ホスト・アルター #4 学校と空白。
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1
「湊くん、起きてる?」
肩を軽く叩かれて、湊はゆっくりと目を開けた。
まぶたの裏に、まだ何かが張り付いているような違和感が残っていた。
気づくと、教室だった。
窓の外には白い光が降っていて、机の上には数枚のプリント。
いつの間にか昼休みになっていたらしく、隣の席の女子が半分笑いながら立ち上がっていく。
「まーた寝落ちしてるし。ちゃんと朝ごはん食べた? ……てか、顔色悪くない?」
「……平気だよ」
湊はそう答えて、目を伏せた。
プリントをまとめながら、机の上に視線を落とす。
──いつから、ここにいたんだ?
昨日の記憶は、曖昧だった。もう慣れたこととはいえ、気付いたら別な場所にいるというのは本当に心臓に悪い、と湊は思った。
起き上がった湊は、何ともなしに袖口を引いた指先に、微かな違和感を感じる。自分の体なのに、わずかに距離があるような、不思議な感覚だった。
当たりを見渡すと、みんな思い思いに昼休みを過ごしていた。にぎやかな周りの音に気付かなかった自分。いつも寝不足という事でごまかしていたから、今更心配してくるクラスメイトも居なかった。
思考が、考えがまとまらない。周りら聞こえてくる声も、机を引く音も、どこか遠くから聞こえてくるような感じがする。
(俺、今、本当にここにいるんだよな)
湊は教室を出て、廊下を歩いた。自分が本当に現実に居るのかどうか、別の場所に行こうとしても行けないとか、意識が途切れて別の場所に立っているとか、そういう夢で起こりえるような感覚がないことを確かめたかったからだ。
廊下にある自販機の前に着くと、恐る恐る学生証をリーダーにかざす。ブラックの缶コーヒーが落ちる。
カシャン——
その音に反応したかのように、近くを通った女子がふいに振り返った。
2
「あ」
小さな声に振り返ると、見覚えのある顔の女子がいた。 クラスは違うが、何度か廊下ですれ違った記憶がある。肩のあたりで切りそろえられたショートボブが少し乱れていて、制服も着崩している。でも、その適当さが妙に自然に見えた。そして何よりも特徴な、首に巻かれた黒いチョーカーに湊はあえて目を向けずにいた。
「湊くん、だよね」
向こうから声をかけてきた。 特に親しげでもなければ、驚きもしない声。でも、そこには"見慣れた顔"を見つけたときの微かな安心感が混じっているような音色が含まれている気がした。
彼女は手早く自販機のリーダーに学生証をタッチして、取り出し口からカフェオレの缶を抜いた。
湊はようやく、今いる場所が現実なのだと認識し始めることが出来た。
「ブラック、毎日飲んでるよね」
「……そうかも」
「大人ぶってるの?それとも本当に好き?」
質問の意図が分からなくて、湊は黙った。
「ふーん」
彼女はカフェオレの缶を軽く振って、にやりと笑った。
「私、朝霧沙月。2年B組の」
唐突な自己紹介だった。
「ねえ、ちょっと付き合わない?面白い場所知ってるから」
その誘い方は、まるで"そうするのが普通"みたいな、ごく自然な響きだった。
湊は一瞬、躊躇した。 それでも気づけば、沙月のあとをゆっくりと歩き出していた。
3
鉄骨の階段の裏。
日陰になったそのスペースには、昼間でも薄暗い影が落ちていた。
コンクリートの床には小さな砂埃と古い落ち葉が舞っていて、
どこか、乾いた掃除用具と古びた空調ダクトの匂いが漂っていた。
誰も長くは居たがらない、学校の裏側。
沙月は、ためらいもなくその階段下に腰を下ろした。
カフェオレのプルタブを開けて、スカートの上でコツンと指で叩く。
湊は少しだけ距離をとって、向かいに立った。
「……ここ、いつも来てるのか?」
「ううん。初めて」
あっさりと返ってくる。
本当かどうか、わからない。けど、沙月の顔には“慣れている”ような余裕があった。
「なんかさ、こういうとこ、落ち着くんだよね。
ちょっとだけ、隠れてる感じするし」
そう言って、カフェオレを一口。
「……あ、湊くんは立ったまま? 座らないの?」
「別に、いい」
「ふーん。やっぱり、ちょっと“育ち良さそう”って感じするね」
沙月は笑いながらそう言った。
言い方に棘はなくとも、どこか試されているような気がした。
しばらく沈黙が流れる。
沙月は缶を持ったまま、地面に落ちていた細い棒を指で拾って弄びながら言った。
「……ねえ、湊くんってさ、誰かに“嫌われたこと”ってある?」
「……は?」
唐突な問いだった。
でも、問いの温度だけが妙にリアルで、湊は言葉に詰まった。
沙月は、空を見上げるふりをして笑った。
「わたしさ、たぶん“嫌われたくない”って気持ちが強すぎて、
結局、誰にも本音で喋れなくなったんだと思うんだよね」
その笑顔は、綺麗だった。
でも、どこか“崩れる寸前の予兆”にも見える。
「……でも、最近は、嫌われてもいいかなって思ってる。
そう言って缶を揺らす。その音が小さく響いた。
「こう思うようになったらさ、少しだけ楽になったの」
「そしたら、なんか、誰でもいいから喋りたくなって。
──ちょうど、湊くんがいた」
湊は答えなかった。 ただ、缶を握った手に、ほんの少しだけ力が入った。
沙月が急に黙り込んだ。 缶を持った手が、無意識に首元へ伸びる。黒いチョーカーを、指でなぞるように触れた。
「これ、見てる?」
「……チョーカー、か?」
「そう。でもね——」
彼女の瞳が、一瞬だけ暗くなった。
「これさ、ただの飾りじゃないんだよ?」
そう言って、湊の目をじっと見つめる。
その視線は、どこか“誘うように見えて、拒んでいる”ような、
言葉にならない危うさを孕んでいた。
4
「……じゃあ、また明日。バイバイ、湊くん」
沙月がそう言って、背を向けた。
階段下の狭い空間から出ていくとき、彼女の足音はやけに軽く響いていた。
あのチョーカーの存在感だけが、湊の視界にいつまでも焼き付いている。
(……なんだったんだ、あれ)
言葉にするのは難しい。
けれど、湊の胸の奥には、形にならないざらつきが残っていた。
笑っていた。けれど、その笑いはどこか“削れた音”がした。
なにより、あの時の──
『これさ、ただの飾りじゃないんだよ?』
──という言葉の“奥”が、ずっと耳の中で響いていた。
教室に戻る気にはなれなかった。 かといって、家に帰る気にもなれない。
(あいつ、どこ行ったんだろう)
自分でも意外だった。今まで誰かのことを気にかけたことなんて、なかった。 でも、あのチョーカーを触る仕草が、妙に頭から離れない。
足が勝手に動いていた。 なぜか分かる。彼女がいそうな場所が。
夕方の街。店じまいを始めたシャッター音。 道端に残された雨の痕。
そして——
勝鬨橋。 ライトアップされた橋の上に、予想通り、制服姿の背中があった。
暗くなった隅田川を見つめる沙月。 その瞬間、湊の中で何かが明確に"切り替わった"。
(このまま通り過ぎれば、何も変わらない)
でも——
『嫌われてもいいかなって思ってる』
沙月の言葉が、再び耳の奥で響く。 初めて、湊は"他人"の言葉に背中を押された。
一歩、また一歩。 橋の上の少女に向かって、湊は歩き始めた。
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