まだ死んでないのに何も書けないのはおかしい
みなさんは「書かれるだけの価値のある言葉」って何だと思いますか?
この広大なネットの海で目立つためには、何か人と違うことを言わなければならないのでしょうか。これが正しく、あれが間違っていると大声で主張する必要があるのでしょうか。ずば抜けて面白くなければならないのでしょうか。目的のない、メリットのない、何も主張していない文章は無駄なのでしょうか。
私は個人的に、文章に「書かれただけの意味があった」と言えるのは、「それまで言葉になっていなかった感覚、まだ理解されていなかった物事に言葉の表現が与えられたとき」だと思っています。感覚というのは、書き手と読み手の双方の内面にあるものを指します。物事というのも、書き手と読み手が同じように暮らしているこの世界で見聞きするあれこれのことです。
最初に、書き手自身の内面で何らかの発見が行われる必要があります。書かれた文章というのはその成果物です。続いて、その文章を読んだ人が「これは自分が生きている世界の話でもある」と気づき、読み手自身がこの世界について、つまり自己や他者というものについて新しい理解を得たのなら、その文章は書かれただけの意味があったと言えます。
たとえば、「友達とカフェで他愛のないおしゃべりをした、楽しかった」というなら、その時間はあなたにとってそれ自体として価値があるので、別にもうそれだけでよいです。何も生産的でなくてよいし、特に意味などはなくて構いません。その感覚そのものに長々とした説明や証明は必要ありません。満たされていない人間だけが、そこに「外付けの意味」としての説明や証明を求めます。
でも、そういう経験をわざわざエッセイとして書くなら、今の「楽しかった」という感想だけでは足りませんね。
どうしてあなたは楽しいと感じたのでしょうか。全然どうでもいいような話しかしていなかったのに、その時間が特別に思えたのはなぜなのでしょう。その友達と一緒にいるとき、毎日を慌ただしく過ごしているときの自分とは異なる自分が顔を出すのなら、それはいったいどうしてでしょうか。
その友達が特別にやさしいからかもしれません。なぜやさしいのでしょう。元から人格者だったのでしょうか。それとも、あなたに対してだけそうなのでしょうか。あるいは、みんなに対して同じようにやさしいけれど、あなただけがそこに何か特別なものを見ているのでしょうか。他の人間もみんなこんなふうだったらいいのに、なぜだかこの世界はそうなっていません。
あなたが「尊い」と感じずにはいられない、目の前にある「それ」はいったい何なのでしょうか。あなたはその疑問に、この世界が発する問いかけに答えなくてはなりません。
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書くということは、そこに理解の言葉を与えることです。
何か意味のある言葉を書きたいのなら、あなたは自己について理解する必要があるし、他者について理解する必要があります。この世界に対する新しい理解なしに、新しい言葉が出てくるということは基本的にありません。反対に、あなたが新しい理解にたどり着いたのなら、新しい言葉というものも自然に出てくることになるでしょう。出てこなければおかしいです。
「代わり映えのない日常で特に面白い事件もない、だからネタ切れになる」というのはちょっと表面的すぎます。問題はたぶん、この世界に対する理解の仕事が停滞してしまっているという点にあります。我々はこうして当たり前に暮らしている社会だとか、毎日当たり前に接している家族や友人、職場の同僚といった人間たちのことを何一つとして理解していないので、そこに理解されるべき題材、つまり書かれるべき題材がないということはないはずなんです。
正確には、理解の仕事そのものが本当に止まってしまっているわけではなく、それを「書く」という作業に結びつけることにまだ慣れていないだけかもしれません。この世で生きていながら悩んでいない人間というのはいないので、毎日何も考えていない人間というのもやはりいないでしょう。みんながそれぞれに、この世界に対する理解の仕事を無言で進めているのだと思います。
別にそれがいかにもキャリアっぽい成長でなくても、今のあなたは一年前のあなたが理解していなかったことを理解しているはずだし、一年後のあなたは今のあなたが理解していないことを理解しているはずです。生きていながら「何も変わっていない」ということはあり得ません。単にそれを自覚していない人が多いだけです。
重要な指摘はもう一つあります。ネタ切れの反対として、「毎日いくらでもスラスラ書くことができる」という状態が生じたとしたら、実はそれもあまりよくない兆候かもしれません。とにかく書きたいだけ書くのが好きで、それが趣味だというのなら、他人がどうこう言うものでもないとは思いますが、「読み手に響く文章を書けているか」という点では少し疑問です。
なぜかというと、人間の心も含めて、この世のあらゆる物事は複雑であり、そこに理解の言葉を当てはめていくという仕事が簡単であるはずがないからです。言わば「手癖で書いている」という状態で、これでは一年前に書かれたものと今書いているものが特に変わらず、一年後に書くであろうものも今と特に変わらないということになってしまいます。
そうなると、読み手の内面に新しい発見を呼び起こすということもなくなるので、そこに感動してくれるとか共感してくれるということもあまり期待できなくなるわけです。
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書くという行為の中には、ここまでに考えてきた理解や発見のプロセスとはそこまで関係のない、純粋に「慣れて上達する技術」みたいな面ももちろんあります。それはそれで地道に積み重ねていく必要はあるでしょう。ただし、これは伝達の都合上必要になるというだけで、メッセージそのものの価値を根本的に変えるものではありません。
毎日を頑張って生きている限り、あなたの中に「書かれるだけの価値がある何か」がないということはあり得ないです。なので、それを書いてください。うまくやれる自信がなくとも、書くことを試みてください。
最初はうまくいかないと思いますが、それで構わないです。反対に、読みやすさといった観点が大切なのは事実であるとしても、ただ「それっぽい」だけの文章をそれっぽく飾り立てることには意味がありません。内容の含まれない形式は無意味です。ここで言う内容とは、あなた自身がこれまでの人生で実際に得てきた理解と発見のことを指しています。
その内容が本物であるなら、それは書く価値があり、世に送り出す価値があります。あなたと同じように、他の人々もこの不条理な世界に悩み、苦しみ、そこに新たな光を投げかけてくれる何かを切望しているからです。
関連書籍
カフェでのおしゃべりについて「意味はなくとも、それ自体として意味がある」と表現したのは、それぞれ「客観的な意味」と「主観的な意味」を指した言葉です。生きることの意味や価値というのは主観的なものであり、そこに客観的な価値というのは必ずしも要求されません。この辺の話は、去年出した以下の本で詳しく書いています。
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