偽憎代稿(五)
前話↓
「もう来ない方が良いですよ、この山」
楽しかったはずの車内の空気が、一気に冷え込み、静まり返った。滂沱のごとき雨が窓を打ち付ける音と、ワイパーの擦れる音だけが、車内に響いている。
体に悪寒が走った。俺は反射的に冷房の風向きを自分から外した。
この山に来るな。
……なぜ?
それは、単純に土砂崩れで危ないからとか、そういう土壌や環境の問題ではないんだろう――ということは直感できた。
直感、できてしまった。
……リサの、異常なまでの軽装。そして異常なまでの外への視線。そう思う材料は、充分に揃っていた。
「……一体、どういう」
俺は意を決してリサに尋ねる。
「どうもこうもありません」リサは、そう答えた。「この山にはもう来ない方が――いえ、いっそできるだけ関わらない方が良いです。この夜の出来事も、私との出会いも会話も、人に話さずさっさと忘れた方が良いですよ」
……リサのその言葉は、有無を言わせない凄みがあった……ように思う。
「…………リサさん。あなた――」
思わず尋ねそうになって、口をつぐむ。
そんな俺の行動に、リサは微笑んでいた。
そう――微笑んでいた。
「そうです。私のことも詮索しない方が良いですよ。とにかくこの山には関わらないことです。私との会話を思い出さないでおく、ということも含めて」
……リサという女は、この山について何か知っている。
そして恐らくは、山に関わったがために、何か起きてしまったのでは――そんな妄想にも似たことを考えていると、リサが。
「あっ、ようやく山を出られそうですよ」
と、言った。
実際、目の前が急に開けて、街灯がぽつぽつと見え始めた。店も家屋も暗いままで、少し先に見えるコンビニの看板が目立っている。
コンビニに着くまで、リサとはそれきり会話がなかった。というか、会話をしようにも、車内の空気はすっかり冷えてしまっていた。
2分。
山を降りてからコンビニに着くまでのその時間は、俺にとってひどく長く感じられた。
コンビニの駐車場に着く。なるべく入り口に近い位置につけてから、車を止めた。
「……着きましたよ」
俺は言った。喉が渇いていて、うまく声を出せたか分からない。
リサは、そんな俺に微笑みながら礼をする。
「ありがとうございます。お蔭で助かりました。退屈でなかったのなら良いのですが――」
「いえ、全然」
俺は辛うじて微笑んだ。
退屈はしなかった。
楽しさもどこかへ行ってしまった。
俺の中に残ったのは、ただ、気味悪さ。
「とりあえず、お気をつけて」
「はい。本当にありがとうございました。あなたも、お気をつけて」
リサはそう言ってドアを閉める。コンビニの入り口前に立って、俺に向かって手を振るのが、バックミラー越しに見える。
俺はすぐに発進させた。
もうバックミラーは見なかった。振り返りもしなかった。
というかもう、したくなかった。
さっきバックミラーを見た時。
コンビニの自動ドアが、リサに反応していなかった。
これでもう一度振り返って、リサが忽然と消えていたら――想像しただけで悍ましい。
*
「ヒロシさ、ヒッチハイクの怪談って知ってる?」
……あの後。
俺は仕事の休憩中にこの不思議な体験の話をした。胸中に留めるには、この話は重すぎる。
それを全て聞いた同僚が言ったのが、ヒッチハイクの怪談を知ってるか、という質問だった。
「ヒッチハイクの怪談……」
「知らねえのか」
驚きをもって同僚が答えた。そういうジャンルの話を聞いてこなかったから、この時本当に俺は知らなかったのだ。
「ほら。暗い道を走っていたら、ヒッチハイクをする謎の女が立っていて。その女を乗せて変なところに連れてかれて――って話」
そういやコイツ、こういう話が好きだったな……と思い出した。
「ここから先の展開は色んな派生があるな。崖まで連れてかれて突き落とされたり。目的地に着いたら女がいなくて、雨も降ってない日だったのにじっとりと座席シートが濡れてたり」
「そんな話があるんだな」
「ああ。でもヒロシのパターンは初めてだよ。目的地までちゃんと辿り着いて、しかも何もなかったパターンなんて。座席シートが濡れてる、なんてこともなかったんだろ?」
俺は頷く。
「謎だよな」同僚は腕を組んだ。「だってその幽霊、結局何がしたかったか分からないじゃん。さっき俺が派生で話した展開は、ちゃんと理由めいたものが提示されたり、想像できたりするんだよ」
「理由?」
「例えば、突き落とされる系だと男に何か恨みを持っていて、幽霊になって正気を喪ったから何でもかんでも道連れにしようとしていた――とか。目的地着いたら消えてるパターンも、そこで女性の身に何かが起きてて、遺体を見つけて埋葬して欲しいとか、事件解決の糸口にして欲しいとか、そういった何かしらのメッセージを伝えようとしていたとも捉えられる」
でも、リサはそうではなかった。
「窓の外を見ていたり、山が危険だと言ったり。そんな無害なことをしていただけで、リサって女性は特に何もしてこなかった。目的地に着いても車から降りて、追いかけて来ることもなかった。お前も無事に帰ってきた。……あの女の目的は何だったんだろうな」
「……例えば、さ」
俺は、何となく思いついた嫌な想像を口にする。
「家に着いてくる、みたいなパターンも……あったりするのか?」
「ふふ。
案外、今後ろにいたりしてな」
バッ、と振り向いた。
当然――何もいない。
「……ごめんって」
同僚は謝っていた。それ程俺は今、怒った顔をしているらしい。
「……いや、こっちこそ」
俺も謝った。元はと言えば、自分で振った話題だ。
「ともかく、だ」バツが悪そうにしながら、同僚はこう言って締め括る。「お前がやることはシンプルだよ、ヒロシ――もう、あの山に関わるのはやめとけ。キャンプするなら、他に良い山なんかいくらでもあるよ」
俺は、ただ頷いた。
アパートに帰宅。郵便ボックスに異常なし。辺りを警戒しながら階段を上って部屋に入り、しっかり鍵をかけ、チェーンもかける。
何もなかった。
誰もいなかった。
大丈夫、大丈夫……自分にそう言い聞かせながら、冷房をつける。エアコンの配管からゴポゴポ音が響く。何かが溺れているような、嫌な音。
スーパーで買った割引弁当と野菜ジュースを机の上に出す。割り箸を割ろうとして、途中で折れてしまった。仕方なく、割り箸は捨てて自宅の箸を使う。
俺は唐揚げを、白米を、柴漬けを、野菜ジュースを口に運ぶ。味をうまく感じられない。感じられるものか。
俺は、あの山のことを忘れられない。リサのことも。あんな出来事、忘れろという方が無理な話だ。
ただ、忘れる努力はしてみることにしよう。リサが仄めかしていたように、何かが起きないように。
弁当のゴミを捨てる。それから風呂を入れてさっさと寝よう。色々なことがありすぎて疲れた。
こういう時はまず、温かい湯にでも浸かってゆっくりするに限る。
立ち上がって給湯器のスイッ
ぴんぽーーーーん。
……インターホンが、鳴った。
現在時刻、19時半。
宅配便を頼んでもいない。こんな夜に来客の予定なんてあるはずもない。
「家に着いてくる、みたいなパターンも……あったりするのか?」
「ふふ。案外、今後ろにいたりしてな」
昼頃の同僚との会話を思い出す。
まさか――本当に?
あの出来事を忘れていないから、来たとでも?
訳がわからない。
――呼吸が、浅くなる。俺はなんとか立ち上がり、玄関に行く。
ドアの鍵もチェーンも、ちゃんと閉まっている。それを改めて確認してから、俺は恐る恐るドアスコープを覗いた。
ドアスコープの向こうに見えたのは。
充血した眼。
「わあああああっ!?!?」
尻餅をつく。
その瞬間、ドンドン、と扉を叩く音。
そして。
かえせぇ。
かえせぇ。
という、男の声。
リサとは似ても似つかない、野太い男の声だ。
……誰だ。
お前は、誰なんだ。
かえせ、って何なんだ。
それを尋ねたいが、喉が引き攣って声が出ない。
ドアレバーがガチャガチャと鳴る。
悲鳴も上げられずに、俺は這ってリビングまで戻る。
かえせぇ。
かえせぇ。
男は、俺の部屋のドアを開けようと試みている。だが、開く訳がない。
そのうち男は諦めたのか、しん、と静まり返った。ただ、ドアを開ける勇気も、ましてやドアスコープを覗く勇気も、俺にはなかった。
どうして。
どうして、こんなことに。
俺は、リサを拾ってコンビニまで届けただけなのに――
…………それこそが、良くなかったのでは?
ふと、思い付きのように、そんな考えが頭をよぎった。
もしかして。
リサをコンビニに届けたこと――違った視点から言えば、山から連れ出したことが、良くなかったのか?
かえせ、と男が言っていたのは、リサを返せ、ということなのではないか?
それは裏を返せば、リサはこの男に追いかけられていた、ということで。
――あの女の目的は何だったんだろうな。
同僚の言葉が甦る。
リサが窓の外をじっと観ていた意味は。
去り際に「あなたも、お気をつけて」とか言っていたのは。
リサの目的は――
……ふと気づくと、しん、と静まり返っていた。あれだけ鳴っていたドアレバーも、あの野太い声もなくなっていた。
ひとまず、帰ったか――俺は安堵す
かえせぇ
――背後から、声がした。
鍵のかかったドアの向こうにいたはずの、野太い、男の
つづく
