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【制作秘話編】私は、わたしを再構成する②

noteのプロフィールにも使っている、この一枚のアート。
実は、キャビネットで見つけた”失敗作”から生まれ変わった私の自画像──


前編では、ハプニングの波に乗ったり飲まれたりした
制作ドキュメンタリーを綴りました。

後編では、当時の制作手記をベースに、
普段なかなか語ることのない、
その裏側にあった『私の頭の中』をさらに詳しく明かします。

多少の粗さやわかりにくさが残りつつも、
生の体験、言葉にこそ価値があるため、
本稿もAI不使用、100%私の言葉です。

それでは、ハラハラわくわくに満ちた私の「再構成」の裏側を、
あなたも覗いてみてください。


1. 意図と制約 ── 創造を「始める」力

『THIS IS ME』が今回与えられたテーマであり、
「全ては内なる自分の中にある」という想いを何らかの形で出したかった。
そこで、既にあるものから生み出すことを試みた。

前編でも触れたように、
現実的な事情として、地方で0歳児のワンオペ育児の日も少なくない中、
頑張っても構想・制作にごく限られた時間しか使えない状況があった。

存分に集中することも、
ふらっと画材屋さんを見にいくのも難しい時期だった。

アートをするというのに、画材も時間も無いなんて──
そんな”制約”に気持ちが塞ぎそうにもなったが、
「今、私にあるもの」に意識を向けてみた。

あるとしたら、なんだろう?

結果的にそうなっただけではあるが、結局何一つ買っていない。
すべて家の中で偶然見つけたものだ。
失敗作のアルコールインクアートも、ケント紙も。
参考写真のポートレートも、スマホの中にあった。

それだけではない。
デッサンで身につけた「観察力」と、「明暗を捉える力」、
色をモノクロの明暗に変換する力」がものすごく活きた。

私は、何か特別に絵を教わってきたわけではなくて、
上手く描けないのがつらいと長年悩んでいた。

それで数年前に、オンラインで
生まれて初めてデッサンを習ってみたのだった。
(漫画『ブルーピリオド』を読んだ影響もある)

自分の表現活動にお金を払う怖さが強く、
清水の舞台から飛び降りるような思いで
申し込んだのをよく覚えている。

それから、デッサンで身についていた力に加えて、
色相を明度で捉えなおし、手元の色味で置き換えていく
という手法。

これも過去に観た好きな作家さんの動画講座からヒントを得て、
お手本がない状態で試したことはまだなかったけれど、
実践してみたらどうかと思いついたのだ。

こうして、「全ては内なる自分の中にある」の要素が揃った。

やはり、「意図ありき」であらゆるものは創造される──
この意図は、課題テーマと現実的な制約から生まれた。

しかし、
私が明確にそうと決め、「ある」「生み出す」という意識になったことで、
結果として、既に私の手元にある素材やスキルで
作品を制作することができたと感じた。

意図があるからこそ、
それに沿ってより解像度の高い、次の”問い”が生まれる。
そして、制約を味方にし、
思いがけないプロセスを辿りながらも、創造に至る。

意図と制約、どちらが先にあるかはその時によるかもしれない。
でも、このふたつを上手く扱うところにひらめきのヒントがある気がする。


──潜在意識の活用や人生創造にも通じる意識が、
ここで働いていたことは興味深い。

「ない」にフォーカスをしていたら、
焦るばかりで何も形にできていなかったと思う。

この意識、普段から自分の中に降ろしておきたいものだ。


2. ”失敗”の再検証と昇華

課題の説明の時に、先生から
”ネガティブ”をネタ・素材にするといい」という話があった。
それが、なんか面白いことになったりするんだよね
と言うものの、ほんのヒント程度で、多くは語らなかった気がする。

正直あまりピンと来なかったのだが、
自分なりにそこから思いがけないものを創り出すことを
意図して構想を始め、
当初は高校時代の日記を超縮小して印刷し、
それをコラージュ素材として使おうと考えていた。

ただの日記ではない。

高校合格が決まると同時に、母から私にだけ
「離婚したいと思っている」と打ち明けられた日から
こっそり書き始めた日記で、
高校の3年間かけて家庭崩壊していく中で、
私自身の張り裂けるような当時の想いが痛切に刻まれている。

どう面白く創れるのか、見えてはいなかったけれど、
それを出すことで昇華されるような気がしたのだ。

そんなつもりでコンビニで印刷を済ませて、
コラージュを貼り付ける台紙のようなものを探していたところ、
例の”失敗作”と邂逅したのだ。

見慣れていない人からすると、
どこが”失敗”なのか、わからないかもしれない。

でも、アルコールインクアートは流行っているし、
上手な人もたくさんいる中で、
完璧主義な気質の私は、
正直あまり人に見せたくないレベルのものだった。

インク溜まりやシミが美しくない。
自由な伸びやかさ、細部に込めた意図は、
私自身はとても感じられない──

だから「酷い失敗作だな」と思った。

でも、と同時に、

「ん?”失敗”?」

これはこれで制作のネタになると気がついた。
そして、色の美しさに目が留まり、
思い切って、このハプニングの波に乗ってみることにしたのだ。

すると、
もういっそ、このインク溜まりやシミに沿って切って、
ジグソーパズルのピースのように細分化してみるのは
面白いかもしれないと思った。

この時、

”失敗”からの『細分化』『再評価』『破壊』『再構築』『再創造』──
それによる『失敗というネガティビティの浄化・昇華』


という道筋が、一気に見えた。

制作ストーリーとしても面白いと確信した。


「”ネガティブ”をネタ・素材にすると、なんか面白いことになったりする」ということの核心が掴めないままスタートしたが、

ここでも、私が意図したから、
私は素材としての可能性に気づき、ひらめいたのだろう。

そしてそれと同時に、
「そもそも、失敗とは?」という問いも生まれた。

意図に対して失敗は成立する側面はある。
しかし、”何”を捉えるかによって、”失敗”は”失敗”ではなくなる。

──概念を言葉にすると、少し月並みな感じもする。
だからこそ、”知っている”ことを”できる”ことと勘違いし、
普段の生活の中では実践に落とし込むのは難しい時もある。

しかし感情を一旦傍に置いて、
フラットな目線で見ると新たな可能性が見えてくることがある
というのを、まさに体感した。

私は美しい色に素材としての可能性を見たが、
あなたなら何をどう捉えるだろうか?


3. 自らが「正解」を決める

このように思いつきやひらめきでスタートしたから、
ワクワクと「上手くいくのか」という不安がせめぎ合う。

コンフォートゾーンから出たり、入ったりの連続だった。

それでも、きっとどうにか形になるはずという、
”未来のクリエイション”を信頼しながら飛び込むことの繰り返し。

制作の後にはみんなの前で作品の発表をすることになっていたから、

「これで上手くいかなかったらどうしよう」
「何も形にならなかったらどうしよう」

と、心底ハラハラした。

たとえできなかったとしても、
叱責されるわけでも、落第するわけでも、死ぬわけでもないのに。

それなのに、さまざまな感情が駆け巡る。
私のこの気持ちって、なんだ?

元にしたポートレート写真と見比べては、
それ通りではない(パースが狂っている)ところが
自分的にイマイチだと思った。

でも、鑑賞者は元の写真を知っている訳でもないし、
写真の再現が真の目的でもない、ということに気がついた。
あくまで”参考資料”なのだ。

「”完璧”に仕上げなくてもいい!」
「抜け感も必要!」
(だけどバランスも必要でそこにセンスが宿る!)

励ますように何度もそう言い聞かせながら、
精緻にやりたがる性や
完璧主義を意識的に手放しつつ、作業を進めた。
ちょっとメンタルトレーニングのようでもあった。


ちゃんと私に見えるだろうか?
アートとして美しく仕上がるだろうか?

いい塩梅って難しい。
デフォルメは苦手だ。

部分的にやり過ぎて
アンバランスになるループに何度も陥った。

写実的に仕上げる方がゴールが明確な分、
よっぽど簡単だよなと何度も思った。
目の前の正解に対して、見た通りに手を動かすだけだしな。

ハプニングの波に乗っても飲まれても、
エゴを手放しても、
難しいと感じても──

はじまりの意図があるからこそ、
この作品にとっての”正解”を決めることができる。

意図を捉えて手元の中の小宇宙と対話をしながら、宿していく。

…あ、これが「創造する」ということなのか──?


ちゃんと完成できるのか、終始不安だった

4. この制作が意味するもの


「なんとかする!なんとかする!なんとかした!なんとかなったー!」 というのがこの作品。


私は、このようにジェットコースターのような感覚で
ひとつのアートを創造した。
他の人は一体、どんな気持ちや思考回路で創造するのだろう?
こんな感情を味わったりするのだろうか?

まだいろんなものを創ってきたわけではないが、
これが私にとって忘れられない制作体験となっているのは、

プロセスでさまざまな感情と出逢いながらも、
不完全を受け入れながら楽しんで
創り上げることができたからかもしれない。

過去を振り返ってみると、だいたい私は最初に
「なんとなく、こんなもの」という直感があり、
(細部に至るまでのビジョンはないのだが)

その直感に対して、概ね一直線に誠実に
形づくっていくスタイルが多かった気がする。
ちなみにその直感が来ない時は、ものすごい不安に飲み込まれる。

狙いの通りに精緻に創っていくのは、
それはそれなのだろう。

だけど、あまりハプニングは楽しめない。
こんなに感情が揺さぶられるよりも、
集中したいという気持ちがあるかもしれない。
あるいは、単に臆病だったのかも知れない。

だから、今回の制作は私にとって、
とてもイレギュラーだった。

そして、これは個展や展覧会のためでもない。
商業的なものでもない。
100%自分のための、私的で個人的な制作だった。

アーティストとしては、
制作ストーリーをもっと蒸留して
美しく作品テーマを差し出すものだろうとは思う。

だが、今振り返ってもなお、
私にとって良い制作体験であった。
作品そのものにも強い思い入れがある。

だからこそ、あの時の感情を
私の言葉で丁寧に綴りたいと思った。
共有する意味もある気がした。

それだけでなく、
この制作を通じて、図らずも
アート思考的エッセンスを存分に発揮していたのだった。

制作時は全く意識になかった概念なのだが、
詳細に振り返って「アート思考」という視点で紐解けたのは、
とても興味深い。

あなたも、アート思考という言葉は聞いたことがあっても、
実際にどんなものなのか、もしかしたらあまり知らないかもしれない。

せっかくなので、
この制作体験からアート思考、そしてそれはAIとの対話にも活きるのか──
次回、考察してみたい。


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▼制作ストーリーに焦点を当てた前回記事
まずはこちらからどうぞ。

▼『静かなるファンファーレ』シリーズ(主にエッセイ・詩集)
表現する苦しみ、AI生成物への違和感なども正面から綴っています。
併せて読むことで、私の思想が立体的に浮かび上がってくるシリーズ。

▼世界で初!?の絵画でプロンプト力を鍛えるアプローチ
『静かなるファンファーレ』という原点を経て生まれた約1万字の論考。
今回の制作ストーリー(三部作予定)とぜひ一緒にどうぞ。

▼1万字の論考を読むのはハードルが高い方のために


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