60代のリアル|第41話:【実録・介護の崖っぷち】病院との埋まらない温度差。悩み抜いた報告メールへの一言の返信
前回までのあらすじ
初めて訪れた介護医療院の会議室で、私は「食事ができなくなったときの栄養補給」という、母の命に直結するあまりにも重い選択肢を提示されました。
すぐには答えを出せず、その宿題を実際の入院時まで持ち帰ることに決めた私は、重い動揺を胸に秘めたまま、次の一歩を踏み出しました。
多くの不調を抱え、必死に闘ってきた母の「苦労の歴史」が詰まった資料を手に、初めて足を踏み入れた療養の現場。古いながらも隅々まで清潔に保たれた廊下の壁には、入所者の方々の写真が飾られていました。
しかし、その笑顔の上には一枚一枚、丁寧にシールが貼られ、お顔が隠されていました。
一歩足を踏み入れなければ決して分からなかった、介護医療院のリアルな日常。古いけれど行き届いた清潔さの中に、寝た切り状態の現実とプライバシーの難しさが混在するその光景は、私の胸にまた新しい波紋を広げていきました。
重い宿題を抱え、目の前の現実をしっかりと目に焼き付けた私は、こうして初めての施設見学を終えました。 しかし、一息つく間もなく、私の足はすでにつぎの行動へと向かっていました。
5月21日(木)18:00
いつもなら、母がデイサービスから元気に帰ってきて、二人で一緒に夕食を囲んでいる時間です。
けれど、この日はいつもと違っていました。初めての介護医療院の見学を終え、どっと押し寄せるような疲れを覚えながら、私は一人で夕食を食べていました。
口を動かしながらも、頭の中を占めていたのは、病院の退院調整看護師さんへの報告メールのことでした。
見学の面談を終えた際、私の方から
「面談の後、またこちらから状況をご連絡します」
と伝えてあったのです。
自分でそう言ったものの、いざ箸を動かしながら考えていると、どんどん悩みが生じてきました。
「どのように返信すればいいのだろう……」
私は箸を動かしながら、ずっと悩んでいました。
退院調整看護師さんが欲しい情報が分からない
私は普段、パートタイムの事務職として働いています。仕事であれば、相手が必要としている情報を的確に整理し、過不足なく淡々と伝えるのは慣れた作業です。ビジネスメールの作法も身についているつもりでした。
しかし、今回は勝手が違います。扱うテーマが、他ならぬ「自分の母のこれからの命」なのです。
昼間の面談で突きつけられた、あまりにも重い宿題。
「高度医療は行わない」という方針。
そして、
「食事ができなくなったとき、鼻からか、胃ろうか、点滴か、入院までに家族で考えておいてください」
という、母の未来を左右する3つの選択肢。
私の心は、その現実と衝撃にいまだ激しく動揺し、追いついていませんでした。
「自分から連絡すると言ったけれど、退院調整看護師さんが本当に欲しい情報、正解の報告って何なのだろう?」
事務職としての私は「事実をきれいに整理して送るべきだ」と言います。けれど、娘としての私は「こんなに重い選択肢を急に突きつけられて、怖くてたまらない」と叫びたがっていました。
私の個人的な困惑や、胸が張り裂けそうな不安まで、メールに書き添えてもいいものだろうか。
悩みに悩んだ末、私はパソコンの前に座り、キーボードを叩きました。
結局、看護師さんを困らせてはいけない、まずは仕事として正確な報告に徹しよう。そう自分に言い聞かせ、娘としての動揺や怖さはあえて一切表に出さず、事務職のスキルをフルに使って、事実だけを箇条書きで美しく整えたメールを作成しました。
悩んだ末のメール
実際に送ったメールが、こちらです。
〇〇様
いつもお世話になっております。〇〇(しずる)です。
本日(5/21)に面談へ伺いました「一つ目の介護医療院」について、所感をご報告いたします。
(1)施設・病院の印象
建物自体は古さを感じましたが、全体的に清潔感がありました。
また、担当の〇〇様のご説明も丁寧で、病室の見学もできたため、
施設の雰囲気を把握することができました。
(2)懸念事項
「高度医療は行わない」との説明がありました。
(3)食事ができなくなった場合
以下の説明があり家族で入院までに考えるように言われました。
・鼻から栄養を入れる方法
・胃ろう
・足からの点滴で栄養を入れる方法
以上、引き続きよろしくお願いいたします。
何度も読み返し、失礼がないか確認して、意を決して「送信」のボタンをクリックしました。
画面が切り替わり、静かになった部屋で、私はぽつりと残された宿題の重さを改めて噛み締めました。
心の中は全然「以上、よろしくお願いいたします」なんてすっきりした状態ではありません。
5月22日(金)夕方
それから、丸一日が過ぎた次の日の夕方のことでした。 パソコンの画面に、看護師さんからの受信通知が届きました。
「どんなアドバイスがもらえるだろう」「何か次の具体的な指示があるのかな」と、少し身を硬くしながらメールを開きました。
そこに書かれていたのは、短い一言でした。
「面談の報告ありがとうございました。」
その、あっさりとした業務的な返信を目にした瞬間、私は少し拍子抜けすると同時に、なんとも言えない不思議な寂しさが胸に広がっていくのを感じました。 昨日からずっと、心のどこかでこのメールのことが気にかかっていただけに、その一行の短さが余計に心に響いたのかもしれません。
病院や看護師さんにとっては、毎日のように繰り返される日常の、数ある退院調整の中の「ひとつの事務連絡」に過ぎないのでしょう。
けれど、私にとっては、母のこれからの生き方、命の選択を迫られた、張り裂けそうな1日の報告だったのです。
誰も悪くありません。
看護師さんもきちんと翌日には丁寧に返信をくれています。
けれど、この埋めようのない「温度差」が妙に心に染みて、私はもう一度、画面に映る自分が送った完璧に事務的なメールの箇条書きを見つめ直していました。
こうして、形式上の「報告」は終わりました。 誰も悪くない、けれど病院との間に感じる静かな温度差を抱えたまま、私は次の一歩を踏み出します。
しかしこの後、母の未来を思って動いていた私の前に、さらなる試練が待ち受けていました。
介護と仕事の狭間で追い詰められた私が、思わず口にした「ある本音」。
それに対して、母から返ってきたのは、私の心を粉々に砕くような「思いもよらない一言」だったのです。
私たちが抱えた本当の重い宿題は、まだ始まったばかりでした――。
つづく
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