見出し画像

スティグマ(雨降る夜の読み物)

私は生物についてよく書くが、一番多くしてきたのはアリの話だ。真社会性について考えるのが好きだからだ。

過去回を使いながら書いていこう。

このような建築物や環境管理システムも、生物や自然から学んだ結果・その産物なのだろうが。動植物が私たちに教えてくれることのほんの一部である・他にも学べることがたくさんあると、私は思っている。

シロアリはアリではない、という話を見聞きしたことがある人へ。収斂進化と分岐進化についてふれないでなされるそんな話には、意味がない。

今どんな生き方をしているかに着眼することなく、先祖が何であったかだけに着眼するのは、何かすばらしいことなのだろうか。アリだと言われてアリなんだと思うことと、アリではないと言われてアリではないんだと思うことに、どんな差があると言うのか。笑


シロアリは、泥だんごにフェロモンを注入し地面におく。仲間のフェロモンにひき寄せられ行動するため、泥だんごは積み重なっていく。いつしか、柱やアーチのようなものができあがる。

単純なルール・セットに従うことで、複雑な家を構築することができているのだ。

冒頭で貼ったのと同じ過去回より。

アリの医療からも学べることが多そうだ。

おそらく、どこまでいってもルール・セットなのだろうが。それぞれ、〇〇や△△に特化しているということなのだろうが。Aという役割・Bという役割……の中、その役割が複雑なもので、個別判断をしているかのように見える一群もいるわけだ。

また。アリの種が異なれば行動のレパートリーも異なる。アリの多様性は、ネズミとゾウの違いに匹敵するくらいあるのだ。

真社会性という大枠の中にありながら、そこにはダイバーシティーがある。


真社会性(Eusociality)という用語は、1960年代にスザンヌ・バトラによって導入された。米国の昆虫学者だ。彼女ははじめ、インドで観察したハチの社会的な営巣行動を説明するために、その言葉を使った。

全体的で協力的な子育て・生殖グループと非生殖グループの分業などを特徴とし、社会性の組織化の最高レベルだと言われている。

高度な分業体制に関連して、個体は集団から離れて長く生きることができない。

SNSから離れろだとか・ひとりの時間を大切にしろだとか。昨今は、孤独を推奨するような話をよく耳や目にするが。それは、現代社会はあまりにも孤独の機会が少なすぎるーーという見方からきた、「さすがに」的な発想であることに留意せねばならない。

基本、人間のような生き物にとって、孤独は心身によいものではない。


いつメンは、おまいうとは思わないでいてくれるはずだ。

私は、ありがたいことに友人も知人も多いし、一年のほとんどをあらゆる国の大勢の人々とすごす(仕事を通じて)が、精神的に孤独だ。幼い頃から自分だけの世界をここちよいと感じてきたことも、否定できない。けれども。私が孤独 = リラクゼーション的な人になってしまったのは、決して、はなからそう望んでではない。


余談……でもないかもしれない。書こう。

たいがいの作品、原作を読むことを勧めているが。本作は実写の方が断然よい。

私は本当はこういうことを言いたくない。ある小説の大ファンだと思う自分が、その劇場版に唯一悪口を言わなかったとか、実際ある。(この説明が相当な悪口になるのだから、作品名を明かさない)

ヒットしないとつくられないからだ。極論、いつか何もつくられなくなるのが嫌だからだ。数多のトライがあってこそ、一等輝く星も生まれ得るというもの。

前回とのつながり感も出せそうだ。


真社会性のコロニーを超個体であると見なすこともできる。

超個体:実際は多数の個体から形成されているが、まるで1つの個体であるかのようなふるまいを見せること。

ガイア理論は、生物圏全体を一種の超個体であると主張する。自己調節システム・生命と環境の相互作用。

神の話をする時に科学寄りで話しているつもりな私は、ガイア仮説を信仰していたい人なのだと思う。

ショーシャンクのワンシーンね。

この流れで映画の話を1つしよう。誰もおいてきぼりにならないよう、超有名作で。

このビジュアル・イメージ、いい。
Seven deadly Sins のビジュアル・イメージもいい。

『カンタベリー物語』の中の独特な章「牧師の物語」に(も)、SALIGIA が出てくる。

7つの大罪のラテン語頭文字だよ。

私が『セブン』で好きなシーンは、雨の市街地を犯人が逃げるところと(黒い傘、はためくロング・コート、ザラザラした映像が美しい)、おなじみの緑のランプが灯る図書館のところ(ノイキャンを嫌う私からしたら、ポーカーに興じる男たちの発する音は鈴虫の発する音と同じ)だ。

本作における雨のことを少し書く。タイトルにしたくらいだ、余談ではない。

CGI に依存せず実際の水を使用することで、ザラザラとした映像美が生まれている。水の反射・濡れた表面・水滴が照明や俳優の動きと動的に相互作用し、街の雰囲気を伝えている。

名もなき街に降り続く雨。不穏で容赦のない雰囲気を維持するために、雨は必要不可欠な登場キャラクターだった。陰鬱で道徳的に腐敗した都市、私たちの都市。その閉塞感。こう言って、どうして違和感がないのか。「私たちは撮影セットの中に閉じこめられている」。

雨は罪や罰を連想させる。絶望感や不安感を増幅させる。そんなことない、特に夜の雨は癒される?否定しないどころか完全に同意する。罪や罰を連想させられ・絶望感や不安感を増幅させられるから、癒されるのだ。

雨は罪を洗い流しなどしない
むしろ強調する
それがたしかにそこにあることを
法律で裁かれるほどでもない私の無数の罪は
罪のスティグマを刻まれたりしないまま
つぐなうこともできずに罪は罪のまま
あり続けることを強調してくる
それがここちよいのは
雨がこの都市全体に降ってくれるからだ
私だけではないと思うことができるからだ
私の罪 あなたの罪 あの人の罪 彼の罪 彼女の罪
私たちは幸福によってのみつながってはいない
どうしようもない愚かさによってもつながっていると

タイトルの「雨の夜」は罪や罰の比喩ってこと。珍しく詩人になってみようとしたが、こんなものは詩ではない。句読点をなくして改行しただけのテキストだ。

詩だ。初手からぜんぜん違う。単一のではなくそれぞれの情景が浮かぶが、同じテーマを共有できる。どうしてこうも差があるのか。(Todayの女からすると、Somedayの男が描いた感が否めない部分もあるが。笑)

読み終わった後に閉じて表紙を見ると、改めて心を全てもっていかれるタイトル。作家は天上人だ。

1つ気づいた。私は結論から話している感じがあり、解釈のための余白を他者に与えていない気がする。

こういうところが、まさに自分の罪な気がしてきた。

物理学者で随筆家の寺田寅彦が、『柿の種』に書いている。「日常生活の世界と詩歌の世界の境界は、ただ一枚のガラス板で仕切られている。このガラスは、初めから曇っていることもある。生活の世界のちりによごれて曇っていることもある」と。

私は「汚れっちまった悲しみに降りかかる小雪」(中原中也)ではないから、書けないのだろう。自分に悲しいな。


私が『セブン』で好きなセリフはこれだ。

「無関心を美徳であるかのように抱擁し育む場所で、これ以上生きていけるとは思えない」

「あんたは、今言ったようなことで仕事を辞めるんじゃあない。辞めるから、そういうことにしたいだけだ。そして、俺に同意してほしがっている。こう言ってほしいんだろう。そのとおり、全てがめちゃくちゃで混乱しまくった時代だよな。みんなで、森の中に住んだ方がいいよな。俺はそんなことを言わない。俺はあんたに同意しない。絶対に」

集団の中には必ずバグ個体が発生する。その都度、自分たちがそれを逮捕なりなんなりする。それでいいのだと言う、まだ「青い」若手刑事。少なくともベテラン刑事はそう(青さは未熟さだと)認識していた。これは人間全体の罪の話だなどと、彼に説こうとしたのだから。

そこで、頬をはたかれたわけだ。ベテラン刑事の方が若手刑事から。人類は救いようがないから役割からおりたいのではなく、途中でおりる理由にそういう考えを使いたいだけだろうと。いい年こいてガキみたいなことを言うなと、年下から諭されたようなものだ。

自分は別に普通にあきらめない、と表現したミルズは正しい。私たちはもう森で暮らさない(サバンナ生活も過酷なものだったことをサマセットは考えたことがないのだろうか)。複雑を極めた社会でバグ個体の発生率が上がるのは想定内……いや、予想通りの結果だ。それは、対処が困難になることを付随するに決まっている。

このやりとりから前向きになったのだから、サマセットもやはり聡い人だが。初老の男が抱える葛藤など、ミルズは乗り越え済みだった。

この会話が先にあるからこそ。本作の結末は、非常に悲しいものであるだけでなく、強い皮肉みを帯びる。

だが。地球上の誰も、彼に皮肉など言えない。彼に、ほら見ろとは誰も言えない。これは我々全体の悲しみだからだ。(部分的にベテラン刑事の見解に戻るわけだ)

But I know I can't resist it. I love it and I hate it at the same time. You and I drink the poison from the same vine. 


『寄生獣』の田宮は人間社会を観察して、ヒトをアリに近いと感じたようだ。自分たちはヒトやアリのようではない生物だとも。対立しても勝てない理由に、そのことをあげている。

あの寄生生物たちはショットガンで撃たれて追いつめられていたし、ラスボスの後藤は有害な化学物質に倒れたんじゃん。メルエムは圧倒的科学力の差で負けちゃったんじゃん、あと大量の放射能。と思うかもしれないが。それらも我々の「共同作業」によって生み出されたものではある。

温度や湿度が自動調整される建物をシロアリから教わる全てだと、私は思っていない。そう、前述しておいた。

再度、この過去回より。

Stigmagy の話をする。

シロアリの例などを先に書いたため、この↓意味をだいたい意味がわかるだろう。

Wikiより。

スティグマージそれ自体は競争でもなければ協力でもない、という主張が存在する。

最初のアイディアは自由に提示され。プロジェクトはアイディアそのものによって、自然に推進されていく。それが刺激的であったり必要なものであったりすれば、おのずと関心をもたれるため。スターター自身がタスクを進めなくてもよい。このように、競争でも協力でもないと。

このキャラクターの名前がアオイなのがいいよね。

本音か建前か論はさておき、おまいらは見る目がない vs. このガリ勉の非リアがよ、対戦の構図にワロタ。
寺田が、くもったガラス板1枚の差だと言いそう。

私は、エージェント・スミスが自由を喜んでいるように見えるーーつまりそれを欲していたーー理由が気になったままだ。そりゃあ、私たちは基本、自由だとうれしいが。「彼」はそれでよいのだろうか。

言ってたね。I fear that I've somehow been infected by it. I must get out of here. いつのまにか/なぜか感染したのではないかと怖くなる。(早く)ここを立ち去らねば。とか言ってたね。

マトリックスへ再接続されたがる人間もいるように。スミスその1だかその5だかも、イレギュラーや少数派だったということかもしれない。

だとして。このスミスに、少なくない数→いずれ大量のスミスらは続くのだろうか、ということも気になる。人間が、できるだけ多くの仲間から意図的にプラグをひきぬこうとしたのとは、また違う感じで。単純なルール・セットでひき寄せるられるようにして。

先ほどと同じWikiより。
ダリの『Cristo de San Juan de la Cruz』
(Christ of Saint John of the Cross)

疑問をもてるからもあり(オラわくわくすっぞ)、『マトリックス』シリーズのこの部分が好きだ。

ここで、アンプラグド・ナイト的な名前をつけられた宇多田のイベントの『Parody』を聞こうよ。

彼女はやはりなんでも知っているが。「なんでも知ってまではいない」頃から、都度、トライをし続けていたのだと思う。その時にしか歌えないことをその時にちゃんと歌っておく。そこも渋い。

7階まで急いで。Let me Be!


暗い。暗すぎる。こんな辞典は閉じよう。それこそ、どんな人もみんな一緒に、道徳の向こう側で燃えよう。

ギリシャ語の「スティグマ」は、印・兆候・痕跡といった意味あいをもつ言葉だ。

将来の行動の道しるべとなるような、変化。

環境とは、受動的な背景ではなく能動的な媒体であり。作業によって形づくられ、その後の作業も形づくる。

「木々は鮭を必要としている」鮭の死骸から川へ栄養が流れている、と解説する動画。私たちの健康・私たち以外の動物の健康・植物の健康、それらは1セットであると。


人格にもとづくシステムでは。

国連のような組織に見られる代表性なしに、大規模な協働を実現することはできない。委員会・組織・政府機関などからは、世界に行動が現れてこないことがあまりにも多い。

ほとんどのシステムは競争的な組織によって運営され。競争は秘密主義をともないがち。それが進歩を妨げ・機会を喪失させる。

競争に代わる手段として伝統的に考えられてきたのは、協力だが。複数の研究によると、25人以上のグループで協力は遅くなる。終わりのない議論をかわすこと・頻発する問題を沈静化することにばかり時間が費やされ。扇動者(悪質な者を含む)の影響を非常に受けやすい。(10人以下のグループでも同じだと嘆く人へ。だろうね。メタ的な話をした私が悪い)

かと言って。行動にもとづくシステム(自己責任論とかそれ系)では。

役割を果たしていないと見なされた人の意見は、ほとんど価値をもてないだろう。


いきなりこう書いたのでは、意味がわからなかったかもしれないが。映画や音楽を使って、カジュアルな書き方を先にしてきた。もうわかるようになっているはずだ。

社会性昆虫のコロニーが、資源を管理し複雑な環境をナビゲートする過程と。人間社会が共有資源プールや集団行動の問題にとりくむ過程。これらの類似性は無視できないほどにある。

Stigmergy とは、共有環境の持続的な改変によって媒介される調整様式であり。改変は、その後の行動を導く手がかりとして機能するかもしれない。分散型で非同期的な集合知の形態を表し。全ての関係者間の明示的な計画や直接的なコミュニケーションなしに、複雑な適応行動を可能にするかもしれない。

行動が環境を変化させ・変化した環境がさらなる行動をうながすというこのメカニズムが、持続可能なシステムの構造を再検討するための深遠なレンズを、私たちに提供してくれるかもしれない。

スティグマージが持続可能性に関する議論に浸透しはじめたのは比較的最近だが、その動きは加速しつつある。

環境問題に対する、中央集権的あるいは市場主導型のアプローチの限界が、ますます明らかになるにつれ。思想家たちは、代替的な調整メカニズムを模索しはじめている。

トランプがこう言ったからプロジェクトをやめるだとか言う企業。わかったわかった。ならやめろ。
あんたらはミルズから説教されるサマセットだ。

スティグマージは、分散化・適応・創発を包含する、概念的枠組みを提供する。違反への罰則や金銭的インセンティブだけによらず。共有された環境情報に導かれ、持続可能な集団的慣行が、有機的に生まれ伝播していくかもしれない。

具体的には。行動の結果をより可視化すること(例:リアルタイムのエネルギー使用量表示)や、持続可能な道筋を明確にすること(例:循環型経済の機会をマッピング)が考えられる。


夢物語を語られた後、さらにカルトっぽい画像を貼られて、げんなりした?😂

私は冷笑や逆ばりの方にげんなりする。(あきらめるよりあきらめない方に可能性がある、という至極単純なことをふりきるために、どれだけ必死になっているのかと)

自虐の意味あいをもつつもりは一切なく、ユートピア主義の大義たゆまぬ夢追人だから。

私に、社会主義者なのかなどとたずねてくる必要はない。もっと小バカにされるようなカテゴリーに属していると思われるため。空想的社会主義だ。私からしたら、そちらの方がオカルトだ。人類はいい加減に、全てを掌握できているふりなどやめるべき。

デデデデのこのシーンは泣けた。
比喩でなく泣きながら観た。

運命を変えるために現実的かつ具体的にやれること、彼女にとってそれは、劇的なキャラ変だけだった。もう分岐点・元の自分には戻れないことをわかりながら、実行したに決まっている。悪い世界から善い親友を救うために、おんたんちゃんはスティグマになったのだ。

「働け庭師、休まずKING」よ。