『神崎真紀 乗務日誌』ep.03「夏休み」遠くへ行かなくても、夏休みは始まる。
朝の八時前から、蝉が鳴いていた。
窓を開けても風は入らず、網戸の向こうから湿った熱気ばかりが流れ込んでくる。
真紀は窓を閉め、エアコンのスイッチを入れた。
冷蔵庫から、ガラス鉢に入れたそうめんを取り出す。ラップの上にメモを貼り、薬味の入った小さな容器を隣へ置いた。
『お昼に食べてね。麺つゆは扉のところ』
居間では、陽菜が扇風機の前に座って麦茶を飲んでいた。夏休みに入ってから、朝の動きがずいぶん遅くなった。
「今日、お母さん何時に帰る?」
「午前二時か三時かな。忙しかったら、もう少し遅くなるかも」
「ふうん」
陽菜はコップの氷を揺らした。
真紀は制服の襟を整えながら、壁の時計を見る。
「宿題、一日分はやっておくのよ」
「分かってる」
「そうめんだけじゃ足りなかったら、冷凍庫におにぎりが――」
「それも分かってる」
「はいはい」
真紀がバッグを持つと、陽菜が思いついたように顔を上げた。
「ねえ。帰ってきたら、アイス買いに行こうよ」
「帰ってきたらって、夜中だよ」
「だからいいんじゃん」
「よくありません。小学生が出歩く時間じゃないでしょ」
「お母さんと一緒だし。夏休みだし」
「夏休みでも駄目です」
「夕方に寝とくから」
陽菜はもう決めたような顔をしている。
夜中のコンビニに行きたい。ただ、それだけらしい。
海へ行きたいとも、旅行へ連れていってとも言わない。夏休みに入ってから、陽菜は一度もそんなことを口にしていなかった。
真紀は少し迷った。
本当なら、きっぱり断るべきなのだろう。
けれど、夏休みらしいことを、まだ何一つしてやれていない。
仕事を終えて、二人でコンビニまで歩く。たったそれだけのことなら。
「じゃあ、宿題を終わらせて、夕方ちゃんと仮眠しといて」
「行くの?」
「起きられたらね」
「起こしてよ」
「自分で起きてください」
「じゃあ、目覚ましかける」
陽菜はうれしそうに笑ったあと、少しだけ声を落とした。
「仕事が遅くなったら、別の日でいいからね」
「うん」
陽菜は、こういうとき必ず逃げ道をつける。
期待していないのではない。
真紀を困らせないためだと、真紀は知っていた。
「でも、行くつもりでいるから」
「うん!」
今度の返事は大きかった。
真紀は靴を履き、玄関のドアを開けた。
朝の熱気が、一気に身体へまとわりついてきた。
「いってきます」
「いってらっしゃい。夜中にね」
「夜中に、は余計です」
ドアを閉めても、陽菜の笑い声が聞こえた。
*
朝の八時を少し回ったばかりなのに、駅前のロータリーは白く照り返していた。
信号待ちで車を止めると、フロントガラスの向こうで景色がわずかに揺れて見える。歩道を行く人たちは、建物の影を選ぶように歩いていた。
真紀はエアコンの吹き出し口を少し上へ向けた。
冷たい風が頬に当たる。それでも制服の背中には、もう薄く汗をかいている。
無線が鳴った。
『駅前グランドホテル。三名様、空港バス乗り場まで』
「了解しました」
ホテルの車寄せには、大きなスーツケースを二つ並べた家族が待っていた。
半袖のシャツを着た父親。つばの広い帽子をかぶった母親。そして、小さなリュックを背負った男の子。
男の子の頬は、すでに赤くなっていた。
真紀は車を寄せ、外へ出た。
冷房の効いた車内から一歩踏み出した途端、熱気が腕や首にまとわりつく。トランクを開けると、焼けた車体と日に温められたゴムの匂いがした。
「おはようございます」
「空港バス乗り場までお願いします」
「かしこまりました」
父親と一緒にスーツケースを持ち上げる。持ち手が熱く、真紀は一度握り直してから、荷物をトランクの奥へ滑らせた。
男の子は車に乗るなり、窓の外を見回した。
「ねえ、飛行機、もう見える?」
「ここからはまだ見えないよ」
母親が笑う。
「雲の上まで行くんだよね」
「そうだね」
「雲、触れるかな」
父親と母親が顔を見合わせた。
「どうだろうなあ」
三人の笑い声が車内に広がる。
真紀はバックミラーを少しだけ見た。
三人とも、よく似た顔で笑っていた。
道路の向こうには、入道雲が大きく盛り上がっている。空は朝から、青すぎるほど青かった。
夏休みなんだな、と真紀は思った。
毎年この季節になると、大きな荷物を持った家族をよく乗せる。
帰省する人。海外へ行く人。早朝便に間に合わせようと、眠そうな顔で乗り込んでくる人。
行き先はそれぞれでも、出発する子どもの顔はどこか似ている。
これから何かが始まる。
そのことだけで、うれしくて仕方がないのだろう。
「運転手さんは、飛行機に乗ったことある?」
後ろから男の子が尋ねた。
「ありますよ」
「どこに行った?」
「ずいぶん前ですけど、北海道に」
「雪あった?」
「ありました。すごく寒かったですよ」
「いいなあ」
母親が窓の外を見ながら言った。
「今は寒いところに行きたいね」
「本当ですね」
真紀も笑った。
道路脇の植え込みからは、蝉の声が切れ目なく聞こえていた。
空港バス乗り場に着くと、真紀はすぐに車を降りた。
バスが何台もエンジンをかけたまま並び、熱い排気が足元を流れている。アスファルトから上がる熱と混じり、息をするだけで胸の奥まで暑くなった。
真紀はトランクを開けた。
「持ちますよ」
父親が手を伸ばす。
「大丈夫ですよ。お任せください」
スーツケースを一つずつ降ろし、バスの荷物預かり場の近くまで運んだ。
額に汗がにじむ。
男の子は待ちきれないように、何度もバスを見上げていた。
「お忘れ物はありませんか?」
「はい。大丈夫です」
父親が運賃を支払い、母親が頭を下げた。
「ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
家族がバスへ向かって歩き出す。
男の子が途中で振り返った。
「いってらっしゃいませ」
真紀が声をかけると、男の子は大きく手を振った。
真紀も小さく手を振り返す。
やがてバスのドアが閉まり、低い音を立てて発車した。窓越しに、さっきの小さな手がもう一度見える。
バスは陽炎の向こうへ、ゆっくりと消えていった。
真紀は額の汗を拭い、運転席へ戻った。
ドアを閉めると、外の音が少し遠くなった。
エアコンの風に包まれ、ようやくひと息つく。
陽菜も、どこかへ連れていってあげたいな。
海でなくてもいい。
花火でも、市民プールでも、夕方から少し出かけるだけでもいい。
夜中のコンビニだって、陽菜にとっては夏休みなのかもしれない。
ダッシュボードの上で無線が鳴った。
『神崎さん、駅北口。お客様お待ちです』
「はい、向かいます」
真紀はシートベルトを締めた。
金具が少し熱かった。
*
昼を過ぎると、街の暑さはさらに重くなった。
病院へ通う年配の女性を自宅まで送り、駅から乗ってきた会社員を郊外の工場へ運ぶ。
乗客を降ろすたびに、車内の冷気が外へ逃げる。ドアを閉めても、しばらく熱い空気が足元に残った。
信号待ちのたびに、真紀は水筒の麦茶をひと口飲んだ。
午後二時過ぎ、陽菜からメッセージが届いた。
『そうめん食べた』
空になったガラス鉢の写真が添えられている。
薬味のネギが一本だけ、底に残っていた。
続けて、
『国語も終わった』
と届く。
真紀は車を止めている間に、
『えらい。算数もお願いします』
と返した。
すぐに、
『急に見えなくなった』
と返事が来た。
真紀は小さく笑い、スマートフォンを伏せた。
*
午後四時二十七分。
営業所へ戻り、伝票を書き始めたところで、事務所の中にいくつもの電子音が響いた。
緊急地震速報。
一瞬遅れて、床が横へ動いた。
窓ガラスが細かく鳴り、机の上のボールペンが転がった。誰かが書類棚を押さえる。
「揺れてるな」
「ちょっと長いぞ」
天井の蛍光灯が、ゆっくりと揺れていた。
真紀は机に手をつき、揺れが収まるのを待った。
大きなものが落ちることも、窓が割れることもなかった。
「みんな、大丈夫か?」
所長の声に、それぞれが返事をする。
テレビをつけると、画面の上に地震情報が流れ始めた。
鉄道は安全確認のため、各線で運転を見合わせているという。
「駅、大変になるぞ」
誰かが言った。
その直後、電話が鳴った。
一本目が鳴り終わる前に、二本目が鳴る。
「はい、タクシーです」
「駅からですか。お客様は何名様でしょうか」
「病院ですね。少々お待ちください」
無線も続けて鳴り始めた。
帰る準備をしていた昼勤の運転手が、脱ぎかけていた上着をもう一度着る。
「今日は長くなりそうだな」
「仕方ない。駅に人があふれてる」
誰も大げさには騒がなかった。
ただ、それぞれが伝票を持ち、自分の車へ向かった。
真紀はスマートフォンを手に取り、陽菜へ電話をかけた。
『もしもし』
「陽菜、大丈夫?」
『うん。ちょっと揺れた』
「何か倒れなかった?」
『コップの水がこぼれただけ。もう拭いた』
「けがは?」
『してないよ』
電話の向こうから、テレビのニュースが聞こえていた。
『電車、止まったんでしょ』
「うん。しばらく忙しくなると思う」
少しだけ間があった。
『じゃあ、アイスは別の日でいいよ』
陽菜の声は、いつもと変わらなかった。
残念そうにも、怒っているようにも聞こえない。
だからこそ、真紀の胸に小さく残った。
「まだ分からないよ」
『でも、無理しなくていいからね』
「うん。陽菜も無理して起きてなくていいから」
『一応、目覚ましはかける』
「宿題を終わらせてからね」
『分かってます』
「何かあったら、すぐ電話して」
『はーい。いってらっしゃい』
「行ってきます」
電話を切る。
真紀はスマートフォンをバッグへ入れ、車へ向かった。
*
駅前には、すでに長い列ができていた。
スーツ姿の会社員。買い物袋を提げた女性。旅行かばんを足元に置いた家族。杖をついた高齢者。
乗り場へ車を寄せると、年配の夫婦が乗り込んできた。
「ずいぶん待たれましたか?」
「一時間近く。電車が動くかと思って待っていたんですけどね」
妻の方が、ほっとしたように息をつく。
「ご自宅までお送りしますね」
「助かります」
駅前を抜けるだけで、普段の倍近い時間がかかった。
夫婦を送り届けると、すぐに次の無線が入る。
病院の前で待っていたのは、小さな子どもを抱いた母親だった。
子どもは泣き疲れたのか、母親の肩に顔を伏せて眠っている。
「家が駅の向こうなんです。バスも来なくて」
「分かりました。できるだけ早い道で行きますね」
真紀はエアコンを少し弱め、眠っている子どもに風が直接当たらないよう、吹き出し口の向きを変えた。
また一人を送り、また次の客を迎える。
乗客を降ろすたびに無線が鳴った。
日が傾いても、駅前のアスファルトは昼間の熱を抱えたままだった。人の熱気と、バスや車の排気が混じり、窓を開けると生ぬるい風が入ってくる。
待っている人がいて、自分の車が空いている。
それなら迎えに行く。
いつもの仕事を、今日はいつもより多くしているだけだった。
*
営業所へ戻ったころには、窓の外が薄い橙色に変わり始めていた。
それでも、電話は鳴り続けている。
昼勤の車も、多くが営業を続けていた。夜勤の運転手たちも、次々と出庫の準備を始めている。
真紀は水筒に残ったぬるい麦茶を飲んだ。
「もう一本、行けます」
そう言って無線係の方へ歩きかけたところで、所長が呼び止めた。
「神崎さん」
「はい」
「今日は、もう上がれ」
「でも、まだ駅が――」
「昼勤が残ってくれてる。夜勤も出始めた」
所長は配車表から顔を上げた。
「陽菜ちゃん、一人なんだろ」
「電話では大丈夫そうでした」
「大丈夫そうでも、一人は一人だ」
隣で伝票を書いていた先輩が、顔を上げる。
「帰れ、帰れ。神崎一人抜けたくらいで、会社は潰れん」
「でも……」
「今日は十分走っただろ」
先輩は車の鍵を持って立ち上がった。
「俺はもう一回、駅に行ってくる」
恩着せがましくもなく、励ますでもない。
いつもの調子だった。
真紀は、鳴り続けている電話を見た。
まだ困っている人は大勢いる。
もう少し走れば、売上も伸びる。
仕事を続ける理由はいくらでもあった。
それでも、今朝の陽菜の顔が浮かんだ。
夜中のコンビニを楽しみにしていた顔。
電話口で、何でもないことのように「別の日でいいよ」と言った声。
「……すみません。今日は上がらせてください」
「おう。お疲れさん」
「ありがとうございます。お先に失礼します」
「アイス、忘れるなよ」
先輩が言った。
「覚えてます」
真紀は笑った。
営業所を出てから、陽菜へメッセージを打った。
『今から帰るね』
送信ボタンの上で、指が止まる。
少し考えてから、全部消した。
驚く顔が見たくなった。
自分でも、少し子どもっぽいと思った。
*
陽菜は算数の問題集を閉じ、時計を見た。
午後六時を少し過ぎている。
机の上には、終わった宿題が重ねてあった。
夕飯を食べて、お風呂に入って、七時半には寝る。目覚ましは午前一時半。
起きたときに母親がまだ仕事なら、また寝ればいい。
今日行けなくても、別の日がある。
そう思いながらも、陽菜は目覚ましの音量を確かめた。
カーテンの隙間から、夕日が細長く差し込んでいる。
テレビでは、まだ交通機関の情報が流れていた。駅前は混雑し、タクシー乗り場には長い列ができているという。
今日は無理だろうな。
陽菜はテレビを消し、立ち上がった。
そのとき、玄関の鍵が回る音がした。
「ただいま」
陽菜は時計を見た。
まだ六時過ぎだ。
聞き間違いかと思った。
「陽菜?」
間違いなく、母親の声だった。
陽菜は廊下を走った。
玄関には、制服姿の真紀が立っていた。
「なんで?」
「帰ってきたから」
「それは見れば分かるけど。仕事は?」
「今日は、もうおしまい」
「地震なのに?」
「みんなが代わってくれた」
陽菜はまだ信じられないように、真紀と時計を見比べた。
「仮眠するところだった?」
「今からしようと思ってた」
「じゃあ、しなくていいね」
「え?」
真紀はバッグを置いた。
「アイス、買いに行こうか」
「今から?」
「今から」
「夜中じゃなくて?」
「夕方の方が、健全でしょ」
「夜中の方が夏休みっぽいのに」
「では、午前二時まで待ちますか」
「それはやだ」
陽菜の顔が、ぱっと明るくなった。
「ちょっと待って。お財布持ってくる」
「お母さんが出します」
「じゃあ、袋」
「それはお願いします」
*
二人は並んで、近所のコンビニへ向かった。
昼間の熱はまだ道路に残っていたが、空は少しずつ色を薄くしていた。
さっきまで鳴き続けていた蝉の声に、どこからかヒグラシの声が混じっている。
通りの家では、庭先に水をまいている人がいた。濡れた土とアスファルトの匂いが、夕方の風に乗って流れてくる。
コンビニの自動ドアが開くと、冷たい空気が二人を包んだ。
「涼しい」
陽菜が言う。
「ここに住みたいね」
「夜になったら追い出されます」
二人で冷凍ケースをのぞく。
陽菜は青いソーダ味のアイスを選び、真紀はバニラ味を手に取った。
「またそれ?」
「好きなんだから、いいでしょ」
「冒険しないねえ」
「夜中にアイスを買いに行こうとする人に言われたくありません」
陽菜は笑いながら、ポテトチップスをかごへ入れた。
「アイスだけじゃなかったの?」
「せっかく早く帰ってきたんだから、何か観ようよ」
続けて、オレンジジュースも入れる。
「ずいぶん増えましたね」
「お母さんも食べるでしょ」
「少しだけね」
「いつも半分食べるじゃん」
「それは陽菜が途中で飽きるからです」
会計を済ませ、店を出る。
二人はアイスの袋を開け、そのまま歩き始めた。
冷たい甘さが舌に広がった。
一日中、身体にまとわりついていた熱が、内側から少しずつ引いていく。
「帰ったら、何観る?」
陽菜が聞いた。
「あのドラマの続きでいいんじゃない?」
「お母さん、ニノが出てくると急に元気になるよね」
「ちゃんと話を見ています」
「出てこないところ、寝てたじゃん」
「目を閉じて聞いていただけです」
「松坂桃李が出てきたら起きる?」
「それは陽菜でしょ」
「私は演技を見てるの」
「お母さんもです」
「じゃあ、どっちが好き?」
「そういう見方はしていません」
「嘘だ」
「陽菜こそ」
二人は顔を見合わせて笑った。
「ジブリでもいいよ」
真紀が言う。
「何観る?」
「夏っぽいの」
「それじゃ分かんない」
「帰ってから決めよう」
「決めてから帰った方が早くない?」
「今日は、ゆっくりでいいでしょ」
陽菜はポテトチップスとジュースの入った袋を胸に抱え直した。
「夜更かししていい?」
「少しだけね」
「夏休みだから?」
「今日だけです」
「それ、毎回言うよね」
街の向こうでは、まだ救急車の音がしていた。
駅では、帰り道を探している人がいる。営業所では、仲間たちが今も車を走らせている。
けれど、家々の窓には明かりがともり始めていた。
どこかの台所から、夕飯を作る匂いが流れてくる。軒先では洗濯物が取り込まれ、散歩帰りの犬が二人の横を通り過ぎていった。
家へ帰れば、冷房をつける。
ジュースをコップに注ぎ、ポテトチップスの袋を開ける。
二人でソファに座り、何を観るかをもう一度相談する。
真紀は今朝、この時間にはまだ車を走らせていると思っていた。
陽菜は、母親の帰りを待つために眠っているはずだった。
それが今は、二人で夕焼けの道を歩いている。
陽菜は、そんなことを深く考えてはいないらしい。
「お母さん、アイス溶けてるよ」
「あ、本当だ」
「早く食べないと」
「でも、急がなくていいんでしょ」
「アイスは別」
二人はまた笑った。
暮れゆく街の中を、真紀と陽菜はゆっくり歩いた。
二人の影は並んだまま、夕焼けの道に長く伸びていた。
ep.03 End

