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偽憎代稿(四)

前話↓

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かえせ

鳥河烏

 不思議な体験をしたその日は、確かに梅雨入りの日だった。
 フロントガラスをバタバタ打ち付ける雨をワイパーで払いながら、山道を車で走っていた。じめっとした梅雨の空気を冷房でごまかすが、クーラーボックスから取った缶コーヒーは、正直にぽたり、ぽたりと露を垂らしている。
 くそ、もっと後じゃなかったのか梅雨入りは――俺は記憶の中のお天気お姉さんに毒づく。しかし毒づいたって始まらないし、こんな暗い山の中に居続ける気も毛頭ない。後部座席でカタカタ鳴るキャンプ道具を、ミラー越しに見ながら、慎重にハンドルを切って進んでいた。
 とにかくこの山道を抜けなくては。
 街灯の極端に少ない暗い道を、ヘッドライトで照らす。雨でキラキラと反射して、道が見えづらい。俺はアクセルを気持ち緩めた。

 その時だった。
 ライトに照らされた先に、傘を差した人影がぼうっと浮かび上がったのは。

 跳ねる心臓を抑えんと深呼吸する。こんな所で運転をミスれば、待ち受けるのは死あるのみ。
 見間違いか?
 俺はもう一度、ライトの先を見た。しかし確かに人影が1つ、立っていた。
 こんな夜、しかも雨の激しい山道に、人? 何をしに――と思いはしたものの、流石に只事ではない事態に、俺は思わず車を止めてしまった。
 人影が、くるり、とこちらを向いた――気がした。影になっていて、輪郭が分かってもどこが顔だかも分からないのだ。そんな俺のところに、人影が歩いて近づいてくる。
 女性だった。
 女性が、こんな暗い山道に、ポツンと立っていたのだ。
 ……なぜ?
 驚いて固まっていると、いつの間にか女性は俺の車の窓を、優しくコンコンと叩いていた。
 俺は観念して、窓ガラスを開ける。
「だ、大丈夫……じゃ、ないですよね」
 俺の言葉に、女性は頷く。随分切羽詰まった様子だった。
「ええ。お願いです。私を薄木町のコンビニまで連れて行ってくれませんか?」
 薄木町。山の麓にある町だ。そこには確かに2〜3件コンビニがある――昼頃、この山道に登る前に缶コーヒーを買っていたのだからよく覚えている。
 コンビニまで、というのなら別に長くもない道のりだし、第一こんな夜中に女性1人を放っておけない。そう思った俺は快諾し、傘をした女性を後部座席に乗せた。少し肩の辺りが濡れているのに気づいて、冷房を弱める。
「入ってください。狭いですけど……あ、後部座席にリュックがあるでしょう。そう、それです。その中にタオルが入ってますから、それで濡れたところは拭いてしまってください」
「あ、ありがとうございます」
 ぺこりと礼をする彼女。その顔は、案外可愛らしい――俺はアクセルを踏んだ。別にそういうこと・・・・・・のために乗せたんじゃない。
「本当に助かりました」改めて女性は礼をする。礼儀正しい。「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「良いですよ。どうせ俺も山を降りるところでしたし」
「ありがとうございます……何とお礼をしたら良いのか」
「良いですよお礼なんて」
「でも」
 女性は食い下がらない。命が助かったも同然な彼女にとって、俺に何か恩を返さないと気が済まないのだろう。
 だったら、と俺は女性に言う。
「運転中、俺の話相手になってください。結構ここの夜道、通るには心細かったですから」
「……そんなので良いんですか?」
 きょとんとする女性。俺は再度頷いた。女性の命が助かっただけで良かった、と俺は思っているし、第一、遭難しかかった(と思しき)女性からこれ以上何かをとるのは、俺の良心が傷む。
「で、では……」
 戸惑いながらも女性は、俺の言葉を受け入れてくれた。
「そしたら、まず……お名前を」
「ああ。ヒロシでいいよ」
「ヒロシさん……私はリサって言います。運転、お願いします」
「ああ」
 ふふ、とリサが可愛らしく微笑む。それから窓の外に視線を移し、じっと暗がりの山を見ているのが、インナーミラー越しに分かる。
「ところで」と、リサは外に目を向けたまま尋ねてきた。「キャンプ、しに来たんですか? この雨の中」
「……そうなんですよ、この雨の中。本当はここの上のキャンプ場で、一晩明かすつもりだったんですけど」
「災難でしたね……まあ、山は気紛れですから――」

 ――と、それからしばらく、他愛もない話を幾らか交わした。
 会話は楽しかった。それは女性が会話を途切れさせないよう話題を振ってくれたり、しっかり反応したりしてくれたからだと思っている。
 ……一方で、俺は喉の奥に、この質問を必死に押し込めていた。

 どうして、夜の山道なんかに?

 彼女は明らかに登山客ではない。どころか、山に入る服装ではない。サンダルにワンピース。おまけにリュックはおろか手提げカバン1つ持っていない。
 それにこの会話中、彼女はじっ、と窓の外を見つめていた。俺との会話がつまらないのかと思うが、そんな雰囲気はない。ころころと笑い、話題も振り、時にしっかり応答しながら、しかし目線だけは暗い山道を向いている。
 ……俺は、もしかしたら彼女はもう、この世の人ではないのでは、と思っていた。
 その仮定がもし正解ならば、とてもじゃないが、「どうして、夜の山道なんかに?」とは訊けなかった。これが何かのトリガーになるかもしれない……そんな直感的恐怖が、じっとりと俺を蝕んでいる。
 ハンドルを握る手が汗ばむ。この汗は絶対、冷房を弱めたからだけではない。
「……やっぱり夜の山道って不気味ですね」
 俺はなんとか、口に出してもおかしくなさそうな話題を振る。
「灯りがもう少しあると良いんですけど」
「逆によくこんな暗がりの道を降りようと思いましたね」
 ……至極真っ当な意見だ。俺は今まさに、山を降りずに大人しく車中泊すれば良かったと後悔している。
「お蔭で私は助かったわけですけど」
 ふふ、とリサは可愛らしく微笑む。
 ……複雑な気分だ。
「まあ、でも」
 と。
 窓の外をずっと見ていたリサは、突然ぐるりとこちらの方を向く。
 そして。





「もう来ない方が良いですよ、この山」

 急に、声のトーンを落として、そう言った。


つづく

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