見出し画像

60代のリアル|第55話:【実録・介護の崖っぷち】車椅子が消えた我が家と、もう戻れない日常の足跡


前回までのあらすじ

母親が夜間に「尿路感染症」で緊急入院し、命の危機は脱したものの、バルンカテーテルが入った状態で自立歩行が困難になってしまいました。

退院期限が迫る中、地元(区内)には受け入れ可能な施設が一つもないという厳しい地域格差に直面します。

他区で必死に探し、なんとか2つの介護医療院との面談まで漕ぎ着けたものの、退院調整看護師さんから届いたのは「1箇所は時間がかかりそう。他を検討してほしい」という非情なメールでした。

仕事中に激しい焦りに襲われながらも、帰宅後の夜遅く、ネットの海で必死に再検索を敢行。

あまり気乗りしない2つの選択肢を前に、
「本当に母のためになるのか」
と激しく葛藤しながらも、私は祈るような気持ちで看護師さんへの返信ボタンを押したのです。

母の新たな行き先を巡る、暗闇の中での手探りの闘いは、こうして再び幕を開けたのでした──。



時計を少し巻き戻して。母のいない家と、小さな夏の贈り物

先日、悶々としながら看護師さんへの返信ボタンを押した私ですが、実はその数日前から、我が家では「もう一つの現実」が静かに動き出していました。

時計の針を、少しだけ巻き戻します。



6月2日(火)

それは、大型の台風が近づいているという予報が出されていた、6月2日のことでした。

病院にお見舞いに行くたび、母は私にこう訴えかけてきます。
「おうちに帰りたい」
「おんぶして……帰る」

か細い声でそう言われるたびに、私の心は激しく揺さぶられ、罪悪感で押しつぶされそうになります。

「本当に、家に連れて帰るという選択肢はなかったのだろうか?」

そんな葛藤が頭をよぎるのです。

しかし、現実を見つめ直せば、バルンカテーテルが入った母を私一人で在宅介護するのは、どう考えても無理があります。

そのたびに
「いや、無理なんだ。母の安全のためにも施設を探さなきゃいけないんだ」と、自分自身に言い聞かせるしかありませんでした。

退院しても、母はもうこの家には帰ってこられない──。

そう心を決めた私は、自宅にある福祉用具のレンタル業者さんへ、返却の手続きをとるための電話をかけました。

台風が来る前に、この連絡だけは済ませておかなければ、という思いもありました。受話器を持つ手が、いつもより少し重く感じられました。



6月6日(土)

そして、返却当日となった6月6日の土曜日。

業者の人は14時に引き取りに来る予定になっていました。

お昼ご飯を食べ終えた私は、玄関にベッドの手すりと車椅子をあらかじめ出しておくことにしました。

我が家は狭い家です。

ただでさえ狭い玄関に、車椅子と大きな手すりを並べると、もうそれだけで足の踏み場もなくなってしまいます。

自分の靴を置くスペースすらなくなってしまい、仕方がなく廊下に使い古しのカレンダーを敷いて、その上に自分の靴を避難させました。身動きがとれないほどの狭さの中で、母がここにいた証の大きさを感じていました。



同日 13:50

予定より少し早い13時50分、業者の方が2名で来られました。

「お世話になります」
挨拶もそこそこに、手際よく車椅子と手すりが運び出されていきます。

その時間は、ほんの数分。驚くほど、あっけないものでした。

「ありがとうございました」
と見送ったあと、振り返った玄関は、妙に広く感じられました。

それまで車椅子があるせいで窮屈だったはずなのに、いざなくなってみると、「うちの玄関って、もともとこんな感じだったのかなぁ……」と、なんだか他人の家を見ているような、不思議で寂しい感覚に囚われます。

それと同時に、ある光景が真っ直ぐ目に飛び込んできました。


それは、母がデイサービスで貰ってきた作品や思い出の品々です。

持ち帰るたびに置き場所には困ったのですが、父や母の「モノを大切にする」という教えがあったからでしょうか、どうしても無造作に置いておくことができませんでした。

そのため、私は一つひとつ丁寧にビニール袋に入れ、中がよく見えるようにして玄関の竿に引っ掛けて飾っていたのです。

来客があるたびに皆さんの目が留まり、「これ、どうしたの?」と聞かれる、我が家のちょっとした展示スペースでした。

これまでは車椅子の影に少し隠れていたその飾りたちが、遮るものがなくなった空間で、急にきれいに、そしてくっきりと目立つようになっていました。

両親の教えを守りながら、母がここで楽しく生きて、暮らしていたという確かな足跡だけが、優しく、けれどどこか切なくそこに並んでいる。誰もいない静かな玄関で、私はしばらくその飾りを見つめていました。


いつまでも立ち止まってはいられません。

この日は、車椅子が消えた我が家をあとに、母の待つ病院へと向かう予定がありました。そこで母との「ある約束」を果たすために──。

つづく


第56回はこちらです。↓


最初から読みたい方はこちらからどうぞ


いいなと思ったら応援しよう!