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逆算という発想に迫る

到達点から逆に線を引く

良い学校に入れば良い仕事に就ける。良い仕事に就けば良い人生になる。だから今のうちから逆算して手を打っておく。この筋書きは、高校の進路指導でも就職活動の説明会でも、いまだに標準装備として配られている。『人生は逆算できるのか』(ちくまプリマー新書)のような題名の新書が出るのは、その標準がぐらついているからだろう。

ここでは、この逆算という発想を扱った4冊を刊行順に並べてみたい。2013年、2015年、2018年、2021年。8年のあいだに、議論の焦点が制度から内面へ、内面から道徳へと移っていく。同じ問題を追いながら、扱う層が一段ずつ深くなっていく並びになっている。

2013年 レールの敷かれ方

逆算が成り立つには、到達点があらかじめ見えていなければならない。日本の若者にとって、その到達点は長らく「正社員として会社に入ること」だった。なぜそうなったのか。

濱口桂一郎『若者と労働 「入社」の仕組みから解きほぐす』(中公新書ラクレ、2013年)は、その仕組みを制度の側から説明する。日本の雇用がメンバーシップ型と呼ばれる形を取ってきたこと、つまり職務を決めて人を採るのではなく、会社の一員として人を採ってから仕事を割り振る形を取ってきたこと。ここから多くのことが導かれる。

新卒で一括して採用されるのも、採用面接で職業能力より人柄や意欲が問われるのも、この形の帰結になる。仕事の中身が決まっていないのだから、専門技能を尋ねようがない。かわりに「人間力」のような輪郭のぼやけた言葉が採用の基準として浮かび上がる。若者の側は、何を身につければいいのか分からないまま、とにかく好ましい人物であろうとする。

この形が回っていたあいだは、逆算にも根拠があった。学校を出て会社に入れば、あとは内部で育ててもらえる。個人が長期の見通しを立てなくても、雇う側が代わりに面倒を見た。その前提が崩れたところに、キャリアは自分で設計するものだという言い方が入ってくる。設計の責任だけが個人に移り、設計に必要な材料は誰も渡してくれない。

本書は欧米のジョブ型雇用と比較しながら、日本型の来歴と、そこに生じている軋みを整理していく。ブラック企業、限定正社員、非正規雇用といった論点も同じ枠組みの中で扱われる。逆算の話に引きつけて言えば、この本が示すのは、逆算の到達点が個人の選択の外側で決まっていたという事実だ。レールが見えていたのは、誰かが敷いていたからである。

2015年 自分を設計する技法

制度がレールを敷いていたとして、そのレールを走る側は何をしていたのか。手帳を買い、目標を書き、部屋を片づけていた。

牧野智和『日常に侵入する自己啓発 生き方・手帳術・片づけ』(勁草書房、2015年)は、そうした本の山を社会学の対象として扱った研究である。年代別に書かれた生き方の指南書、手帳術の本、片づけると人生が変わると説く本。著者はそれらの内容を分析し、書き手と読み手へのインタビューや調査もあわせて、自己啓発が日常のどこまで入り込んできたかを描く。

面白いのは、自己啓発の舞台が仕事の場を離れていく点だ。手帳の使い方、部屋の整理、朝の過ごし方。仕事と関係のなさそうな領域が、自分を作り替える現場として扱われるようになる。人生を逆算するという発想は、大きな進路選択の場面だけでなく、一日の時間割の水準まで下りてきている。

書名にある「侵入」は、この移動を指している。自己啓発を職場の研修や資格試験の話だと思っていると、いつのまにか休日の部屋の片づけまでが自分を高める作業に組み込まれている。私生活は逆算の外にあるはずの領域だったのに、そこも設計の対象になる。休んでいる時間さえ成果に結びつけたくなる感覚に覚えがある人は、この本が扱っている場所にすでに立っている。

しかも、誰も手帳術を義務づけてはいない。人は自分から買い、自分から書き込む。逆算を外から押しつけられているのか、自分で選んでいるのか。その境目が見分けにくくなる場所を、この本は扱っている。

2018年 能力を問う声はなぜ止まないのか

逆算の中身を占めているのは、たいてい能力の話だ。何を身につけるか、どんな力を伸ばすか。ところが、その能力の中身は数年ごとに書き換えられる。

中村高康『暴走する能力主義 教育と現代社会の病理』(ちくま新書、2018年)は、この書き換えの反復そのものを主題にする。教育社会学者である著者が問うのは、新しい時代には新しい能力が必要だという言い方が、なぜこれほど繰り返し登場するのかということだ。

説明の中心にあるのは、大学進学が広まったことで学歴という指標の説得力が薄れた、という事情である。かつては学歴が能力の代理指標として通用した。誰もが進学するようになれば、それだけでは差がつかない。すると、学歴では測れない本当の能力とは何かという問いが浮上する。コミュニケーション能力、主体性、課題解決力。新しい能力が提唱されるたびに、それもまた広まって差がつかなくなり、次の能力が要求される。

著者はこの循環を、能力をめぐる不安という言葉でつかまえる。能力が問われ続けるのは、社会が高度になったからというより、能力の測り方が絶えず疑われる状態に入ったからだ。逆算しようとして「これからの時代に必要な力」を調べる人が、調べるたびに答えが変わって不安になるのは、当人の情報収集が下手だからではない。

この見方は、教育の現場で起きていることの説明にもなる。新しい学習指導要領が出るたびに、これからの子どもに必要な資質として耳慣れない言葉が並ぶ。現場の教員はそれを教えようとし、保護者はそれを伸ばそうとする。数年後には別の言葉が来る。能力の定義が更新され続ける以上、そこから逆算した計画も更新され続けるしかない。計画が古びる原因は、計画の立て方の拙さというより、目標地点そのものが動いていることにある。

2021年 うまく逆算できた人のこと

では、逆算に成功した人はどうなるのか。良い学校に入り、良い仕事に就いた人たちの側から見ると、この仕組みは別の顔を見せる。

マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(鬼澤忍訳、早川書房、2021年)が扱うのは、そこで生まれる道徳的な帰結である。原題を直訳すれば能力の専制となる。頑張れば報われるという建前が徹底されると、報われた人は自分の力で勝ち取ったと考え、報われなかった人は自分の責任だと引き受けることになる。

この論理には、途中の運がまったく計上されていない。どの家に生まれたか、どの時代に生まれたか、たまたま需要のある才能を持っていたかどうか。サンデルは、成功者が受け取っている分の多くは自分の手柄ではないと論じ、そこから勝者の傲慢と敗者の屈辱という分断を説明する。

逆算という発想と、この本の相性は悪い。逆算が前提にしているのは、努力と結果が線でつながっているという見立てだからだ。つながりが強いほど、うまくいかなかった人の立つ瀬がなくなる。逆算がうまくいく社会は、逆算に失敗した人にとって最も冷たい社会になる。

それでも進路は決めなければならない

4冊を並べると、逆算という発想が支えられていた条件が一つずつ外れていくのが分かる。到達点は制度が決めていた。その制度が揺らいだ。かわりに自分を設計する技法が流通した。設計の材料である能力の定義は安定しなかった。そして、この仕組みで勝った人にも別の代償が回ってきた。

とはいえ、批判を並べたところで進路希望調査の紙は明日提出しなければならない。逆算をやめろという話には現実的な出口がない。むしろ、この4冊から取り出せるのは、逆算の精度を上げようとする努力の効き方に限界があるという見当だろう。情報を集めても不確実さは減らない。減らないものを減らそうとするから、消耗する。

そう考えると、話の向きは若者本人よりも周囲に向く。10年後の自分を書かせる大人、必要な力を新しく提唱する大人、成功を本人の手柄として語る大人。この4冊はどれも、若者を励ます本ではなく、若者にそう語りかける側の仕組みを分析した本である。進路に迷っている当人が読んでもいいが、進路を語る立場の人が読んだほうが、たぶん実害が減る。

もっとも、語りかける側にも逃げ道はない。不確実だから何も言えないという態度は、若者を放り出すのと変わらない。制度は変わり、能力の定義も動き、運の取り分は大きい。それらを承知したうえで、それでも今日の一手を勧める。この4冊が用意しているのは、その難しさを引き算せずに見るための材料である。

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