津田梅子・不自由な母国で道を切りひらく【手のひらの偉人伝26】
明治4年、数名の少女が国費の留学生として米国に渡りました。その最年少が、6歳の津田梅子(1864~1929)。5千円札の顔で、津田塾大の創設者です。
彼女は通訳である藩士の娘です。父親は娘に完全な英語力などを与えたかったのです。
渡米の11年後、17歳の梅子はともに留学した女子1名と帰国(ほか1名は前年に帰国)。一緒に渡米した女子はほかにもいましたが、やや年齢が高かったせいか異国に適応できず、早期に留学を断念しています。
ただ、留学から帰国しても梅子たちには、仕事がありませんでした。政府は「米国育ちで日本語が不自由だし、女子には適当な仕事がない」と、国費で教育した女子の人材を、活用しようとしなかったのです。
梅子の留学仲間2人は、やがて有力者やエリートと結婚。梅子も結婚をすすめられます。
しかし梅子は「自分を国や社会のため生かしたい」と、食い下がって仕事を求めました。
以下、彼女の職歴。
1.アルバイトの英語講師
2.伊藤博文に認められ、伊藤家の子供の家庭教師
3.華族の令嬢のための女学校(華族女学校)の教師 帰国後3年で、やっと就職。
4.24歳で休職し、米国の大学に2年半留学 指導的な教育者になるために大学教育が必要と考えた。大学ではのちにノーベル賞を受賞するモーガン教授のもとで生物学を専攻。モーガンは梅子を高く評価し、2人の共同名義の論文もある。
5.留学を終え、華族女学校に復帰。その8年後、自分の学校をつくるため退職
6.1900年(明治33)、女子の英語教育の私塾(後の津田塾大)を創立
このとき、梅子は36歳。あとは生涯独身で塾内に暮らし、教育に尽力した生涯でした。
どうでしょうか。「最初の女子留学生→学校創設」というのは、エリートとしての自然な成り行きではなかったのです。
たしかに彼女は、特別な教育を受けました。しかし日本という、言葉や多くのことが不自由な母国で、懸命な努力で道を切りひらいた人なのです。
そんな梅子を応援する人たちもいました。
彼女の学校には、最初の留学で出会った富豪の夫人などによる、米国からの寄付がありました。留学仲間も彼女が支援を得るために協力しています。また、彼女のため懸命に働く弟子もいたわけです。
彼女は多くの人に支えられていました。それにふさわしい人だったともいえます。
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*古今東西の偉人を数百文字で切り取って紹介した記事を、その都度思いつきでアップしています。
(参考文献)
・大庭みな子『津田梅子』朝日文庫、2019年
・古木 宜志子『(人と思想)津田梅子』清水書院(新装版2016年)
タイトルの写真は旧版
「手のひらの偉人伝」の前の記事。マガジンにもまとめています。
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