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調律者|エピソード零「歪みのある朝」

その街には、音がひとつだけズレている場所があった。

人々は気づかないまま、そこを通り過ぎていく。

けれど、ほんのわずかに歩幅が速くなったり、言葉が少しだけ尖ったりする。

理由のない苛立ちや、説明できない疲れは、だいたいその場所で生まれていた。

それは駅前の交差点でもなく、古い建物でもなく、

「誰かと誰かがすれ違い続けた場所」にだけ起きる現象だった。

その朝、彼はそこにいた。

名前は、まだ語られない。

ただひとつだけ、機能のようなものを持っている。

そう呼ぶ人間が、どこかにいるらしい。

彼は時計を見るような仕草で、街を見た。
音ではなく、気配の重なり方を確かめるように。

「少しだけ、ずれてる」

誰に向けた言葉でもなかった。
けれど、その瞬間、交差点の空気が一段だけ薄くなる。

彼が何かをしたわけではない。
触れたわけでも、直したわけでもない。

ただ、ひとつだけ動いた。

“無視され続けていた違和感”が、そこに在ることを許された。

それだけで、朝の速度が少し変わる。

信号が青に変わる。
誰かが一歩を踏み出す。
ほんのわずか、肩の力が抜ける。

それでも街は、何も気づかないまま進んでいく。

彼はそのまま歩き出す。

次の“ずれ”へ向かうように。

調律は、修復ではない。
もっと静かで、もっと中途半端なものだ。


↓調律者の物語

シリーズ記事
① 調律者|第一話「静まりすぎた部屋」
② 調律者|第二話「言葉が多すぎる会議室」
③ 調律者|第三話「何も起きない部屋」
④ 調律者|第四話「戻ってきた人」
⑤ 調律者|第五話「崩れたままの場所」
⑥ 調律者|第六話「音のない場所」
⑦ 調律者|第七話「境界の薄い家」
⑧ 調律者|エピソード零「歪みのある朝」
⑨ 短編連載『調律者』の構造を解説

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きたがわ 萃(sui)|認知の機織り職人 世界を構造として捉える認知と、体感を直感的に統合する思考を手がかりに、私が感じたことや実体験を小さな記録としてそっと置き続けていきます。いただいたチップはその活動に大切に使わせていただきます。