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勉強は、結局は独学しかない(2)本の読み方のきほん


この記事は、「大人の勉強は、結局は独学」ということを基本にすえた、独学術や勉強法の基本を述べています。

著者である私は、普通のサラリーマンでしたが、若い頃からおもに読書を通して好きな勉強を続け、世界史の入門書(『一気に流れがわかる世界史』PHP文庫)を商業出版したりもしています。それなりの「独学の熟練者」だと自負しております。

この記事は全5回のシリーズで、第1回は、勉強をはじめるにあたって「まず何かを選ぶ」ということの重要性について述べました。そして、「何かを選ぶ」ことの核心は「よい先生・著者をみつけることだ」という話を展開しています(詳しくは第1回の記事を)。

第2回は、「独学」において最も重要な手段である、読書の基本について。ほんとうに基本的なことばかりなのですが、初心者の方であれば、きっと参考になるところがあると思います(サムネイルの写真は、私の「団地の書斎」)。




全部読む本は、10冊に1冊あればいい


本を、最初から全部通して読む必要はありません。

「とばし読みでは頭に残らない」「最初から追っていかなければ、著者の主張はわからない」という人がいます。

でも、「本を読むなら全部読まなくては」と思うから、本が読めないのです。ざっと目を通して、興味の持てるところ、理解できるところだけを読めばいいのです。

そういうことにしておくと、気が楽になって、どんどん本に手を出すことができるでしょう。

だいたい、「最初からきちんと論理を追っていかなくては理解できない」などという本は少ないのです。多くの本は、とばし読みを許さないほど厳密には書かれていないのです(小説のように、プロセスを味わって読む本は別です)。

その本に書かれている情報の中で、あなたが興味を持てるところ、理解できるところにこそ値打ちがあります。あなたにとっての意味があります。

つまらないところに無理につきあっても、頭に残りません。読んだことは無駄になります。いつか、もっと勉強してから読んでみると、意味や面白さがわかるかもしれません。反対に、「やはりつまらない」ということがわかるかもしれません。

「とばし読みでいいんだ」と思えるようになってから、私は以前よりも多くの本を読めるようになりました。全部読むのは、10冊に1冊もあればいいほうです。多くの場合、1冊通して読むよりも、その間に10冊を拾い読みするほうが、はるかに豊富な情報に接することができます。

そして、「10冊に1冊」というのは、拾い読みをしていくうちに、「これはいい本だ」と思えて、つい全部読んでしまったものです。そういう本に出会うと、うれしくなります。

とばし読み・拾い読みのコツは、本の「もくじ」「まえがき」「序章」「終章」「解説」などに書かれている情報をまずチェックすることです。本の構成や概要、著者の意図や思いなどについて、まずイメージをつかんでおくのです。

読書には、「考えをつくる読書」と「知識を広げる読書」がある


読書には、ふたつのものがあります。ひとつは、「自分の考え方をつくる読書」です。これと決めた先生・著者の本を丹念に読むことで、自分の「核」になる考え方をつくっていきます。

もうひとつは、「自分の知識を広げる読書」です。「考え方」を身につけるだけでは足りません。いろんなものを読んで知識をたくわえることが必要です。「つくる読書」「広げる読書」ということです(この言葉は、若いころに看護学者の薄井担子さんの著作で読んだと思うのですが、出典が確認できない……)。

読書は、この両方をしなくてはいけません。どちらか一方が欠けていると、自分で考える力はつかないのです。

たくさんの知識を持ちながらアウトプットが苦手な人は、「つくる読書」をしてこなかったのです。寄せ集めの知識ばかりで、一貫した思考というものが不足しています。

私は、尊敬する先生たちの本で「考え方をつくる読書」を心がけてきました。

先生たちは、既存の学問に対する批判者でした。批判だけでなく、それにかわる自分の学問を、それぞれの専門分野で示してみせました。そんな先生たちの考え方を身につければ、自分にも何かできるのではないかと思って、くり返し著作を読みました。

でも、ある程度勉強したところで気がつきました。「考え方だけでは駄目だ。先生とは異なる、既存の学問の多数派の人たちの本もいろいろ読んで知識を増やさないと、どうにもならない」――先生たちもじつはそういうことを言っているのですが、気にとめていなかったのです。

独学者の人で、とくに非主流派やマイナーなものにひかれる人は、気をつけてください。「考え方」だけになって、「知識を広げる」ことを忘れてしまってはいけません。

読んでもわからないのは、書いた人のせいかもしれない


本を読んでもわからないのは、あなたの勉強不足かもしれません。でも、あなたのせいではなく、書いた人が悪い場合もあります。表現や説明の仕方が悪いのかもしれません。そもそも、内容自体がめちゃくちゃだから、何を言っているんだかわからないのかもしれません。

とにかく、わからない本を無理して読むのは無駄です。すぐに読むのをやめて、ほかの本にしましょう。本はたくさん出ています。中にはいいかげんな著者もいるのです。そういうものに無理につきあう必要はあまりません。

わかりにくい文章は、とくに翻訳書に多くみられます。「正確に」訳そうとして、変な日本語になってしまうのです。

「その角を右に曲がれば、郵便局だ」というところを、「もしあなたがその角を右に曲がるならば、あなたは郵便局をみるだろう」とやってしまうわけです。近ごろはいい翻訳も多くなっているのですが、読みにくいものもまだまだあります。

日本に翻訳で紹介されている欧米の著作は、平均して(あくまで平均です)日本のものよりも水準が高いです。日本が経済大国になって久しい現在でも、そうです。

内容的にはいいものが多い翻訳書が、わかりにくい翻訳のために近づきにくいものなっているとしたら、もったいないことです。

日本人の著者で、今どき「難解な」文章を書く人は、相手にしなくていいと思います。でも翻訳書の場合、原著のほうではいい内容をわかりやすく書いてくれていそうなのに、翻訳のせいでわかりにくくなっているな、と思えるときがあります。

そういうときは、少し疲れるけど読み続けましょう。「もしあなたがその角を右に曲がるならば……」とあったら、頭の中で「その角を右に曲がれば……」とまともな日本語に変換することです。こういうことは、翻訳書だけでなく、日本人の書いた本でも必要に応じて行っていくといいでしょう。

何十回もくり返し読む本が、一生に1冊は欲しい


たいていの本は拾い読みでいい。全部読む本は10冊に1冊です。でも、拾い読みだけで終わってはいけません。一生の間に、それこそ何十回もくり返して読む本に出会いましょう。

そうでないと、あなたの頭はいくら本を読んでも、雑多な知識がつまっているだけになってしまう恐れがあります。すごい読書家で博識なのに、これといったアウトプットのできない人がいます。そういう人は、「くり返し読む本」に出会えなかったのです。

だいぶ前になりますが、私は20代の前半のときに、哲学者の三浦つとむという人が書いた1冊を、くり返し読みました。『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書 1968)という本です。「論理的なものの見方・考え方」に関する本の一種と言えます(三浦つとむについては第1回参照)。

哲学の中に論理学という領域がありますが、「弁証法」というのは、その論理学のひとつの切り口です(三浦さんによれば、弁証法はそれ以上のものなのですが、一般的な説明だと以上のようなことです)。

この本を――数字を言うのは恥ずかしいのですがあえて言うと――50回くらいは読みました。尊敬する南道継正さんという先生が、くり返し読むことをすすめていたのです。

南郷さんも若いころ、これをくり返し読んだのです。本がぼろぼろになるまで読んで、使用不能になるとまた同じ本を買ってきて、ぼろぼろにする。それを何回かくり返したそうです。

私も真似をして、「読んでぼろぼろにする1冊目」のほかに、スペアの2冊目を買いました。でも、1冊目すら「ぼろぼろ」にはできませんでした。

「極端なことを言っているな」と思うかもしれません。でも、受験の参考書だって、2~3回読んだだけでは頭に入りません。その人の思考のすべてをマスターしたいと思える先生の本なら、やはり相当くり返して読んだほうがいいでしょう。

「何十回も読んで、弁証法の思考は身についたのですか?」と聞かれると、「まだまだです」としか答えられません。でも、「考え方を学ぶ読書では、1回2回読むだけではあまり意味がない」というのは、よくわかった気がします。弁証法のような難易度の高い「大技」であれば、なおさらです。

くり返して読むのではなく、ノートを取りながら読むという人もいますが、おすすめできません。ノートやメモを取るのは、忘れてしまいそうな個別的情報だけにしましょう。考え方を学ぶ読書の場合は、くり返して読むことです。ノートを取りながら1回読む間に、読むだけなら10回読めます。


新書には、本の世界のエッセンスが凝縮されている


あまり読書したことがなくて、「どんな本から読んだらいいんだろう」という人には、新書をおすすめします。

新書とは、173ミリ×105ミリまたはそれに近い判型(サイズ)のシリーズ本のことです。岩波新書、中公新書、講談社現代新書などが、新書の代表的な老舗ですが、ほかにもいろんな新書が出ています。

書店へ行って、新書の棚の前に立ってみましょう。新書のテーマは、科学・哲学、歴史、文芸、時事問題、健康法、ビジネススキル、サブカル……と森羅万象にわたっています。いかにも「カタい教養書」といったものもあれば、「手軽な実用書」といった感じのものもあります。

新書のラインナップの中には、きっとあなたの関心に合うものがあります。1冊数百円から1000円程度ですから、気軽に買えます。持ち運びもしやすいです。

比較的あたり外れが少ないのが、新書の特長です。それは、新書の著者の多くが、そのテーマに関してすでに定評のある人だからです。以前にそのテーマについて、本や論文を発表して、評価を得ている人ばかりだからです。

面白いと思う新書に出会ったら、その著者の書いたほかの本を読んでみましょう。本の後ろのほう、奥付などにある著者紹介のコーナーにその人の主要著作が載っています(アマゾンなどのインターネット書店で、著者名から検索することもできます)。

そして、その著書のうちのいくつかは、新書ではない、ハードカバーなどのやや専門的な本のはずです。とくに、著者が研究者である場合はそうです。

同じ著者によるより専門的な本と新書を読みくらべてみると、専門的な本のほうに詳しい情報が載っていて、勉強になることがしばしばあります。しかし、場合によっては、あとになってからより一般向けに書かれた新書のほうが、さらに本質的で深い議論を展開していることもあります。

さらに、参考文献の案内がしっかりしているものもかなりあって、そのテーマのガイドブックになります。新書は、より深く大きな世界への窓口にもなってくれるのです。

あるテーマについて、この新書のシリーズから1冊、この新書からも1冊……というかたちで読むこともできます。一般的なテーマであれば、可能です。それで3冊も読めば、そのテーマについて、かなりの勉強ができるでしょう。

新書だけで読書の世界は成り立ちませんが、新書というのは、本の世界・知の世界のエッセンスが凝縮されている、すぐれた媒体です。おおいに利用しましょう。 


初心者は、書籍から入る


知識や情報を得るのには、いろんな媒体があります。出版物では、書籍、雑誌、新聞です(インターネットについては、あとで述べます)。

ところで、「書籍=本」の定義って知っていますか? 教育学者の板倉聖宣さんによれば、「背表紙があるかどうか」が大事なのだそうです。綴じてある印刷物は背表紙があれば「本」、なければ「小冊子」です。

初心者にとって一番大事なのは、書籍です。最も体系的で、まとまった情報が手に入るからです。初心者は、まず全体像をつかむことです。

書籍が弱いのは、「情報の新しさ」です。書籍の出版には、一般には数か月以上の時間がかかるので、時事問題などの最新情報を盛り込むことができません。そこで、書籍を軽く見る人がいます。読書や勉強法を案内する著者の中にも、そういう人がいます。

でも、それはすでに「プロ」になっている人の見方です。プロにとって大事なのは最新の情報なので、そんなことを言うのでしょう(そもそも、出版された情報自体、プロにとっては「古い」という場合も多いです)。だから、初心者は真に受けてはいけません。

経済のことを知ろうとして、いきなり日経新聞を読み始めるようなことは、無駄の多いやり方です。個別の記事はなんとか理解できたとしても、記事どうしの関連や、経済全体の流れはなかなか見えてきません。新聞記事だけでそれがわかるというのは、達人です。

新聞記事は、出版の世界では最も整理されていない、ナマに近い情報です。初心者は、もっと整理された情報から入ったほうがいいのです。つまり、書籍から入っていく。つぎは雑誌で、新聞はそのあとでもいい。

多くの人は、「最新情報」が大好きです。でも、最新情報ばかり気にしていると、物事が全体としてどうなっているか、いつまでたってもわからないでしょう。

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先ほど、「新聞記事の情報は、整理されていない」ということを述べましたが、それは本や雑誌とくらべてのことです。インターネット上の情報とくらべれば、新聞の情報は非常に整理されたものです。

最近は「新聞は読まない。ネットのニュースで十分」という人も多いです。たしかに世間の常識を知るだけなら、それでいいと思います。しかし、少し突っ込んで社会のことを知ろうというのなら、新聞は読んだほうがいいでしょう。

新聞を一度ていねいに読んでみてください。本当にいろんなことが載っています。

政治・経済などのニュースだけではありません。その背景になる知識の解説や、より大きな流れを論じたコラムもあります。出版、美術、音楽などの文化を扱った記事もあれば、健康、料理、レジャーなどの生活関連の情報もあります。あなたの関心に触れるものが、必ずあるでしょう。

それらの情報は、記者たちが世間のいろんな出来事や情報から、「知らせる価値がある」というものを選んで集めたのです。そして、私たちに届くまでにいろんなチェックを経ています。

私は以前の仕事(会社を立ち上げたとき)の関係で、新聞の取材を受けたことがあります。その取材のインタビューのあと、数百文字の記事をまとめるにあたって、記者はいろんな事実関係を(電話で)再確認してきました。記事にまちがいがないように、ということです。

新聞記事は一般に、相当な取材や確認をして書いているのです。さらに、記事の原稿を上司や専門部署がチェックすることも行われます。

このように、手間ヒマかけた情報がたくさん集まっているのが新聞です。読んで勉強にならないわけがありません。ただ、初心者には情報が膨大すぎて扱いにくい面がある、ということです。

本や雑誌をつくる出版社でも、信頼できる著者が書いた原稿を、編集者や専門部署がチェックしています。実績や信頼のある出版社ならば、それを行っています。

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これに対し、インターネットの情報の多くは、新聞や出版社で行うような選別やチェックが入っていません。

選別がなされず「いろんなものがある」というのは、インターネットの魅力です。しかし、きちんとしたチェックが入っていないのでは、まちがいが多くなります。いい加減な人がでたらめを書いても、そのまま「情報」として公開されてしまう。それがネットの世界です。

インターネットの情報は、伝統的な出版の情報にくらべると、各段に信頼性が落ちるのです。中には信頼のおける発信者もいますが、全体でみれば少数派です。だから扱いがむずかしいです。

以上のようなインターネットの特性は、近年はかなり認識されてはいます。しかし、一方で「情報はおもにネットから」という人は、年々増えているわけです。だから、ここでもくり返す意味はあるでしょう。

もちろん、本や新聞の情報にもまちがいはあります。きちんとした出版社の本でも、「これはまちがいだ」と気がつくことはあります。本に書いてあることでも、簡単にうのみにしてはいけません。それでも、多くのネットの情報よりはずっと確かです。

そこで、ネットの情報とうまくつきあうには、それなりに勉強していないといけないのです。勉強していれば、情報の「あやしい部分」と「使える部分」を区別して利用できます。それさえできれば、インターネットはとても便利な道具です。いろんな知識への手がかりを与えてくれます。

しかし、勉強していないと、ネットのまちがいをうのみにしてしまいます。それをくり返していると、頭の中にガセネタやフェイクをいっぱい抱えることになります。

そうならないためには、どうしたらいでしょうか? 大事なのは、調べものをするとき、インターネットばかり使わないで活字の情報にもあたることです。多くの専門家は、ちょっとした調べものは、まず専門の辞典にあたります。こうした辞典は、専門家が書いた原稿を、ほかの専門家が徹底的にチェックしてつくります。とくに信頼度の高い出版物なのです。

だから私たちも、関心のある分野については、専門辞典などの参考図書を手元に置くといいでしょう。辞典には、プロ仕様の本格的なものだけでなく、ふつうの人にも扱いやすい小型のものもあるので、それでいいです。それを、機会があるごとにひいてみるのです。

そうやって勉強を重ねていくと、ネットの情報をうのみにはしなくなります。そして、ネットの世界に活字の情報を補うものをみつけて、うまく使えるようにもなるはずです。

子ども向けの本には、大事なことが書かれている


人類がこれまでに築きあげてきた学問の成果を集大成した書物があります。学校の教科書です。学問全般の広い知識が得たければ、学校の教科書を読むことをおすすめします。それも、中学校の教科書でないといけません。高校の教科書では駄目です。

高校の教科書は、詳しすぎるのです。つめ込まれている情報量が多すぎて、本当に大事なことは何なのかが、わからなくなってしまいます。また、初心者にはむずかしすぎて、ひとりで読み通すこともできません。

「学校の教科書で勉強するのがいい」というのは、かなりの人が言っています。すると、ほとんどの人が高校の教科書で勉強しようとします。でも、それではいずれ投げ出してしまうでしょう。私もそうでした。

でもあるとき、南郷継正という先生が、「中学の教科書がいい」と言っているのを読んで、目をひらかされました。

中学の教科書には、学問・芸術の最も基礎的で重要な成果だけがのっています。一番熱心に読んだのは、歴史の教科書です。古代から現代にいたる歴史について、基本的な常識を知ることができました。

理科の教科書には、物理学、化学、地質学、生物学などに関する初歩的な知識がつまっています。保健体育の教科書は、南郷さんの言うように、生理学の教科書です。美術の教科書や資料集には、誰もが知っておいていい、美術史上の名作が並んでいます。

教科書は、一般の書店では売っていませんが、指定された書店などの「教科書販売所」で買うことができます。

教科書だけでなく、子ども向け(小・中学生向け)の本を読むことは、ものごとの全体像や基本をつかむ上で、いい方法です。子ども向けの本では、大事なことがごまかされずに書かれています。そうでないと、子どもたちは読んでくれません。これは、板倉聖宣さんが言っていました。

実際に「子ども向け」という本を手に取ってみると、子どもにはむずかしすぎる、詳しすぎる、と思えるものも多いです。いい内容であっても、です。でも、それがふつうの大人にはちょうどよかったりするのです。


古典を読んでつまらなくても、気にしない


読書で深い学びをするには、どんなものを読めばいいでしょうか?

「最先端」や「通」な感じのする本を読むのは、自分の成長をめざすうえでもちろん悪くないのですが、そればかりにならないように気をつけましょう。

「最先端」「通(な感じ)」だけでなく、「古典」といわれるものを読むと、あなたの読書による学びには深みや厚みがぐっと出てくるはずです。

「古典」とは、いろんな知識人や読書家が言及する「超有名な本」のうち、少なくとも今から50~60年以上前に書かれたもの。なかには数百年以上前のものもあります。もちろん「最先端」ではないし、「超有名」なので「通」な感じもしません。そんな「古典」が、各分野にあります。

とにかく、「古典は大事」というわけです。しかし、実際に読んでみると、きっとつまらないはずです。あなたが悪いのではありません。古典は、つまらないのがふつうです。古典というのは、あたり前のことを、古くさい文体でくどくど書いているものだからです。

そのことに気がつくまで、私は何年もかかりました。もっと早く気がつくべきでした。

古典のメッセージは、現代の私たちにとって「常識」となっています。のちの思想や学問に大きな影響を与えたというのは、そういうことです。偉大な古典ほど、現代では「あたり前」のことを言っています。

たとえば、相当に古い「古典」ですが、フランシス・ベーコンとかデカルトといった、近代初頭(1600年代)の大哲学者は、「アリストテレス(紀元前300年代)などの古代の学説をうのみにするのではなく、自分の眼と頭で考えなくてはいけない」と言っています。そのことを一生懸命説いています。

アリストテレスは、古代ギリシアの哲学者です。当時は、「古代の学説」が絶大な権威を持っていたので、こういう主張は革新的かつ刺激的なものでした。

でも、今の私たちは「アリストテレスを疑え」と言われても、ピンときません。何とも思っていないものを「疑え」と言われても、とまどってしまいます。

古典というのは、だいたいこんな調子です。読んでつまらなくても、気にしないことです。

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とりあえず、古典そのものは読まなくてもいい。でも、「古典のまわりをうろうろする」ということは、やってみたらいいと思います。つまり、現代の著者が古典の世界について解説したり議論したりしている本を読むことです。

科学史や哲学史の全体的な流れを扱った本も、ぜひ読んでみてください。偉大な古典は、科学や学問の最も大切な問題を、真正面から扱っています。さっきのベーコンやデカルトも、「古代の学問にかわる新しい学問はどうあるべきか」という「大問題」を論じています。

ベーコンは、「科学の成果は産業に応用され、社会を変える」と言いました。デカルトは、「新しい学問では、数学が重要だ」と言っています。やっぱり、あたり前のことを言っているのです。

古典を語ることは、科学や学問の核心に触れることになります。たとえば、「科学と学問」とか「仮説・実験」といった、学問の基本的なイメージや方法について学ぶことになるのです。そして、じつは「最先端」と言われる議論には、古典で議論されてきた核心的な問題に新しい光をあてた、というものも多いのです。

実際は、「核心」など伝わってこない本が多いです。でも、感動的にわかりやすく書いてくれる著者もいます。そういう著者に出会うことができた人は、幸運です。

私の場合は、そのひとりが板倉聖宣さんという学者(この記事で何度も登場)でした。科学史の研究者である板倉さんは、コペルニクスやガリレオなどの科学者について本を書いていました。それら近代科学の開拓者を通じて、「科学的とはどういうことか」を論じていました。そして、そこから「現代の科学教育をどうすべきか」という問題について、具体的な提案を行っていたのです。

私の場合、古典のまわりをうろうろすることで、「これだ」と思う先生にめぐりあえた、ということです。だから、あなたにも「古典のまわりをうろうろする」ということをおすすめします。そのうち、歴史的なことや、いろんな背景がわかってきて、古典そのものも楽しめるようになります。


カバンの中に、3冊の本を入れて持ち歩く


カバンの中に本を入れて持ち歩いていますか? 読みかけの本を1冊入れている人は、かなりいるでしょう。でも、何冊も持ち歩いている人は少ないのではないでしょうか。重たいですから。

でも、本当に本が好きでよく読む人は、常に何冊もの本を持ち歩いています。私も、いつも2、3冊はカバンの中に入っています。

カバンの中に本を入れておくのは、待ち合わせや移動の時間など、毎日の中でふいにやってくる「本を読める時間」を逃さないためです。忙しい合間に、カバンから本を取り出して読む人が、たくさんの本を読める人です。

でも、せっかく「本を読める時間」に出くわしても、読めないことがあります。もちろん、カバンの中には本が入っていますが、「今読みたいのはそういう本ではない」というときです。科学の本が読みたいのに、文芸書しかカバンの中に入っていない。軽いものが読みたいのに、堅い本しか持っていない。そういうときは、なかなか読めません。

「今何が読みたいか」という欲求は、体調のように変化します。その変化に対応できるように、今読んでいる本の中から、タイプの異なるものを複数カバンの中に用意しておく。そして、そのときの欲求にあったものを読むのです。そうすれば、「甘いものが食べたい」と思ったときに甘いものを食べるとおいしさがしみわたるように、本の中身がしみわたってきます。

何冊もの本を平行して読むこと。それらの本を持ち歩くこと。それが、たくさん読むコツです。おいしく味わって読むコツでもあります。

机に向かっていては、本は読めない


「本は書斎の机に向かって読むもの」と思っていると、読めません。自分を振り返ってみても、机に向かって読んでいる時間というのは、そんなに多くありません。

本が一番読めるのは、書店のそばのカフェに入って読むときや、帰りの電車の中で読むときです。そういうとき、「読みたい」という気分が最も盛り上がっています。そこでざっと拾い読みしたときの内容が、一番頭に残ります。本から得た知識の半分くらいは、買った直後に読んだものかもしれません。

買ってきた本は、家に帰ると机やベッドの脇に積んでおきます。そのときすでに「読む気」は急速におとろえています。積んだまま何か月も読まないことも多いです。

買った本は、すぐに本棚にしまい込んではいけません。そのまま読まないで終わってしまいます。目につくところに積んでおきましょう。

つぎに本が読めるのは、ベッドの上です。ベッドの脇に積まれた本の中から、ふと思い出した本を取り出して読みます。仕事から帰って、風呂あがりの「やれやれ」というときに、寝ころがったままページをめくります。休日に、何時間もベッドの上で読んでいることもあります。

ベッドの上の読書は、ストレスのない楽しい時間です。ベッドの上でなく机に向かって読んでいたら、疲れるでしょう。

たくさん読むコツは、「読みたいときに読む」ことと、「楽にして読む」ことなのです。それを、意識的にやっていくことです。

(第3回に続く)
第3回は、読書論の続きです。「本との出会い方(買い方含む)」について。

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