
6.3 熊の看板を掲げた宿屋の旦那・ルース卿
ジャンヌが解放を望んだのは、ルース卿(Le Seigneur de l'Ours)と呼ばれているパリ市民だ。[358]
彼は貴族の生まれではない。経営する宿屋の看板にルース(l'Ours)すなわち「熊」の紋章が描かれていたからこう呼ばれていた。
当時、パリの大きな宿屋の主人を「◯◯卿(Seigneur:貴族や領主を指す呼び方)」という称号で呼ぶ慣習があった。例えば、タンプル門の宿屋を経営していたコリンは「ボワソー(Boisseau)卿」として知られていた。
⚠️補足:日本風・江戸っ子風にいえば「◯◯(屋号)公」とか「◯◯の旦那」と呼ぶ感覚に近い。
⚠️ボワソー(Boisseau)卿:ボワソーは穀物を量る「木製の枡」のこと。宿屋は宿泊業だけでなく、馬を預かって世話をし、餌の穀物を売るのも仕事のひとつだった。門前で宿を経営しているため、馬の世話や餌(穀物)を売買する頻度が高かったのだろう。馬の餌を扱う宿屋の主人の象徴的な道具であり、「枡屋の旦那」といったニュアンス。
「熊の看板を掲げた宿屋(Hôtel de l'Ours)」は、通称ポルト・ボーデと呼ばれる門の近く、サン・アントワーヌ通りにあった。この門の正式名称はラ・ポルト・ボードワイエだったが、短いほうが分かりやすいという二重の利点があった。[359]
古くから有名な宿屋で、同じ通りにある同業者のラルブル・セック屋(L'Arbre Sec)、ポン・ヌフ近くのフルール・ド・リス屋、サンドニ通りのエペ屋、そしてクロワ・デュ・ティルエ通りのシャポー・フェテュ屋(Chapeau Fétu)に並ぶほど有名だった。
シャルル五世の時代からこの宿屋は繁盛していた。巨大な暖炉の前では、一日中、串焼きが回転し、焼きたてのパン、新鮮なニシン、そしてオセールのワインが豊富にあった。
しかし、その後、武装した兵士たちの略奪によって田園地帯は荒廃し、旅人たちは略奪や殺害を恐れて出かけなくなった。騎士や巡礼者が町へ来なくなった代わりに、夜になると狼がやって来ては、路上で小さな子供を襲ってむさぼり食うようになった。
今や、暖炉には薪がなく、こね鉢にはパン生地がなかった。
アルマニャック派とブルゴーニュ派はワインを飲み尽くし、ブドウ畑を荒らし、地下室にはリンゴとプラムの粗末なピケット(小箱)以外に何も残っていなかった。[360]
ジャンヌが捕虜交換を要求した「ルース卿(熊屋の旦那)」の本名はジャケ・ギヨームといった。[361]
ジャンヌは他の人たちと同様に、彼を「ルース卿」と呼んでいたが、本当にこの宿屋の経営者だったかどうか、あるいは、この災難と荒廃の時代に宿屋を営業できていたかどうかは定かではない。
確認できる唯一の事実は、彼が「熊の看板(l'Ours)」を掲げた家の所有者だったということだ。
彼は、妻のジャネットの権利によってその家を手に入れた。
所有権を取得した経緯は以下の通りだ。
*
14年前、イングランド王ヘンリー五世が騎士団を率いてフランスに上陸する前のこと、熊の宿屋の主人(初代ルース卿)は、王の守衛官を務めるジャン・ロシュという男で、富と名声のある人物だった。
彼はブルゴーニュ公の熱心な支持者で、それが彼の破滅の原因になった。
当時のパリはアルマニャック派に占領されていた。
1416年、ジャン・ロシュはアルマニャック派をパリから追い出すために、仲間と陰謀を企て、同年4月29日、復活祭(イースター)の日に実行する予定だった。
しかし、アルマニャック派は陰謀計画を見抜いた。
ジャン・ロシュと仲間は投獄され、裁判にかけられた。
5月の最初の土曜日、熊屋の旦那(ルース卿)は、パリ市のクロスボウ兵60人の長である染物屋のデュラン・ド・ブリー、そしてピン職人兼真鍮職人のジャン・ペルカンと共に、荷車に載せられて市場へ連れて行かれた。
3人全員が斬首され、熊屋の旦那(ルース卿)の遺体はモンフォコンに吊るされた。
アルマニャック派が失脚してブルゴーニュ派がパリに入城するまで、遺体はそこに残された。ブルゴーニュ軍のパリ到着から6週間後の1418年7月、彼の遺体はようやく絞首台から降ろされ、墓地に埋葬された。[362]
**
初代ルース卿のジャン・ロシュの未亡人には、前の結婚で生まれた娘(連れ子)がいた。
彼女の名はジャネット。母と同じく二度結婚し、最初の夫はベルナール・ル・ブルトン、その後、裕福ではなかったジャケ・ギヨーム(ジャンヌが捕虜交換を要求している人物)と再婚した。
ジャケ・ギヨームは、国王の秘書官で法務書記官のジャン・フルーリーに借金があった。妻ジャネットの経済状況も芳しくなく、父方の財産は没収され、母方の遺産の一部を買い戻さなければならなかった。
1424年、夫婦は金に困り、抵当に入っていることを隠して家を売った。
買い手から訴えられ、夫婦は投獄され、そこで二人の証人(司祭と女中)を買収して罪を重くした。幸いなことに夫婦は恩赦を得られた。[363]
このような経緯で、当時のジャケ・ギヨーム夫妻は悲惨な境遇に陥っていた。
だが、彼らにはまだボーデ広場近くの「熊の看板を掲げた宿屋(Hôtel de l'Ours)」が残っており、故ジャン・ロシュの称号「ルース卿(l'Ours)」はジャケ・ギヨームが継承していた。
二代目ルース卿は、初代が頑固なブルゴーニュ派だったのと同じくらいアルマニャック派に傾倒しており、そのせいで同じ代償(処刑)を払うことになりそうだった。
6.4 パリ市民とカルメル会修道士たちの陰謀(1)
ジャケ・ギヨーム夫妻が投獄から釈放されて6年後の1430年3月、ジャンヌがシュリーを旅立った際に言及した「ムランのカルメル会修道士とパリ市民の一部による陰謀」が企てられた。
カルメル会が陰謀に関与したのはこれが初めてではない。
彼らは、聖母マリアの降誕祭の日に、パリで勃発寸前だった民衆蜂起も企てていた。その時、ジャンヌはサントノレ門の付近で攻撃を指揮していた。
これほど多くのパリ市民と町の有力者たちが陰謀に加わったことは過去に一度もなかった。
財務書記官のジャン・ド・ラ・シャペル
シャトレの治安判事(magistrates)ルノー・サヴァン
同じく、ピエール・モラン
非常に裕福で知られるジャン・ド・カレー
市民、商人、職人など150人以上の人々が、この広大な陰謀の糸を握っており、その中には「熊屋の旦那・ルース卿」ことジャケ・ギヨームも含まれていた。
ムランのカルメル会修道士たちが全体を指揮していた。
職人に変装して、彼らは国王から市民のもとへ、市民から国王のもとへと渡り歩き、内外で連絡を取り合い、計画の細部に至るまですべてを調整した。
彼らのうちの一人は、陰謀者たちに国王シャルル七世の軍隊を市内に迎えるという書面による誓約を求めた。こういう誓約書の要求は、陰謀者たちの大半が王室評議会から見返りを受け取っていたように見える。
この約束と引き換えに、修道士たちは国王の署名入りの恩赦令を持ってきた。
パリの人々が、いまだに「王太子(ドーファン)」と呼んでいる王子を受け入れるには、全面的な恩赦が保証されなければならなかった。
イングランド人とブルゴーニュ人がパリを支配していた10年以上もの間、正当な君主(シャルル七世)とその支持者一派から報復される可能性を完全に逃れられる者は、パリ市民の中に一人もいなかった。
彼らは、かつてカボシャンの乱を鎮圧した後、アルマニャック派がおこなった残酷な復讐を思い出した。だから、シャルル・ド・ヴァロワに過去を忘れてもらいたい、その保証がほしいと、ますます強く願った。
*
首謀者の一人、ジャケ・ペルドリエルは、日曜日にボーデ門でラッパを鳴らし(人を集めて)、王の恩赦令を読み上げることを主張した。
「私は疑ってない」と彼は言った。
「しかし、大勢の職人たちが朗読を聞きに集まってくるだろう」
ジャケ・ペルドリエルは、彼らをサン・アントワーヌ門まで導き、すぐ近くに潜伏している国王軍の兵士たちに門を開けるつもりだった。
およそ80〜100人のスコットランド人が、聖アンドリュー十字を身に着けてイングランド人に変装し、魚や家畜を運び込みながらパリに入城することになっていた。
「彼らはサンドニ門から堂々と入り、そこを占領する。そうなれば、国王軍はサン・アントワーヌ門から大挙して入ってこれるだろう」
ペルドリエルはそう言った。
良い計画だが、国王軍の兵士たちはサンドニ門から入ってくる方がもっと良いのではないかと考えられた。
3月12日、四旬節の第2日曜日、財務書記官のジャン・ド・ラ・シャペルは、治安判事のルノー・サヴァンを居酒屋「ラ・ポム・ド・パン」に招き、他の共謀者たちと会って、最善の策について最終合意に達するよう求めた。
彼らは、特定の日に、ジャン・ド・カレーが「シャペル・サンドニにある自分のブドウ畑を見に行く」という口実で、城壁の外にいる国王軍に合流し、白い旗を掲げて自分の身元を明かし、彼らを町に引き入れることに決めた。
さらに、もうひとりの治安判事ピエール・モランと彼に同調する大勢の市民が、フランス軍が侵入してきた際に支援できるよう、サンドニ通りの居酒屋で待機することが決まった。
この通りの居酒屋のひとつに「熊屋の旦那」ルース卿がいた。
彼は近所に住んでおり、近隣のさまざまな身分の人たちを集めることを引き受けていたに違いない。
6.5 パリ市民とカルメル会修道士たちの陰謀(2)
陰謀の首謀者たちは、完全に一致して行動していた。
彼らが今か今かと待ち望んでいたのは、王室評議会が指定した決行日の知らせだけだった。彼らは翌週の日曜日にその試みが行われると信じていた。
しかし、3月21日、ムランのカルメル会修道院の院長ピエール・ダレがイングランド軍に捕らえられた。
拷問にかけられた修道院長は、陰謀について自白し、共犯者の名前を明かした。彼の証言に基づき、150人以上が逮捕され、裁判にかけられた。
4月8日、聖枝祭(イエス・キリスト復活の1週間前の日曜日のこと)の前夜、最も重要な7人が荷車に乗せられて市場へ連れて行かれた。
(1)財務書記官のジャン・ド・ラ・シャペル
(2)シャトレの治安判事(magistrates)ルノー・サヴァン
(3)同じく、ピエール・モラン
(4)ギヨーム・ペルドリオ
(5)通称「ボードラン」と呼ばれるジャン・ル・フランソワ
(6)パン職人のジャン・ル・リグール
(7)通称「熊屋のだんな・ルース卿」と呼ばれるジャケ・ギヨーム
7人全員が処刑人によって斬首され、その後、ジャン・ド・ラ・シャペルとボードランの遺体は四つ裂きにされた。
ジャケ・ペルドリエルは財産を奪われただけで済んだ。
富豪のジャン・ド・カレーはすぐに恩赦を得た。
熊屋の旦那・ルース卿ことジャケ・ギヨームの妻ジャネットは、王国から追放され、財産は没収された。[364]
*
なぜ、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)は「熊屋の旦那・ルース卿」ことジャケ・ギヨームを知り得たのだろうか?
おそらく、ムランのカルメル会修道女がジャンヌに彼を推薦したのだろう。ジャンヌが彼の引き渡しを要求したのも、彼らの助言によるものだったと考えられる。
1429年9月のパリ包囲戦の時、サンドニか、あるいはパリの城壁の前で、ジャンヌは彼と面識があったかもしれない。その時、彼は、王太子(シャルル七世)とその支持者一派のために働くことを引き受けたのかもしれない。
なぜ、ラニーでは、修道院長ピエール・ダレの自白で逮捕されたパリ市民150人のうち、この男(熊屋の旦那・ルース卿)だけを救おうとしたのか?
なぜ、シャトレの治安判事ルノー・サヴァンやピエール・モラン、財務書記官ジャン・ド・ラ・シャペルではなく、処刑された首謀者たちの中で最も身分の低い男を選んだのか?
なぜ、裏切りの罪で死刑宣告された男(熊屋の旦那・ルース卿)を、戦争で捕らわれた捕虜(フランケ・ダラス隊長)と交換できると考えたのか?
これらすべてが不可解な謎に見える。
6.6 ラニーの捕虜を売り、処刑に同意する
5月初旬、ジャンヌはジャケ・ギヨーム(熊屋の旦那・ルース卿)がどうなったかを知らなかったが、彼が裁判にかけられて処刑されたと聞いて、ひどく悲しみ、腹を立てた。
⚠️補足:ルース卿がその尊称通りの貴族だったなら身代金あるいは同等の捕虜と交換できるが、実際は政治犯の宿屋主人にすぎず、「捕虜交換」の対象にはなり得ない。
それでもなお、ジャンヌはフランケ・ダラス隊長を「身代金と引き換えに解放可能な捕虜」とみなしていた。
しかし、サンリスの代官(Bailie)は、何らかの理由でその隊長の破滅を強く望んでおり、ジャンヌがジャケ・ギヨームの処刑に憤慨しているのにつけ込み、捕虜を引き渡すよう説得した。
彼はジャンヌに、「この男は多くの殺人と盗みを犯し、裏切り者だから、裁判にかけられるべきだ」と主張した。
「もし、このフランケを解放すれば、あなたは正義の執行を怠ることになりますよ」
これらの理由により、ジャンヌは納得した……というよりも、彼女はサンリスの代官(Bailie)の懇願に屈したのだ。
「私が欲しかった男(熊屋の旦那・ルース卿ことジャケ・ギヨーム)はもう死んでしまったのだから、フランケは正義に従って処遇してください」[365]
こうしてジャンヌは捕虜を引き渡した。
彼女は正しかったのか、間違っていたのか?
判断を下す前に、彼女がそうする以外に選択肢があったのかどうかを考えなければならない。
ジャンヌは神の乙女(ラ・ピュセル、女中)であり、万軍の主の天使(天の使い)であったことは明らかだ。しかしながら、軍の指導者や隊長たちは、ジャンヌの言葉にほとんど注意を払わなかった。
その一方で、代官(Bailie)は王の臣下であり、高貴な生まれで大きな権力を持っていた。
ラニーの判事たちの助けを借りて、サンリスの代官(Bailie)自身が裁判をおこなった。被告人は自分が殺人者であり、泥棒であり、裏切り者であることを自白した。
私たちは、彼の言葉を信じるほかない。
しかし、彼が本当にそうだったかどうかについては、アルマニャック派やブルゴーニュ派の兵士たちの大多数、例えば(ジャンヌの故郷周辺を荒らし回っていた)コメルシーの若領主やギヨーム・ド・フラヴィーのような連中と比べたときに、疑念を抱かずにはいられない。
フランケ・ダラス隊長は死刑を宣告された。
ジャンヌは「もし彼が死刑に値するのであれば死ぬべきだ」と言って処刑に同意し、彼が罪を自白し[366]、斬首されるのをただ見ていた。
ブルゴーニュ派の人々は、フランケ・ダラス隊長に対する不当な仕打ちを聞いて、悲しみと怒りの声を上げた。[367]
この件で、サンリスの代官とラニーの判事は慣習(戦争捕虜の取り扱い)に従わなかったように見える。しかし、私たちは当時の状況を十分に把握していないため、公正に意見を述べることができない。
フランス国王(に仕える代官)がこの捕虜の引き渡しを要求したのは、何か理由があったのかもしれない。彼は、ジャンヌに身代金を払うことを条件に、そうする権利があった。
戦争における名誉に関する事柄すべてに精通していた当時の兵士といえば、『ル・ジュヴァンセル』の著者である。
⚠️『ル・ジュヴァンセル』の著者:これまでに何度か言及しているジャンヌの戦友の一人ジャン・ド・ビュエイユ(Jean de Bueil)のこと。
二つ名「イングランドの天罰」と呼ばれた。晩年、百年戦争に従軍した経験をもとに半自叙伝『Le Jouvencel』を執筆。
彼は、騎士道物語の中で、アミドゥワンヌの王アミダスの賢明さを称賛している。アミダス王は、敵の一人であるモルセレ卿が戦いで捕らえられ、身代金と引き換えに解放されることを知ると、彼のことを「最も卑劣な裏切り者だ」と叫び、国の良質な貨幣で身代金を払い、町の代官と評議会の役人たちに引き渡して、彼に正義を執行させた(処刑)のである。[368]
これこそが王の特権だった。
野営生活がジャンヌを鍛え上げたのか、それとも他の神秘家たちと同じように、激しい気分の変化に左右されていたのか。
ジャンヌは、パテーの戦いの夜に見せたような優しさを、ラニーの戦いでは全く見せなかった。
かつては戦場で旗以外に武器を持たなかった乙女は、今やラニーで見つけたブルゴーニュ人の剣と信頼できる剣を手にしていた。
彼女を「主・神の天使」とみなす人々、例えば善良なパスケレル修道士は、「天の軍勢の旗手である大天使・聖ミカエルは燃える剣を携えている」と言って、ジャンヌを正当化するかもしれない。
そして実際、ジャンヌは聖女のままであり続けた。
⚠️一連のエピソードについて補足:ジャンヌはルース卿(政治犯の宿屋主人)を解放しようとしたが、捕虜交換の条件を満たさないルース卿は処刑される。ジャンヌは(無知ゆえに)そのことに腹を立て、捕虜交換の条件を満たしているフランケ・ダラス隊長の処刑(私刑)に加担する。ジャンヌがやったことは、聖女どころか騎士道精神から逸脱した非道な行為だった。
⚠️さらに補足:フランケ・ダラス処刑までのいきさつは、ジャンヌが火刑に至るまでの経緯に非常によく似ている。ブルゴーニュ派やイングランド人の中にこのときの報復(理不尽な処刑)の意図があったのかもしれない。
6.7 死んだ赤子を生き返らせる(1)洗礼を受けずに死ぬと地獄に落ちる概念について
ジャンヌがラニーに滞在中、町の人々がやって来て、生まれたばかりの子供が洗礼を受けずに亡くなったことを告げた。[369]
受胎した時、母親の体内に悪魔が入り込み、胎児の魂をつかまえた。(少なくとも当時はそう考えられていた)
水がなかったために、この子は創造主の敵として死んだのである。
赤子の魂の運命について、人々は大きな不安を感じていた。
ある者は、「魂は永遠に神の前から追放され、地獄に堕ちた」と考えたが、より一般的で根拠のある意見によれば、「本来、魂とは地獄で煮えくり返っている」という。なぜなら、聖アウグスティヌスが「魂とは大小に関係なく、原罪のために地獄に堕ちるのだ」と証言しているからだ。
イブの堕落(原罪)によって、子供の中の「神の似姿」が消えたことを考えると、洗礼を受けずに亡くなった子が地獄に落ちるのは当然ではないか。
⚠️わかりにくいので補足。
🔸原罪:アダムとイブが禁じられた木の実を食べたために、人類全体が罪を背負うことになった、というキリスト教の教義。この原罪は、生まれてくるすべての人に受け継がれる。
🔸神の似姿:人間は神によって創造された存在であり、神の性質の一部(理性、自由意志、愛など)を受け継いでいる。
原罪を背負い、神の似姿を失った子供は、洗礼を受けない限り、神の救いを受けることができない。したがって、「洗礼を受けずに死んだ子供は、地獄に落ちるのは当然」という当時の考え方が背景にある。
この赤子は生まれながらに「永遠の死」を運命づけられていたのだ。
ほんの数滴の水(洗礼式の水、聖水)があれば、この不幸は避けられたかもしれないのに!
この恐ろしい災難は、哀れな母子の親族だけでなく、近隣の住民やラニーの町の善良なキリスト教徒たち全員をひどく苦しめた。
赤子の遺体はサンピエール教会に運ばれ、1128年のペスト流行以来、深く崇拝されてきた聖母マリア像の前に安置された。
この聖母像は火傷を治すことで知られ、「火傷の聖母(ノートルダム・デ・アルダン、Notre-Dame-des-Ardents)」と呼ばれていた。
火傷を治す必要がないときは「助けの聖母(ノートルダム・デ・エダン、Notre-Dame-des-Aidants)」と呼ばれた。なぜなら、聖母マリアは困窮している人々に救いの手を差し伸べるからだ。[370]
ラニーの町の乙女たちは、小さな遺体を真ん中に抱えて、彼女の前にひざまずき、「この小さな子供が救い主のもたらす贖罪にあずかれるよう、神の御子(イエス・キリスト)に取りなしてください」と懇願した。[371]
状況次第で、聖母マリアは強力な介入(奇跡)を発揮する。
ここで、37年前に聖母が起こした奇跡について語るのも不適切ではないだろう。
*
1393年のパリで、ある罪深い女が妊娠に気づきながら、その事実を隠し、臨月を迎えて誰の助けも借りずに出産した。
その後、生まれたばかりの女児の喉に麻布を詰め込み、サンマルタン・デ・シャン門の外にあるゴミ捨て場に投げ捨てた。
しかし、犬が匂いを嗅ぎつけ、他のゴミをかき分けてその遺体を発見した。
たまたま通りかかった敬虔な女性が、この哀れな命なき小さな赤子を抱き上げ、400人以上もの人々に引きつれてサンマルタン・デ・シャン教会まで運び、聖母マリアの祭壇に安置した。
そして、大勢の人々や修道院の修道士たちと共にひざまずき、聖母マリアに「この罪なき赤子が永遠の罰を受けないように(地獄に落ちないように)取り計らってください」と心から祈った。
すると、その赤子はかすかに身動きして目を開け、口をふさいでいた麻布を緩め、大声で泣き出した。
司祭は、聖母マリアの祭壇で赤子に洗礼を授け、マリーと名付けた。
乳母が見つかり、赤子は母乳を与えられた。その子は3時間ほど生きたが、まもなく亡くなり、聖なる地(墓地)に埋葬された。[372]
6.8 死んだ赤子を生き返らせる(2)奇跡の真相
当時、洗礼を受けていない子供の復活(蘇生)はよくあることだった。
ジャンヌがラニーにいた頃、コルビーの聖コレットは、ムーランにある聖クララ修道会で改革派修道女たちと共に暮らしていたが、こういった哀れな子供たちを二人生き返らせた。
一人は女児で、洗礼盤でコレットという名を授かり、後にポンタ・ムーソンの修道院長となった。
もう一人は男児で、埋められて二日経っていたらしいが、貧者のしもべ(聖コレットのあだ名)が「この子は選ばれた者の一人だ」と宣言した。男児は6カ月後に亡くなり、聖女の預言を成就した。[373]
⚠️聖コレットについての解説は、『下4.8 ラ・シャリテ包囲戦(2)ムーランのプティ・アンセル、聖コレット』参照。
ジャンヌは、おそらくこの種の奇跡をよく知っていた。
ドンレミ村から10リーグ(25マイル/40キロ)離れたロレーヌ公領のリュネヴィル近郊には「蘇生の聖母(ノートルダム・デ・ザヴィオ、Notre-Dame-des-Aviots)」の聖域がある。ジャンヌも逸話を聞いたことがあっただろう。
ノートルダム・デ・ザヴィオ、つまり「生き返った人たちの聖母」は、洗礼を受けていない子供たちを生き返らせることで有名だった。聖母マリアの介入(奇跡)によって、子供たちは洗礼を受けてキリスト教徒になるまでわずかな時間だけ生き返ったのだ。[374]
また、リュクサンブール公領のモンメディ近郊にあるアヴィオットの丘[375]では、多くの巡礼者が天使によってそこに運ばれてきた聖母マリア像を崇拝していた。
この丘には、細い柱と三つ葉、バラ、軽やかな葉の装飾が施された精巧な石造りの教会が建てられていた。ここの聖母像はあらゆる奇跡を起こした。
像の足元には、死んで生まれてきた赤子たちが置かれ、彼らは生き返ると、すぐに洗礼を受けた。[376]
*
ラニーのサンピエール教会に集まった人々は「助けの聖母(ノートルダム・デ・エダン、Notre-Dame-des-Aidants)」の周りで、同様の奇跡を願っていた。
町の乙女たちは、命なき赤子の周りで祈りを捧げた。
乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)は、彼女たちと共に神と聖母マリアに祈ってほしいと頼まれた。
ジャンヌは教会へ行き、町の乙女たちと共にひざまずいて祈った。
赤子の体は黒ずんでいて、ジャンヌは「私のコートと同じくらい黒い」と言った。
ジャンヌと町の乙女たちが祈りを終えると、赤子は三回あくびをして、生気を取り戻した。赤子は洗礼を受けるとすぐに亡くなり、聖なる地(墓地)に埋葬された。
町中で、「この復活はジャンヌの奇跡だ」と言われた。
広まっている言い伝えによれば、生まれてから三日間、赤子は生きている兆候を示さなかったという。[377]
だが、ラニーのおしゃべり好きなおばさんたちは、「賢い妻は、夫が産んだ卵1個をその日のうちに100個まで増やした」という良妻伝説ように、赤子の昏睡状態の期間を誇張して語り継いだのだろう。
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