キャリア教育について作文・小論文指導者が考えてみた~『「働く」ために必要なこと』(品川裕香)をヒントとして~
更新日:2026/03/14
これまでのキャリア教育は合っていたのか
私はnote記事の中で、あーでもないこーでもないと、高校生の志望理由書に対してぐだぐだお小言を言っていますが、毎年、高校生の志望理由書を添削する中では、今の中高生にはしっかりキャリア教育が成されているなと痛感しています。2、30年前と比べ、中高生を取り巻くキャリア教育環境は本当に大きく変わったと思っています。
25年近く前、私が新卒で学習塾運営会社に入ったとき、そこでは、生徒が添削を依頼してきた志望理由書を、授業のない、時間の空いている文系講師が持ち回りで添削指導している有様でした。それは英語科の講師であったり社会科の講師であったりしたので、志望理由書の添削指導の仕方もはっきり言って「手探り」。指導方針も何もあったものではありません。しかも英語や社会の「本業」以外の仕事であったため、彼らにとっては「余計な仕事」以外のなにものでもありません。できればさっさと片付けたい、そして「どうせ推薦だから志望理由書もそこそこ書けていれば受かるだろう」という調子で指導していました。
当時、国語科講師だった私はこの状況を見て「これはいけない」と思いました。そこで、上司に言うと、高校生科の全ての志望理由書の添削指導をはじめとする「推薦・AO入試対策」全般を一手に引き受けました。他の文系講師(同僚)からは大変感謝されました。自分の専門ではない「厄介な仕事」が手から離れるからでした。
ある高校生の志望理由書を見て気が遠くなりました。彼らも彼らで同僚の文系講師と同様に「推薦だから受かるだろう」とたかをくくっていました。野球部での自分の頑張りと戦績を好き勝手に表明すると、今度はいきなり唐突に「貴学の工学部に入って将来は環境にやさしい車を作りたい」と具体性を欠く稚拙な志望理由を述べ、最後に「どうぞよろしくお願いします」と余計な一言を添えて文章を閉じていました。その彼だけではなく、こうした全くまとまりのない「志望理由書のようなもの」が当時は多くあり、私は閉口しました。
とりわけ、大学に入った先が全く見えていない志望理由書がほとんどでした。それは集団指導の授業でしたが、教科指導のように黒板で一律に指導することは無理に思われました。生徒一人ひとり各々受ける大学も学部・学科も違うからです。そこで、校舎長に言って二つの教室を借りると、片方の教室で生徒に志望理由書を書いてもらい、もう片方の教室で書き終わった生徒を呼んで添削指導をすることにしました。実質、個別指導です。その中で、一人ひとりに「将来何になるために大学に行くのか」、「そのために大学で君は何を学ぶべきか」ひたすら問い続けながら対話をし、その生徒共に志望理由書をまとめていきました。
あれから、25年近く経ち、私はまだ高校生の志望理由書を見ています。ただし、それは一週間ごとに私の自宅に届きます。もちろん、目の前にはその生徒はいません。しかし、それは、あの頃よりもはるかに練られた志望理由書がほとんどです。きっと高校では生徒に十分な進路指導やキャリア教育が成されているに違いないということが、文章から伝わってきます(※生徒が高校で書いた志望理由書を、私は家で添削指導しています)。もちろん志望理由書として不十分なところも少なくはないです。しかし、「職業体験を経て……」、「インターンシップの経験から……」などと書かれている多くの志望理由書を見ながら、彼ら彼女らが多くのいろいろな経験を通じて自分の将来に思いを巡らせていることが文章からひしひしと伝わってきます。私は学校教育者ではないですが、この20数年の中で公教育でのキャリア教育は充実してきたなと実感しています。
これには大学受験の制度や環境の変化も起因しているのでしょうがそれはともかく、今では小中高とキャリア教育が節目節目では行われているようです。全ての教育の取り組みは、その子の将来のためにあります。ですから、これは望ましい教育状況と言えます。しかし、こちらの『「働く」ために必要なこと 就労不安定にならないために』という本を読んで、今のキャリア教育にも見直しが少しは必要なのかなと思いました。

サブタイトルにもあるように、ここには多くの就労不安定な若者が登場してきます。と言っても、けがや病気で就労できなくなったというケースではありません。また景気の低迷など社会情勢の影響から就労不安定になったというケースでもありません。大学や大学院、専門学校をしっかり卒業したにもかかわらずなぜだか仕事に定着できない、そういう若者たちです。「やりがいのある仕事が見つからない」、「どの仕事でも自信が持てずに辞めてしまう」、「職場の人間関係のせいで新型ウツになって以来、定職に結びつかない」などからいろいろな職場を漂流し、結果就労不安定になってしまった人たちです。
ここには、働くことへの無理解から来る「若者たちの不満」とそれを理解できない「企業側の戸惑い」があると筆者の品川氏は考えていました。そして、結果「社会人になる準備ができていない若者を企業が持てあます」状況になっていると言います。
なぜ、こんなふうになってしまったのか……。
もちろん理由は一つではなく、いくつものことがらが複雑に絡み合っているはずです。ただ、社会人になる前に、誰もが同じように通過する場所が一つあります。
そう、学校です。
いったい、教育現場では、どういう指導を行っているのでしょうか。
筆者は、その状況を導き出した要因をまず学校教育に見出そうとします。学校教育ではどのようにキャリア形成が成されているのか、この本の第二章はそれに大きく内容を割いています。
「自立する」ために必要なことはどのように学べるのか
まず、「大学は就職予備校と化している」と言います。これは、私も志望理由書の添削指導をしている中でしばしば考えることです。大学によっては「うちの大学に入学すればあなたのやりたいことが見つかるよ!必ず希望通りの就職ができるよ!」と学生のキャリアデザインをまるごと引き受けて面倒見るようなコンセプトを掲げているところもあります。そして、そこを志望先とする生徒の志望理由書は必ずと言っていいほど「貴学に入ればいろいろな経験を経て自分の将来の夢を見つけることができます。それが貴学を志望した理由です」というような内容になっています。決してそういうことでもないのですがそれはここでは置いておいて、「うちに入れば就職までしっかり面倒見るよ!」と大学側が言っているのですから、高校生の側としては「じゃあ、お言葉に甘えて……私のキャリアの面倒をよろしくお願いします!」となるのも無理もありません。「今は将来の夢は決まっていなくてもいい!だって大学が将来の夢を見つけられるようなカリキュラムやプログラムも用意しているから、それにお任せすればいい!」という話に当然なりますよね。まさに就職予備校化しています。
筆者も多くの事例を出した上で、こうした大学側のキャリア教育指導を「上げ膳据え膳の指導」だと言います。そしてこれが結局「若者たちを躓かせる」と考えています。
(前略)「キャリア教育」のことを単に「就活の支援」とだけ見るのではなく、「社会的及び職業的自立を図るために必要な能力の獲得」(文科省)と捉える点も共通しています。
しかし、多くの大学は「社会的及び職業的自立を図るために必要な能力の獲得」と言いながら、いつの間にか「自分とは何か」「将来どう生きていきたいのか」「そのために自分は何をすべきか」といった、本来、個人が長い時間をかけて、もがきながら答えを模索するような人生の命題についても、「考える場所」を提供し、「考える方策」を教え、さらには「一緒に考えてあげる」ようになっていきました。
それらはよく言えば、懇切丁寧でかゆいところに手が届くキャリア指導とも言えますが、裏を返せば、あれもこれもと先回りした上げ膳据え膳の指導とも言えます。果たして、それらが本当に学生たちのためになるのか?(中略)
問題は単純に「上げ膳据え膳」であることではありません。筆者も言っていますが、それが本当に「社会的及び職業的自立を図るために必要な能力の獲得」につながっているのかということです。「あなたのキャリアを丸ごと面倒見ますよ!」と言って手取り足取り指導をするのはまだいいです。でも結果、現実には面倒を見れていない可能性が高いのです。大学が人生の命題について「『考える場所』を提供し、『考える方策』を教え、さらには『一緒に考えてあげる』ようになって」いるとしてもです。実際、大学でそれを考えることができていないと言えます。
それはなぜか。それは筆者の言葉を借りて言えば「土台」ができていないから、と言えます。「自分とは何か」、「将来どう生きていきたいのか」、「そのために自分は何をすべきか」は、筆者が言うように「個人が長い時間をかけて、もがきながら答えを模索する」ようなものです。それが大学にいるたったの四年間で、しかも「大学が何とかしてくれる」という他力本願の姿勢で考えられるわけはありません。そういう就職先を決める前段階に育まれていなければならない「土台」となる、人生観や社会観、職業観を養うことができなければ、大学が、就活の技術だけを教える、ただの「就職予備校」になってしまうのは当然のことです。
実はこの「土台」が社会的及び職業的自立に必要なものであるわけですが、それ(大学卒業)までにそれが養えていないのだとした就労が不安定な若者が出てくる可能性もあると言えます。またそれが大学で養えないということであれば、その若者は社会に出て以降はそうした「土台」を養う機会を持てないということになり、それが就労が不安定になる遠因になりえると言えます。
しかし、これは大学が悪いということではありません。引用部分で筆者も言っているように、それはそもそも「個人が長い時間をかけて、もがきながら答えを模索」しながら得ていくようなものであるので、制度化・プログラム化されたものに個人が短期間乗っかるだけでは体得することはできないということです。私の意見としては、これは大学の制度的限界であり、平たく言えばこうした「土台」は本来「大学に入る前に人生経験の中で体得すべきもの」なのだと思います。
こういう話になれば当然大学教育以外の「小中高の教育」や「家庭の教育」はどうなっているのかということになり、筆者はこれらにもこのあと言及しています。しかし、どれにも課題があり、なかなか決定的な解決策は見出せません。「親ガチャ」なんて言葉がありますが、そうした人生観や社会観を学ばせてくれる親の元に全ての子どもが生まれることはできません。また「学校ガチャ」もあるでしょう。そうした「いい先生」に会えるかどうかは運次第……。とすると、結局は自分で活路を見出すしかないのだと私は思いますし、筆者もそう考えています。そこで本書では、「本題」として第三章から「どのように自分で活路を見出すか」について筆者は述べています(ここからネタバレになるので、気になる方は本書を読んでください)。
これからのキャリア教育のために
私のようにキャリア教育関係者の末席に身を置くものとしては、本書はなかなか耳が痛いお話も多々ありましたが、「キャリア教育の問題や限界」を考える機会とはなりました。しかし、このキャリア教育で自立に必要なものを得られるかどうかという問題は考えてみれば当然ですが、つまるところその「当人の問題」というところに帰着します。その前提の下で、キャリア教育は、その生徒当人が人生や社会またはその中での自立について考える機会をなるべく多く提供するという立ち位置になるのではないか、と思います。その他の教科の学習についてもそうですが、たとえばこのカリキュラムを修了すればこれだけの学習の成果が見込めると教育する側が考えていてもその見込み通りになる生徒とそうでない生徒がいるように、全ての生徒や学生が見込まれた学習成果をあげることができるキャリア教育プログラムというのはないかもしれません。
しかし、教育の現場としては、「当人の問題」だからと言ってそれを「当人任せ」するというのは教育する者の責任の放棄であると言えます。また、そもそも教育というのはそういうものではありません。制度から零れ落ちてしまう生徒や学生を見つけてどれだけフックアップできるかが現実的には問題であり、それが泥臭くはありますが現場の取り組みとしては必要と言えるのではないでしょうか。
ですから、手前味噌ですが、私が最初にお話ししたあの25年程前の学習塾の教室での指導のように、生徒一人ひとりと向かい合って膝を突き合わせながらその生徒と共にその生徒の人生を考えてあげることが、最後に求められる「キャリア教育」の姿なのではないかと考えています。
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