思考の分岐点|第2回|主体性は「意識」ではなく「立場」から生まれる
※この記事は、「思考の分岐点」第2回です。シリーズの最初はこちら
主体性という言葉は、
よく「意識」の問題として扱われる。
もっと前向きに。
もっと自分で考えて。
もっと主体的に。
けれど、
実際に主体性が必要になった場面を
思い返してみると、
少し違う光景が浮かぶ。
それは、
やる気が急に落ちた瞬間ではない。
考える力が足りなかった場面でもない。
判断の置き場が、
いつの間にか変えられた瞬間だ。
ゲームに例えると、こうなる。
操作が難しくなったから
戸惑ったわけではない。
「ここまでは指示どおりでいい」と
明示されていたマップで、
あるタイミングから
表示が消える。
クエスト自体は残っている。
だが、次に進むためのマーカーが
出なくなる。
それは
プレイヤーの意識が変わったからではない。
ゲーム側の設計が切り替わったからだ。

「ここからは、自分で判断して進んでください」と、
無言で仕様が変えられている。
現場でも、
似た切り替わりが起きる。
昨日までは
「ここは確認して」と
言われていた範囲が、
ある日を境に、
何も言われなくなる。
代わりに投げられるのが、
「そこは主体的に判断してほしい」
という一言だ。
このとき、
判断を任された側が
同時に何を引き受けているのかは、
はっきりしないことが多い。
失敗した場合、誰が責任を持つのか。
どこまで裁量があるのか。
この判断は、後から修正できるのか。
そうした前提が整理されないまま、判断だけが個人に寄せられる。
ここで起きているのは、
意識の問題ではない。
判断の「義務」が配置された、という事実だ。
主体性が求められる瞬間とは、
自分が進んで手を挙げた時よりも、
誰かが判断を置かなくなった時に近い。
上司が決めなくなった。
組織として線を引かなくなった。
設計として、戻り道を示さなくなった。
その結果、
目の前にいる人が
決めるしかなくなる。
主体性は、
その空白に
後から名前を付けられた状態とも言える。
もちろん、
立場が変わっても
主体性が立ち上がらないケースはある。
判断を拒否する人もいるし、
指示を待ち続ける人もいる。
それは、
意識が低いからではない。
引き受けた結果がどこに戻ってくるのかが見えないからだ。
ゲームで言えば、
セーブができないエリアに
いきなり放り込まれた状態に近い。
鍵は渡された。
だが、
失敗したら最初からやり直せるのか、それとも一発で詰むのかが分からない。
その状態で
「自由に動いていい」と言われても、
慎重になるのは自然だ。
主体性が重く感じられる理由は、
意識の問題ではない。
判断と結果の距離が
急に近づいたからだ。
選んだ結果が
自分の位置に戻ってくる。
しかも、
戻せるかどうかは分からない。
その状況で立ち止まる人を、
主体性がないと切ってしまうのは、
少し乱暴だと思う。
結論を出すためではない。
安心するためでもない。
主体性が意識の問題として語られたとき、その裏で、
誰が判断を手放し、
誰が引き受ける位置に置かれたのか。
その場面に出会ったとき、
それだけは一度、見てほしい。
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予告
立場が変わると、
判断する場面が少しずつ増えていく。
けれど、
判断したことと、責任を問われることは、
本当に同じなのだろうか。
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次回
思考の分岐点|第3回|主体性と責任・判断・引き受けの距離感
前回
思考の分岐点|第1回|主体性という言葉への違和感
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▼思考の分岐点シリーズ一覧
この順番で読むと理解しやすくなっています。(思考の進行順)
①思考の分岐点(ステップ1|選択)
②現場責任者の問い(ステップ2|責任)
③分岐点の問い(ステップ3|体験)
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