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小説 【君を救ったその日から】 第五章

第五章 信仰


 十月。

 白波学園はすっかり秋になっていた。

 黒崎真琴の事件は過去のものになりつつある。

 ニュースも終わった。

 生徒たちも日常へ戻った。

 相談室も平和だった。

 少なくとも。

 有紗はそう思っていた。




 放課後。

 相談室。

「有紗先生」

 蓮が倉庫から出てくる。

「寝てました?」

「起きてた」

「嘘です」

「ちょっとだけ」

 有紗は苦笑する。

 本当に変わらない。

 あんな事件があったのに。

 この人だけは。

 いつも通りだ。

「そういえば」

 有紗が言う。

「映画ありがとうございました」

 蓮が固まる。

「あ」

「楽しかったです」

 有紗は微笑む。

 何の悪気もない。

 本当に。

 ただのお礼。

 だから。

 蓮は余計に困る。

「……そりゃどうも」

「また何か面白い映画があったら教えてください」

「……」

 蓮は天井を見る。

 この人は本当に。

 何も気付いていない。




 その日の夜。

 有紗が帰宅する。

 郵便受けを開く。

 チラシ。

 広告。

 公共料金。

 いつも通り。

 ――のはずだった。

「……?」

 一枚の封筒。

 白い。

 差出人なし。

 有紗の顔色が変わる。

 嫌な記憶が蘇る。

 部屋へ入る。

 慎重に開封する。

 中には紙が一枚。

『旭先生は今日も素敵でした』

 有紗の呼吸が止まる。

「……」

 手が震える。

 黒崎は逮捕された。

 終わったはずだった。

 なのに。

 なぜ。




 翌日。

 相談室。

 机の上には手紙。

 有紗。

 蓮。

 二人で見ている。

「有紗先生」

 蓮が言う。

「またか」

「……はい」

 有紗の顔色は悪い。

 せっかく落ち着いてきたのに。

 また始まった。

「黒崎じゃない」

 蓮が言う。

「え?」

「逮捕されてる」

「……」

「つまり別」

 相談室が静かになる。

 有紗は何も言えない。

 考えたくなかった。

 でも。

 その通りだった。




 数日後。

 手紙は増えた。

『旭先生は優しい』

『旭先生は綺麗』

『旭先生は特別』

 内容は似ている。

 だが。

 黒崎の時と少し違う。

 もっと。

 崇拝に近い。

 愛情というより。

 信仰。

 そんな印象だった。




 一方。

 市川奈々は教室にいた。

 窓際の席。

 いつも通り。

 優等生。

 誰も疑わない。

 だが、机の中にはノートがある。

 一冊。

 大切に保管されたノート。

 表紙には。

『旭先生』

 それだけ。

 奈々は授業中。

 こっそりページを開く。

 中には記録。

 大量の記録。

 今日の服装。

 今日の髪型。

 今日の笑顔。

 全部。

 全部。

「旭先生」

 小さく呟く。

 隣の生徒には聞こえない。

 聞かせるつもりもない。




 放課後。

 奈々は相談室へ来ていた。

「こんにちは」

「こんにちは、奈々さん」

 有紗が微笑む。

 その笑顔を見ただけで。

 奈々は安心する。

 世界が満たされる。

「最近どうですか?」

 有紗が聞く。

「大丈夫です」

 奈々は答える。

 本当だ。

 先生がいるから。

「それは良かったです」

 有紗は嬉しそうだった。

 奈々も嬉しい。

 でも。

 その時だった。

「有紗先生」

 蓮が倉庫から出てくる。

 奈々の表情が少しだけ変わる。

 ほんの少し。

 本当に少しだけ。

「よう」

 蓮が言う。

 奈々は笑顔を作る。

「こんにちは」

 完璧だった。

 誰も気付かない。

 でも。

 心の奥では。

 確かに思っていた。

 邪魔。




 その夜。

 奈々は自室にいた。

 机の上には写真。

 有紗。

 そして。

 蓮。

 奈々は蓮の写真を見つめる。

 長い時間。

「……」

 別に嫌いじゃない。

 先生も笑っている。

 優しい。

 守ってくれる。

 分かる。

 全部分かる。

 でも。

 旭先生の隣は。

 本当は。

「……」

 奈々は目を閉じる。

 そして。

 初めて。

 黒崎が理解できた気がした。

 好きな人を奪われる感覚。

 近付いてほしくない感覚。

 独り占めしたい感覚。

「違う」

 慌てて首を振る。

 自分は黒崎じゃない。

 違う。

 旭先生を困らせたりしない。

 傷付けたりもしない。

 でも。

 その否定は。

 既に遅かった。




 翌週。

 相談室。

 有紗はまた手紙を見つける。

 今度は机の引き出し。

 鍵付きのはずなのに。

 いつの間にか入っていた。

 紙を開く。

『旭先生を誰にも渡したくありません』

 有紗の顔色が変わる。

 今までと違う。

 初めて。

 明確な独占欲。

 そして。

 相談室の外。

 廊下の角。

 奈々が静かに立っていた。

 有紗は知らない。

 まだ知らない。

 本当の恐怖は。

 黒崎真琴ではなかったことを。

 有紗はその手紙を何度も見返していた。

『旭先生を誰にも渡したくありません』

 今までとは違う。

 明らかに。

 気味が悪い。

 怖い。

 そして何より。

 誰かが近くにいる。

 そんな感覚が消えなかった。




「有紗先生」

 蓮が手紙を見ていた。

 表情は険しい。

「これ完全に悪化してる」

「……ですよね」

 有紗も否定できない。

「警察行くぞ」

「またですか」

「また」

 即答。

 有紗は少しだけ苦笑した。

 でも。

 今回は反論できなかった。




 翌日。

 明智秀は手紙を見て眉をひそめた。

「内容が変わりましたね」

「はい」

 有紗が答える。

「最初は好意だけだった」

 明智が言う。

「でもこれは違う」

 紙を指差す。

「独占欲です」

 相談室が静かになる。

 有紗の肩が少し震える。

「旭先生」

 明智が言う。

「最近誰か変わった人物はいませんか」

 有紗は考える。

 生徒。

 先生。

 保護者。

 相談者。

 何人も浮かぶ。

 でも。

 決定的な誰かはいない。

「分かりません」

「そうですか」

 明智は手帳を閉じた。

 そして。

 少しだけ視線を動かす。

 倉庫。

 そこから顔を出している蓮。

「佐藤さん」

「ん?」

「何かありますか」

 蓮は少し考えた。

「一人いる」

 有紗が顔を上げる。

「え?」

「勘だけど」

「また勘ですか」

「また」

 蓮は肩をすくめる。

「市川奈々」

 その名前に。

 有紗は目を瞬かせた。

「奈々さん?」

「何となく」

 明智は黙る。

 有紗も。

 市川奈々。

 優等生で礼儀正しい。

 相談者。

 被害者。

 そんな子だ。

 ストーカー?

 ありえない。

 そう思った。




 その日の放課後。

 奈々が相談室へ来る。

「こんにちは」

 いつもの笑顔。

 いつもの声。

「こんにちは」

 有紗も微笑む。

 何も変わらない。

 そう見える。

 でも。

 蓮は奈々を見ていた。

 じっと。

 観察するように。

 奈々も気付いている。

 でも笑顔は崩さない。

「最近どうですか?」

 有紗が聞く。

「元気です」

 奈々が答える。

「旭先生は?」

「私ですか?」

「はい」

「変な手紙がまた来てしまって」

 有紗は苦笑した。

 その瞬間。

 奈々の目がほんの少しだけ揺れる。

 ほんの一瞬。

 本当に一瞬。

 蓮だけが見ていた。

「そうなんですか」

 奈々は言う。

 完璧な演技。

「怖いですね」

「はい」

 有紗は頷く。

 そして。

 奈々は思う。

 怖がらせたかったわけじゃない。

 違う。

 ただ。

 伝えたかっただけ。

 旭先生は特別だと。




 面談が終わる。

 奈々が帰る。

 扉が閉まる。

 その直後。

「有紗先生」

 蓮が言った。

「はい?」

「やっぱあいつだ」

 有紗が苦笑する。

「何がですか」

「説明できない」

「じゃあダメじゃないですか」

「でもあいつだ」

 蓮は真顔だった。




 その夜。

 奈々は部屋にいた。

 机の上。

 有紗の写真。

 大量の写真。

 そして。

 今日のメモ。

『先生は少し疲れていた』

『先生は笑っていた』

『先生は今日も綺麗だった』

 奈々はペンを置く。

 そして。

 机の引き出しを開く。

 そこには。

 有紗からもらったティッシュ。

 有紗が書いたメモ。

 有紗が触れた紙。

 全部保管してある。

「旭先生」

 優しい声。

 愛おしそうな声。

 でも。

 その感情はもう普通ではない。




 数日後。

 新しい手紙が届く。

 今度は相談室ではない。

 有紗のロッカー。

 鍵付き。

 誰も開けられないはず。

 その中。

 白い封筒。

 中には一枚の写真。

「……」

 有紗の顔色が変わる。

 写真。

 そこには。

 映画館から出てくる有紗と蓮。

 二人が並んでいる。

 笑っている。

 そして裏面。

 文字。

『なんでこいつと一緒にいるの?離れて』

 有紗の背筋が凍る。

 今までで一番。

 はっきりしていた。

 誰かが。

 蓮を敵視している。




 同じ頃。

 奈々は校舎の屋上にいた。

 風が吹いている。

 空は青い。

 静かな午後。

 奈々はスマホを見る。

 画面には。

 有紗。

 そして蓮。

 並んで歩く写真。

「……」

 胸が苦しい。

 どうしてだろう。

 旭先生が幸せならいい。

 本当に。

 そう思っていた。

 なのに。

 蓮を見ると苦しい。

 有紗が蓮へ笑うと苦しい。

 旭先生が取られる気がする。

「違う」

 小さく呟く。

 でも。

 その否定は。

 誰にも届かない。

 そして。

 屋上の扉の向こう。

 偶然通りかかった蓮が。

 奈々の声を聞いていたことを。

 奈々はまだ知らない。

 蓮は屋上の扉の前で立ち止まっていた。

『旭先生が取られる気がする』

 風に乗って聞こえた声。

 市川奈々の声だった。

「……」

 偶然だった。

 本当に偶然。

 だが。

 胸の奥に引っ掛かる。

 今までの違和感。

 黒崎事件の時から続いていた違和感。

 それが少しずつ形になり始めていた。




 翌日。

 相談室。

 有紗は新しい手紙を見ていた。

『なんでこいつと一緒にいるの?離れて』

 何度見ても気味が悪い。

 しかも。

 今回は蓮が写っている。

「有紗先生」

 蓮が言う。

「はい」

「もう確定だろ」

 有紗は顔を上げる。

「何がですか」

「俺を見てる」

 その言葉に。

 有紗は黙った。

 否定できない。

 今までの手紙は全部自分宛だった。

 でも。

 今回は違う。

 蓮がいる。

 そして。

 蓮を否定している。

「……」

「有紗先生」

 蓮が言う。

「犯人」

「……」

「有紗先生だけじゃなく俺も見てる」

 有紗の背筋が寒くなる。




 その日の午後。

 明智刑事が学校へ来ていた。

 相談室。

 机の上には写真。

 手紙。

 記録。

 全て並んでいる。

「佐藤さん」

 明智が言う。

「市川奈々を疑う理由は」

 蓮は腕を組む。

「勘」

「却下」

 即答だった。

「だろうな」

 蓮も納得している。

 証拠がない。

 何もない。

 ただ。

 違和感だけ。

「ただ」

 明智が言う。

「私も少し気になっています」

 有紗が顔を上げる。

「え?」

「黒崎真琴の取り調べです」

「……」

「市川奈々の名前が何度か出ています」

 相談室が静かになる。

「私の情報を話したと言っていましたが…」

 有紗が聞く。

 明智は少し考える。

「そうです」

「……」

「ただ」

 そこで言葉を止める。

「黒崎は何度もこう言っていました」

『奈々さんは私より危ない』

 有紗の呼吸が止まる。

「そんな」

 信じられない。

 奈々は優しい子だ。

 礼儀正しい。

 相談者だ。

 そんなはずがない。




 一方。

 奈々は図書室にいた。

 一人、窓際で静かに本を読んでいる。

 周囲から見れば普通。

 完璧な優等生。

 だが。

 ページは全く進んでいなかった。

 考えているのは有紗のこと。

 それだけ。

「旭先生」

 小さく呟く。

 誰にも聞こえない声。

 その時。

「市川」

 声がした。

 奈々が顔を上げる。

 蓮だった。




「佐藤さん」

 奈々は微笑む。

 完璧な笑顔。

「何か?」

 蓮は椅子を引く。

 向かいへ座る。

「相談」

「私に?」

「うん」

 奈々は首を傾げる。

 蓮は真っ直ぐ見た。

「旭先生好き?」

 沈黙。

 一秒。

 二秒。

 三秒。

 奈々は笑った。

「もちろんです」

「どのくらい」

「尊敬しています」

 完璧な答え。

 優等生の答え。

 だが。

 蓮は目を逸らさない。

「それだけ?」

 奈々の笑顔が少しだけ止まる。

 本当に少しだけ。

「それだけです」

「そっか」

 蓮は立ち上がる。

 それ以上聞かない。

 証拠がない。

 でも。

 確信だけは強くなった。




 その夜。

 奈々は自室にいた。

 机の上。

 有紗の写真。

 大量の記録。

 そして。

 今日の出来事。

 蓮との会話。

「……」

 気付かれている。

 奈々は理解した。

 蓮は勘付いている。

 有紗に近い人。

 有紗を守る人。

 有紗が信頼している人。

 そして。

 有紗のことが好きな人。

「邪魔」

 また口から出る。

 今度は自然だった。

 止められない。




 奈々は引き出しを開ける。

 一番奥。

 鍵付き。

 そこには。

 一枚の紙。

 去年の相談記録。

 有紗が書いたもの。

『奈々さんは悪くありません、自分を大切に』

 震える指で触れる。

 涙が出そうになる。

 あの日。

 救われた。

 本当に。

 だから。

 先生は特別。

 先生は唯一。

 先生だけ。

 それなのに。

 どうして。

 みんな旭先生に近付くの?




 翌朝。

 有紗が出勤する。

 相談室の机。

 また封筒。

 今度は中に写真はない。

 手紙だけ。

 有紗は開く。

 そこには。

『旭先生は私だけを見てください』

 その文字を見た瞬間。

 有紗の顔色が変わる。

 そして。

 相談室の扉の向こう。

 廊下の角。

 奈々が立っていた。

 静かに。

 微笑みながら。

 誰にも気付かれずに。

 ただ。

 有紗だけを見つめていた。



第五章 信仰 終

↓続き

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