勉強は、結局は独学しかない(1)まず「何か」を選ぶ
はじめに
「そういち総研」として、noteでおもに世界史の記事を書いている秋田総一郎といいます。著書に『一気に流れがわかる世界史』(PHP文庫)などがあります。
この本は世界史の概説的な入門書ですが、私は歴史の研究者でも学校の先生でもありません。会社勤めなどの仕事の傍ら、おもに読書によって独学した成果を商業出版したのです。「ふつうのサラリーマンが、独学で(教養的な分野の)著者になった」ということです。
私は、自分のことを「それなりの独学の熟練者だ」と思っています。
独学や勉強といっても、試験勉強や、ばくぜんと教養や博識を求める勉強については、私は興味がありません。また、私はいわゆる「成功」には縁がなく、能力的に至らない点も多々あります。
それでも、「自分なりの問題意識をもとに勉強を深め、読むに値する作品(文章)を発信する」という意味での独学・勉強については、かなりの経験があるつもりです。
このような「自分で考え、知識を深め、発信する」ための独学の力は、そのほかの実務的な能力とかけ合わせれば、「成功」にも役立つはずです。
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私には、「独学入門」ともいえる、勉強法についての商業出版の著書もあります。『自分で考えるための勉強法』(ディスカヴァー・トウェンティワン、電子書籍)です。
この記事は、この「勉強法」の本の一部(全体の数分の1)を編集したものです。全5回を予定しています。
この記事で述べているのは、まず、「大人になってからの勉強は、結局は独学しかない」ということ。
そして、独学による勉強の大事な原則といえる「自分にとっての〈先生〉をみつける」ということについて。
「独学なのに先生?」と思うかもしれません。しかし、独学だからこそ、じかに会うことができなくても、書物などを通して自分の考え方や知識の土台を築くうえでの「先生」を意識的にさがすことが大事なのです。そして、その「先生」に丁寧に学ぶことです。
そこまでのことは、いきなりはむずかしいかもしれません。そこで、まずは特定の限られた分野やテーマについて「信頼できる本・著者」を探すことからはじめるといいでしょう。
そんなことを、以下述べていきます(サムネイルの写真は、私の「団地の書斎」です。古い団地をリノベして、もう20年近く住んでいます)。
大人になってからの勉強は、全部独学
大人になってからの勉強は、結局のところ全部独学です。大人になったら、手とり足とり教えてくれる人は、もういません。書物や専門家といった情報のありかへ、自分で問いかけ働きかけていくしか、方法はありません。
勉強に必要な条件は、自分自身の意欲を別にすれば、ふたつだけです。必要な情報にアクセスできること、情報や意見を交換する仲間がいることです。
学校は、「情報」がアクセスしやすいように集まっている場所です。質問すれば先生は答えてくれるし、勉強する仲間が集まっていて、話ができます。
学校では「情報」も「仲間」も、たいした努力なしに手に入ります。そして設備や道具もそろっている。だから学校は、行く値打ちがあるのです。行けるのなら、学校へは行きましょう。
そして、会社などの職業の世界にも、学校のように「情報と先生・仲間がそろっている」ことがあります。
でも、情報や仲間が手に入るのは、学校や職場だけではありません。このふたつが手に入るのなら、学校などに行かなくても学ぶことができます。
本質的な問題は、「自分の勉強や研究を進めるのに、情報や仲間をどう確保するのか」ということです。たとえば、本を読むこともそうですし、共通の関心を持つ仲間でサークルつくったりするのも方法です。私は、そうやってきました。
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しかし分野によっては、学校や専門的な職業の世界を離れてしまったら、必要な情報が入手できなくなる場合があります。
たとえば、自然科学の場合は典型的です。すぐれた科学者の多くは、若いころにすぐれた先生のもとでじかに教えを受けています。科学の本や論文をいくら読んでも、科学者になるのはむずかしいです。
科学論文は、結論だけを簡潔に書いています。そこからは、結論にたどりつくまでの「ああでもない、こうでもない」というプロセスはわかりません。実験の具体的なノウハウもわからない。
でも、プロになるにはそのプロセスやノウハウを知ることが、どうしても必要です。
研究に必要なノウハウや発想は、先生が研究しているプロセスをそばで見たり聞いたりして覚えるしかありません。
でも、それはいわば「芸を盗む」ということで、きわめて主体的な行為です。「手とり足とり」ではありません。弟子入りしながら、本質的には独学をやっているのです。
やはり、勉強というのは独学しかないのです。
まず「何か」を選ぶ。それは、先生を選ぶこと
では、大人としての勉強、つまり独学をはじめるとして、必要なことは何か?
まず、「何か」を選ばないといけません。ただばくぜんと「何か勉強したい」というのでは、前に進めません。
ただばくぜんと「強くなりたい」というのではなく、空手なのか柔道なのかボクシングなのかを決めて、どこかの道場の門をたたかなくてはならないのと同じです。「どんなことをしたいのか」「誰に学ぶのか」を決めるのです。
そのうちとくに大事なのは、「誰に学ぶか」ということです。
「どんなことをしたいのか決めなさい」というのは、よく言われます。でも本当は「どんなことをしたいのか」よりも、「誰に学ぶのか」という問題のほうが優先されるのです。
ふつうは、「興味のある分野がまずあって、それに合った先生を選ぶ」というのが筋のように思われます。
しかし、何かある分野にのめり込んでいくきっかけというのは、その分野へのばくぜんとした関心よりも、むしろ「特定の誰かの仕事に感動して」というほうが多いのです。
文学にのめり込む人は、ある作家の作品に感動したことから入っていきます。音楽なら、特定のアーティストから入っていく。学問なら、誰かの理論や学説です。
ある「誰か」との出会いこそが、決定的な意味を持っています。その誰かがみせてくれる豊かな世界が、あなたの関心や志をつくっていくのです。感動できる誰かを見出すことが、まず必要です。その誰かが、あなたの「先生」です。
「中立・公平な偏らない立場でいたい」というのでは、いつまでも初心者のままです。特定の先生にのめり込んで、偏っていくことではじめて、本格的な上達への道がひらけます。
ぜひ、何かを選んでください。そして、何かを選ぶとは、先生を選ぶことなのです。
じかに教えてもらえなくても、最高の先生をさがそう
ここで「先生」というのは、あなたが「こんなふうに考えることのできる頭になりたい」と思える人です。「その思考のすべてを真似したくなる人」です。
でも、その人があなたにとって遠い世界の人だったら、どうすればいいでしょう? 先生が高名な文化人や学者などであって、じかに教えを受けることが困難な場合は?
会えなくても、著作をくり返し読みましょう。講演会があれば、行きましょう。先生は、ひとつしかないあなたの頭をデザインするためのお手本です。「この人だ」と心から思える人を選びましょう。じかに教えを受けることができなくたって、最高の先生をさがすことです。
担任の先生のように、あなたの身近にいてものを教えてくれる人はもちろん大切です。でも、根本的なものの考え方に関して、安易に「身近な先生」の言うとおりに自分の頭をデザインしてはいけません。
でもかなりの場合、「身近な先生」に情が移ってしまって、「最高の先生」が言っていることよりも、身近な先生の言うほうを尊重してしまうものです。学校でたまたま受け持ちになった先生や、会社の上司などを基準にものを考えてしまう。
身近な先生が駄目な人だと、「オレの言うことだけ聞いていればいいんだ」と言うはずです。自分が最高の先生を求めることなく、身近な先生だけを大切にして育ってきたからです。
もし、身近な先生がすぐれた人なら、「世の中にはすごい人がいるんだ、自分なんかを〈先生〉にしたら駄目だ」と言うでしょう。その人にはきっと最高の先生がいて、その大切さがわかっているのです。
私が高校生のとき出会った若い先生が、そんな人でした。その人は、高校の剣道部でコーチをしていたのですが、部活のミーティングでどういうわけか、哲学の講義を始めてしまう。それが、どの授業よりも面白かった。
身近な先生に素敵な人がいたら、「あなたの〈先生〉は誰だったのですか?」と聞いてみてください。傾倒している人や愛読書を聞くのです。「身近な先生の先生」があなたにとっての「先生」になるかもしれません。私もそうやって、自分にとっての最高の先生をみつけたのです。
まず、ひとつのテーマで「これだ」という本をさがす
よい「先生」がみつかったら、勉強は半分成功したようなものです。しかし、先生に出会うのは、むずかしいことです。「その人の思考のすべてを真似したくなる」なんて、そうあるものではありません。「なんだか洗脳みたいだな」と、抵抗を感じる人もいるでしょう。
でも、最初はそんなに堅く考えることはないのです。最初はささやかな形で「先生を選ぶ」ということをやってみましょう。
たとえば、経済学を独学しようとしたとします。すると、教科書を選ばないといけません。経済学の教科書はいろんなものが出ています。その中から、自分の学力や「なぜ経済学を勉強するのか」という目的に照らして、教科書を選ぶのです。
「経済学」というのはずいぶん大きなテーマですが、特定の時事問題のようにもっと小さなテーマでも、たくさんの本があります。よい本もあれば、そうでもないものもあります。勉強するなら、その中からよい本を選ばないといけません。
あるテーマについて、「これはいい本なんじゃないか」というものを選んでいく――多くの人は、これが苦手です。子どものころから、教科書というのは自分でみつけるのではなく、つねに与えられるものだったからです。
学校では、「この本を読んで、書いてあることを覚えなさい」という訓練ばかりをします。
だから、大部分の人たちは、「このテーマについて、いいと思う本を自分で選びなさい」と言われると、とまどうのです。そして結局、身近な書店でたまたま並んでいた本を買ってくると、もうほかの本は読まなくなってしまいます。
でも本当は、勉強を始めるときにはできるだけ大きな書店に行って、関係のありそうな本を何冊も手にしながら、「これかな」と思える本をさがさないといけないのです。
ここで買って帰った本は、「とりあえずの教科書」です。その本で勉強しながらも、書店へ出かけては、その分野のいろんな本を手に取ってみることが必要です。「これだ」と思える、もっとよい本がみつかるかもしれません。あるいは、「とりあえず」と思って買った本が、最初思った以上によい本だったことを発見するかもしれません。
このように、時間と労力をかけて「これを自分の勉強の中心にしよう」という本を決めていくのです。その過程で、すでに相当勉強していることになります。
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まず、限定されたテーマで「教科書を選ぶ」ということを経験してみてください。
お金を払って本を買うということは、リスクを取るということです。まちがってつまらない本を買ったら、お金を無駄にしたことになります。私も本を買うときは、損をしないように、手にした本にざっと目を通しながら、「この著者は信用できるのか、この本は本物か」ということを、懸命にさぐろうとします。
でも、買った本の何割かは結局お金の無駄になっています。そうやって何度も失敗して、少しずつ「目利き」になっていくのです。
そういう経験を積んでいない人に「先生をみつけよう」というのは、じつは危険なことです。「先生をみつけることが大事だ」と私は言っているのですから、心配です。
たとえばあやしげな「カルト」や「トンデモ」な世界にはまってしまう人は、「限定されたテーマについて、いいと思う本を自分で選ぶ」といった、ささやかな「賭け」さえほとんど経験してこなかったことが多いのです。学校や親が与えてくれるものだけで育った人が、それとはちがう価値観を求めはじめたときは、あぶないのです。
「先生に出会う」ことは重要です。でも、いきなり会えるものではありません。出会うためには、長い時間をかけて求めていかなければならないのです。
「先生」の本は、全部読む
「先生」と決めた人の著作は、全部読みましょう。主要な著作だけではなく、「全部」です。「全部読め」と言われて「そんなこと無理」と思うようだったら、あなたはその先生の仕事に、たいして感動してはいないのです。全部を読みたくなってしまう人こそが、あなたの本当の先生です。
先生と出会ったころは、うれしいものです。先生の著作を一冊読むたびに、自分の世界がひらけていく、自分の頭がよくなっていく気がします。わくわくした気持ちになります。
出会ったころの勢いで、先生の著作をどんどん読んでいきましょう。先生の全集や著作集が出ていたら、まず買いましょう。
本屋さんやネットの書店で先生の本をみかけたら、片端から買いましょう。本屋さんで手に入りにくいん本は、図書館でさがします。そのうち古書でみかけたら、買いましょう。
つぎに、雑誌や学会誌の論文などをさがします。先生の書いた文章には、全集や単行本におさまっていないものもあります。これはおもに図書館でさがします。
さらに、先生や関係者が私的なサークルを主催している場合、たいていはその会報などサークル内限定の出版物があります。これは、多くの場合、書店や図書館にはありません。サークルの会員になるか、その会合に出かけて行くなどして、手に入れます。
創造的な仕事をしている先生には、そういう私的な研究の場を持つ人が少なくありません。限定された仲間うちだけで意見交換を行いながら、研究・創造を練り上げていくのです。「サークル限定」の出版物や発信を読むことは、先生の仕事のプロセスがわかり、大変勉強になります。
先生の書いたものを全部読むことによって、その先生の仕事を知る以上のことが身につきます。本の買い方・さがし方から、研究サークルへの参加や運営の仕方など、あなたが自分の知的世界を築くのに必要なノウハウの基礎が身につくのです。
文字どおり全部読むのは、やはり大変かもしれません。でもとにかく、先生の仕事はよく知られた主要著作だけではない、ということです。先生の仕事のいろいろな面に目を向けることが、大切なのです。
「先生」の本をベースに、知識を広げる
「特定の先生の本ばかり読んでいたら、視野が狭くなってしまうんじゃないか」なんて心配する必要はありません。先生の本はまず全部読みます。そしてまた読み返す。それと平行して「先生の本に出てくる本」を読みましょう。
まず、先生が「自分の先生」だという人の主要著作。これが第一優先です。つぎに、「すぐれた本」「とくに参考になった本」として推薦している本。ここまでは、ぜひ読むようにしましょう。
以下については、関心が持てそうなものを選んで読みます。
・資料や情報源として先生が使った本。いわゆる「参考文献」
・先生の弟子、あるいは先生に強く影響を受けた人の本
・先生が批判的に取りあげている本
・先生をほめている人の本、批判している人の本
・先生の専門分野についての、定評ある教科書・基本書
以上のような本を読んでいくと、結果的に相当いろんな本を読んでいくことになります。「先生」を核に、自分なりの知識のネットワークができていきます。もしそうならないようなら、あなたが怠けているか、先生選びをまちがえているか、どちらかです。
私も、最初からこういうことを意識していたわけではありません。むしろ、「先生以外のいろんな系統の本も読まなくては」と思っていたのです。しかし、読もうとするとどうもむずかしかったり、読みにくかったりする。それで結局、先生関係の本が多くなってしまいました。
でも、そうやって先生の本や関連図書を読んでいるうち、結構いろんな本を読んでいることに気がつきました。
「幅広い視野を持とう」として思想全集を片端から読んでいくようなやり方は、非効率です。身につかないし、そういう無理な読書は続かないでしょう。
まず、「芋ヅル式読書」を心がけよう
「先生の本をベースに知識のネットワークを広げていく」というのは、理想的なかたちです。でも、まだ「先生」といえるほどの対象がみつからない人でも、これから紹介する方法は、有効な読書法として使えます。
「いい本だな」と思ったら、同じ著者の別の著作を読む。参考文献などの関連図書を読む。ある本を出発点として、「芋ヅル式」に本を読んでいくのです。
その第一歩は、「読んで少しでもいいと思った本は、著者の名前を憶えておく」ということです。
「そんなことあたり前じゃないか」と思うかもしれません。しかし初心者は、まずそれができていないことが多いのです。「この前面白い本を読んだ」と言うので、誰の書いた何という本かを聞くと、タイトルはどうにか思い出せても、著者名は駄目なのです。「なんとかいう評論家だったんだけど……」とあやふやになってしまいます。
本で一番大切なのは、タイトルではなく、誰が書いたかです。
たとえば、子どものころ、マンガを読み始めたばかりの時期には、「ドラえもん」のような個別の作品を面白いと思うだけです。でも少し成長すると、「藤子・F・不二雄」という作家を意識するようになります。「藤子・F・不二雄という人の書いたマンガなら、ハズレが少ない」といったことに気がつくようになるのです。
誰もがそうなるわけではありません。そこに気がつく子と、そうでない子に分かれていく。気がついた子の中から、熱心なマンガ読者が育っていきます。
著者名を憶えていないと、本屋さんにその人の著作が並んでいても気がつかないので、芋ヅル式読書ができません。
「誰が書いたか」ということに注意を払わない読書では、世界が広がっていきません。まずは、そこに注意を払うことから始めましょう。
「すごい」と思う人に会いに行こう
そして、著作などの仕事に触れて、「この人はすごい」と思える人がいたら、ぜひ会いに行きましょう。
講演会とか研究会とか、その人のいる集まりへ出かけて行くことです。いっそ、真剣に手紙を書いて「お会いできないでしょうか」と申し込んでみてもいいです。
会ってくれるでしょうか? 可能性はあると思います。一流の人が、ふつうの人に対し意外にオープンなことも、結構あるのです。
「偉い先生のところなんて、私はとても」と思うかもしれません。大学生のときの私もそうでした。「そういう先生のいる場に、こんな若造が顔を出しても恥をかくだけだ」と思っていました。
でも、初めて私に学問のことを教えてくれた身近な先生(前に述べた剣道部の先生)が、「若いうちは、度胸さえあればどんなところへも行ける」と言って、ある先生の主催する勉強会に行くことをすすめてくださいました。
それで、友だちと二人で勉強会に出てみました。十数人ほどの集まりで、若いのは私たちだけ。最初は緊張したのですが、参加者の人たちは「若い人が来た」ということで歓迎してくれました。先生も声をかけてくださいました。
多くの研究的・文化的な集まりでは、若い人は歓迎されます。その場でかまってもらえなくても、好意的にみられています。あんまり若い人が来ないからです。関心があっても、「私なんて」と思っている若い人が多いからです。
私もオジさんなのでよくわかるのですが、自分たちの活動に若い人が来ないと、さびしいものです。だから、若者がやって来るとうれしい。知識や才能なんて関係ない。若いだけでいいのです。若い人は、この特権をフルに活かして、自分の世界を広げていくことです。
「集まり」に参加したときは、くれぐれも自分のことを大きくみせようと、知ったかぶりなどしないことです。自分の関心や感じたことを、素直にまじめに表現する。それが大事です。
すでに若くない人も、そういう気持ちさえあれば大丈夫です。
ほめてくれる人が、「先生」とはかぎらない
「どんな先生を選んだらいいか」ということは、一概には言えません。私にも自分の「先生」だと思っている人が(すでに故人ですが)いるわけですが、その人があなたにとってよい先生かどうかはわかりません。あなた自身で、あなたが感動してついていきたくなる先生をさがしてください。
でも、先生選びについて、「こういう人は気をつけて」というアドバイスならできます。
まず、「私についてきなさい」という人には気をつけましょう。にせものの可能性があります。拒んでも人が集まってくるくらいが本物です。あるいは、本物は自分の仕事に必死で、弟子など集めるヒマがないのです。
もちろん、権威ある大学教授が「自分の研究室にいらっしゃい」と言ってくれるような場合は別です。でも、そういう声がかかる秀才は例外です。ふつうの若い人は、誰にも声をかけてもらえません。私も、そうでした。
「にせもの」があなたをひきよせる手段として、そういうあなたのさびしさを突いてくることがあります。「にせもの」があなたをほめるのです。「君は才能があるね。みどころがある」と言うのです。
ほめるだけだったら、その人はあなたを勇気づけてくれたありがたい人です。素直に感激して励みにしましょう。そういうときに感激できる、というのは大事なことです。
しかし、「にせもの」の場合、ほめ言葉であなたをとり込もうとするのです。「感動」が出発になる、と私は言いました。でもその感動というのは、「先生のすばらしい仕事」への感動です。これと、「自分をほめてもらった感激」とを混同してはいけません。
そのうち「にせもの」は、高い「お布施」を取ったり、「出家」をせまったりするようになるでしょう。それが「にせもの」ということです。
先生に値する人は、あなたに学校や会社を「やめろ」とは言いません。たとえば科学者をめざしている人が、大学をやめてどうやって研究を続けるのでしょう。
先生に値する人ならば、他人の生活や人生を左右してしまうことの重さを、十分にわかっているはずです。
学校に行かないで、哲学者になった人がいる
ここで(この回の最後に)私が好きな、ある「独学者」の話をさせてください。その人は、学校に行かなくても著名な哲学者になったのです。
明治生まれの哲学者・三浦つとむ(1911~1989)は、家が貧しかったため思うように学校に行けませんでした。彼は、東京府立の工芸学校(今で言えば高校程度)中退という学歴です。
しかし、戦後の昭和期に在野の思想家として多くの著作を発表し、1989年に亡くなったときには、新聞にそれなりの記事が載るような著名な知識人になっていました。
彼は、昭和では今よりもはるかに多かった左翼系の知識人です。「言語過程説」という言語学の理論での功績や、「マルクス主義者としては世界的にも早くから(1950年代前半に)ソ連の独裁者スターリンを痛烈に批判した」ことで知られました。
「スターリン批判」というのは、今の時代だとなんのことだかわかりにくいので、少し説明します――当時(1950年頃)はソ連の社会主義にはたいへんな勢いがあり、西側(欧米・日本)の知識人にもスターリンの信奉者は多くいました。当時のスターリンは「共産主義という宗教」の「教皇」みたいなものでした。
そしてスターリンは、これも今の時代ではわかりにくいことですが、哲学や言語論といった学問的な理論を彼の名前で公表していました。
これはスターリンが単なる政治指導者ではなく、人類を導く「万能の超人」であることを示そうとするものでした。そしてスターリンの理論は、世界中の左翼のあいだで最高の権威とされていたのです。
三浦はこの「教皇」「万能の超人」に論戦を挑んだ。それも「ある部分をとりあげてちょっとケチをつけた」などというものではなく、言語論などの分野で堂々と系統だった議論を行ったのです。
これはカトリックの世界にたとえれば、一介の神父がローマ教皇に神学論争を挑んだようなものです。つまり、ずいぶん無茶なことをしたわけです。
しかし、三浦のスターリン批判は内容がすぐれていたので、相当な反響や賛同を得たのでした。その後「スターリン批判」の動きは世界に広まっていきます。のちに三浦は、その先駆者として評価されるようになりました。
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つまり三浦は、当時の世界で「最先端」といえる理論的実力をもつ知識人だった、ということです。でも肩書としては「高校中退」の物書きにすぎませんでした。
そして三浦は、このような理論的活動のほかに、一般向けの啓蒙的著作を多く残しています。本格的な理論と啓蒙的著作の両方で旺盛に活動したのです。
その一般向けの著作のなかには数十万部のベストセラーになったものもあります。彼が残した哲学や言語論の入門書の代表作は、今も新書や文庫で新刊として読むことができます。
私は高校生のとき、三浦の本で初めて哲学の世界に触れました。恩師にすすめられて、三浦の哲学書を読み始めたのです。
あのころ、三浦の本を読んでいて、「自分にも哲学の本が読める、読んで一応わかる」というのが、とてもうれしかったのを憶えています。ほかの本は、私にはむずかしすぎました。
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三浦という人は、どうやって勉強したのでしょうか。
まず、若いころは貧乏であまり本が買えなかったので、書店で立ち読みして、短時間で必死に頭に入れたそうです。昔(戦前)は、図書館が発達していなかったので、仕方なかったのです。
それから、少し変わった仕事をしていました。ガリ版(コピーが普及する前に一般的だった簡易な印刷方法、その原版)作成の内職です。
それも、東大の講義ノートのガリ版をつくっていました。まじめな学生が書いた講義のノートを何冊か集めて、それを集約した参考書のようなものをつくる。そうやって、東大の講義をふつうに受ける以上の知識を身につけました。
また、三浦の「文章家としてのデビュー」も、かなり「異端」なかんじです。
三浦が若いころに通っていた映画館で、毎週発行していたミニコミ誌のようなチラシがあり、彼はそこにしばしば投書していました。その投書がいつもすばらしいので、映画館主が、彼に原稿を依頼した。そして毎号、映画の短評を書くようになったのが、彼の「デビュー」です。
三浦の生い立ちや勉強のことを初めて知ったとき、若い私は「そんな人が、この世にいたんだ」と、感動しました。そして、「独学」というものにあこがれや可能性を感じるようになっていきました。
最初に述べた「勉強というのは、本質的には独学しかない」というのも、三浦が述べていたことです。
(その2へ続く)
その2では、独学の最大の手段といえる、読書の方法論の基本について、さらに述べます。
