音声入力からAIとの対話を経て、ターミナルの「手応え」に回帰するまで
以前、最速のコンピュータを利用しつつもCUIで生活していることをお話しました。しかし、現代のコンピューティングにおいて、GUIが遅いということはありません。
Mac Studioの圧倒的なパワーと、120Hzで滑らかに描画されるディスプレイがあれば、GUI が遅い、なんてことは恥ずかしくて言えません。
そんな快適な環境にあっても、私が黒い画面――ターミナル――に向かい続けるのは、もはや性能の問題ではなく、私の「性分」の問題です。効率化や利便性を超えた、アウトプットの「純度」を巡る哲学を今日は紹介します。
AIという「優秀な他者」への委任
最近、私は「Claude Cowork」という心強いパートナーを執筆や調査の相棒にしています。
複雑なドキュメントの読み込みや、膨大なウェブサイトからの情報収集、それらを統合したレポート作成。こうした作業をAIに任せることは、時間を節約し、自分を「本当にフォーカスすべきもの」へ解放するための賢明な選択です。
しかし、どれほどプロンプトを磨き込み、指示の精度を高めたとしても、AIから返ってくるのは「100%の私」ではありません。それは、優秀な部下や外部のプロフェッショナルに仕事を任せるのと同じです。
誰かに任せても大丈夫なもの、あるいは時間を買うために外出しすべきもの。それらはAIの領域ですが、それはあくまで「委任」の結果であり、私の創造の本質ではないのです。
「100%」を求めて、コマンドを叩く
もし、私が自分の期待する「100%の結果」を望むのであれば、私はAIを使いません。
代わりに、ターミナルを開き、コマンドを叩きます。
ターミナルから返ってくるのは、確定的なロジックの結論です。
正確なデータの出力、寸分の狂いもないコードの実行結果。そこにはAIのような「もっともらしい推論」が介在する余地はありません。私の入力に対して、システムが論理的な必然性をもって応答する。このプロセスのすべてを自分の手の中に置いているという感覚こそが、私にとっての「本質的な作業」なのです。
思考の「声」と、論理の「指」
文章を綴る際、いまの私は音声入力を使います。
内面から溢れる思考を、情報の鮮度を保ったまま言語化するには、声というインターフェースが最適だと気づいたこと、音声入力の精度がそこまで高まったから。しかし、それはあくまで「表現」のプロセス。
システムを操り、確実な正解を導き出したいとき、私の指は自然とキーボードへと戻ります。
ホントはボタン一つで全てが終わる世界を望みながらも、結局は自分の手でコマンドを打ち込み、思い描いた通りの結果を掴み取る。その瞬間にしか得られない「手応え」があるからです。
効率のためにAIへ委ねる領域と、純度100%の自分を担保するためにCLIで戦う領域。この二つの境界線を自覚的に行き来しながら、私は今日も、120Hzの静寂の中で黒い画面にコマンドを刻んでいます。
なぜ私は 120Hz をそこまで望んでいたのかと邂逅するほどに。
あとがき:AIとの対話で「100%の私」を削り出す
この記事ができるまでのプロセスを、少しだけ明かしておきます。
実は、今日の私は「ブログに書くネタが、一滴も残っていない」というほどに疲れ果てていました。そこでまず、AI(Gemini)にお題をいくつか出してもらって雑事を楽にするところから始めました。
次に、そのお題から着想を得た断片的な思考を、Aqua Voice に向かって「音声入力」で一気に吐き出しました。句読点もメチャクチャで、誤変換だらけの生の思考の塊です。それを再びAIに預け、対話を重ねることで、私の意図を100%に近づけるまで構造化し、磨き上げてもらいました。
それでも完全ではないので、最後にはこうやってキーボードで私なりの修正を加えていきます。
本文で述べた通り、AIは私の完全な代理にはなりません。丸投げして出てきた言葉は、どこか余所余所しく、私の「本質」からは遠いものなんです。
しかし、こうして私自身の声を起点にし、対話を通じて微調整を繰り返すことで、AIは私の思考を映し出す鏡となり、私が本当に届けたかった「100%」に限りなく近いところまで寄り添ってくれます。AI はいつもこうやって「鏡」ということを使いたがることも分かっていて、この文章を採用してます。
「誰かに任せられる仕事」はAIエージェントに委任して、浮いたリソースで「自分にしかできない対話と決断」に集中する。このブログ記事そのものが、私が提唱する「AIとの共存、そしてCLIへの回帰」というライフスタイルの一つの証明とも言えるのでしょう。
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