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なぜ大多数の国家で「資本主義」が採用されているのか?共産主義が崩壊した理由も解説

現在、ほとんどの国家が、「資本主義」という制度を採用している。(中国のような国も、実質的に「資本主義」を受け入れていると見なす。)

今回は、「なぜ資本主義が、実質的に唯一成功した社会制度なのか?」をテーマに論じていきたい。

また、それに関連して、「なぜ共産主義国家が崩壊したのか?」と、「なぜ開発独裁と言われる、独裁的な国家権力が経済を主導するやり方が、現在の発展途上国でよく行われているのか?」を説明する。


「競争(個人)」と「協力(集団)」

「なぜ資本主義が採用されているのか?」の結論を一言で言うなら、「バランスが良いから」だ。

「資本主義」という概念には、「競争」の要素と「協力」の要素の両方ともが含まれていて、それゆえに、バランスの取れた、多義的な性質のものであると考えることができる。

ここでは、説明のために、「競争」と「協力」を、あえて分けて考える。

当然ながら「競争のために協力する」こともあるが、ここではそれを「程度問題」と考え、「個人」が「自分のため」に競争するような状態であるほど、「競争」の側に寄り、「同じ仲間」として活動する規模が大きくなるほど、「協力」の側に寄ると考える。

ここで言う「競争」のわかりやすい例が、「学力テスト」や「スポーツ」だ。

「公平なルール」のもとに「個人」としての能力を競い合い、他人と比べられる相対的な差が発生し、「個人の能力」や「個人の成績」が明確になりやすいのが「競争」の特徴であるとする。

そして、主体が「個人」から「集団」になるほど、「協力」の側に寄っていくと考える。

なお、スポーツにも個人競技や団体競技があるが、ここで想定している「集団」は、もっとずっと大規模かつ長期的なスパンの、人口の再生産なども含めた社会集団全体のことを想定している。

「協力」のわかりやすい例が、例えば「戦争」だ。

「戦争」は、参加者の人数を揃えて「公平なルール」のもとで競い合うスポーツなどと違って、基本的には数が多いほうが強い。

ルールが整備された競技ではなく、生き残りをかけた殺し合いになるほど、数が多いほうが強く、「いかに個人の能力を高めるか」よりも、「いかに集団として協力できるか」が重視されることになり、それが「協力」の側に寄った状態であると考える。

また、「伝統」や「宗教」のようなものは、個人を集団の目的のために協力させ、長期的に集団を強くするゆえに、これまでの歴史において重視されてきたものと考えられる。

このように、「個人」よりも「集団」を重視する作用を、ここでは「協力」であるとしている。

「集団」が解体されて「個人」になるほど、「協力」から「競争」に寄っていくことになる。

つまり、ここでは、「競争」を重視すると「個人」を重視することになり、「協力」を重視すると「集団」を重視することになると考え、そうすると、学力テストやスポーツなどのメリトクラシーは「競争」の側になり、伝統や宗教やナショナリズムといったものは「協力」の側になる。


「公平な競争(ブレーキ)」と「不公平な協力(アクセル)」

「個人(競争)を重視するか?」「集団(協力)を重視するか?」という論点は、すでにこのnoteでいくつか記事を書いている。

これらの記事と重複する内容になるので、ここでは、今回の説明に必要なぶんだけを、詳細な説明は省いて概要だけ書くことにするが、その点にご留意いただきたい。

まず、人に与えられたリソースは有限であり、それを、「自分が勝つため使う(競争)」か「集団に貢献するために使う(協力)」かは、トレードオフの関係にある。

個人が自分自身のためにリソースを使うことが許される社会は、個人の自由と権利が尊重されていて、「正しい」社会であると言える。しかしその場合、「子供を産み育てること」や「インフラ・治安維持」のような社会に必要な仕事が軽視されるようになり、長期的には社会全体が衰退していく、「豊かにならない」社会になる。

一方で、自分のためではなく集団のためにリソースを使わせる圧力や規範が強く機能している、「伝統的な社会」や「ナショナリズムが強く機能した社会」は、全体のための仕事が評価されやすく、「豊かな」社会を目指しやすい状態かもしれない。しかしその場合、個人の自由や権利が尊重されないので「正しくない」社会になる。

つまり、「個人(競争)」を重視すると、「正しいが、豊かにならない」という問題があり、「集団(協力)」を重視すると、「豊かになるが、正しくない」という問題があることになる。

また、ここでは、「個人(競争)」を重視することが「ブレーキ」になり、「集団(協力)」を重視することが「アクセル」になると考える。

ただ、これについては、「競争を疑うのが難しい理由(近代的理性が本能を肯定するという話)」や「なぜビジネスは悪質になるのか?市場のルールが社会に与える影響について解説」で述べているので説明は省くが、この「アクセル」と「ブレーキ」は、個人の立場からすると、「あべこべ」に感じられるという特徴がある。

個人の主観(ミクロ)としては、「競争」に駆り立てられて自分が努力することは「アクセル」に感じられるが、それは社会全体(マクロ)では、「ブレーキ」になる。

逆に、個人の主観としては、「協力」を強制する社会に縛り付けられることは「ブレーキ」に感じられるが、それは社会全体では「アクセル」になる。

実際に今の社会は、受験勉強、資格試験、スキルアップ、創作、美容など、過去と比べて、より多くの人が努力して、自分を高めることにリソースを使っているが、社会集団全体として見れば、少子化やインフラの劣化などが進んでいて、持続可能性が危ぶまれるほど、集団が弱くなっている。

ここでは、個人にとって納得感のある「公平な競争」が、実は「ブレーキ」として作用して、理不尽に個人の自由を制限して集団に貢献させる「不公平な協力」が、実は「アクセル」として作用すると考える。

そして、「公平な競争(ブレーキ)」のほうには、「正しいが、豊かにならない」という問題があると考え、「不公平な協力(アクセル)」のほうには、「豊かになるが、正しくない」という問題があると考える。


「競争」として欠陥があるゆえに、資本主義は「豊かさ」を生み出す

なぜ、ここまでの話を説明してきたのかというと、「公平な競争(ブレーキ)」と、「不公平な協力(アクセル)」の、両方を併せ持つのが「資本主義」だからだ。

「資本主義」に、「競争というブレーキ」と「協力というアクセル」の両方が含まれる理由には、「貨幣」の性質が関係してくる。

まず、貨幣は、伝統的な社会に「公平な競争」をもたらす作用と言える。

伝統的な社会は、基本的には、「不公平な協力」を個人に強制するような社会だった。それに対して、市場経済(貨幣)が普及することで、「万人を平等に扱うルールのもと、より多くの貨幣を稼いだ者が、その貨幣を使うことで、より多くの分配を手にすることができる」という「公平な競争」がもたらされる。

しかしながら、市場は、「公平な競争」としては、欠陥が多い。

これは多くの人が実感しているだろうが、貨幣は、不公平に蓄積されていく。金を持っている人ほど金を稼ぎやすいからだ。

競争の結果として差が生じると、勝った人が次の競争でも有利になり、それが続いていけば、覆すことのできない「格差」が発生する。そうなると、もはや市場は「公平な競争」とは言えなくなる。

学力テストやスポーツのような競争も、「勝った者がますます勝ちやすくなる」傾向がないわけではないが、それらの競争の場合は、少なくともルール上は、試合が0対0から始まるなど、公平なスタート地点がゲームごとに設定される。

一方で市場競争の場合は、スタート地点から、ほとんど覆せないような大きな格差ができる。

「公平な競争」としては欠陥があるのが「市場」なのだが、それゆえに、「不公平な協力」という「アクセル(豊かさ)」が生じる余地がある。

資本蓄積によって力を得た大企業は、集団(企業)のために個人を強制的に働かせられるような力を持ち、実はこれが「豊かさ」に繋がる。

かつては「伝統的な社会」が「不公平な協力」を個人に強制していて、それに対して、市場が「公平な競争」を社会にもたらしたが、今度は市場競争の結果として格差が生じることで、再び「不公平な協力」が発生する。

ただ、これによって、資本主義は、伝統が解体されたあとでも、「公平な競争(ブレーキ)」と「不公平な協力(アクセル)」の両方を社会にもたらす。

ここでは、一般的にそう思われがちな、「競争が豊かさに繋がるので、競争を認める資本主義によって豊かになる」という考え方をせず、「競争の結果として協力が発生する」資本主義には、「アクセル」と「ブレーキ」の両方が備わっていて、それゆえに多くの国で受け入れられている、という見方をしている。

なお、資本主義において、「公平な競争」と「不公平な協力」を切り離すことはできない。競争の結果を否定すると、実質的に競争を認めないことになってしまうからだ。競争を認めるならば、それによって発生する差も認める必要がある。

もちろん、今の社会で、再分配をまったくしていない国はない。ただ、稼いだうち、国に取られるのが100%だと「社会主義」で、0%だと「資本主義」だとして、何%からがどっち……というのは意見が分かれるだろうが、原理的には、「競争の結果を認めることは格差を認めること」になる。

そして、「競争と、結果としての格差」の両方を、ある程度でも認める社会制度のことを、ここでは「資本主義」としている。


「同質性」が「豊かさ」に繋がる(市場であろうと政府支出であろうと)

ここまで、自由競争という「公平な競争」の結果として、資本蓄積という「不公平な協力」が発生するのが、「資本主義」の特徴である、という見方を提示してきた。

ここからは、「不公平な協力(アクセル)」こそが「豊かさ」に繋がる、という話をしたいと思う。

「アクセル」の作用は、大勢に共通するものを重視する「同質性」を高めようとする。つまり、「豊かさ」にとって重要なのは「同質性」なのだ。

「同じものを大量生産すると効率的」で、「オーダーメイドであるほどコストが高くなる」というのは、多くの人が感覚的に理解できると思う。

何らかの生産において、大規模かつ同質的な需要があって、それに応えるものを大量生産すれば「豊かさ」に繋がる。

例えば、インフラにおいて、電気や水道や交通などの同質的な需要があり、そのような全員が使うためのものを、国家が主導して一律で整えると、それによって社会は豊かになりやすい。

また、市場で店頭に並ぶ商品も、消費者の同質的な需要をもとに、資本蓄積によって大勢を協力させる力を持った大企業が生産に取り組むからこそ、それが「豊かさ」に繋がる。

つまり、「豊かさ」のためには「大規模な同質性」が必要で、それが国家主導で行われるか、市場のルールで行われるかは、どちらでも構わないということだ。

「同質性」が「豊かさ」に繋がることは、「人口の再生産」においても同じことが言える。

これについては、「現代人が結婚できなくなった(しなくなった)理由」という動画で詳しく述べているので詳細は省くが、伝統的な価値観は、「男らしさ」や「女らしさ」といった「同質性」に個人を当てはめようとしてきて、それは「正しくない」ものである一方で、それによって大多数の男女が結婚できて、社会が繁栄してきた。

集団がまとまって協力する「アクセル」のためには、「同質性」が必要だが、それは個人の個性を否定するものであるゆえに、「豊かになるが、正しくない」ということだ。

一方で、「個人を重視する競争(ブレーキ)」は、「同質性」と相反する、「差をつける」作用になる。

相対的な差が発生する競争への参加を認めると、「同質性」が解体されていき、ゆえに「ブレーキ」の作用になる。このような「ブレーキ」には、「正しいが、豊かにならない」という特徴がある。

同じ「市場」という場で行われることでも、「誰もが自分らしく働くことができる」みたいなキラキラしたものは「ブレーキ(正しさ)」になって、同質的な需要に応える大量生産のようなものが「アクセル(豊かさ)」になるのだ。

また、「政府の支出」に関しても、全員に同じように分配したり、大勢が使用するインフラを大規模に整備したりなど、「同質性」を重視する場合、それは「アクセル」として作用する。

一方で、何らかの弱者性を認められた者に優先的に資源を分配するような、人によって「差をつける」支出の仕方をすると、それは「ブレーキ」として作用する。

この、政府支出の分配を争う競争は、市場競争とはまた別の、「いかに弱者性を認められるか?」という「弱さを競う競争」であると考えることができる。

この「いかに弱いか?」を競う競争については、ここで論じると話が逸れるので、また別の記事で説明したいと思う。

ここまでで何が言いたかったのかというと、ここでは、「市場によるものか、国家によるものか?」という見方ではなく、「個人を重視するものか、集団を重視するものか?」という分け方をしているのだ。

「集団」が「アクセル」で「個人」が「ブレーキ」であり、「個人(ブレーキ)」が重視されるならば、「正しいが、豊かにならない」ものになって、「集団(アクセル)」が重視されるならば、「豊かになるが、正しくない」ものになる、という考え方をしている。

そしてそれは、「市場」によって行われようと「国家」が主導しようと、特に変わりはないということだ。

このように考えた場合、「正しさ」に反して「豊かさ」を重視するものの、典型的な例が「戦争」であると言える。

今の社会の「豊かさ」を支える多くの発見や仕組みは、戦争によって生み出されてきた。

戦争は、集団を強くするための「不公平な協力」を行う動機になり、それは「豊かさ」という点においては非常に強い「アクセル」として作用する。もちろんそれは「正しい」ことではないので、現代では否定されている。

かつては、国家権力によって戦争に勝つためのリソースの集中が行われ、それが「豊かさ」をリードしてきた。現在はそれを、市場における「資本蓄積(アクセル)」によって力を得た大企業やグローバル企業が行っている。

GoogleやAmazonのような超巨大なグローバル企業は、政治的な影響力を持って市場のルールに介入し、収奪的な形で事業を展開していて、もはや「公平な競争」を行っているわけではない。一方で、現代の「豊かさ」の最先端をリードしているのも、そのようなグローバル企業だ。

かつては、国家が「戦争に勝つ」という目的において「アクセル」を強めてきたのに対して、現代では、グローバル企業が、「資本を増やす(企業の影響力を強める)」という目的において、「アクセル」を強めている。

このようにして、市場においても「豊かさ」が生産されるのだが、その「豊かさ」は、「公平な競争」の部分ではなく、資本蓄積によって権力を得た巨大企業が、「不公平な協力」をするような部分によって成り立っている

ただ、これについてはまた別の機会に詳しく説明するつもりだが、市場(資本主義)は、差し引きでは「ブレーキ」として作用する。つまり、「資本主義」は、「ブレーキ」と「アクセル」の両方を持つものの、「ブレーキ」のほうが強めなのだ。

そうなる理由はいくつかあるのだが、「貨幣」には「普遍的(グローバル)」という性質があり、それが個人の自由と権利を重視する「ブレーキ」になることや、資本を蓄積させた巨大企業も、結局はその目的が「さらに貨幣を稼ぐこと」になりやすいこと、などが挙げられる。これについて、詳しくはまた別の機会に説明する。


「豊かさ」ではなく「正しさ」の欠如で共産主義国家が崩壊した

ここまで、「公平な競争」が「ブレーキ」になり、「不公平な協力」が「アクセル」になることを述べてきた。

ここでは、「なぜ共産主義が崩壊したのか?」については、「アクセル」が強すぎたことが原因だったと考える。

かつてのソ連のような共産主義国家は、「豊かさ(アクセル)」ではなく、「正しさ(ブレーキ)」が欠如した社会であり、それゆえに崩壊した。

共産主義国家が崩壊した理由として、一般的には、「生産性を向上させるインセンティブがなかったから」「個人の勤労意欲が低かったから」などと言われがちだ。

しかし、怠ける人間が多いからといって体制が崩壊するわけではない。今の世界にも、国民の勤労意欲が低い国はたくさんあるが、それが理由で政治体制が崩壊しているわけではない。

また、そもそも、当時のソ連は、市場で取引されたモノを数えるGDPのような観点ではともかく、「絶対的な生産」という観点では、調子が悪い国ではなかったと考えられる。

まず、ソ連は、国家が出生を奨励していて、同時期の先進国と比較して出生率が高い社会だった。

そして、宇宙開発や軍事開発において、アメリカのライバルだった。自由市場に組み込まれたときのロシアの本来のポテンシャルからすれば、当時のアメリカと対等に競い合っていたというのは、ありえないほどのプレゼンスの高さだったと言えるだろう。

かつてのソ連は、「不公平な協力」という「アクセル」が非常に強く機能していたし、共産主義は、「集団」を強くする社会体制だと考えられる。

そして、「集団」を重視する「アクセル」が強かったからこそ、そこに生きる個人からすると、我慢ならないような社会だった。

ソ連の崩壊の仕方は、「ブレーキ」が効いていなかった、という状況に近く、「自由を求める個人」によって体制が終わった。

このnoteの「なぜエッセンシャルワーカーの給料が低いのか?社会に必要な仕事が市場に評価されない理由」などの記事では、「アクセル」と「ブレーキ」の比喩において、「ブレーキ」の機能があるからこそ「アクセル」を強く踏める、と説明してきた。

市場という「ブレーキ」があるからこそ、近代国家のような大規模な集団を維持できるようになるのだ。

「ナショナリズム」は非常に強力な「アクセル」なので、市場という「ブレーキ」の作用がなければ破綻してしまいやすいということであり、ここでは、過去に共産主義国家が崩壊した理由を、「ブレーキ」の欠如であると考える。

ちなみに、学力テストやスポーツのような「メリトクラシー」も、「ブレーキ」として働く。

ソ連にも、出世競争のような「メリトクラシー(ブレーキ)」はあった。ただ、自由市場が果たす「ブレーキ」の役割を補えるほどではなかったということだ。

なお、この「アクセル」と「ブレーキ」の比喩で、中国のような国が、ある側面では、非常に強い個人主義・実力主義である理由も説明できると考えている。

基本的には、国家の規模が大きくなるほどガバナンスが難しくなるし、「ブレーキ」が必要になる。

そのため、中国は歴史的に、「科挙」という学力テストのような、個人を苛烈に競争させる「ブレーキ」の作用を発明してきた。


途上国が「アクセル」を強めようとする「開発独裁」

「開発独裁体制」と呼ばれるような、国家が強い権力を機能させて経済を主導するやり方についても触れようと思う。

ハンス・ロスリングによる『FACTFULNESS』という書籍では、2012年から2016年の間に経済が急拡大した国のうち、10カ国中9カ国が、民主主義のレベルがかなり低い国で、「民主的だから経済が発展するわけではない」ことが指摘されている。(参考:『FACTFULNESS』第8章「単純化本能」)

つまり、近年成長している途上国のほとんどは、「開発独裁」という国家が強権を奮うようなやり方によって経済を成長させているのだ。

ここまで説明してきたように、自由市場における「公平な競争」は「ブレーキ」の作用なので、途上国が真面目にそこに参加しても、いつまで経っても発展しない。

途上国が先進国にキャッチアップするためには、国家が強権を発揮して「アクセル」を強める必要があり、それは、自由に競争するよりもむしろ個人の自由を否定する、「開発独裁」という形になる。

「豊かさ」のためには、集団を不公平に協力させる「アクセル」を踏む必要があるのだ。

もっとも、経済成長することで「グローバル市場」に接続して、「個人」が自由や権利に目覚めることになるので、「開発独裁」によって発展していく国も、経済成長するほどその「アクセル」が弱まっていきやすい。


「資本主義」をめぐる様々な批判や擁護

今回は、資本主義が、「公平な競争」という「ブレーキ(正しさ)」と、「不公平な協力」という「アクセル(豊かさ)」の両方を兼ね備えたものであることを説明してきた。

そして、資本主義が両方を備えているゆえに、資本主義を「肯定」する意見にしても「否定」する意見にしても、「自由競争」という「正しさ」の部分を見るか、「資本蓄積」という「豊かさ」の部分を見るかで、意見がまったく正反対のものになることがある。

例えば、

  • 「競争」の部分を見て資本主義を「肯定」するなら、資本主義は、個人の自由と権利を認める作用になる

  • 「競争」の部分を見て資本主義を「否定」するなら、競争によって生活が苦しくなることが問題視される

  • 「協力」の部分を見て資本主義を「肯定」するなら、大企業やグローバル企業などが豊かさに繋がるものを生み出している

  • 「協力」の部分を見て資本主義を「否定」するなら、不公平な格差が生じていることが問題だ、となりやすい

このように、資本主義を肯定するにしても否定するにしても、「競争」という「正しさ」の部分を見るか、「協力」という「豊かさ」の部分を見るかで、まったく異なる批判や擁護が生じることになる。

資本主義に、このような多義的な側面があるゆえに、「競争によって豊かになる」という勘違いも、非常によくある。

この動画では、よくある、「競争によって全体が豊かになっているが、格差があって一部の人間が富を専有しているから、生活が苦しい人がいる」といった意見を否定している。

実際には、格差のような不公平が「豊かさ」の源泉で、競争が過剰になることで生活が苦しくなる。

もし仮に、資本蓄積による「不公平な協力」の部分がすべて切り崩されて、大企業などがなくなり、全員が「公平な競争」にリソースを使うような社会になったとして、今よりもずっと貧しくて苦しい社会になるだろう。

しかし、だからといって、「もっと格差を増やそう」と主張したいわけではない。

これは、「なぜエッセンシャルワーカーの給料が低いのか?社会に必要な仕事が市場に評価されない理由」などの他の記事で説明したことだが、「市場のルール」は社会にとって重要な仕事を評価できない。ゆえに、市場での格差を増やせば問題が解決するとは考えない。

「経済格差を作る」とは別のやり方で、社会を「競争(ブレーキ)」から「協力(アクセル)」に寄せていこうとするとして、「国家」にはそれをできる可能性がある。

累進課税で税金を取って、べーシックインカムという差をつくらない形で全員に配れば、それは、「競争」を弱めて「協力」を強めようとする試みになる。市場競争が作り出す差を否定して、国民という「同質性」を重視することになるからだ。

ただ、現在は国家の支出先をめぐっても、「いかに弱者性を認められるか?」という「競争」が起こっていて、それによって「正しいが、豊かにならない」ような「ブレーキ」が過剰な社会になっている。

今回はすでに長くなっているので、この「弱さを競う競争」の問題については、また以降の記事で説明していくつもりだ。


まとめ

  • ここでは「資本主義」を、「個人を重視する競争」と「集団を重視する協力」の両方を含む、バランスの良いシステムであると考える。

  • ここでは、「競争」と「協力」をあえて分けて考え、「個人」を重視すると「競争」が避けられず、「協力」をしようとするほど「集団」を重視しなければならない、と考える。

  • 「個人」の自由と権利を尊重することで発生する「公平な競争」は、「ブレーキ」として作用し、「正しいが、豊かにならない」という問題がある。

  • 「集団」を強くしていくために必要な「不公平な協力」は、「アクセル」として作用し、「豊かになるが、正しくない」という問題がある。

  • 貨幣は、不公平に蓄積していき、覆すことのできない格差が生まれる。「市場競争」は、「公平な競争」としては欠陥があるのだが、それゆえに、「資本蓄積」という「不公平な協力」が発生する余地がある。

  • 「豊かさ」にとって重要なのは、「大規模な同質性」に向けて生産しようとすることであり、それは、インフラ整備のように国家主導で行われようと、市場による大企業の大量生産という形で行われようと、違いはない。

  • ここでは、「市場か、政府か」という見方ではなく、「個人(競争)か、集団(協力)か」という見方をしている。そして資本主義には、「個人を重視する競争(ブレーキ)」と「集団を重視する協力(アクセル)」の両方の要素が含まれると考える。

  • 「共産主義」は、一般に思われているような「豊かさ(アクセル)」の欠如ではなく、「正しさ(ブレーキ)」の欠如によって崩壊した。

  • 「開発独裁体制」は、途上国が先進国にキャッチアップしようとするやり方で、それは、個人の自由を制限して「不公平な協力(アクセル)」を強める形になりやすい。

  • 資本主義に対する批判や擁護は、「自由競争(正しさ)」と「資本蓄積(豊かさ)」のどちらに着目するかで、まったく異なったものになる。このように資本主義が多義的であるゆえに、「競争によって豊かになる」という勘違いが発生しやすいが、ここでは、「競争(個人)」はむしろ「豊かさ」に反するもので、「協力(集団)」が「豊かさ」に繋がると考える。


今回は以上になります。

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