『選ばれる人』第六話(全十六話)


第六章 美しい獣の憂鬱


 アキレス腱断裂で秋に開幕したレギュラーシーズンを棒に振った椎名は、グランプリ以降メディアから無視された。

 そんな椎名に、ノンフィクション作家としてデビューしたのちに、今ではエッセイストとして名高い星野が会いたがった。
 椎名の現状を鑑みて多岐川や安部などを推すスタッフを説得して、自身がパーソナリティをつとめる人気ラジオ番組のゲストに招く。
 気分転換になると周囲に勧められて、椎名も出演を了承した。
 ゲスト選びは星野の希望が優先される。星野が興味を抱いた人について、スタッフが相当な下調べをした上で候補者が決まる。
 星野は、いつも擬似恋愛とも言えるような愛情や敬意をもってオファーを出すため、招かれたゲストがなおざりに扱われたり、貶められたりすることは決してない。
 当然星野は、椎名の「現状」を承知して出演を依頼した。
 昨年の大陸選手権後のゲスト候補にはなっていたが、むしろ今回の怪我が、星野の「恋心」を決定的にした。
 美貌かつ孤高の天才アスリートとしての魅力もさることながら、致命傷となりかねない怪我をしたことにより椎名がまとった「手負いの獣の陰影」を星野は愛したのである。

「右足はリハビリ中ですか?」
「はい、やっと軽く走れるようにはなりました」
「早くないですか?」
「もう手術から三か月近くになりますから、その程度は」
 来夏のチャンピオンシリーズでの復帰が念頭にあるのか訊こうかと思ったが星野は自重した。自分はニュース記者ではない。
「無理はしないでほしい」とだけ言い添えた。
 星野は質問を変えた。
「ところで、怪我のおかげでというと変ですが、今なら少しはプライベートの時間が取れますか?」
「そうですね。急に時間が余ってしまって戸惑っています」
「友達と遊びに行ったりはしないんですか?」
「故障中に遊び歩いていると、何となく印象が悪いので、リハビリ以外では家にいることが多いです。友達と電話やメールのやりとりはしますが……」
「まだ若いんだから、リハビリに支障がなければ遊べばいいんですよ。
 張り詰めていた心のリフレッシュもしましょうよ」
 目を細めて微笑む椎名に、星野は続ける。
「少し立ち入りますから、差し支えのない程度でこたえてください。電話やメールのやりとりをする友達というと?」
「やっぱり選手仲間が多いです。同世代で引退した進藤や梶さんには、何かと励まされています。あと、後輩の多岐川も頻繁に連絡をくれます」

 椎名の口から「引退」という言葉が発せられたことで、にわかにスタジオに緊張が走った。
 その緊張を誰よりも先に察した星野は、番組のスタッフやラジオを聴いている一部の人の不穏当な好奇心、つまりは椎名自身の引退についての見解を求める話の展開への期待を無視した。
 もちろん、椎名への愛情がなせる業であった。
「ずっとトップアスリートとして走り続けてきて、今回はじめてともいえる大怪我ですが、怪我をする前とあとでは何か心境の変化はありますか?」
「あります。練習をして試合に臨むという、自分にとって当たり前のことができないので、問題なくそれができていた今までが、いかにラッキーだったかを思い知りました」
「ラッキーだったというのは、大怪我をしなかったということ?」
「それもありますし、ずっとレギュラーでいられたことについても……」
「それは椎名さんの才能や努力の結果であって、ラッキーなんかではないでしょう」
 藤堂、柏木、安部のことを思いながら椎名は言った。
「ラッキーも大いにありますよ。
 たとえば、以前代表チームで活躍された伊達さんや丸山さんと自分が同時期のメンバーだったとしたら、ポジションがかぶるので絶対にレギュラーにはなれなかったと思います。
 そういった巡り合わせはあると思います」
 星野が「完全な部外者」であり、また「警戒すべきトラップを背後に隠しもっていないこと」に気を許しはじめた椎名は、言わずもがなのことまで口にしていた。
「時代が違う選手と実力を比較できますか?」
「そんな大昔ではありませんから」
 椎名が伊達や丸山に劣るとは思えなかったが、椎名の技量を擁護する専門的なレトリックをもたないため、星野はそれ以上何も言えず、ただ困惑して低く唸った。
 とにもかくにも星野は、常に相対評価によって取捨される冷酷な競技者の世界で生き残りを賭けている「美しい獣」への恋心を一層肥らせた。

 そして、卓越した技量を理詰めで擁護する代わりに、星野が夢想している「理想のアスリート像」に、椎名がいかに近しい存在であるかという証左を丹念に例示しながら伝えた。
 たとえば、高度な機能性を追求することで洗練された無駄のない(そして必要に応じて強いられる無理にも耐える)しなやかな肢体の動きは、激しい決定的瞬間の無数の連なりとして観る者を魅了する。
 たとえば、流れる汗に濡れながら仲間を鼓舞するその叫び声や、傷だらけの戦いのさなかで垣間見せるその笑顔は、もはや扇情的で、振り上げた拳は幾千もの人の凝視に堪える。
 たとえば、試合中に、ふと俯いた横顔には、観衆を熱狂させるオーラとはまったく異質の、にわかには近寄り難い孤独の肖像とでもいうべき、精緻で美しいセピア色の陰影が刻まれている……と。

「要するに、椎名さんは絵になるんですよ。
 いくら練習して上手になっても、その人が絵になるかどうかは別問題で、大袈裟な言い方をすれば、神から選ばれた人しか絵にはならない。
 だから、私を含め多くの人が椎名さんに憧れるんじゃないでしょうか」
 椎名は、星野の熱を帯びた礼賛の言葉に慎ましく恐縮しながら、恥じ入るように言った。
「そんな風にほめていただくと、嬉しいんですが、その分プレーができなくなったときの自分に、何が残るのだろうという不安もつきまといます」
 星野は首をかしげながらこたえる。
「もちろん喪失感は少なからずあるでしょうが、精一杯やって結果も残したという充実感のほうが上回るんじゃないでしょうか。
 自分のアイデンティティーを支える確固たる何かがある、また、あったという人はほんの一握りでしょう。ほとんどの人は一生何もないままです。
 それでも、それなりに楽しく生きていますよ。深刻に憂える必要はないと思いますが……」
 多くのアスリートが胸に抱える「ずっとこれしかやってこなかったから、これしかできない。できなくなってから、そのあとの人生が考えられない」という「ありがちな不安」には、あまり興味がなかったので、星野はあえて鈍感になり、少し軽薄な素振りで誤魔化した。

 椎名は苦笑した。
 これまでも弱音を吐くたびに聞かされてきた、部外者の善意にも悪意にも受け取れるような助言のニュアンスに対してである。
『……善意であれ悪意であれ、自分の弱音は、同情して慰める価値などない「贅沢な悩み」だとたしなめられているのだ。
 普通の人は願っても叶えられない栄光に、わずかでも包まれるのだから、それで十分だろうということだ。それ以下を怖れたり、それ以上を望んだりするのは、贅沢なことなのだ。
 余力を残し引退した進藤の評判の悪さも、それと無関係ではないだろう。進藤は引退直後に資産家のパートナーとの婚約を発表していた。
 今後はビジネスの世界での飛躍を目指すという。
 そんな進藤への風当たりが強い。世間は、アスリートとして手にした栄光とひきかえに、梶さんの右目のような代価を要求するのだろうか。
 以前なら自分の悩みを贅沢だと人から言われると、自尊心がくすぐられて不安から逃れられることもあったが、今は到底そんな気にはなれない。
 今は自分を取り巻く環境の急激な悪化に、みじめに震えているだけだ。
 このスタジオもそう。スタッフの人たちの淡白な視線にはぞっとする。
 これほどの無関心は、故障前には考えられなかったことだ。
 星野さんにしてもそう。次のゲストを迎える来週の収録日になれば、自分はすでに「過去の人」となる。
 来週になっても、自分の人生は過去にはならない。続くのだ……』
 椎名は、自分は喋りすぎていると後悔した。

 星野は、憤りと自戒ともに椎名との対談を終えた。
 憤りは「旬でもなく不動の地位も確立していないゲスト」への無関心からくる礼を欠いたスタッフの態度に対してのものである。
 故障前の椎名であればスタッフの態度は違ったはずで、その「正直さ」がたまらなかった。
 ただ今の星野には、椎名への面映ゆい思い入れがあるので、それはまるで自分の恋人を周囲にないがしろにされたような気がする過敏な憤りであり、それがゆえに声高には抗議しづらい感情だった。
 しかたなく、星野は不機嫌になった。
 そうした憤りの裏返しとして、自戒の念が生まれた。
『本当は、自分だって浮気な性分なのだ。
 心変わりが人より少し早い、もしくは、少し遅いというにすぎない。
 その「時差」から生まれる感慨のギャップが、人から慧眼などと呼ばれている要因で、それこそが私の仕事の生命線なのだ。
 「旬」を提供するのがこの業界の仕事であり、見定めるある程度の基準があるから、時差を利用したアレンジも可能となる。
 スタッフは旬の基準を見失いたくないだけだ。
 アレンジが過ぎれば、世間の蒙を啓くなどと評価されている慧眼も、ただの鬱陶しい独善に変わってしまう。
 今は違うが、しばらくすれば私も世間と苦もなく歩調を合わせ、椎名より多岐川のほうを好きになっているだろう。
 今回の場合は、心変わりが人より少し遅いのだ。
 愛すべき椎名のことを忘れるわけではない。いや、今後、何もなければ、忘れてしまうかもしれない……。
 椎名の記憶が色褪せる前に、この恋心を形に残そう。
 ラブレターのようなエッセイがいい。
 題名は「美しい獣の憂鬱」というところか』

 収録から数日後、放送を聴いた椎名は、自分の明るさに驚いた。
 笑い声の絶えないスタジオで、(星野が繰り出すお世辞に照れながらも)自分は大いに語り、(控えめではあるものの)自分の才能を過信するような発言までしている。
 そんなはずはないが……。記憶にはなくても「理解者」に甘えて浮かれ、今現在の自分ではなく、そうありたい自分を演じていたのだろうか。
 そんなはずはないが……。
 すべて聴き終えて、やっと椎名は気づいた。
 自分の明るさは、収録後の「編集」によってつくられたものだと。
 これまでも言動の一部を切り取られた、納得のいかない新聞や雑誌の報道に困惑したことは何度もあった。
 しかし、かなりの時間を割いて自分自身で話した言葉ですら、編集次第で本人の記憶の心象とまるで違ったものに生まれ変わるとは……。
 椎名は淡白な視線で自分を見ていたスタッフたちの顔を思い返しながら、半ば呆れ、半ばその手腕に感心した。
 本人にしかわからない違和感がほかの人に届くはずもなく、放送を聴いた知人や友人からは「元気そうな椎名に安心した」という旨の連絡がたくさん寄せられた。
 心配をかけることが忍びない椎名としては、周囲の「誤解を正解として」受け入れるしかなかった。

 結局、星野との対話を椎名は後悔した。
『星野さんが示してくれた好意的な解釈は、どれも「そうかもしれない」とまでは思うが、それだけのことだった。
 すべてあとづけの物語だった。巧みに言葉を尽くして彩られて、好き勝手に弄ばれる妄想の世界に過ぎない。
 つまり、実在する自分には無関係なことなのだ。
 星野さんが讃えてくれたのは、どれもストップモーションの姿。一瞬の姿や表情が、星野さんの「美学」に呼応したらしい。
 星野さんは口にこそしなかったが、もし今後も復活が叶わなかったなら、いっそのこと突然の事故死や謎の自殺などによって「椎名というお気に入りだった選手」に早世してほしいのではなかろうか?
 そうすれば、最後のストップモーションのピースが継ぎ足され、星野さん好みの悲劇的な美学が完成すると、どこかで期待しているのかもしれない。
 そんな期待には応えられない……』


(第七話につづく)https://note.com/sin_sen/n/ncdb0c8b173e1
(第五話はこちら)https://note.com/sin_sen/n/n09948341ba96


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