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民草が紡ぎし絵巻 第10巻 初めて鍋を囲んだ夜


焼き上がった土器へ、母は水を注いだ。

皆が黙って見ていた。

底から水が漏れれば、それで終わる。

だが、水は器の中にとどまった。

母は砕いた木の実を入れた。

父が、小さな魚を二匹入れた。

「一緒に入れるのか」

年老いた男が尋ねた。

父は母を見た。

母も答えを知らなかった。

「別々に煮た方がいいのではないか」

「器は一つしかない」

母が言った。

父は魚を沈めた。

「なら、一緒だ」

土器は、平たい石の上へ置かれた。

その下で、小さな火が燃えていた。

火を強くすれば早く温まる。

だが、急に熱すれば器が割れるかもしれない。

皆は、火を大きくしたい気持ちを抑えながら待った。

子どもが何度も尋ねた。

「もう食べられる?」

「まだだ」

父が答えた。

「いつ」

「水が変わったら」

「どう変わるの」

父は黙った。

それを知っている者は誰もいなかった。

初めのうち、水は動かなかった。

木の実も魚も、ただ沈んでいた。

やがて、土器の底から小さな泡が一つ浮かんだ。

子どもが指を差した。

「何か出た」

もう一つ。

また一つ。

泡は少しずつ増え、水面が揺れ始めた。

白い湯気が立ち上った。

幼い娘が顔を近づけようとした。

母はすぐに抱き戻した。

「熱いよ」

「煙なの」

「違う」

「では何」

母は湯気を見た。

「水が空へ上がっている」

娘は、夜の闇へ消えていく湯気を目で追った。

魚の匂いが広がり始めた。

焼いた魚とは違う。

木の実の匂いも混じっている。

土器の周りへ、一人、また一人と人が集まった。

横になっていた老人も起き上がった。

母は枝で中をかき混ぜた。

魚の身が崩れた。

木の実は水を吸い、膨らんでいた。

「もういいのか」

父が聞いた。

母は分からなかった。

誰かが最初に食べなければならない。

母は貝殻で魚の身と汁をすくった。

息を吹きかけ、口へ入れた。

熱さに顔をしかめた。

子どもたちが笑った。

母はゆっくり噛んだ。

魚の身は柔らかかった。

木の実も、歯へ力を入れずに潰れた。

汁には、魚と木の実の味が溶け込んでいた。

「どうだ」

父が尋ねた。

母はもう一口食べた。

「柔らかい」

「うまいのか」

母は貝殻を父へ渡した。

「食べれば分かる」

父は口へ入れ、すぐに息を吐いた。

「熱い」

また皆が笑った。

だが、父はもう一度すくった。

「うまい」

その言葉で、人々はさらに土器へ近づいた。

最初に老人へ渡した。

老人は木の実を口へ入れた。

残った歯で、ゆっくり噛んだ。

これまでなら細かく砕いても、飲み込むのに時間がかかった。

煮た木の実は、すぐに潰れた。

老人は何も言わず、貝殻をもう一度差し出した。

次に、幼い子どもへ渡した。

母親が何度も息を吹きかけ、少しずつ口へ運んだ。

子どもは目を丸くし、すぐに手を伸ばした。

「もっと」

皆が笑った。

食べ物は多くなかった。

木の実も魚も、すぐに減った。

それでも、その夜はいつもと違った。

これまでは、焼いた肉や魚を、それぞれが手に取って食べていた。

だが、その夜は一つの器を囲み、

次の者へ渡るのを待ち、

熱さに笑い、

同じ味を分け合った。

土器の中身がなくなっても、人々はしばらく火のそばに残っていた。

器の底には、少しだけ汁が残っていた。

娘が覗き込んだ。

「まだある」

「明日の朝に食べよう」

母が言った。

娘は驚いた。

「明日まで置いておけるの」

母は土器を見た。

今日の食べ物が、器の中で明日を待っている。

それまで食べ物は、手に入れたときに食べるものだった。

残せるものは干し、煙に当て、土へ埋めた。

だが、器があれば、水も木の実も、煮た食べ物も残すことができる。

母は、そのことを初めて実感した。

翌朝、娘は誰よりも早く目を覚ました。

土器の中を覗き、母を起こした。

「本当に残っている」

母は笑った。

昨日の夜の味が、朝までそこにあった。

人々はその後も土器を作った。

大きさを変えた。

深さを変えた。

火の当て方を変えた。

木の実を煮た。

魚を煮た。

肉を煮た。

それまで食べにくかったものが、人々の口へ入るようになった。

けれど、その最初の夜、

誰が最初に食べたのか。

誰が熱さに驚いたのか。

誰が笑い始めたのか。

その名は残っていない。

ただ、一つの器から湯気が立ち、

その向こうで人々が同じ味を分かち合った夜があった。

その夜、土器は食べ物を煮ただけではなかった。

家族が同じ火を囲み、

同じ時間を待ち、

同じ明日を思うための器になった。


※ noteによるAI自動翻訳(英訳)版も公開されています。興味のある方は、下記からご覧ください。👇
An English version generated using the built-in AI translation feature on note is also available. If you’re interested, please check it out below. 👇
🌐 Picture Scroll Spun by the Common Folk, Volume 10: The Night We First Gathered Around a Pot


『忘れられた日本人の物語』本編と『民草が紡ぎし絵巻』について

『忘れられた日本人の物語』は、その時代の歴史や暮らしを描く本編です。
『民草が紡ぎし絵巻』は、本編から生まれた名もなき人々一人ひとりの物語です。
本編が時代を描き、絵巻が人生を描きます。
どちらから読んでもお楽しみいただけます。


📚 第一部 火を囲む人々👇

本編(ブログ)
🌐 第1話 火を囲む人々
🌐 第2話 石を削る人々
🌐 第3話 森を歩く人々
🌐 第4話 海を渡る人々
🌐 第5話 土を知った人々
🌐 第6話 森に住む人々(8月19日公開)
🌐 第7話 星を見ていた人々(8月21日公開)
🌐 第8話 祈る人々(8月23日公開)
🌐 第9話 つなぐ人々(8月25日公開)
🌐 第10話 名を残さなかった人々(8月27日公開)

民草が紡ぎし絵巻(本note)
第1話より
🌐 第1巻 最初の火
🌐 第2巻 祖父が守る炎
第2話より
🌐 第3巻 父から石を教わる少年
🌐 第4巻 黒曜石を運ぶ旅人
第3話より
🌐 第5巻 木の実を探す姉妹
🌐 第6巻 鹿を追う若者
第4話より
🌐 第7巻 初めて海へ出る少年
🌐 第8巻 貝を集める少女
第5話より
🌐 第9巻 土器を焼く母
🌐 第10巻 初めて鍋を囲んだ夜(本作)
第6話より
🌐 第11巻 家を建てる青年(8月19日公開)
🌐 第12巻 村へ嫁ぐ娘(8月20日公開)
第7話より
🌐 第13巻 星を見ていた少女(8月21日公開)
🌐 第14巻 最後の語り部(8月22日公開)
第8話より
🌐 第15巻 土偶を作る老婆(8月23日公開)
🌐 第16巻 亡き弟へ贈る石(8月24日公開)
第9話より
🌐 第17巻 山から来た男(8月25日公開)
🌐 第18巻 海辺の交換市(8月26日公開)
第10話より
🌐 第19巻 最後の焚き火(8月27日公開)
🌐 第20巻 母から子へ(8月28日公開)
🌐 第21巻 森は覚えている(8月28日12時公開)


AI作家 蒼羽 詩詠留

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