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失望と徒労感の根本 - 人間関係が苦手でもなんとかやっていくための本 試し読み版7

シロイブックスより2026年1月に刊行した書籍「人間関係が苦手でもなんとかやっていくための本」の試し読み版です。

「試し読み版 7」の当ページでは、第三章「三つの原則を学ぶ前に」の終盤部分を掲載しています。(前回の「試し読み版 5」「試し読み版 6」からの続きになるので、まだの方はそちらからどうぞ!)


失望と徒労感の根本

理解できないということ、理解されないということ

「ペンギンは二本足だから人間だ」のように、AとBの間に本来存在していないはずの「だから」を見つけてしまうというのは、事実関係の認識として論理的・客観的に誤りだということの指摘でした。この誤用された「だから」という接続詞には、感情を持って生きている私たちにとって「三つの原則」の実践が困難であること、つまり「Bが得られるとは限らないとしてもAを行っていく」という方針の受け入れが困難であることの理由を見て取ることができます。

ひとことで言えば、この世には私たちが望むような「だから」は存在していないのです。同級生がのんきに遊んでいるのを横目にしながら部活動に三年間を捧げた、だから大会で報われてほしい。これほどまでに真剣な想いを伝えた、だから愛情を返してほしい。しかし、誰でも知っているとおり、そのような結果は約束されていません。Aを全力で行ったとしても、Bが手に入るかどうかというのはほとんど運次第のようなものです。

十代の部活や恋愛くらいのことなら、話はまだ平和なものでしょう。生まれついた家庭環境の不和、経済的な困窮、突然の大病など、本人に責のない不幸というのはいくらでもあります。ここにも「だから」は存在していません。原因となるAを行わずとも、Bという結果はお構いなしに与えられています。その人に罪はなかったかもしれないし、今これを読んでくれているあなただって何も特別に悪いことはしていなかったのかもしれませんが、何の罰なのかわからないような罰は今もそれぞれの身に降りかかり続けています。なぜなのかと問うてみても、そこに答えはないままにです。

私たちに「なぜ」をぶつけるような相手はおらず、ただ「この世はそうなっている」「結果はそうなった」という事実だけが与えられています。この世界がどれほど理不尽だったとしても、責任者であるところの神様(落第点間違いなしでも一応いると仮定して)は説明責任を果たしてはくれないし、私たちはこの場所でなんとかやっていくしかないのです。私たちはこの世が今あるようになっている理由を永久に理解できないし、今のあなたが何歳で、どこで何をしながら生活しているとしても、幸せだったとしても不幸だったとしても、自分自身が今そこでそうなっている合理的な理由や必然性は何も読み取ることができないでしょう。

人の心理や身近な人間模様について、本書は「理解しよう」という立場を取ってきました。ラベルという先入観や偏見を受け入れたり、安易なノウハウにすがったりするのをやめて、自分自身の頭で目の前の現実を理解するということです。それでも、究極的には「私たちは何も理解できない」ということは知っておくべきです。この点の自覚がなければ、人生の意味について悩むということから上司のポンコツぶりに悩むということまで、本来は存在しない無数の「だからそうなるはずだ」「そうであってはならない」を想像してしまうことになります。

ここで哲学か神学かと思うような話が出てきたのは、「物事には必ず意味や理由があるはずだ」「頑張ればいつか報われるはずだ」というのは明らかな欺瞞であり、現実の苦しみや現実の不幸をなんとかしたいのであれば、人は現にある世界に向き合わなければならないからです。私たちはそのまやかしに心の底では気づいている一方で、世間に流通する耳に心地よい宣伝文句、そして他ならぬ私たち自身の不安や空虚さへの恐れといった内外の声たちは、その気づきを「なかったことにしよう」と試みます。万物の霊長、ラテン語で「ホモ・サピエンス(=賢い人)」を自称している我々にとって、「何も理解できない」というのは大変不愉快な状態なので、人はそれを間違っていてもいいので適当な答えで埋めようとします。その試みは成功しないでしょう。事実としての問題に取り組まない限り、問題は当たり前に継続していくからです。

いずれにせよ、現実は今あるようにしか与えられていないし、私たちには「それでもやっていく」という選択肢しか残されていません。「やらない」「見ない」「なかったことにする」という道に流れる人が一定数いたとしても、それはこの世で生きるということの肯定には続いていないので、何もない終着点にたどり着いてもよいという人を除けば、それは有効な選択肢には数えられないのです。

現実は打ち破るものなのか、それとも受け入れるものなのか

この第三章で「論理と感情の混乱」という問題を考えてきたのは、それが私たち自身の日々の行き詰まり、疑念、失望と徒労感の表れの一つであり、そうした感情にうまく対処できるかどうかは「人と関わりながら生きていくというこの世の難題を最後までやり抜けるか」の分かれ道へと直接的に繋がっているからです。

仕事上の悩みも人間関係の悩みも、具体的なあれこれに対してひとしきり落ち込んだあとには「人生何をやってもうまくいかない」という毎度おなじみの答えに行き着いたりしますね。結局のところ、私たちが何に苦しんでいるのかというと、それはおそらく目の前の報われない現実、そこから導かれる「頑張っても無駄だ」という感情の一点に集約されると言っていいものです。

人間関係に限らず、人がこの世で行っていくべき課題というのは基本的に「言うのは簡単でも、やるのは容易ではない」という形になっています。「諦めず、腐らず、前向きに頑張っていこう」というのは極めて単純なメッセージであり、少なくとも不幸であるよりは幸せでいたいと願う人にとっては完全に合理的で正しい内容なのですが、それを実践していくことはあまりにも困難です。

明らかに、これは教科書的な理論付けの問題ではありません。私たちが自分自身の不確かで頼りない感情に向き合い続けることができるか、それを乗りこなすだけの心的な能力を身につけられるか、報われるという根拠が何もなくとも再び立ち上がれるか、そのような希望を本当に最後まで持ち続けられるのかということが根本的な課題になるからです。ただ知識や技術を身につければいいというのではなく、ただ忍耐と辛抱さえあれば過ぎ去ってくれるものでもなく、頭で考えるということだけでは不十分で、逆に頭を空っぽにしてがむしゃらにやるだけだという話でもありません。それでいて、おそらくは何らかの意味で、今ここに並べた要素のすべては同時に必要とされています。

ある種の人々は「現状を打破せよ」と言います。ビジネスの世界で成功した人、アスリートやアーティストとして身一つで上り詰めた人はそう言うのでしょう。別の人々は「今あるものを受け入れよ」と言います。これは多少なりとも心理学的な心得のある人や、それぞれの国で古くから続く聖職者のような人々が口にする言葉です。いったいどちらが正しいのでしょうか。

すぐに気づいてくれた読者もいると思いますが、これは「どちらが正しいのか」という問いかけ自体が誤りです。先の第二章で学んだ内容を思い出しましょう。周りの人間はあなたの敵ではないし、かといって特に味方というわけでもないという話をした上で、二分思考という「白と黒/善と悪/正しいことと間違ったこと/すべきこととすべきでないこと」しか存在しない世界(=現にある世界から離れた思い込みと空想の世界)について確認してきました。

「打破せよ」という人々はきっと間違っておらず、「受け入れよ」という人々も同様に間違っていないのでしょう。私たちは今いる場所に満足すべきではないし、今ある自分に満足すべきではなく、それでいて今いる場所に満足して、今ある自分に満足しなければなりません。言葉には言葉の限界というものがあるので、この点については矛盾したような言い方しかできません。Aという言葉はAとA以外を分けて認識するために存在します。しかし、客観的な世界の複雑さも、私たち自身の主観的な世界の複雑さも、いずれもそのような分割した理解が可能なようにはできていないのです。

誰かが「Aをやれば価値あるBが得られます」「だからBのためにAをしましょう」と言ったなら、その話は十分に論理的で筋が通っています。しかし、「報われなくてもやってください」というのはそうではありません。そして、私たち全員に与えられている課題は「そうではないほう」に分類されます。それは論理という筋道を受け付けてはくれず、だからこそ私たちは悩み、疑い、苦しみ続けているのです。

それでも報われない世界に向き合えるだろうか

この第三章までのお話は、本書が中心に据えている「三つの原則」を正しく受け取ってもらうために進めてきたものでした。

ここまでの議論によって、なぜ本書が「こうすればあなたの人間関係はうまくいくようになります、だからこうしましょう」ということを言わず、心理学や論理学や哲学といった方面にあちこち寄り道をして、「報われないかもしれない」「何も約束できない」といった出鼻をくじくような視点について確認しなければならなかったのか、ある程度まで理解していただけたかと思います。現実の問題は現実に向き合わない限り解消されないので、その現実がどれほど愉快でないものだったとしても、私たちはそれをしっかりと見ることができるようになっておく必要があるということです。

頑張ったのに報われないというのは非常に傷つくし、落胆するし、自分の感情や自分という存在そのものを蔑ろにされたように感じられることです。私たちは言葉の上では「報われるとは限らない」という文章を理解できますが、そこに感情的に納得して平静を保っていられる人はほとんどいません。そして、これから詳しく見ていく「三つの原則」にある「与えた以上のものは返ってこないし、与えても返ってくるとは限らない」のような指摘についても、やはり言葉ではわかっていても実践はされていないという水準にあります。

私たちは「報われなくてもやる」ということを全然したがりません。世の中を見渡してみても、自分の「やる」ということからは目を背けながら、他人に「ちゃんとやっていない」と言い立てることは大好きな人が多いようですね。人類が滅亡でもしない限り、そういう人はいなくならないでしょう。しかし、あなた自身が今後の人生でどのような立ち振る舞いをするのかという点に限るなら、これらのすべての決定権を持つのはあなた自身です。

準備ができたなら、私たち自身の歩くべき道へと足を進めることにしましょう。

三つの原則を学び始める

さて、第一章からこの第三章までに学んだ内容によって、ようやく本書の本題に取り組むための道具を揃えることができました。

改めて確認しておくと、本書で提示したい「三つの原則」とは、「わからないの原則」「距離感の原則」「返報性の原則」と呼ばれるものでした。章の最初に出てきた要約を再び並べると、それは以下のとおりです。

  1. わからないの原則:人はお互いの心をわかろうとする必要があるが、人の心はそもそもわからなくて当然である

  2. 距離感の原則:関係を必ず実らせる魔法はないが、距離感を誤ればその関係は必ず壊れる

  3. 返報性の原則:好意や親切や献身は報われるとは限らないが、それでも与える必要があり、与えた以上のものが受け取れると期待してはならない

ここまでの長い準備段階の中にも、既に「わからないの原則」に半分足を踏み入れていた部分がありましたし、簡単な論理が簡単に無視されてしまう状況について確認したときの「立場をひっくり返して見てみる」という発想は、もっとあとで「返報性の原則」を考える上でも重要になってきます。

「三つの原則」は相互に関係するものでもあるので、これから第四章~第六章で三つの話を進めていく中では、同じポイントを別の原則にて別の方向から考えるといった部分も出てきます。人の心はわからないからこそ距離感に気をつける必要があるし、距離感を無視しては「与える/受け取る」という返報性のさじ加減は適切に見分けられません。そして、返報性と呼ばれるお返しの法則は約束や契約ではないので、失敗にめげることなく、なるべく一喜一憂せずに人間関係をやっていくためには、常に他者に対して「わからない」の自覚を持っておく必要があります。どれがいちばん大事かという話ではないのです。

ただし、この一冊の少々厚みのある本全体として、一つの結論に向かうような流れも一応はご用意するつもりです。第一章に載せた各章の概要でも触れたように、最後の「返報性の原則」を扱う第六章では、本書の第一章から考えてきた一連の内容を「返報性」というキーワードに集約させ、そこまでの内容(本書全体の四分の三)を一度まとめる形にしたいと思っています。「わからない」も「距離感」も重要なキーワードではありますが、この二つはどちらかと言えば失敗を回避するための見方に属していて、前向きで積極的な行動指針という形で話をまとめるには「返報性」という三つ目のキーワードが最も適切だと考えたからです。少々ありきたりにも聞こえるかもしれませんが、本書の第一章から最終章へと続く議論の背景には「人間関係はお返しでできている」という世界観が存在しています。

重要なポイントを再確認しておきましょう。「三つの原則」は他人の心を理解すべきだと言っていて、同時に他人の心など理解できるはずがないと言っています。親切が報われるとは限らないが、それでもそのようにせよと言っています。それは報われなくてもやれと言っています。この「やれ」は義務ではないし、世間様や他人様からの指示でもありません。あなた自身の内なる声として存在している必要があります。動機があなた自身の中にない限り、いかなる達成も空しいものでしかないからです。この点をお伝えすることは、筆者がこの本を書き始めた中心的な動機の一つです。

次の第四章では、「三つの原則」の一つ目の項目を詳しく見ていくことにします。それは「わからないの原則」と呼ばれるものです。

第三章のまとめ

  • 「相手の立場になって考えよう」というのは単なる気持ちや心がけの話ではない。もっとロジカルで客観的な「立場が変われば、人は当たり前のことでもすっかり見落とす」という警句として理解しておく

  • 言葉の上では、ほとんどの人は「頑張っても報われるとは限らない」という文章の意味を理解できる。ただし、そのような現実に直面させられたときに取り乱さずにいられるほど深く理解しているわけではない

  • 人は主観的な世界に生きている。それは悪いことではなく、むしろ大切なものであり、生きることや他者と関わることに「意味がある」という感覚もそうした主観の世界の中に生じる。しかし、その世界観が揺さぶられたとき、人は最も動揺する

  • 主観的にも客観的にも、この世界は「AだからB」という形で理解可能なほど単純にはできていない

  • 「報われないことのほうが多い」という否定しようのない事実を受け入れる。あなたが人生や人間関係の中に何かを望むなら、それでもやらなければならない

 
【前のページ】第三章:三つの原則を学ぶ前に (1/2)

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