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小説 【君を救ったその日から】 第四章

第四章 日常


 九月。

 白波学園は文化祭シーズンに入っていた。

 校舎中が騒がしい。

 段ボール。

 ポスター。

 笑い声。

 呼びかける声。

 文化祭前独特の空気だった。

 そして。

 相談室も例外ではない。

「旭先生!」

 扉が勢いよく開く。

「どうしました?」

 有紗が顔を上げる。

 飛び込んできたのは一年生の女子生徒だった。

 顔を真っ赤にしている。

「好きな人がいます!」

 有紗が固まる。

「はい?」




「つまり」

 有紗は整理する。

「文化祭で告白したいんですね」

「そうです!」

 女子生徒は元気よく頷く。

「でも緊張して」

「なるほど」

 有紗は微笑む。

 平和だ。

 本当に。

 平和だった。

「旭先生ならどうしますか?」

「私ですか?」

「はい!」

 有紗は少し考える。

「ちゃんと気持ちを伝えると思います」

「おおー!」

 女子生徒が目を輝かせる。

「旭先生恋愛経験あります?」

「ありません」

「え?」

 女子生徒が固まる。

「え?」

 有紗も固まる。

 数秒後。

「嘘ですよね?」

「本当です」

「絶対嘘です」

「本当です」

 女子生徒は納得していなかった。




 その頃。

 倉庫。

 蓮が爆笑していた。

「はははは!」

「笑わないでください」

 有紗がむっとする。

「有紗先生、二十五だろ」

「そうです」

「マジで?」

「マジです」

「嘘だろ」

「失礼ですね」

 蓮は笑い続ける。

 有紗は本気で怒っていた。

 でも。

 それは平和そのものだった。




 その日の帰り。

 文化祭準備のため。

 下校時間は遅かった。

 校舎にはまだ生徒が残っている。

 有紗は廊下を歩いていた。

 その時。

 脚立。

 ぐらり。

「っ」

 女子生徒がバランスを崩す。

 有紗が反射的に近付く。

 しかし。

 間に合わない。

 と思った。

「危ねえ」

 蓮だった。

 片手で脚立を支える。

 女子生徒は無事。

「ありがとうございます!」

「気を付けろよ」

 蓮は軽く笑う。

 女子生徒たちが騒ぎ始める。

「佐藤さんかっこいい!」

「イケメン!」

「結婚して!」

「嫌です」

 即答。

 女子生徒たちが爆笑する。

 有紗もほっと胸を撫で下ろし、少し笑った。

 その瞬間。

 蓮が振り返る。

「有紗先生も気を付けろよ」

「私は大丈夫です」

「大丈夫じゃない」

「またですか」

「また」




 放課後。

 相談室。

 生徒たちも帰り。

 静かになっていた。

 有紗は資料を整理している。

 すると。

 蓮がふと聞いた。

「有紗先生」

「はい?」

「好きなタイプとかあんの?」

 有紗の手が止まる。

「急ですね」

「暇だから」

「最低ですね」

 蓮は笑う。

 有紗は少し考えた。

「優しい人ですかね」

 蓮の耳が少しだけ反応する。

「へえ」

「あと」

「うん」

「安心できる人」

 有紗は自然に言った。

 何気なく。

 だから気付かない。

 蓮が少しだけ黙ったことに。

「……なるほど」

 小さく呟く。

 有紗は聞こえなかった。




 文化祭当日。

 校内は大盛り上がりだった。

 メイド喫茶。

 お化け屋敷。

 演劇。

 模擬店。

 どこも賑わっている。

 相談室も今日は開放。

 休憩所代わりだった。

 そんな中。

 一人の女子生徒が相談室へ駆け込んでくる。

「旭先生!」

「どうしました?」

「告白しました!」

「えっ」

「成功しました!」

 有紗が目を丸くする。

 そして。

 本気で嬉しそうに笑った。

「よかったですね!」

 女子生徒も笑う。

 相談室が明るくなる。

 その光景を。

 廊下から奈々が見ていた。

「……」

 静かに。

 無表情で。

 そして。

 有紗が笑う。

 その顔を見た瞬間だけ。

 奈々も微笑んだ。

 幸せそう。

 それでいい。

 旭先生が笑っているなら。

 それで。

 いいはずなのに。

 ふと。

 奈々の視線が動く。

 相談室の奥。

 蓮。

 有紗を見ている。

 優しい目で。

 その瞬間。

 奈々の胸の奥が。

 少しだけ。

 ざわついた。

 理由はまだ分からない。

 でも。

 確かに何かが動き始めていた。




 文化祭が終わった翌週。

 白波学園は少し静かになっていた。

 どこか達成感の残る空気。

 生徒たちもどこか満足そうだ。

 そして。

 相談室にも平和が戻っていた。




「旭先生!」

 相談室へ飛び込んできたのは二年生の男子だった。

 顔が真っ赤である。

「どうしました?」

 有紗が聞く。

「振られました!」

 相談室が静まり返る。

「……そうですか」

「失恋しました!」

「元気ですね」

「すげー泣きました!」

「元気…ですね」

 有紗は苦笑した。

 男子生徒は机に突っ伏す。

「何でダメだったんでしょう」

「うーん」

 有紗は考える。

「相手にも事情がありますから」

「ですよねえ」

 男子生徒はため息を吐く。

 そして。

「旭先生は失恋したことあります?」

 有紗が固まる。

「ありません」

「またですか」

 倉庫から蓮の声。

 男子生徒が振り返る。

「佐藤さん!」

「よう」

「旭先生マジで恋愛経験ないんですか?」

「ない」

 蓮が即答する。

「何で佐藤さんが知ってるんですか」

 有紗が抗議する。

「有名だから」

「有名じゃありません」

「職員室でも有名」

「やめてください」

 男子生徒が爆笑した。




 男子生徒が帰った後。

 有紗は机に突っ伏した。

「そんなに変ですか」

「変」

 蓮が言う。

「即答しないでください」

「だって有紗先生可愛いから」

 有紗が固まる。

「……え?」

 蓮も固まる。

 しまった。

 口が滑った。

 数秒。

 沈黙。

「……」

「……」

 そして。

「いや」

 蓮が咳払いする。

「一般論な」

「…一般論ですか」

「一般論……だ」

 有紗は納得した。

 本気で。

 蓮は天井を見上げた。

「終わってる」

 小さく呟く。




 その日の帰り道。

 空は少し曇っていた。

「雨降りそうですね」

 有紗が言う。

「降るな」

 蓮が答える。

 そして。

 案の定だった。

 数分後。

 大粒の雨。

「わっ」

「ほらな」

「どうしましょう」

 有紗が慌てる。

 傘はない。

 蓮は少しため息を吐いた。

 そして。

 リュックから折り畳み傘を出す。

「入れ」

「でも」

「濡れるぞ」

 有紗は少し迷う。

 しかし雨はどんどん強くなる。

「……失礼します」

 小さく傘へ入る。

 距離が近い。

 思った以上に。

 有紗は少しだけ緊張した。

 だが。

 蓮は平然としている。

「有紗先生小さいな」

「急に失礼ですね」

「傘半分余る」

「余りません」

 蓮は笑った。

 有紗も少し笑う。

 穏やかな時間だった。




 その頃。

 校舎三階。

 窓際。

 奈々が二人を見ていた。

 傘。

 並んで歩く姿。

 楽しそうな会話。

「……」

 胸の奥が少し痛い。

 なぜだろう。

 分からない。

 旭先生が笑っている。

 それは嬉しい。

 本当に。

 でも。

 隣にいるのが自分ではない。

 それだけで。

 少しだけ。

 苦しかった。




 数日後。

 相談室。

 奈々がやって来た。

「こんにちは」

「こんにちは」

 有紗が微笑む。

 奈々も微笑む。

 いつも通り。

 完璧な優等生。

 完璧な相談者。

「最近どうですか?」

 有紗が聞く。

「元気です。……黒崎さんの件では、本当にごめんなさい」

 奈々は反省するように俯いて答える。

「大丈夫ですよ」

 有紗は小さく笑った。

「市川さんが悪いとは思っていません」

 奈々が顔を上げる。

「誰かを信じたい気持ちは、悪いことじゃありませんから」

 その言葉に。

 奈々は息を止めた。

「……」

 胸の奥が熱くなる。

 苦しい。

 嬉しい。

 泣きそうになる。

 やっぱり。

 旭先生は優しい。

 誰も責めない。

 自分のせいで誘拐されたのに。

 自分のせいで傷付いたのに。

 それでも。

 許してくれる。

「ありがとうございます」

 奈々は俯いた。

 声が少し震えていた。

 有紗は気付かない。

 ただ優しく微笑むだけだった。

「また何かあったら来てくださいね」

「……はい」

 奈々は立ち上がる。

 そして扉へ向かう。

 その途中。

 ほんの一瞬だけ振り返った。

 旭有紗。

 自分を救ってくれた人。

 誰よりも優しい人。

 誰にも傷付けてほしくない人。

 誰にも。

 触られたくない、渡したくない人。

「失礼します」

 静かに扉が閉まる。

 相談室には気付く者はいなかった。

 市川奈々の中で。

 何かが決定的に変わったことに。




 放課後。

 奈々は一人で帰っていた。

 夕焼け。

 長い影。

 静かな住宅街。

「……」

 スマホを開く。

 画面には一枚の写真。

 相談室。

 笑う有紗。

 その隣には。

 蓮。

 奈々はじっと見つめる。

 長い時間。

 そして。

 画面を消した。

「違う」

 小さく呟く。

 旭先生は幸せならいい。

 本当に。

 それでいい。

 そのはずなのに。

 どうして。

 こんなに苦しいんだろう。




 一方。

 相談室。

「有紗先生」

 蓮が言う。

「はい?」

「今週末暇?」

 有紗が顔を上げる。

「どうしたんですか急に」

「映画のチケットもらったから」

 嘘だった。

 完全な嘘だった。

 自分で買った。

「映画ですか」

「行く?」

 有紗は少し考える。

「いいですよ」

 即答だった。

 蓮が固まる。

「え」

「え?」

「いいの?」

「映画ですよね?」

「そうだけど」

「行きます、何の映画ですか?」

 有紗は普通に答えた。

 蓮は頭を抱えた。

 この人。

 本当に何も分かってない。




 その夜。

 奈々の部屋。

 机の上。

 写真。

 メモ。

 有紗の記録。

 そして。

 新しく追加された一枚。

 映画館のチケット売り場。

 並ぶ蓮の姿。

 奈々は静かに見つめる。

 長い時間。

 そして。

 初めて。

 心の奥で言葉が生まれた。

 奈々は静かに写真へ指を伸ばす。

 蓮の姿だけを隠すように。

「…邪魔」

 小さな声。

 自分でも驚くほど自然に出た。

 奈々は目を見開く。

 数秒。

 沈黙。

 そして。

 ゆっくり笑った。

 その笑顔は。

 今までの優等生の笑顔ではなかった。



第四章 日常 終

↓続き


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