60代のリアル|第52話:【実録・介護の崖っぷち】一刻を争う状況の裏で。受話器の向こうから飛び出した、予想外の言葉──崖っぷちの介護現場で、なぜ今その情報が必要なのか?
前回までのあらすじ
母の入院先から「2つ目の介護医療院が、受け入れに向けて具体的な質問(確認事項)をしてきている」とメールが届いたのは、前日(6月2日)の夕方のことでした。
「ついに前向きな検討が始まった!」と期待を弾ませ、一刻を争うと思ってすぐに施設へ電話をかけますが、一歩遅く、担当者はすでに退勤したあとでした。
もどかしいすれ違いのまま夜を明かし、迎えた翌朝(6月3日)。
外はゴーゴーと地鳴りのような風の音が響く、凄まじい台風に見舞われていました。
電車の遅延を見越して早めに出勤した職場では、排水制限により「地下1階以外のトイレ使用禁止」という前代未聞のトラブルが発生。
非日常の緊迫した空気が流れるなか、私は昨日聞くことができなかった「質問の返事」を受け取るため、タイミングを計り始めていました。
6月3日(水)10時過ぎ
台風の影響で、館内のトイレが地下1階を除いてすべて使用禁止になるという、前代未聞のトラブルに見舞われた職場のフロア。
午前10時を過ぎた頃、社内にはどことなく落ち着かない空気が漂い始めていました。無理もありません。
誰もがわざわざ地下まで足を運ばなければならないため、一度席を外すとなかなか戻ってこない人が目立つようになっていたのです。
(今なら、少し席を離れても不自然ではないかもしれない……)
そう思った私は、昨日からずっと胸につかえていた「宿題」を片付けるため、手元にメモを用意して静かに席を立ちました。二つ目の介護医療院への、リベンジの電話です。
「こんな物凄い台風の日だけれど、担当者の方は無事に出勤されているだろうか?」
そんな不安が頭をよぎりながらも、私は携帯握りしめて受話器を耳に当てました。
やがて呼び出し音が響き、施設の受付へと繋がります。私は、母の入院先である病院の退院調整看護師さんから連絡をいただいた旨を告げ、担当者の方への取次ぎをお願いしました。
祈るような気持ちで待つこと数秒。
「お電話代わりました」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、聞き覚えのある担当者の方の声でした。
無事に出勤されていて良かった、と私はホッと胸をなでおろします。
担当者の方は、昨日わざわざ病院側に確認の連絡を入れていた理由について、こう切り出しました。
「実は、先日の面談の際、こちらが少し聞き忘れてしまったことがありまして……」
(あ、やっぱり母の受け入れにあたっての、具体的な状態やケアの確認なんだわ!)
月額25,000円の差、そしてあの明るい病棟の風景が再び頭をよぎり、私の胸は期待で小さく高鳴りました。
早く答えて、少しでも前向きに話をすすめたい。そう身構えた私に、担当者の方が発した質問は、あまりにも予想とかけ離れたものでした。
「お母様の、ご出身地はどちらになりますか?」
「え……?」
一瞬、耳を疑いました。けれど、質問はそれだけで終わりませんでした。淡々とした調子で、次々と問いかけが続きます。
「何歳でご結婚されたのでしょうか?」
「最終学歴はどちらになりますか?」
「これまでに、お仕事のご経験(職歴)はございますか?」
「……。……。……。」
私は戸惑いを隠せないまま、頭の中に浮かんだ「?」マークを必死に抑え込み、記憶をたどりながら一つ一つの質問に答えていきました。
電話を終え、通話を切ったあとも、私の心には何とも言えない奇妙な違和感が残ったままでした。
てっきり、母の現在の病状や、車椅子での生活の様子、あるいは施設側で対応できる医療ケアの確認といった、受け入れに関する「現実的で前向きな質問」なのだとばかり思い込んでいたのです。
(母が今ここに入所できるかどうかという切羽詰まった状況の中で、なぜ今、出身地や学歴、結婚した年齢なんていう『個人情報』が必要なんだろう……?)
介護の現場において、それらの情報が一体何のために必要なのか、今の私には全く見当もつきませんでした。
一刻を争うと思って焦っていた気持ちが、拍子抜けしたような、どこか腑に落ちない疑問へと変わっていきます。
窓の外では、相変わらずゴーゴーと激しい嵐の音が響いていました。 すっきりとしない曇り空のようなモヤモヤを胸に抱えたまま、私は再び、あの制限がかかったままの騒がしいフロアへと戻っていきました。
つづく
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