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どうしてペンギンを人間だと思ってしまうのか - 人間関係が苦手でもなんとかやっていくための本 試し読み版 6

シロイブックスより2026年1月に刊行した書籍「人間関係が苦手でもなんとかやっていくための本」の試し読み版です。

「試し読み版 6」の当ページでは、第三章「三つの原則を学ぶ前に」の中盤部分を掲載しています。(序盤部分は「試し読み版 5」として公開済みです)


あなたが持っておくべき論理と論理以外

必要条件と十分条件

数学や論理学のテキストを開いてみると、今注目している「誤解の構造」を理解するための考え方として、「必要条件」と「十分条件」という用語を見つけることができます。ただ、この説明のためだけに平成インターネット世代の顔文字くらいでしか見かけないような集合論の記号や式(たとえば「∈」はお魚のヒレ……ではなく「属する」の記号)を持ち出すのははばかられるので、そういう難しそうな話は置いておいて、もっと身近な例で考えることにしましょう。

世間でインフルエンザが流行っている季節にたまたま具合が悪くなり、体温計で測るとけっこうな高熱になっていたので、近くの内科にかかったとします。症状を伝えたとき、お医者さんはすぐにインフルエンザを念頭に置くと思いますが、そのまま「この時期に熱があるならインフルエンザだね」とはもちろん言いません。通常は綿棒などを取り出してきちんと検査にかけて、そこで陽性が出た場合に初めて「インフルエンザ○型です」という診断が出ます。

なぜかというと、高熱というのはインフルエンザにかかったときに普通に出るものではありますが、発熱の症状が出る病気というのはインフルエンザ以外にもいくらでもあり、熱があるからといって直ちにインフルエンザなのだとは言えないからです。高熱があるかという点は、問診時の判断材料として必要な情報ではあっても、それ単体で医学的な診断を決定付ける情報とはなりません。専門の医師が「X病です」と診断したとき、通常そこには「Y病やZ病ではなく」という判断も含まれます。病気を見分けるということに対して、仮にそのような判断の難しさが何もないのなら、少なくとも内科のかなりの部分では問診も医師も病院すらも必要なく、どこかで薬だけが売られていればいいのだという話になっていたことでしょう。

現実がそうなっていないのは、言うまでもなく「そのような素人判断は危険であるから」です。「熱が出たからインフルエンザだな」と判断するなら、インフルエンザ以外のあらゆる病気は見逃されることになります。「インフルエンザだから高熱が出たのだ」という解釈は正しいですが、「高熱だからインフルエンザなのだ」は誤りです。「AだからBだ」というとき、このAとBの順序には話の構造としての意味があって、足し算の順序のように自由な入れ替えを受け付けるものではないからです。

順序という言葉に注目すると、もっと単純に時系列がそうなっている別の具体例が見つかります。何らかの資格取得を考えたとき、「試験を受けること」は必要条件で、「合格点に達すること」は十分条件に当たります。資格取得というゴールに対して、試験を受けたという事実は例外なく必要で、「試験は受けていないけど合格はした」ということはあり得ません。しかし、試験を受けたという情報は「資格取得できた」と判断するために十分ではないので、それだけで合否について何かを言うことはできないということです。

論理は人にとって自然な道具ではない

本書は人間関係をよりよく理解していくための本なので、必要条件と十分条件という用語そのものをはっきりと頭に叩き込んでくれとは言いません。今さっき出てきた「必要」と「十分」ということの説明の文章も、おそらく多くの人はすらすらと読み進めるというわけにはいかず、ほんの数秒くらいは段落のどこかで立ち止まったものと思います。

それは普通のことです。人間の知性も含めて、生き物の能力や性質は「生息する環境になんとなくふんわり対応できるよう漸次的に進化してきたもの」であり、コンピュータのように最初から最後まで設計どおりに動く論理的な思考能力というのは人間に自然に備わっているものではないからです。曖昧さを許容しない厳密にロジカルなマシンでは、1ビットの情報の誤り(お手元のスマホであれば数千億桁と詰まっている0と1の中のたった一つの違い)ですら致命的なエラー、たとえばそのシステムの全機能の停止という結果を引き起こすことがあります。

一方で、人間の身体や精神というシステムはもっと適当で、無駄が多く、頻繁に間違え続け、それでいて「だいたいの場面でそこそこ問題なく動いていればよい」という要求に対しては恐ろしく高度な仕組みを備えています。ただ、そうしたシステムにも錯視の図形のように例外的にうまく処理できないパターンが存在しており、今ここで検討しているのもちょうどそのような落とし穴についてなのです。前の章で出てきた「確証バイアス」という用語のように、こうした失敗パターンは心理学の分野で研究が行われていることもあるし、古くからの格言やことわざ、あるいは商売上のノウハウや有名な失敗エピソードとして知られていたりもします。この落とし穴は注意していなければ落っこちますが、トラップとしてものすごく複雑で巧妙な仕掛けなのかというと、おそらくそうではありません。大抵は「理屈を知っておき、注意していれば気づける」というタイプのものです。

高熱とインフルエンザのように、世の中には「AとBはお約束のようにセットで目に入ってくるが、AだからBだと言えるわけではない」というものが山ほどあります。実際には、真冬に高熱が出たとしても、病院に行く前にインフルエンザだと断言してしまう人はそこまで多くないことでしょう。この章でわざわざ受験勉強のような論理学の話を持ち出したのは、人は目の前の具体例が変わっただけで同じ構造の問題をあっさり取り違えてしまうことがあるので、個別のAやBが何であるかとは無関係に、物事を純粋に論理の話として見つめることができる目を持っておいてほしかったからです。

人間は二本足で、ペンギンも二本足ですが、ペンギンは人間ではないし、人間もペンギンではありませんね。見ればわかります。では、この社会でときどき耳にする「彼があのように成功したのは、熱意を持って努力したからだ」という発言はどうでしょうか。ここには「AだからBだ」という構造が含まれていますが、「成功」「熱意」「努力」という言葉はいずれも定義が曖昧で、足の本数のような具体的かつ客観的な識別の基準は何も見つかりません。

これはどのように扱うべきなのでしょうか。今、使われている三つの単語を見ただけで、この発言者が外部の世界について客観的に語ろうとしているわけではないらしいという点はすぐに理解できました。定義の違う言葉で会話をしていてもお互いにかみ合わないばかりで意味がないので、こうした齟齬をスルーするわけにはいきません。しかし、日常会話ではこのポイントは無視され、その発言は好きなように押し通されるでしょう。ここに混乱の種子があります。

論理ではなく、感情でもなく、そのどちらよりも大きいもの

この手の議論をまともなものにしたいのであれば、最低限「今は具体的にどういう意味合いでその言葉を使っていますか」という確認が必要になります。ときどき「真の努力とは……」などと演説を始めてしまう人がいますが、これは困った人だと言わざるを得ません。

周囲の物事に対する自分なりの定義、自分なりの解釈、自分なりの行動指針といったものを持つのは結構なことで、それは筆者も持っているし、読者のみなさんも持っているでしょう。この「真の」というのは「本人にとって主観的に真理である」ということを意味していて、自分らしく幸せに生きていきたいのなら、それは持たなければなりません。客観的にではなく、主観的に正しい何かをです。

しかし、自分の定義は自分のものでしかないので、他人にとってそれが同じ程度に正しいとは限らないし、同じ程度の強さで実在性や真実味を感じさせるはずだと期待することもできません。よって、人と話しているときに個人的な定義である「真の」を持ち出すことは混乱を呼ぶだけなのです。こうした発言が「真理」として妥当になるのは、「私はこう感じる(=事実が客観的にそうだとは言っていない)」「自分はそうしたい(=他人にそうしろとは言っていない)」という形で主語を自分自身に設定したときのみです。

この章で最初に確認したのは、「パズルそのものが複雑なわけではなく、それを冷静に見ることができない我々自身の心の側に問題がある」という点でした。一般に「感情的にではなく、論理的に話すべきだ」とはよく言われることで、感情が私たちの思考を混乱させ、人間関係を混乱させ、仕事からプライベートまでのあらゆる問題を複雑にしているという点は当たっています。ただし、当たっているのは半分までで、私たちの混乱の原因はそれがすべてではありません。さらにもう一つ、感情と同じ程度に注意を要する視点が存在します。

それこそが今指摘したポイントであり、前の章までにもたびたび出てきた「主観と客観」という区別です。喜怒哀楽という比較的持続時間の短い感情の動きとは別に、もっと強固な影響力、さらには何十年にも渡る持続時間を持つものとして、私たち自身の主観というものが存在します。通常、「尊い」や「価値がある」、あるいは「下劣だ」や「許せない」というのは一時的な感情よりもずっと一貫した判断で、かといって論理に基づいた判断ではなく、その基準は本人の主観という第三の要素の中にあります。主観はこの世界がどのように見えるかを決め、個別の物事がどのような意味や価値を持つのかを決めます。これが悪い方向に出た場合にどうなるかについては、前の第二章で「期待」と「正しさ」の暴走という例から考えたとおりです。

主観と客観が混同されたとき、論理と感情はそれが約束されているかのように仲良く混乱し、大抵はその後に誰にとっても嬉しくないような結果が待っています。錯視の図形と同じように、主観的な世界は本人にとって実際に、明らかに、疑いの余地もなくそのように見えるものなので、意識して点検や訂正を行わない限り、このような嬉しくない結果は永久に繰り返されることになります。

「何も指していない言葉」は何を指しているのか

ここまでの指摘を踏まえると、さきほど例に取った「努力したから成功した」(あるいは「努力すれば成功できる」)という主張の問題点を二つにまとめることができます。最初に、人間の社会には「行動Aをすれば結果Bが出る」という単純かつ確実な法則はほとんど存在しておらず、その時点で発言者の世界観、つまり主観的な世界の見え方が現実世界からかけ離れていること。次に、行動Aであるところの「努力」の定義も主観的かつ曖昧であることから、そこに対する説明がなければ、他人には当てはめられないどころかその意味が理解できる発言にすらならないという点です。「努力しろ」というのは「おいしそうに作ってください」とだけ書かれた料理のレシピのようなもので、単純に情報として意味がありません。

世の中にはこうした「実際には何も指していない言葉」というのがけっこうあります。私たちはネットの通信速度が遅いときに画面に向かって「頑張れ」「しっかりしろ」などと言ったりはしませんが、これは情報通信機器やインフラの性能が「頑張る」などという実体のない概念で(あるいは応援や叱咤激励、恫喝等によって)ブーストされることはないと知っているからです。これは論理的かどうかというより、単に常識的であればいいだけの話でしょう。

対象がパソコンやペンギンやインフルエンザであれば、私たちは常識的に考えることができます。そこには一時的な感情、本人だけの主観の偏りというものが入り込む余地がないので、混乱が生まれる余地もないのです。そして、一般に「感情的であることの問題点」という話はよく耳にする一方で、「私たちが仲良く平穏にやっていくために、それぞれの主観をどのように扱うことが適切なのか」という点はあまり話題にされることがないようです。

主観というものは個人の自由で、それは論理的である必要もないのですが、少なくともその世界が客観的な世界のあり方から著しく乖離しているとき、その主観はまず間違いなく本人を不幸にします。同時に、その主観は周囲にとってもかなり迷惑なものとなります。私たちは同じものを見ながら、実際には別々のものを見ており、かみ合わない話を延々と続けています。人間関係の場面で「なぜ自分はうまくいかないのか」「なぜあの人は困った人なのか」と考えるとき、あるいはもっと対象を広げて「どうして自分は不幸なのか」「今後もずっと不幸なままなのだろうか」ということを考えるとき、主観というキーワード抜きに物事を正しく見ることは決してできません。

これは「人間関係における万能薬」とか「人生の究極の答え」といった性質のものではないかもしれません。しかし、「この世で確実に失敗し続けるための方法」をランキング形式にするとしたら、おそらく今の指摘は先頭から何番目かに載せる必要があることでしょう。社交上の特定のシチュエーションで失敗するということではなく、自分とは異なるあらゆる意見や価値観が「筋の通らない話」となり、それらのすべてが自分を否定し、自分と敵対するものとして受け取られるようになるからです。

混乱を解消するものは、心がけではなく理解である

普段は恐ろしく難しそうな仕事をしている頭のいい人でも、まだうまく消化されていない内面の傷に触れる場面(俗に言う「地雷を踏まれた」場面など)では、「AにもBにもそれぞれ言い分はある」という単純なレベルの話ですら理解し損なうことがあります。このようなケースを「本人の論理的思考力の高さ」という単一の視点から理解することはできません。そういう能力も重要と言えば重要ですが、この問題に対する着眼点としては誤りです。

人間関係のメインフィールドは心理と感情の領域であり、我々の内的世界を構成するものは主観です。そこに数学のテキストに出てくるような純粋な論理の難しさはさほど見つからない一方で、心理面・感情面の取り扱いの難しさというものはそれらのテキストと似たような水準にあります。そして、主観的であるということの意味、その肯定的な側面と否定的な側面をいくつかの例によって明らかにしてきたように、これは単に「冷静に考えよう」「心を広く持とう」といった心がけだけでなんとかできる問題ではありません。何が間違っているのかを知るためには、「自ら観察し、自ら理解する」という学びの過程が必要です。

私たちは自分自身の心について学ぶ必要があります。消防士や救急救命士が現場で冷静かつ適切な行動を取れるのは、彼ら彼女らが鋼のメンタルを持っているからではなく(仮に持っていたとしてもそれがすべてではなく)、そのような専門領域に対して「学んでおり、訓練されているから」です。心という領域に関して言えば、既に「ラベル」「期待」「正しさ」「主観」といったキーワードについてはいくらか理解することができました。他にも理解しておくべきものは山のようにあるでしょう。

言葉のラベルが指しているのは事実よりもイメージであるとか、客観的な正しさの他に主観的な正しさが存在するといった指摘は、それ自体が学んでおいたほうがよい視点であると同時に、もっと難しい次の学び、実践的な学びを得るための前提知識になります。人間関係を「なんとかやっていく」という目標に対して、本書がその一応の解答編である「三つの原則」に入る前に三つの章を費やしたのも、「何かを解決したいのならば、まずは問題そのものを歪みなく見られるようになる必要がある」という理由からです。

この章は「三つの原則」の概要の提示から始まって、まずはその三つに共通して含まれる論理である「とは限らない」の話、続いてその論理を混乱させている論理以外(=感情および主観の影響力)の話へと考察を進めてきました。一般に「価値がある」「意味がある」「重要である」という言葉は客観的にも主観的にも使うことができ、前者は市場価値、辞書的な意味と役割、物事の要点や優先度といったものを示したいときに出てきます。これに対して、本書が特に注目しようとしたのは主観的な用法の側でした。そして、最後の「重要さ」という言葉を取り上げると、これは趣味や恋人や推しのようなプラスの形で存在すると同時に、地雷のように「一度触られたらどうやってもスルーできない傷」として存在することもあります。人はどうでもよいことに心を乱されたりはしないので、ポジティブであるかネガティブであるかという点を問わず、その傷には本人にとって「極めてどうでもよくない何か」が含まれているのだということです。

以上の指摘を踏まえた上で、次に目を向けようとしているものがこの章の最後の話題になります。先の第二章では、職場に代表される人間関係に対して「意味深くなくてよい」「あなたという人間の本質的な価値とはあまり関係がない」「やっていれば死にはしない」といった提言を行いました。言わば「重要さという重荷を手放す」ということを推奨したわけですが、「言われて簡単にできたら苦労はしない」という声もあるでしょう。それはまったくそのとおりです。

今、第三章のまとめに入ろうとしている時点で、本書全体の議論の三分の一ほどが済みました。ここで一つの区切りとして、本書が最も根本的な疑問として扱おうとしている「私たちはこの世で何に苦しんでおり、結局それは何のためなのか」という点について考えてみたいと思います。この疑問には最終章で一つの解答を示したいと考えていますが、ここまでに手に入れてきた考え方の道具だけでも、解決の光に繋がりそうな手がかりをいくらか見出すことができそうです。

苦しみに決着を求めるのであれば、私たちはその苦しみを理解しなければなりません。結局、私たちはこの世界で何を「苦しい」と感じていて、どのようになったらそれが「解決された」と感じるのでしょうか?

 
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