見出し画像

小説 【君を救ったその日から】 第六章 完

第六章 所有


 十一月。

 白波学園は静かだった。

 秋も終わりに近付いている。

 紅葉。

 冷たい風。

 冬の気配。

 そして。

 相談室には相変わらず生徒たちが訪れていた。




「旭先生」

 有紗が顔を上げる。

 奈々だった。

「こんにちは」

「こんにちは、奈々さん」

 いつも通り。

 穏やかな笑顔。

 優しい声。

 有紗は何も疑わない。

 だが。

 蓮だけは違った。

 倉庫の奥。

 半分寝転がりながら。

 奈々を見ている。

「……」

 最近。

 奈々の相談内容はほとんどない。

 来る理由も曖昧。

 話す内容も普通。

 ただ。

 有紗に会いに来ているだけ。

 そんな気がしていた。

「旭先生」

 奈々が言う。

「はい?」

「旭先生は幸せですか」

 有紗が少し驚く。

「急ですね」

 奈々は笑う。

「気になって」

 有紗は少し考えた。

 事件は終わった。

 仕事も順調。

 生徒たちも元気。

 だから。

「そうですね」

 微笑む。

「幸せだと思います」

 その答えに。

 奈々も笑った。

 嬉しそうに。

 でも。

 どこか悲しそうに。




 放課後。

 奈々は校舎裏にいた。

 一人、誰もいない場所。

 スマホを開く。

 そこには大量の写真。

 有紗。

 有紗。

 有紗。

 そして。

 蓮。

「……」

 奈々は蓮の写真を見る。

 しばらく。

 長い時間。

 そして。

 削除した。

 一枚。

 また一枚。

 さらに一枚。

「旭先生だけでいい」

 小さく呟く。

 その言葉は。

 もはや自分へ言い聞かせるものではなかった。




 その夜。

 蓮は珍しく眠れなかった。

 車の中。

 缶コーヒー。

 煙草は吸わない。

 だからただ座っている。

「……」

 奈々。

 あいつだ。

 証拠はない。

 でも。

 間違いなく。

 勘がそう言っている。

 そして。

 その勘は今まで全部当たっていた。

「嫌な予感しかしねえ」

 小さく呟く。




 翌日。

 有紗の机に封筒があった。

 まただった。

 最近は毎日のように届く。

 中を開く。

 紙が一枚。

『旭先生を連れて行きたい』

 有紗の顔色が変わる。

 今までで一番危険だった。

 そして。

 本気で怖いと思った。




「連れて行きたい?」

 明智が眉をひそめる。

 放課後。

 相談室。

 明智も呼ばれていた。

「はい」

 有紗が答える。

 明智はしばらく考える。

「旭先生」

「はい」

「一人行動は禁止です」

「……」

「学校内でも」

「そこまでですか」

 明智は真顔だった。

「そこまでです」




 帰り道。

 有紗は少し落ち込んでいた。

「有紗先生」

 蓮が言う。

「はい」

「俺がいるだろ」

 有紗が顔を上げる。

「え?」

「一人じゃない」

 有紗は少しだけ笑った。

「そうですね」

「そう」

 蓮も少し笑う。

 そのやり取りを。

 遠くから奈々が見ていた。




 胸が苦しい。

 痛い。

 苦しい。

 どうして。

 先生が笑っているのに。

 苦しいんだろう。

「……」

 奈々は気付いていた。

 もう。

 自分が普通じゃないことに。

 でも。

 止められない。

 旭先生が欲しい。

 旭先生だけ欲しい。

 旭先生と二人だけになりたい。




 数日後。

 事件は起きた。

 放課後。

 有紗は一人で職員室へ向かっていた。

 本当に少しだけ。

 ほんの数分だけ。

 蓮がいなかった。

 その隙だった。

「旭先生」

 後ろから声。

 振り返る。

 奈々だった。

「奈々さん?」

 奈々は微笑んでいる。

 いつも通り。

 優しく。

 穏やかに。

「少しだけ」

 奈々が言う。

「話があります」

 有紗は頷く。

 疑わない。

 信じている。

 相談者だから。

 大切な生徒だから。

 だから。

 気付かなかった。

 奈々の右手が震えていることに。

 そのポケットの中に。

 ナイフがあることに。

 そして。

 もう奈々自身ですら。

 止まれなくなっていることに。

「話があるんです」

 奈々は微笑んでいた。

 いつも通り。

 本当にいつも通りだった。

 だから。

 有紗は警戒しなかった。

「どうしました?」

「見て欲しいものがあるんです、来てくれますか?」

 二人は校舎裏へ向かう。

 放課後。

 人通りは少ない。

 秋風が吹いている。

 落ち葉が舞う。




 奈々は立ち止まった。

 有紗も足を止める。

「奈々さん?」

 返事はない。

 奈々は俯いていた。

 長い黒髪が揺れる。

「旭先生」

 小さな声。

「はい」

「私」

 奈々の肩が震える。

「旭先生に救われたんです」

 有紗は静かに聞く。

「痴漢の時」

「……」

「誰も信じてくれなかった」

「……」

「でも旭先生だけは」

 奈々が顔を上げる。

 涙が浮かんでいた。

「信じてくれました、だから乗り越えられた」

 有紗は優しく微笑んだ。

「奈々さんが頑張ったからですよ」

「違う」

 奈々が首を振る。

「旭先生です」

 強い声だった。

 今まで聞いたことがないほど。




「奈々さん」

 有紗が少し戸惑う。

 何かがおかしい。

 初めてそう思った。

「旭先生」

 奈々は一歩近付く。

「私」

 涙を流しながら笑う。

「先生がいれば何でもよかったんです」

 有紗の胸がざわつく。

「奈々さん」

「でも」

 奈々は続ける。

「みんな旭先生を取ろうとする」

「……」

「黒崎も」

「……!」

「山本も」

「……!」

「佐藤も」

 有紗の顔色が変わる。

 知っている。

 全部。

 知っている。




「手紙」

 奈々が言う。

「私です」

 有紗の呼吸が止まる。

「写真も」

「……」

「全部」

 奈々は笑う。

 泣きながら。

 壊れたように。

「旭先生に知ってほしかった」

 有紗は何も言えなかった。

 言葉が出ない。




「奈々さん」

 ようやく声を絞り出す。

「苦しかったんですね」

 奈々が固まる。

「……え?」

「一人で抱えていたんですね」

 有紗は泣きそうだった。

 怖い。

 でも。

 目の前にいるのは生徒だ。

 大切な生徒。

「相談してください」

 奈々の瞳が揺れる。

 大きく。

 激しく。

「違う」

 奈々が呟く。

「違う」

 もう一度。

「旭先生は何も分かってない」

 涙が溢れる。

「私は相談なんかしたくない」

「……」

「旭先生が欲しいの」

 その言葉を口にした瞬間、奈々自身が一番驚いたように目を見開いた。

 けれど、もう取り消せなかった。




「旭先生」

 奈々はポケットへ手を入れる。

 銀色に光るナイフ。

 有紗の顔から血の気が引く。

「奈々さん!」

「二人で」

 奈々が笑う。

 壊れた笑顔。

「ずっと一緒にいてくれますよね?」

「落ち着いてください!」

「旭先生」

 奈々が泣く。

「先生の世界が欲しかった」

 その瞬間だった。

「市川やめろ!!」

 声。

 蓮だった。

 走ってくる。

 全力で。

「佐藤さん!」

 有紗が叫ぶ。

 奈々が振り向く。

 一瞬。

 本当に一瞬。

 迷い。

 そして。

 ナイフが振り上がる。

「やめろ!」

 蓮が飛び込む。

 有紗を突き飛ばす。

 次の瞬間。

「っ!」

 蓮の左腕が切れる。

 鮮血。

 地面へ落ちる。

「佐藤さん!!」

 有紗の悲鳴。

 奈々も固まる。

 自分が何をしたのか。

 理解してしまった。




「……あ……違う」

 奈々が呟く。

「違う」

 震える。

 全身が。

「こんなつもりじゃ……」

 奈々は首を振る。
 涙が止まらない。

「でも、もう戻れない」

 ナイフを握る手に力が入る。

「旭先生」

 奈々は泣きながら笑った。

「一緒に来てください」

 涙が止まらない。

「やめろ!ナイフを離せ!」

 奈々はナイフを再度振り上げ有紗に向かって走った。

「奈々さん!やめて!」

 すかさず蓮が間に入り奈々の手からナイフを払い落とした。




 サイレン。

 足音。

 警察。

 明智。

 全員が駆け込んでくる。

「ナイフから離れろ!」

 既に落ちているナイフ。

 奈々は抵抗しなかった。

 ただ。

 有紗を見ていた。

 ずっと。




「旭先生」

 奈々が泣きながら言う。

「好きなんです旭先生、ごめんなさい」

 有紗も泣いていた。

「奈々さん」

「愛してるんです……旭先生……ごめんなさい」

 奈々は連行される。

 ゆっくり。

 一歩ずつ。

 最後まで。

 有紗を見ながら。

 そして。

 静寂。

 残ったのは。

 有紗と蓮。

「佐藤さん!」

 有紗が駆け寄る。

 腕から血が流れている。

「病院!」

「大丈夫」

「大丈夫じゃありません!」

 珍しく大きな声だった。

 蓮が少し驚く。

「有紗…」

「黙ってください!」

「はい」

 怒られた。

 でも。

 少し嬉しかった。




 救急車を待つ間。

 有紗は震えていた。

 恐怖。

 安堵。

 涙。

 全部混ざっている。

「有紗先生」

 蓮が言う。

「……」

「怪我なくてよかった」

 有紗は顔を上げる。

 そして。

 ぽろぽろと涙が落ちる。

「馬鹿ですか」

「かも」

「自分の心配してください」

 蓮は少し笑う。

「無事だったろ」

 それだけだった。

 有紗はもう何も言えなくなった。

 ただ。

 泣きながら頷いた。

 その瞬間。

 初めて気付く。

 どれだけ自分が。

 この人に助けられていたのか。

 どれだけ安心していたのか。

 でも。

 それが恋かどうかは。

 まだ分からなかった。

 ただ一つだけ。

 確かなことがあった。

 この人を失うのは嫌だ。

 そう思った。

 初めて。

 本当に初めて。




 冬が来ていた。

 白波学園の木々は葉を落とし。

 吐く息は白い。

 あの事件から二か月。

 学校はようやく本当の日常を取り戻していた。




 市川奈々は少年院送致となった。

 事件の重大性を考えれば当然だった。

 ただ、明智の話によれば。

 奈々は最後まで抵抗しなかったらしい。

 取り調べでも。

 裁判でも。

 泣きながら謝り続けていたという。

「旭先生に会いたい」

 それだけを繰り返しながら。




 有紗はその話を聞いた時。

 少しだけ泣いた。

 怖かった。

 許せない気持ちもある。

 でも。

 奈々もまた救えなかった生徒だった。

 そう思ってしまったから。




「有紗先生」

 相談室。

 蓮が倉庫から出てくる。

 左腕にはまだ包帯。

 怪我はほぼ治っている。

「何ですか」

「コーヒー」

 机に缶コーヒーを置く。

「ありがとうございます」

 有紗は笑う。

 最近。

 少しだけ変わった。

 以前より自然に蓮を頼るようになった。

 それは蓮も気付いている。




「佐藤さん」

「ん」

「痛みますか」

 有紗が包帯を見る。

「もう平気」

「本当ですか?」

「本当」

「嘘ですね」

「何で」

「顔です」

 蓮は笑った。

「有紗先生、最近鋭いな」

「少しだけです」

 有紗も笑う。

 しばらく沈黙。

 穏やかな時間。

 そして。

 有紗がぽつりと言った。

「怖かったです」

 蓮は何も言わない。

「佐藤さんが怪我した時」

 有紗は目を伏せる。

「本当に」

「……」

「嫌でした」

 蓮は少しだけ固まる。

 有紗は気付いていない。

 その言葉の破壊力に。

「だから」

 有紗は続ける。

「もう無茶しないで下さい、でも…助けてくれてありがとうございました」

 深く頭を下げる。

 本当に。

 心から。

 蓮は頭をかいた。

 照れ臭い。

 どう返せばいいか分からない。

「有紗先生」

「はい」

「俺」

 言いかける。

 でも。

 やめた。

「何ですか?」

「いや」

 笑う。

「何でもない」

 今じゃない。

 そう思った。




 放課後。

 校舎は静かだった。

 夕焼けが差し込む。

 相談室にも赤い光が広がる。

「佐藤さん」

「ん?」

「帰りましょうか」

「おう」

 立ち上がる。

 その時。

 コンコン。

 扉が鳴った。

 二人が同時に振り返る。

「どうぞ」

 有紗が答える。

 扉が開く。

 一人の女子生徒だった。

 一年生。

 不安そうな顔。

 両手を握り締めている。

「あの」

 小さな声。

「相談いいですか」

 有紗は微笑んだ。

 いつものように。

 優しく。

 柔らかく。

「もちろんです」

 少女の表情が少しだけ緩む。

 安心したように。

 蓮はその様子を見ていた。

 そして小さく笑う。

 変わらない。

 きっとこれからも。

 この人は誰かの話を聞き続ける。

 誰かを助けようとする。

 傷付いても。

 悩んでも。

 それでも。

 有紗は椅子を勧める。

「お名前を教えてもらえますか?」

 少女は頷いた。

 そして。

 新しい悩みを話し始める。




 冬の夕暮れ。

 相談室には今日も灯りがともる。

 誰かの不安が。

 誰かの涙が。

 誰かの悩みが。

 静かに運ばれてくる。

 そして。

 旭有紗は今日も耳を傾ける。

 優しい声で。

 柔らかな笑顔で。

 変わらないまま。

 その様子を見ながら。

 蓮は窓際にもたれた。

「有紗先生」

「はい?」

「帰るの遅くなりそうだな」

 有紗は困ったように笑う。

「そうですね」

「送る」

「お願いします」

 自然だった。

 本当に自然に。

 有紗がそう答える。

 蓮は少しだけ笑った。

 有紗は気付かない。

 その笑顔の意味を。

 まだ。

 きっとしばらくは。

 相談室の扉は今日も開いている。

 誰かのために。

 そして。

 少しだけ。

 二人の未来のために。



第六章 所有 終

【君を救ったその日から】 完


いいなと思ったら応援しよう!