60代のリアル|第43話:【実録・介護の崖っぷち】「私、仕事を辞めてもいい?」の問いに病床の母が返した衝撃的な一言とは?
前回までのあらすじ
介護のための度重なる休みにより、私の仕事は溜まりに溜まっていました。
焦りからミスを連発するものの誰にも気づかれぬよう自分で修正する、そんな水面下の自転車操業に精神はすり減る一方。さらに重度の腱鞘炎で両手首は悲鳴を上げており、「もう仕事を辞めたい」という切実な本音が溢れそうになっていました。
心身ともに限界を迎えた翌日、私は母の面会へ向かいました。
ベッドで静かに眠る母に「今日のお昼は食事できたの?」と声をかけるものの、ひどく眠そうで何も答えてはくれません。
意思疎通すらままならない母の姿を前に、心に重くのしかかる「仕事を辞めたい」という張り詰めた思い。
この静まり返った病室で私の本音がこぼれ落ちたとき、まさか母からあんな言葉が返ってくるなんて、この時はまだ知る由もありませんでした――。
5月23日(土)母との面会
ベッドの傍らに椅子を引き寄せ、静かに眠る母の顔を見つめていました。
声をかけても、母はただ気だるそうに、ひどく眠そうな目をうっすらと開けるだけです。まともな会話ができる状態ではないことは分かっていました。
けれど、私の心は前日の金曜日から、限界を超えてきしんだままでした。
溜まり続ける仕事、ミスへの恐怖、腫れあがった両手首の激痛。
「もう、仕事を辞めたい」
張り詰めた限界のその先で、私は吸い寄せられるように、母の耳元に顔を近づけました。
そして、祈るような、すがるような気持ちで、ぽつりと声を漏らしてしまったのです。
「お母さん……私、仕事を辞めてもいい?」
かつて、以前勤めていた会社でも「辞めたい」と思った時期がありました。そのとき母に相談すると、母は「辞めてどうするの?」と私に問いかけました。
結局、そのときは明確な答えを出せないまま、のちにリストラという形で職を失うことになりました。
でも、今回はあの頃とは決定的に違います。
年齢的なことを考えても、もし今ここでパートの仕事を辞めてしまえば、次の再就職なんてまず望めないでしょう。
私の言葉を聞いた瞬間、それまでうつらうつらとしていた母の目が、すっと動きました。 そして、私の目をまっすぐに見据えて、思いもよらない言葉を投げかけてきたのです。
「……殺すの?」
低く、重いその一言が、静まり返った病室に突き刺さりました。 一瞬、耳を疑いました。心臓がドクンと跳ね上がり、頭の中が真っ白になります。
(殺す? 会社を辞めたくらいで、家族を殺すわけがないじゃない……!)
動揺しながらも、私は必死に母の言葉の意図を探ろうとしていました。
私が仕事を辞めたら、我が家の収入は完全にゼロになります。経済的に完全に路頭に迷ってしまう。
母は持ち前の現実的な感覚で、瞬時にその危機を察知し、
「生きていけなくなる=殺される」
という意味で、あの鋭い言葉を口にしたのかもしれません。
世の中には、前向きな理由で環境を変えていく人がたくさんいます。
やりたいことがあるから退職する、
もっと上を目指したいから転職する、
あるいは実家の家業を継ぐ。
理由はいろいろあるはずです。
それに比べて、今の自分はどうだろう。
ただただ、仕事のプレッシャーと心身の痛みに耐えかねて、そこから逃げ出したいだけ。
私のように後ろ向きな理由で「辞めたい」と、病床の親にすがる人間なんて、他にはいないのではないか……。そんな情けなさと罪悪感が、一気に押し寄せてきました。
私は凍りついた空気を無理やり溶かすように、おどけたトーンを作って言い返しました。
「殺されないよ!仕事を辞めて家族を殺していたら、世の中大変なことになっちゃう。それに、私はまだ警察に捕まりたくないし……えへへ」
冗談交じりに笑ってみせましたが、私の声は引きつっていたと思います。
分かっていました。
あのとき私は、ただ母に「いいよ、もう頑張らなくていいよ」と、仕事から逃げ出すことを許してほしかっただけなのだと。
けれど、母の「殺すの?」という刃のような一言は、私が目を背けようとしていた現実を容赦なく突きつけてきました。
もし本当に収入がゼロになったら、母と私はこれからどうなってしまうのだろう。
頼るあてのない未来への猛烈な不安が、暗い波のように押し寄せてきて、私は足元がすくむような恐怖に震えていました。
つづく
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