偽憎代稿(七)
前話↓
それから1週間経ったある日。
授業中に、ヒロシがガタッ、と席を立った。あまりに勢いよく立ち上がったから、結構大きな音が鳴って、みんなヒロシに注目する。
問題児であることは分かってたので、先生も慣れたもので「ヒロシさん。授業中は座って静かに受けなさい」と叱った。
けど、ヒロシは。
座ることも、笑うことも、反抗することさえもせず、ただ目を見開いたまま黙って立っていた。
ぼくから見ても異様だったけど、先生はいつもの悪ふざけだと思って「ヒロシさん!」と少し大きな声で怒る。
だけど、ヒロシは何も答えない。むしろ目線を右に、左にと、キョロキョロし始めた。ぼくたちを、眺め回すように。
それだけじゃない――まるでグラウンドを思いっきり走ったかのように、息が上がってて汗もかいてる。
「……ヒロシさん?」
流石にちょっと異様だと思った先生は、少しトーンを落としてヒロシに尋ねる。ヒロシは、そこでハッと我に返ったのか、「な、なんでもねーよ……」と言って席に再び座った。その声は明らかに震えてたけど、先生は溜息をつき、「後で職員室に来なさい」と一言言ってから授業に戻った。
授業中、ヒロシはひたすら目線を下に伏せ、耳を塞いでいた。先生は注意する気も失せているのか、特に何も言わない。そしてチャイムが鳴って、ヒロシは職員室に連れられて行った。
*
業間休みを経て、次は家庭科の授業。
ぼくだけじゃなく、みんなこの時間を楽しみにしていた――そう、この日は初めての調理実習。教室でイスに座って授業を受けるぼくたちにとっては、非日常。ワクワクしないわけがなかった。
「今日の調理実習は、前回お知らせした通り、鶏肉野菜炒めです。分量を守る、切る、焼く――料理の基本を、しっかり体験してもらおうと思います。みなさんの中には料理をしたことがない人もいるでしょうから――」
とかいう先生の話も、どこか右から左にサーっと抜けていく感覚がする。他の人も同じような感じで、家庭科室のふいんきはどこかフワフワとしていた。
……していたのだけど。
そう思いながら、ぼくは離れたところに座るヒロシの方を見る。さっき授業で変な行動をとった彼は、今もどこか変な感じがする。なんというか、これを「うわの空」って言うんだろうか――
「――では、包丁の扱いにも十分気をつけて、料理してください。くれぐれも、人に包丁とか食器を向けないように。いいですね?」
はーい、という合唱の後、ワッと家庭科室が盛り上がった。調理実習の始まりだ。
まずは野菜担当と鶏肉担当、焼く担当を決めることになった。鶏肉を切るのはぼくの担当になった。ぐにぐにして気持ち悪いから、という理由で女子はやりたがらなかったし、他の人も焼くのをやりたがったので、自然ぼくが鶏肉担当になった。まあぶっちゃけ、ぼくはどれでも良かったから、文句はない。
鶏肉を手に取る。ヌメヌメしているけれど、冷たくて心地良い。柔らかな薄いピンク色の肉に、猫の手で手を添えて、包丁を入れる。サクッ、と肉が切れる音。これがとても心地良い――
「っ、うわあああああああっ!!」
その瞬間だった。
絶叫が聞こえてきた――続けてイスが倒れる音も。
振り向くまでもない。ヒロシの仕業だ。
ワイワイしていた家庭科室の空気が、ヘンな感じになる。
「……ヒロシさん?」
家庭科室の先生が困った顔をして近寄ろうとすると、ヒロシはハッと我にかえるように、「なんでもねえよ!」と包丁を握り直す。その目の前には、鶏肉。
「なんでもねえ……」
その鶏肉めがけて、ヒロシは包丁を振り下ろす。そんなめちゃくちゃな切り方じゃ、とうてい切れる訳がない。
「なんでもねえ」
そうしてヒロシは。
「なんでもねえ!」
何度も、何度も。
「なんでも、ねえ……!!」
鶏肉に、包丁を振り下ろす。
振り下ろして、振り下ろして、振り下ろす。
「やめなさい!」
家庭科の先生が叱った。
「そんな包丁の使い方! 危ないでしょう!」
それでもヒロシは鶏肉に包丁を振り下ろす。だけど、その包丁の勢いが強すぎたのだろう――鶏肉のぬめぬめで包丁がつるんと滑り、鶏肉の下に敷かれたまな板と包丁が、タン、とぶつかる。
それでヒロシは、ハッと我に返ったみたいだった。家庭科の先生は、ヒロシの手首をつかむ。
「ヒロシさん! 包丁の使い方は教えたとおりにしなさい!」
「……」
「返事は!」
「……はい」
そうして大人しくなったヒロシは、残りの調理実習を見学参加にされていた。かわいそうに、でもジゴージトクだぜ、とヒロシに冷たい目が向けられる。でも、ヒロシはそれすら気にしていない様子だったし、というよりもそもそも様子がおかしかった――体育座りになって、耳を塞いで、顔は明らかに真っ青。
一体どうしたというのだろう。
そんな疑問は持つけど、調理実習を進めていく内、ワイワイした感じが部屋全体に戻ってきた感じもして、ヒロシのことはそんなに気にしなくなってきた。
そうこうしている内に、鶏肉の野菜炒めができた。皿に盛りつけ、班ごとに全員に配られる――それは、ヒロシのいる班も同じだった。みんな、ヒロシに渡すのに嫌そうな顔をしていたけど、先生が言ったのでしぶしぶ渡していた。
そして、普通の給食と同じように、いただきますの合唱。箸を持ち、ぼくは目の前の鶏肉と野菜炒めを見る。
塩にコショウ、それからしょうゆ。その調味料を入れただけでこんなにおいしそうになるんだ――おかあさんの料理にはとてもかなわないけど。
思わず、よだれを飲み込む。
湯気を立てる柔らかいキャベツと、鶏肉を箸でつまむ。ほかほか、と良い匂いの湯気が立っている。焼きたてあつあつの炒めもの。
口に運ぶ。
噛みしめる。
しゃく、と鳴るキャベツの甘さといっしょに、じわりと鶏肉の脂の甘さも感じる。うん、おいしい。よくできてる――
「っ。ぅ、ええええええええっ!!!」
びちゃびちゃ。
突然、液体かなにかがぶちまけられる音。
……ヒロシだった。
ヒロシが――ゲロを吐いていた。
まだ溶け切っていない野菜と肉が、よくわからないぐちゃぐちゃの液体と混ざって、机の上にぶちまけられてる。そこから、酸っぱいニオイが漂ってくる。
思わず、口を押さえた。なんとか口に入れたモノは出さずに済んだ――はずなのに。
ヒロシの近くにいた女子が悲鳴を上げる。
別の男子がヒロシからもらいゲロをする。
あまりの惨状に先生に助けを求める女子。
あまりの惨状に、固まる先生。
地獄。
「ひ、ひっ……ぅ、ぁっ」
そんな地獄を放り出して、ヒロシは手足をめちゃくちゃに動かしながら、家庭科室のドアを開ける。
一瞬だけ、家庭科室の中を振り向いた。それから、顔を青くして。
「…………ご、めんなさい……コッコ」
……コッコ。
ヒロシが殺した、鶏のコッコ。
まさか。
まさか……今日ヒロシの様子がずっとおかしかったのは、コッコのせいだとでも言うのか?
……呆然とするぼくたち。先生もだ。
しん……と静まり返った調理実習室。
ややあって、「ごめんなさい」とヒロシが呟く。
その時だ。
グゲ。
グゲェェェェェェェェ。
声が、聞こえたのは。
それは、今まで聞いたこともないような、鶏の声。
喉を絞められたような。
ゴポゴポという液体の音も混じったような。
それでいて、鼓膜を突き刺すような、鋭く汚い鶏の声。
……背筋が凍る。
ぷつぷつ、と鳥肌が立つのがわかる――
「う、わ、ぁ……あああああああああっ!!」
それと同時。
ヒロシは手足をめちゃくちゃに動かしながら、家庭科室を出て行った。
*
その後、ヒロシの姿を見た生徒はいなかった。
話によると、そのまま不登校になり、しまいには転校したらしい。
何があったのか、転校した後どうなったのか――先生の口から語られることはなかった。
しかし、それが故に。
こんな、まことしやかな噂が、ぼくたちの間で広がった。
――あの日、家庭科室から逃げたヒロシは、すぐに見つかったそうだ。
飼育小屋の前で。
そして膝を折って、小屋の格子を掴んで。
泣きながら、こう言っていたそうだ。
「ごめんなさい、コッコ。ごめんなさい。許して。もうその声を聞かせないで……。切る時とか、食べる時とか、その声はヤダ……頭に、ガンガンするんだよぉ……」
授業中。
どこからか、グゲ、という声が聞こえる。
家庭科室で鶏肉を切った時。
鶏肉から、グゲェ、と響く。
鶏肉を口に入れて、歯で噛みしめた時。
グゲェェェェェェェェッ――というあの汚い声が、口の中で響き、喉を、鼓膜を、直接揺らす。
……コッコの怨霊だ。
ぼくたちがそう結論づけるまで、そう時間はかからなかった。
以来、ぼくたちのクラスには、あの飼育小屋には近づかないという暗黙の了解ができあがっていた。わざわざ、コッコの怨霊に触れに行くことはないのだから。
おかげで、一時休止になっていた「いきもの係」が復活した時も、ますます立候補が上がらなくなった。困り果てた先生は、飼育小屋で飼うのではなく、教室内で金魚とかハムスターとか、そういう小さい生き物を飼うようになった。
*
――これで、この話はおしまいだ。
でも。
あの鶏の絶叫が、今も頭にこびりついていて、忘れられそうにない。
つづく
