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社会の変化はゆっくりになっている(7)加速主義の「一挙解決願望」にご用心

7.加速主義の「一挙解決願望」にご用心



*サムネイルの写真は、国立代々木競技場 第一体育館(1964年、意匠設計:丹下健三)。このような、今みてもモダンで「未来」をも感じさせる建築が60年余り前につくられていたのです。1964年の60年前というと1904年(明治時代、日露戦争の頃)です。そこからの60年にくらべ、この建築以後の60年の変化はゆっくりだったのでは?


これまで述べてきた「社会の減速」を示す事象


この一連の記事では「この数十年で、社会の変化はゆっくりになっている」という「減速論」の主張や根拠、先人の説をいろいろと述べてきました。「社会の変化はどんどん速くなっている」という「加速」を主張する人は多くいますが、それには反対というわけです。

これまで(第1回~第6回で)述べてきた「社会の減速」を示すおもな事象を要約すると、以下のとおりです。

【先進国の経済成長の鈍化】
1970年代に先進国の「高度経済成長」が終わり、その後は比較的低い経済成長率(1~2%)が続いている。その一方、新興国が急速に発展し、先進国との経済力の格差を縮めている。その結果、世界は「多極化」に向かっている(第1回)。

【新興国でも経済成長が減速の兆し】
ただし、高度成長を続けてきた中国経済にも、2020年代の現在、減速の兆しがみられる。また、中国にかぎらず、一定の経済発展を遂げた「中所得国」が長期の停滞に陥る「中所得の罠」といわれる傾向も指摘されている(第6回)。

【現代的な生活様式は数十年前から変わっていない】
上下水道や電気などのインフラが整備され、家電に囲まれた現代的な生活様式は、先進国では、この数十年間(アメリカでは1940~50年代以来)大きくは変わっていない。そのようなインフラや家電の普及は、欧米の先進国では1800年代末から1950年代にかけて急速にすすんだ。これほどの急激な変化は、その後起こっていない(第2回)。

【アポロ計画以降の宇宙開発の減速】
1969年のアポロ11号以来、1972年まで月への有人飛行が行われていたが、その後は途絶えており、SFに出てくるような大規模な宇宙ステーションや月面基地も実現していない。宇宙開発は、数十年前に考えられていたよりも進んでいない。

【70年代のコンコルドが今も史上最速の旅客機】
旅客機の最高速度は、1970年代の超音速機コンコルド(マッハ2)の記録が今も破られていない。一般的なジェット旅客機の巡行速度も、1950年代末からマッハ0.9程度のまま、あまり変わっていない。また、ジェットエンジンの技術革新は、1970年代から推力(性能の重要な指標のひとつ)の向上がペースダウンするなど、減速がみられる。

【今も実現しないリニア新幹線】
日本におけるリニアによる超高速鉄道は、「2034年以降」に東京~名古屋間で開通する予定だが、1960年代から構想されてきた東京~大阪間などのリニアの鉄道網の実現は、まだかなりの道のりである。

【「実現まであと30年」と言われ続ける核融合】
「究極のエネルギー」といわれる、制御核融合の技術は、1950年代から現在にいたるまで「実現まであと30年」と言われ続けている。世界のエネルギー供給は、1900年代半ばまでに成立した技術である石油や原子力による発電で、今もおもに支えられている。そして、制御核融合のような「なかなか実現しない夢の技術」は、ほかにいくつもある。
(以上第3回)

【農業の生産性向上の減速】
1910年から1970年代までのアメリカの農業は、機械化によって10倍かそれ以上の生産性向上を達成したが、1980年代以降の約40年では、生産性の向上はそれよりもはるかに限定的である。

【科学の発展が近年は漸進的になったという説】
現代の技術革新は科学の発展に支えられているが、科学研究の減速を指摘する見解も出ている。ある科学者の研究グループは、大量の論文などを分析し、「科学研究の発展が近年は漸進的になり、革新性が薄れている」とする論文を『ネイチャー』誌に掲載した。
(以上第4回)

【世界人口の動きの減速】
2000年頃以降、世界の合計特殊出生率(1人の女性が生涯に産む子どもの数)の“低下ペース”は減速している。世界人口の増加ペースも、1960年代をピークとして徐々に落ちてきている。2022年に出された国連による最新の予測では「世界人口は2080年代に104億人でピークに達し、2100年までは横ばい」とのこと。以前の予想では「2100年に112億でピークに達する」とされていたが、人口の増加ペースが減速しているので、予想が下方修正された(第5回)。

これらの事象の多くは、先行する減速論者(社会の減速を主張する識者)が述べているものです。この一連の記事では、これまでタイラー・コーエン、ロバート・J・ゴードン(以上経済学者)、技術史などの研究者バーツラフ・シュミル、人口・地理学者ダニー・ドーリングといった人たちによる議論をとりあげてきました。

なお、日本の「減速論者」といえる識者も何人かいます。その人たちにも私は影響を受けました。次回(第8回)で紹介していきます。

なお、「減速を示す事象」は、以上のほかにもまだあります。ここまでは、経済、人口、技術革新といった基礎的で大規模な事象を扱っていますが、次回以降は、文化や生活の細かな面においても変化がゆっくりになっていることを述べていきます。


「減速」の可能性も考えに入れると、見方が広がる


このように、じつは「社会の減速」を示す事象は、いろいろあるわけです。それも、些末なことではありません。世界の経済成長率や人口の動向、エネルギー、輸送・交通、農業の生産性における技術革新、技術革新の源泉である科学研究といった社会の根本にかかわる事項で減速がみられる(変化・成長・進歩が緩やかになった)ということです。

しかし、現在(2025年)においては、「世界は減速している」という見解に賛同しない意見のほうが、やはり多数派でしょう。「進歩や成長が終わるという主張はまちがいだったことが、これまで歴史によって何度も証明されてきた」ともよく言われます。

私自身、これまでに述べた「技術革新の停滞」のことを、友人に話したり、ブログで述べたりしたことがありますが、少数の例外を除き、なかなか賛同してもらえません。たいていは「世の中では普通はそんなこと言ってない」「近頃だっていろいろと新しいことが起きているではないか」という反応です。

たしかに、最近もいろいろな変化はあるわけです。しかし、その変化の中身は以前とは違ってきています。

前に(とくに第4回で)述べたように「近年の変化や革新は、文明の基礎的な層から、上澄みの層にシフトしている」と私は考えます。ITに代表される近年の革新や進歩は、数十年前のような高い経済成長率をもたらしていないし、エネルギーや輸送の効率、農業といった社会の基礎といえる領域での生産性向上にもそれほど寄与していません。

これは、進歩や変化のあり方が、基礎的・根本的な革新から、応用的できめ細かい改良に移行しているということではないでしょうか。一言でいえば、「革新から応用へ」という「変化のあり方」の変化が起こっている、ということです。

そして、今の社会では、細かな革新や変化が頻繁に起こっているので、あわただしく感じます。そこで「時代は加速している」とつい思ってしまう。しかし、その変化の中身をよくみると、製品のモデルチェンジに例えればバージョン番号のコンマ1桁か2桁以下レベルのマイナーな改訂であり、基本的な機能や性能の変更ではないのです。

ただ、こうした説明に対し、やはり納得できないという人はいるわけです。

また、「近年は進歩・成長が緩やかで限定的になった」のが正しいとしても、情報分野のような特定の領域での革新が、今後さらに巨大な地平を切り開く可能性もある、という見方もあり得るでしょう。

たとえば、AIにその可能性をみる人たちが多くいます。情報分野のほか、バイオに期待する人たちもいます。つまり「これからとんでもない革新が起きるかもしれないではないか」ということです。

私の見方では「現代の進歩は“革新から応用へ”とシフトしているので、それほどの革新は期待できない」ということですが、それでも、可能性を完全に否定することはできません。

ただ、少なくともつぎのことは言えるのではないでしょうか。

たしかに未来はわからない。それでも私たちは「減速」あるいは「“急速な進歩や成長”の終わり」ということを、「あり得ること」として考えに入れていいのではないか。「急速な進歩が続くのは当然」と決めつけるのは、狭いものの見方ではないか。

これまでの近代における発展は、一貫した力強いものでした。そこには良い面とマイナスの面の両方があるとしても、激しい変化・成長が続いてきたのです。だから、私たちはその歴史的な経験にとらわれているのかもしれません。

このことは、第5回で引用した減速論者の1人、ダニー・ドーリングも強調しています。ドーリングは《私たちは変化に慣れ過ぎて、それがあたり前のことだと思っている》などと述べています。

しかし、技術革新などの「減速」「進歩の終焉」は、ほんとうにあり得ないことなのだろうか?――そういう問いかけを頭の片隅に入れておいたほうが、社会に対する見方の幅が広がると、私は思います。

「社会の変化はゆっくりになっている(かもしれない)」という見方は、「今はどういう時代か」を理解し、未来を考えるための重要で基本的な視点だと、私は考えます。


大きな視点で「現在地」を考える


そして、世界・社会の「減速」を問題にするのは、単に「社会に対する見方の幅が広がる」ということにとどまりません。

「加速と減速」の視点で現代の世界を論じることは、大きな視点で自分たちの現在地を考えることです。私たちは今、坂道をのぼっているところなのか、それとも下り坂にいるのか、あるいは坂道をのぼり切ってある種の高原に立っているのか。

そのような「現在地」を知るために、「加速と減速」という視点で議論しようとしているのです。なお、ここで「私たち」とは、たとえば日本や日本人などの国家・民族のレベルではなく、まさに人類全体のことです。

ここで主張しているのは、今、私たちが加速から減速へと移行しているということ、つまり「大きな坂をだいたいのぼり切って、高原にさしかかろうとしている」ということです。世間では「急な坂道をハイペースでのぼっている」という見解のほうが有力ですが、それには異をとなえているわけです。

なお、この「高原」の例えは、社会学者・見田宗介氏や著作家・山口周氏によるものです(見田『現代社会はどこに向かうか』岩波新書、山口『ビジネスの未来』プレジデント社)。日本における減速論者といえる両氏の主張については、次回(第8回で)紹介します。


「現在地」を問う議論において、「加速と減速のうち、どの局面なのか」ということは、最も基本的で大きな問いかけ
であると、私は考えています。

この大きな問いに対する答えは、人びとの未来に向けた行動に明らかに影響をあたえます。「坂道をハイペースでのぼっている」のか「坂をのぼり切った」のか――そうした現状についての見方しだいで、これから何に価値をおき、何にリソースを割くことが最適・最善なのかについて、出る答えはちがってくるはずです。一方、自分たちの現状についての誤った認識に基づく行動は、きっとマイナスをもたらすでしょう。こうしたことは、個人や企業のレベルでも、国家などの社会レベルでもいえることです。

「私たちは今、加速のなかにあり、急な坂道をハイペースでのぼっている」という認識は、これまで多くの人にとって、常識的な前提でした。そして、1世代以上前の時代であれば、その前提は概ねまちがっていなかったと、私も思います。しかし、今現在においては「加速のなかにあるのか、減速しているのか」について、問い直し検討すべきです。


減速論を受け入れにくい理由


それでも、現代世界についての「減速」論は、やはり多くの人からみて受け入れにくい説ではあります。

その原因としては、まず先ほど述べたように、「私たちが過去の経験にとらわれている」ということがあるはずです。

そして、「減速」論の考え方に「ごう慢・不遜な感じ」があり、賛同するのがためらわれることも作用しているように思います。

たしかに、私のような科学や技術の素人である無名の人間が「現代では、大きな革新よりもきめ細かな改良が中心」などと述べるのは、各分野の最先端で懸命に取り組む人たちに失礼千万なのかもしれません。私も自分の主張に対し、そのような申し訳なさを感じることがあります。

また、現代の情報技術のインパクトを限定的に評価すれば、インターネットによる情報や娯楽が生活の中心になっている多くの人たちに対し、「自分が大切にしているものを低く評価された」という不愉快な思いをさせるのかもしれません。

このように減速論、つまり「社会の変化はゆっくりになっている」という見解には、感覚的・感情的に受け入れにくい面があります。

しかし、「何をばかな」「何を偉そうに」などと、一蹴すべきではありません。これまでみてきたように、減速論は、素直に事実を見渡せば、たしかにそれなりの根拠がある、検討に値するものです。その意味で、「あたりまえのこと」を述べているのかもしれません。


加速主義的な見方と一挙解決願望


第1回でも述べたことですが、「社会の変化はゆっくりになっている」というここでの主張は、現代と未来における社会の「加速」を強調する人たちとは真っ向から対立するものです。

つまり、私はここで「AIなどの先端技術の急速な発展で、近い未来において社会や人間のあり方が根底から変わっていく」という見通しに異をとなえているわけです。

また、単に「社会の加速」を見通しとして語るだけでなく、「急速なテクノロジーの発展や社会変革を積極的に推し進め、まったく新しい世界を創造すべきだ(それは必然である)」と主張する人たちもいます。加速の先の、ある種の革命(根本的な社会変革)を志向する主張です。

このような尖った主張は「加速主義」といわれることがあります。加速主義は、ここで私が述べていることとは特に鋭く対立します。

加速主義は、2010年代以降、知識人や読書家のあいだである程度注目されるようになった、比較的新しい考えです。その源流は、直接的には1990年代の冷戦終結以後、おもに右派的な少数派の知識人のあいだで生まれたマイナーな思想です。ただし、それ以前の左派系の思想でも(マルクスの言葉をひきあいに出すなどして)加速主義的なことを述べる例がありました。

加速主義には、いくつもの流派があります(この手の思想がほかの名称で呼ばれることもありますが、ここでは加速主義ということにします)。資本主義を支持し、政府による介入を極度に嫌う「右派」がいる一方、大きな政府を志向したり、資本主義の打倒・解体をめざしたりする「左派」もいます。そして、加速主義の右派には、かなりの場合、民主主義に対し懐疑的な傾向があります。また、国家の消滅を志向する流派は、右派にも左派にもみられます(この立場では、国家は自由を抑圧する最大の存在とされる)。

そして、左派による社会主義・共産主義の理想が力を失った現代において、より勢いがあるのは右派的な加速主義のほうです。

ただし、ここではいろいろな流派の多くに共通する要素をもとに加速主義をざっくりと語ることにします。

その共通要素とは、「AIなどの先端技術の急速な発展で、近い未来において社会や人間のあり方が根底から変わっていく」という見方です。

このような加速主義的な未来の話は、人を惹きつけるところがあります。「テクノロジーの発展やそれと結びついた社会の変革によって、今の世界を支配する要素は急速に過去のものとなり、新しい世界が生まれる」というのは、ある種の解放感・ワクワク感がある話です。

資本主義が新しい何かに置き換わったり、そもそも貨幣がなくなったり、政府・国家のあり方が根本から刷新されたり、それどころか国家が解体・消滅したり、人間がバイオや機械の技術で「ポスト・ヒューマン」的に進化したり……

そのような未来では、現代のさまざまな問題は、すっかり乗り超えられていると想像できます。「そうなれば、今の世界にあふれている仕事や暮らしの苦労、目障りな主張や言動、政治や官僚組織の腐敗、多くの病気や肉体的苦しみなどは一掃されているはずだ」というわけです。

もちろん、そのような「激変」は恐ろしいという人もいるにちがいありません。一方で「加速によって、さまざまな問題が一挙に解決されてほしい」と願う人はたしかにいるはずです。

そして、こうした「加速による一挙解決」の願望を、かなりの人は多かれ少なかれ心のなかに抱いているのではないでしょうか。純度の高い、先鋭的な「加速主義者」は少数派だとしても、加速主義的な願望に多少とも共感する人は、大勢いるのでは? 

それは、かつて(冷戦終結以前)、多くの知識人がマルクス主義に共感し、その理想(共産主義社会)の実現に期待したのと似ています。人は、直面する問題を一挙に解決する道を示す「未来への構想」を求めるものなのでしょう。

そして、これは推測・仮説ですが、マルクス主義的な「構想」が力を失った現代では、加速主義という別系統の「未来への構想」が、冷戦終結以後に生じた思想的な空白を埋めるかたちで台頭したのかもしれません。つまり、「未来への構想」があまり語られなくなった状況で、そのニーズを獲得したということです。ただし、「台頭した」といっても、現時点の加速主義は往年のマルクス主義にくらべればはるかにマイナーですが……

マルクス主義というのは、大きな間違いを含んでいたとしても、掲げる看板としては「理想社会の実現による人間の解放」を謳った思想でした。つまり、社会のなかで苦しむ人びとに「未来への構想」を示し、希望や解放感をあたえるという効能を持っていました。この効能において、「加速による一挙解決」を主張する今の加速主義は、かつてのマルクス主義と似ています。


100年200年先も、問題や課題の基本は変わらない


私がここで述べている減速論は、こうした「一挙解決願望」に対し、真っ向から水を差すものです。

第1回でも述べたように、私は、今後少なくとも100年200年のあいだ、社会や個々人が向きあうべき問題・課題は、基本的には現在とそれほど変わらないのではないかと考えます。つまり、つぎの通りです。

100~200年先、あるいは数百年先においても、資本主義は終わったりはしないし、貨幣もなくなったりはしない。民主主義も、さまざまな問題を抱え、反対や攻撃にさらされ動揺や変質がみられるとしても、未来においても基本的な意義を失うことはない。まして国家(近代的な国民国家)じたいが消滅するなんてとんでもない。労働のあり方では、これまでの延長線上といえる変化はかなりあるとしても、万人が労働から解放されるなど無理な話。AIという道具は仕事や生活の各所に入りこみ、医療はいろいろと進歩しているはずだが、人間のあり方を根本的に変えるほどのことにはならない……

「減速論(社会の変化はゆっくりになっている)」の立場だと、以上のようになります。

こういう話は、「加速による一挙解決」という、多くの人が(多少なりとも)抱いていると思われる願いに反するものです。だからこそ、「社会の変化はゆっくりになっている」という減速論は、なかなか受け入れられないのでは、と私は考えています。願望に水を差す話というのは、やはり不愉快で、反発したくなるものです。

減速論が拒否されやすい理由について、先ほど「激しい変化が続いてきた、これまでの歴史の経験にとらわれている」「ごう慢・不遜な感じがある」といったことも述べましたが、このような「一挙解決願望の否定に対する反発」ということも、重要だと考えています。

もちろん、「社会の変化がゆっくりになっている」からといって、軍事紛争や経済不況のような社会的な事件が起こらなくなる、などというのではありません。また、漸進的な進歩や改良は、これからもいろいろとあるでしょう。あらゆる出来事が、これからも起こるのです。

しかし、それらの「事件」はあくまで現代の社会・文明の大きな枠組みのなかでのことです。その枠組みがすっかり乗り越えられて、加速主義者が描くようなまったく新しい世界が(数百年のうちに)生まれることはないでしょう。世界は減速しており、そのような劇的な変化の可能性は現時点では認められないと、私は考えるわけです。

また、「社会は減速すべきだ」などと、私は思っていません。むしろ、進歩や成長によっていろいろな問題が解決するなら、それに越したことはないと思います。しかし、そのような大きな(望ましい)進歩はもう期待できなくなっているのではないか。この「減速」という現実を、まず私たちはきちんと認識する必要がある――そういうことを論じたいのです。そこで、「減速主義」ではなく「減速論」といっています。


なぜ「加速主義的な願望にご用心」なのか


私が加速主義的な考えに異議をとなえるのは、まず(当然ですが)「自分たちの現在地についての事実認識として、根本的に誤っている」と考えるからです。そして、これまで述べたように、世界が加速ではなく減速していることを示す重要な証拠は、いろいろとあるわけです。

ただし、それだけではありません。加速主義的な見方に基づく「現在地」についての誤った認識が「これから何に価値をおき、何にリソースを割くことが最適・最善なのか」について間違った答えを導く恐れがあることも気にしています。

加速主義的な見方(「近いうちに社会や人間が一変する」という見解)に立ってしまうと、本来向き合わなければならないはずの、さまざまな現実的な課題から目をそむけることになるでしょう。

これを会社経営にたとえれば、本来対処すべき課題に地道に向き合わず、成功の可能性の低い、挑戦的で華々しい新規事業や研究開発に過大な投資を続けるようなものです。

もちろん、加速主義的な企業家が社会のなかである程度存在し、その人たちが成功したり失敗したりするのはいいのです。そのような試行錯誤が活発化することで、近代社会は発展してきました。しかし、国家などの社会全体のレベルで加速主義的になるとしたら、それは危険なことではないでしょうか。

また、加速主義には、これまでの文明、とくに近代社会が築き上げてきた、民主主義のような価値ある遺産を「時代遅れのつまらないもの」として切り捨ててしまう傾向もあります。テクノロジーによってすべてが根底から変化するなら、今の現実における問題などたいしたことではないし、民主主義のような面倒くさいやり方だって時代遅れになって当然、というわけです。

民主主義や、それと関わる法の支配、人権思想、平等主義といった価値観に基づく制度は、権力者だけなく広い範囲の人びとにさまざまな拘束を課すので、「加速によってその縛りから解放されたい」という人がいても、おかしくはないでしょう。しかし、これらの「遺産」を切り捨てた先によい結果が生まれるとは、私には思えません。

以上のことから「加速主義的な一挙解決願望にはご用心」といいたいのです。

***

たしかに減速論は、加速主義的な主張にくらべるとインパクトが弱く、関心を呼びにくいとは思います。

また、私のような中高年が「社会の変化はゆっくりになっている」などと述べると、「新しいテクノロジーが理解できない旧世代のたわごと」と受けとめられる傾向も、かなりあるようです。これまでブログなどで自分の見解を述べてきた経験から、そう感じています。

しかし、私にいわせれば、新しい世代のなかには(誰もがそうではありませんが)、近年のIT関連の激しい変化(たしかに重要な変化ではある)に惹きつけられるあまり、そのほかのさまざまな事象について「見えども見えず」になっていることがあるように思います。「新しいテクノロジーに適合している」からこそ大事な何かを見落とすことも、ときにはあるのかもしれません。

このように減速論は、関心を呼びにくく、受け入れるのがむずかしいところがあります。しかし、きちんと説明すると「意外だけど、言われてみればそうだ」という人もたしかにいます。減速論は、意外性と説得性を兼ね備えた考えなのかもしれません。だとしたら、かなり意味のある「論点」ということになるはずです。つまり、「いいところを掘り当てている」のではないかと。

(第8回に続く)
次回は、前半で日本の減速論者について紹介し、後半では文化面での社会の減速についての導入的なことを述べます。

(参考文献)
加速主義については、読みやすく全体像をまとめた概説書にはまだ出会っていないが、おもに以下の書籍に教わった。


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