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東大で痛感した教養の差。私が読書を大切にする理由

読書について話そうとすると、私はいつも少しだけ言葉に迷います。

好きかと聞かれれば、たしかに好きです。
けれど、それは胸を張って「趣味です」と言い切る感覚とは少し違います。

私にとって読書は娯楽というより、もっと静かな時間です。
外へ向かうというより、自分の内側へ戻っていくような感覚。

時間をかけて「自分という人間」を確かめ直す作業に近いのかもしれません。あるいは、うまく言葉にできない違和感や感情に、そっと名前を与えていく営みとも言える気がします。


すぐに古本屋へ売ってしまう父


子どもの頃から、本は身近な存在でした。
とはいえ、いわゆる読書少年だったわけではありません。

家の本棚には父の本が並んでいました。父は本を読み終えるとしばらく置き、やがて古本屋へ売ってしまう人でした。

だから私は、「読んでみたい」と思った本が家にあるうちに自然と手に取るようになりました。きっかけは本当にその程度のことです。

父が読んでいたのは、恩田陸さんや宮部みゆきさんなど、有名な小説家の作品が中心でした。

もちろん、どれも面白い。
でも夢中になるほどではない。

「父が読んでいるから、自分も読んでみようかな」
そのくらいの距離感でした。

一方で、漫画には強く惹かれていました。

叱られるほど読みましたし、物語の世界に入り込む楽しさや、続きが気になって仕方がない感覚は漫画から教わったように思います。


古典が教えてくれた「人間の本質」


転機は東京大学に入ってから訪れました。
友人たちとの会話の中で、ふと気づいたのです。

「自分には教養が足りていない。」

みんなが当たり前のように話している本や思想を、私は知らない。
話についていけない瞬間が何度もありました。

焦りと悔しさが、静かに積み重なっていきました。
そこで私は読書好きの友人に頼み、本のリストを作ってもらいました。

渡されたのは、書名と出版社だけが並んだシンプルな一覧です。
友人が勧めてくれたのは主に古典でした。

「人の悩みは昔からあまり変わらない」
「人間の本質も時代によって大きく変わるわけではない」


だからこそ、長く読み継がれてきた本には価値がある。

何が名作になるかは最初には分かりません。
しかし、長い時間を経ても残り続けているものには、それだけの理由があります。

この考え方は、とても腑に落ちました。


本当に大事なものを教えてくれた『罪と罰』


リストの中でも特に印象に残っているのが、フョードル・ドストエフスキーの『罪と罰』です。

主人公は、「特別に優れた人間なら道徳を超えても許される」という思想にとらわれ、殺人を犯します。

能力がある人は何をしても許されるのか。
賢さは罪を打ち消す理由になるのか。

当時の私は東京大学に入学したばかりでした。

どこかで浮かれ、「頭が良ければ大抵のことはできる」と思い上がっていた部分があったのだと思います。

作品は、その思い込みを静かに崩していきました。

罪とは何か。
罰とは何か。
人はどうすれば救われるのか。

物語を読み進める中で、自分の考えの浅さを思い知らされました。

そして最後に残ったのは、「人を救うのは愛なのかもしれない」という感覚でした。
それは今でも心に残っています。


すべての物語の源流だったシェイクスピア


ウィリアム・シェイクスピアの作品を読んだときも、不思議な感覚がありました。

初めて読むのに、どこかで知っている気がするのです。
読み進めるうちに、その理由が分かりました。

自分がこれまで触れてきた数多くの物語が、ここにつながっていたのです。
悲劇の展開も、人物造形も、物語の構造も。

後世の作品の原型とも言える要素が、すでにそこにありました。
何百年も前に、ここまで描かれていた。

その「事実」に素直に驚かされました。


読書が鍛える「考える力」


動画やSNSが主流になり、書店も少しずつ減っています。
それでも私は、読書の価値は変わらないと思っています。

本を読むことは、「じっくり考える力」を育てる時間だからです。
文章を追い、行間を考え、自分の頭で意味を組み立てる。

そこに近道はありません。
正直に言えば、古典は読みづらい。
けれど、難しい本ほど理解できたときの手応えは大きいものです。

プラトンの『国家』を読んだときは、徹底的に問い続ける姿勢に自分の思考の甘さを突きつけられました。
難解ではありますが、読み込むほどに論理が一本の筋としてつながっていく。

その読書体験が、確実に「考える力」を鍛えてくれました。


読書がもたらした思考の基礎体力


大学時代、私は塾講師のアルバイトをしていました。
難しい書物を読み続けていると、不思議な変化が起きました。

教科書や参考書が、とても読みやすくなったのです。

文章を追えば理解できる。
知識が自然と頭に入ってくる。

いつしか、専門外だった化学や物理の教科書も「読めば分かる」と感じられるようになりました。

古典を読み続けた時間が、思考の基礎体力を育ててくれたのだと思います。

ちなみに私は、本を一度読んだら読み返すことがほとんどありません。
読んだら古本屋に売ってしまう父に、少し似ているのかもしれません。

その代わり、ノートに言葉を残します。
心に引っかかった一文。
感じたこと。
他の人の感想との違い。

私にとって大切なのは、本そのものよりも「その本を読んだ自分の記録」です。

同じ本でも、読む年齢が変われば感じ方も変わります。

だからこそ、記録を見返すと、そのときの自分がどこに立っていたのかが見えてきます。


読書とは、自分と向き合う時間


大学一年生のときに抱いた「自分には教養が足りていない」という劣等感。

遠回りに見えた読書の時間は、いつの間にか自分の土台になっていました。

読書とは、知識を集めることではありません。

誰かの思索の道のりを、自分の中でたどり直すこと。

そして、未熟な自分と静かに向き合う勇気を持つことだと思います。

本を閉じたあとに残るものは、答えではありません。
それでもなお、考え続けようとする姿勢です。

あのとき本のリストを作ってくれた友人とは、卒業から十年以上経った今も親友です。

本を通して交わした対話は、不思議と色あせません。

ページをめくった時間は過去になっても、そこで育まれた思考や友情は今も続いています。

読書とは、過去と現在をつなぎ、自分の人生を少しずつ前へ進めてくれる営みなのだと思います。

あなたにとって「読書」とは何ですか?

上松 真也

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