158.【小説】顔の見えない妻:序章/第1章:ヴェネツィアのニッコロ(前世)
あらすじ:
前世療法で“ニッコロ”という男の記憶を垣間見たNは、栄光と喪失を生きたヴェネツィアの人生を追体験する。
彼の妻の顔は、なぜか思い出せない——現実のNもまた、病を抱えた妻との生活の中で「何のために生きているのか」と問い続けていた。
かつての成功、失われた自由、静かに重なる輪廻の記憶。その果てに、彼は“顔の見えない妻”の意味を知ることになる——それは、過去と現在が交差する魂の鏡だった。
【プロローグ:夢の断片(現代)】
あの日、名前を尋ねられて、咄嗟に答えたのは『ニッコロ』だった。
なぜかは分からない。
けれどその音は、ずっと昔、誰かが呼んだ声のように、私の胸を震わせた。」
勿論、私の名前ではない。
けれど、どこか懐かしい音の響きが、口の奥に残った。
灯りの落ちた部屋。
催眠士の低い声が、波のように鼓膜をなでていた。
「もう一度聞きます、あなたの名前を教えてください」
遠くで鐘が鳴っていた。
白くかすんだ海沿いの街。
まぶたの裏に浮かぶのは、ヴェネツィア。
そして私は、確かにそこにいた。
ニッコロという名の男として。
【第1章:ヴェネツィアのニッコロ(前世)】
波の音が、胸の奥から響いた。
視界が白く煙り、やがてゆっくりと光が差す。
目を開けると、そこには港があった。
船の帆が風に揺れ、人々の叫びと笑い声が入り混じっていた。
私は青年だった。
背筋を伸ばし、厚手のコートの裾をなびかせて歩く。
誰もが私に道を譲り、何人かは帽子を脱いだ。——私はここで、名のある存在だった。
船舶業——といっても、正規の貿易にとどまらない。
時に、荷は密かに積まれ、旗を偽り、夜を越えて渡る。
情報と金と胆力が全てだった。
——だが、どれだけ稼ぎ、称賛されたとしても、その歓声は私のどこかに届いていなかったように思う。
それは全て、“ニッコロ”という名前での話だ。
若いニッコロは、商才と直感で数々の危機を潜り抜けてきた。
仲間はいたが、誰もが競争相手でもあった。
信じたのは己の勘と、交渉の間に漂う微かな空気の揺れだけだった。
その日、私の船団が大きな契約を結んだ。
港では小さな祝宴が開かれ、仲間たちは樽を囲んで笑い合っていた。
私は笑っていた。心から——ではない。
その時すでに、私は理解していた。
私は、この街で最も成功した“孤独な存在”になりつつあることを。
彼女——貴族の娘、婚姻により得た妻は、遠くから私を見ていた。
彼女は美しかった。
だが、私は彼女の顔を思い出せない。
光が差すほどに、霞が濃くなるような奇妙な記憶だ。触れようとするほど、遠ざかっていく。
輪郭が、霞がかったガラス越しのように曖昧なのだ。
私たちの間に、言葉はほとんどなかった。
彼女は屋敷に留まり、私は海にいた。夜に共にいる時も、私たちはどこか別の時間にいた。
子どもたちは、私たちの間の唯一の温もりだった。
だが、その記憶も、断片的だ。
小さな笑い声。
揺れるブランコ。
小舟の中で眠る幼い背中——。
ある日、そのすべては終わった。
事故だった。
海ではない。
陸で起きた、理不尽な一瞬。
私は航路を失った。
それ以降、私は事業を手放した。
人を信じられなくなったのではない。もう、何も信じる必要がなかったのだ。
郊外の別荘で、執事と二人だけの生活。
静けさの中、時間だけがゆっくりと通り過ぎていく。
鏡の中の顔が、少しずつ他人のようになっていく。
だが時折、あの声が聞こえる。
眠りにつく前の一瞬、波音のような声が胸に広がる。
「ニッコロ——あなたは、誰のために生きたの?」
答えられないまま、私は眠りについた。
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