『選ばれる人』第七話(全十六話)

第二部

第七章 八年後の一夜


 多岐川が代表メンバーに初選抜されてから八年後。
 27歳になる多岐川は、代表チームのエースであり、一つ上の花井に次いで二番目の年長者になっていた。
 代表初選抜から四年後の秋には念願のプロリーグが発足、順調に観客動員数を伸ばし、瞬く間に選手たちの待遇は激変した。
 プロリーグが発足する直前の夏に、多岐川を主力とした日本代表チームがワールドカップ初出場という快挙を成し遂げたことが、プロ化および、その成功の最大の要因である。
 とにもかくにも、「ワールドカップ」は別格だったのだ。

 それまで日本人がテレビ中継で目にしてきた、グランプリやチャンピョンシリーズといった世界大会の「世界」は、名ばかりのものだった。
 まず、日本は常に主催国となり、無条件で出場する。
 ほかの出場国にも厳格な予選はなく、国内人気に準じた巧妙な出場枠制限が施されており、日本人になじみの深い欧米や身近なライバルとしての一部アジアのチームに出場権が与えられた。
 また、世界ランキング上位の強豪国は、オリンピックやワールドカップといったビックイベントの前年や直後の開催ということで、出場はしても準備やモチベーションに問題のあるチームが多かった。
 かててくわえて、主催国の日本が敗退した時点で(決勝戦ですら)テレビ中継はなくなる。
 要するにそれは「日本国内向けの世界大会」でしかなかったのである。
 当然、他国が主催する世界大会の場合、マスメディアはこれを黙殺した。

 そんな日本人向けの世界大会で自足していた日本人たちは、代表チームのワールドカップ初出場を(その価値がわからないので)漫然と喜んでいた。
 ところが、世界のあらゆる国々が概ね均等に参加して、長く厳しい予選を勝ち抜き、国の威信を賭けて戦うとまで壮語されて繰り広げられる「本当の世界大会」を観て愕然とする。
 それまでテレビ中継されてきた国際大会でベスト4だ準優勝だと浮かれていた代表チームの正式な世界ランキングは、50位以内にも入っていなかったのである。
 この国の位置を世界地図で示せと言われても途方に暮れてしまうような国々の名前がランキングのはるか上位に散在している。
 自分たちの属する経済先進諸国が並んだ見慣れた序列とは、まったく別のヒエラルキーがそこにあった。

 情報が隠蔽されていたのではない。競技の熱心なファンは知っていたが、そうでない日本人たちにとっては、シュガーコーティングされた情報だけで十分だったのだ。
 ところが代表チームのワールドカップの出場により、否応なく多くの人が「世界」を知ることとなる。そして、世界との「実力の差」だけではなく「競技人気の差」を知った。
 国内で「そこそこの人気」の競技が、世界では「絶大なる人気」を誇っていたのだ。情報過多を危惧される先進国に暮らしていながら、ことスポーツにおけるグローバルスタンダードの情報がすっぽり欠落していたという事実に、多くの日本人は何より愕然としたのである。

 また、経済後進国が世界ランキングの上位に散見されていることとは別に、やはり巨大なプロリーグは経済先進国に存在していた。
 そこでは、日本では見たことも聞いたこともないような選手が、名だたる経済先進国のクラブチームで、世界的なスターとして君臨していた。
 何も知らなかった人たちは、今さらながら、スポーツにおける世界の常識を目の当たりにし、羨望と嫉妬に身悶えた。
 国内にあるのは実業団リーグだけで、独立したプロリーグすらなかった。これでいいはずがない。
「世界に冠たる経済先進国でありながら、自国に絶大なる人気と巨大なプロリーグがないのはおかしい」
 というスノビッシュな気分が、国内の状況を変えた。

 それ以前の状況や対応がどうあれ、収益が見込めるとなれば、スポンサー企業はその大きさに比例して恥ずかしげもなく柔軟かつ迅速に動き出す。
 プロリーグ発足からわずか三年の間に、日本国内のファンの数と選手たちの平均年俸の桁がひとつ増えた。
 代表チームは、世界ランキングの急上昇までには至らないものの、本当の世界レベルの試合に堂々と臨めるだけの実力をつけた。
 海外のメディアからも注目されるようになり、「遅れてきた国」としては上出来だと評価されている。

 そしてこの夏、自国でのワールドカップが開催される。
 国際競技連盟が掲げている「政治的経済的な条件を満たした競技後進国への普及」の意向に合致した決定だった。
 八年前に選考の結果が発表された当時は、ほとんど無反応な国内とは裏腹に、海外からは開催国になることで出場権をアンフェアに買ったようなものだと猛烈な批判が起きた。
 そんな国際的な批判に抗する意味でも、予選から勝ち進み初出場を果たした前回大会の意義は大きかった。
 国と連盟の面子は土壇場で保たれ、さらにワールドカップに出場したことで、瞬く間に国内の人気にも火がついたのである。

 ワールドカップイヤーの春の一夜。
 日本で行われる国際強化試合のひとつを明後日に控えた夜に、代表チームが宿泊しているホテルの安部コーチの部屋に集合していたのは、主力となる多岐川、花井、松岡、真鍋の四人。
 六年前のオリンピックで注目され、若くして海外クラブチームへ移籍した松岡と真鍋は、海外リーグの日程を終え、昨日合流したばかりだった。
 そんないわゆる「海外組」と代表チームの中軸を担う「国内組」の多岐川と花井との情報交換のために、安部が四人を部屋に招いたのである。
「うらやましいなあ。あと5歳若かったらなあ」
 松岡や真鍋から、海外での華やかなプレー環境の話を聞くにつけ、花井は大仰に自分の年齢を嘆いた。
「花井さんなら、今からでも、多分、通用しますよ」
 花井と同様に陽性の松岡がこたえて一同を笑わせた。
 明け透けな物言いが嫌味にならない松岡に、さばけた花井が問い質す。
「多分って……。じゃあさ、多岐川ならどうよ?」
「多岐川さんならビッグクラブのレギュラーとして活躍できます。
 て言うか、毎年オファーは来てますよね?」
 多岐川の代わりに安部が頷き、花井がまたしても悔しがった。
「花井さんだって、その気になれば大丈夫ですよ」
 松岡は花井を慰め、真鍋に同意を求めた。
 真鍋が同意する。
「大丈夫ですよ。新田さんたちだって、まだバリバリ向こうでプレーされていますし。花井さんよりも年上ですよね」
「あのふたりは天才だから。いくら年齢が上だからって自分といっしょには考えられないでしょ」
 花井の言葉に、安部が微笑みながら頷く。
「多岐川さんは、どうして海外に移籍しないんですか?
 能力的な不安はありませんよね? 海外生活が嫌なんですか?
 たとえば将来、指導者とかになる場合に支障でもあるんですか?」
 松岡が詰め寄るように多岐川と安部に尋ねる。
 指導者としての将来についての勘繰りは安部が否定し、多岐川はその先をこたえた。
「自分が通用するかどうかの不安は国内にいても常にあるよ。
 選手なら誰だってあるんじゃないかな。新田さんたちだって……」
「そういう意味じゃなくてですね……」
 もどかしそうに松岡が遮り、多岐川がまたこたえる。
「うん。だから不安というか、いつ駄目になるかもしれないリスクを抱えても挑戦したいという強い憧れが、海外にはないの」
「国内にはあるんですか?」
 真鍋が尋ねた。
「あるというか、あった。憧れのチームがあって、憧れの選手たちがいて、いつか自分がそのなかでプレーするのを夢に見てたもん。
 でも海外にはそういう憧れがない。自分たちの若いころは、海外のリーグはまるで別世界で、憧れられるほどの情報もなかったし。
 松岡や真鍋とかは、専門チャンネルとかで早くから海外の試合や選手たちを観て育ったわけでしょ。時代の差だと思うな」
「多岐川さんが憧れていた、国内の選手って誰ですか?」
 さらなる真鍋の問いには、多岐川は間髪を入れずにこたえた。
「椎名さん。これは今でも。永遠の憧れの存在だな」
 若いふたりの反応が鈍い。多岐川が驚く。
「もしかして、知らない?」
 強ばった多岐川の口調に、松岡が慌てて弁解する。
「知ってますけど、近くでプレーとかを見たことがないから……」

 椎名は国内二部リーグで現役を続けていた。
 八年前のグランプリ以降は代表チームからも遠ざかり、四年前のワールドカップでも代表メンバーではなかったことから、松岡や真鍋など若い選手にとっては印象が希薄で、過去の国内名選手という程度の知識しか持ち合わせていなかった。
「アキレス腱を切るまでは、すごい選手だったんだけどね……」
 懐かしむように安部が言う。
「あのころの椎名さんは、実力も人気もすごかったな。選手たちの間でも、多岐川だけじゃなくて、みんな椎名さんに憧れたよ。
 でも、右と左、両方やっちゃったんですよね……」
 花井が、いつになく淋しげな口調で言った。
「うん、まず右のアキレス腱で、次の年は左の膝……」
 安部の言葉に花井は深くため息をついた。
 花井も以前、選手生命が危ぶまれる腰の大手術を経験していた。
「怪我は怖いよ、本当に。防ぎようのない怪我もあるけどさ、年齢には関係なく、体のケアだけはおろそかにしないほうがいい」
 花井の忠告に、危機感のない松岡と真鍋は曖昧に頷いた。
 多岐川は、松岡と真鍋の微妙な態度をよそに、今の椎名の好調さをしきりに安部と花井に話した。
 今から代表メンバーに復帰しても、十分に活躍できると力説する。
 多岐川の言うとおり、椎名が牽引した所属チームは、来季からの一部昇格が決まっていた。
 多岐川の話を安部と花井が傾聴している間、国内の二部リーグのことなど興味のない松岡と真鍋は時間を持て余し、先輩たちの話を一応は聞く振りをしながら、テーブルに並んだ果物を次々と口に運んだ。

 椎名の復調はさておき、多岐川の国内残留がいまだに納得できないでいる松岡が尋ねる。
「単純に世界最高峰の選手たちとプレーしたいと思いませんか?」
「今はハイレベルな国際試合も多いし、結構対戦はできるよ」
「対戦はできても、同じチームでプレーはできませんよね。
 海外のビッグクラブは、メンバー表を見ているだけでわくわくするようなドリームチームです。そのなかに入りたいとは思いませんか?」
「それは、まあ……」
「国内リーグが、世界レベルになればいいんじゃない?」
 花井が横やりを入れ、松岡が呆れる。
「笑えるほど厳しい外国人枠を設定している日本のリーグが、世界レベルになれるわけないじゃないですか。それに、嫌らしい話ですけど、向こうでは活躍さえできればたくさん報酬が得られます」
「すごいなと思うけど、国内リーグだってプロになる前とくらべれば、本当に夢のようだよ」
 多岐川の言葉に安部が頷いて、プロ化以前に選手たちが強いられたトップアスリートとしては不遇な生活の逸話を披露した。
 若いふたりは、軽妙な安部の話術に、時に声を上げて笑い、時に眉を顰めながら、にわかには信じがたい昔話を押し頂いた。
「実業団チームに入ってもまだ、学生時代の部活の延長という感覚のほうが強かったなあ」
 ワールドカップに出場した年にも、所属会社の六畳一間の独身寮に暮らしていた当時を思い返しながら、多岐川が言った。
「確かに。練習と試合の繰り返しの毎日が変わらないから、ずっと学生気分が抜けないというか、いつまでたっても一人前の社会人にはなれないような不安もあった」
 安部の記憶に、花井が同意しながら告白した。
「不安を越えて自分は劣等感を抱えていました。
 実業団チームは会社の全面サポートで成り立つわけだから、不況だったりすると、いくらチーム状態がよくても、やっぱり居心地が悪いでしょ。
 会社が大変なときにいい気なもんだって感じで。
 怪我をして戦列を離れたりすると、いよいよ自分の居場所がなくなって。
 腰の状態が最悪のときには、もう自分なんかこの世に存在する意味がないという気にさえなりましたから」
 過去のこととはいえ、花井の柄にもない吐露に誰もが驚いく。
 花井の膝に手を置きながら安部が言った。
「だから、今もオーナー企業のサポートは欠かせないけど、競技自体である程度の採算が見込めるようになったのは、何よりも選手にとって大きいことなんだよね。そういう意味では、海外の成熟したプロリーグの存在は刺激になるよね」

 安部の感慨を受けて、松岡と真鍋は身近に見聞きしているビッグクラブに所属する選手の破格の待遇について話した。
 まるで絵空事のようなふたりの話に、安部、花井、多岐川は大きな吐息を漏らすばかりだった。
 思い出したように花井が言った。
「でもさあ、海外選手の目まぐるしい移籍には、ちょっとうんざりするよ。
 シーズンオフの移籍市場なんていって、この選手をいくらで売って、あの選手をいくらで買ってとか、株や為替じゃあるまいし。
 選手をただの投機対象にするのはどうかと思う」
 松岡が言う。
「その辺はとてもシビアです。だから、ごくごく一部の選手を除いて、所属クラブや地域への愛着とかはもちづらいでしょうね……。
 ただ、妙なしがらみもないので、上昇志向の強い選手にとってはステップアップしやすい世界でもあります。
 とにかく、個人主義が強い世界なんですよ」
 真鍋が言う。
「個人主義じゃなくて資本主義だよ。
 最後には、個人の意思なんてお構いなしでお金だけがものを言ってる。
 いや、最初から最後までかな。それは徹底してると思うよ。それがプロだと言われればそれまでだけど……」
 松岡の解釈もわかり、同調しない真鍋の諦観もわかるが、そのどちらにも諸手を挙げては賛同できない安部が、少し俯き加減で言った。
「さっき松岡は、嫌らしい話ですけどって、高額な報酬の話をしたでしょ。
 だから移籍についても、お金だけを理由に動いたり動かされたりすることをどれだけ嫌らしいと思うかで、その人の抱えるストレスは変わってくるんだろうね。
 嫌らしいと思わなければ、そんな葛藤は生まれない。体が資本のビジネスとして割り切れるじゃない。
 でも、やっぱりスポーツの場合は、いくらプロだビジネスだといっても、お金とは別のところに根本的な価値があると思う。
 まあ、それでご飯を食べていくわけだから、高額な報酬はモチベーションの重要なファクターだけど、正直いちばんであってほしくない。
 たとえば、貧しい国や生活環境に生まれて、この競技を職業として選んだ理由は何よりもお金だったというのはわかる。
 でも、そんな人でも、競技を本気で続けていくうちにプライオリティーがお金を越えてしまうような何か……。その何かが最も重要で、それを失ってしまうと、スポーツがスポーツでなくなる気がする」

 四人は、俯き加減で安部が口にした(永遠に曖昧なまま温存しておきたいファーストプライオリティーとしての)「何か」について、おのがじし微妙な受け止めかたの違いこそあれ、無言で賛同していた。
 そして、賛同しているチームメイトや、賛同できている自分に、どこかでほっとしていた。
 お金を度外視しないなら、結局「嫌らしい話」は人まかせにしたいという無責任で卑怯な態度だと自分を責めることもできるが、露悪的になって開き直ることが、偽りのない正当な態度とも思えなかった。
『お金よりもプライオリティーの高い「何か」がある』
 この永遠に青く、気恥ずかしい不確かな思いは、周囲からの心ない嘲笑や批判にさらされて無闇に傷つけられないよう、いつも選手たちの胸の奥底にしまわれているのだ。
「金がすべてじゃないぜ、なんて言ってみたいねえ」
 花井が照れ隠しに慨嘆して見せる。
「それくらいは、もう言えるでしょ」
 松岡が返す。
「いや、今の貯金額じゃ、とてもとても」
 国内では指折りの高額年俸選手として知られる花井が、みんなの責められ役となっておどけた。
 久しぶりに屈託の無い笑い声を響かせながら、八年後の選ばれし者たちの夜が更けていった。


(第八話につづく)https://note.com/sin_sen/n/n2da124b0a4b1
(第六話はこちら)https://note.com/sin_sen/n/n51ff568bdd97

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