「モートは存在しない」― Booking Holdings CEOが語るAI時代の経営哲学
旅行予約大手Booking Holdingsは、2000年当時のPriceLineという名称で、時価総額わずか数億ドルの企業から、現在は時価総額1800億ドルを超える企業へと成長した。この四半世紀にわたり同社を牽引してきたのが、CEOのGlenn Fogel氏である。ポッドキャスト「No Priors」に出演したFogel氏は、AI時代における同社の戦略と経営哲学について語った。
本記事では、ビジネスマン・投資家の視点から、Fogel氏の発言を整理する。
1. ドットコムバブルの教訓とAIブームへの視座
1-1. 株価1ドル割れからの回復
Fogel氏がPriceLineに入社したのは2000年、ちょうどNASDAQがピークを打った直後だった。同社の株価はその後急落し、「1株1ドルを割り込む水準まで下落し、上場廃止を避けるためリバーススプリット(株式併合)を実施した」という。その後株価は回復を続け、Fogel氏によれば「直近の夏には1株6000ドル近辺まで上昇し、四半世紀余りで1000倍の上昇となった」という。
1-2. AIブームとの類似点
Fogel氏は、現在のAIブームとドットコムバブル期には共通点があると指摘する。同氏は、1999年から2000年初頭にかけて「1500社ほどが上場したが、その多くは姿を消し、生き残ったのはせいぜい二十数社程度」だったと振り返り、AI企業についても同様の淘汰が起きる可能性を示唆した。ただし、「OpenAIやAnthropicは、それぞれ年間換算で300億〜500億ドル規模の売上があるとされている」とし、現在のAI企業には実際に大規模な収益基盤を持つ企業が存在する点で当時と異なるとの見方も示している。
2. AIエージェント「Penny」による旅行体験の変化
2-1. 複雑な旅程を自動で組み立てる
Booking Holdings傘下のPriceLineは、AIエージェント「Penny」を展開している。Fogel氏は自身の体験として、家族旅行の複雑な条件(座席クラスの分割、都市間移動、マイルと現金の使い分けなど)をPennyに入力したところ、「マイルをどのくらい保有しているかを尋ねられ、それに応じて最適な組み合わせを提案してくれた」と説明し、その体験を「素晴らしかった」と表現している。
2-2. 利用の急拡大とコスト構造の課題
Fogel氏によれば、Pennyの利用は、「ここ数カ月、月次で倍増を続けている」という。一方で同氏は、AIエージェントの運用には新たなコスト管理上の課題があるとも指摘する。「消費しているトークン数はどれくらいか、顧客を獲得するためのコストはいくらか、そしてそのROIはどうなるのか」という点は、今後継続的に検証していく必要があるという。
2-3. カスタマーサービスコストの削減効果
AI活用の効果はすでに数字にも表れている。Fogel氏は、「予約1件あたりのカスタマーサービスコストは約10%減少し、同時に顧客満足度も向上している」と説明した。ただし同氏は、「AIで全てを対応することが必ずしも顧客の望むことではない場合がある」とし、人間による対応を希望する顧客への配慮も欠かせないと述べている。
3. 資本配分の哲学 ― 年間約7億ドルのAI投資
Fogel氏は、直近の四半期決算において、「AIおよびプラットフォームへの投資として、コスト削減効果も含め約5億5000万ドルを投じている」と説明しつつ、実際の投資総額は「今年で約7億ドル規模」になるとした。
資本配分の基本方針について、Fogel氏は、「事業への再投資が十分なROIを生むと信じられるか、それとも買収機会があるか。そのいずれでもなければ、株主により良い投資判断ができる形で資金を還元すべきだ」という考えを述べている。実際、同社は直近四半期に約40億ドル規模の自社株買いを実施し、過去12年ほどで発行済株式の約40%を買い戻したという。さらに、四半期ごとに300万ドル超の配当も支払っているとしている。
4. 「モートは存在しない」という危機感
4-1. 規模の優位性と限界
Fogel氏は、同社の代替宿泊事業の規模について、「取引件数ベースで見ると、Airbnbの約4分の3の規模にあり、過去5年間はAirbnbよりも速いペースで成長している」と説明した。この規模とホテル事業を含めた品揃えの厚みは、AIエージェント時代においても一定の強みになるとの見方を示す一方、Fogel氏は次のように強調している。
「モート(堀)というものは存在しない。イノベーションから守られる場所などどこにもない」。同氏は、今日の競争優位性が明日には失われる可能性があるとし、「長期的に勝つ唯一の方法は、新しいサービス、新しいやり方を開発し続けることだ」と述べた。
4-2. 規制対応という参入障壁
Fogel氏はまた、旅行業界特有の複雑な規制環境についても言及した。「マーチャント・オブ・レコードとして旅行業を行うには、多くのルールに従う必要があり、特に米国以外の地域ではその規制が増加傾向にある」とし、規模のある企業でなければこうした対応コストを吸収するのは容易ではないと指摘している。
5. AIによる雇用への影響 ― 「変化の速度」への懸念
5-1. 40言語対応の翻訳業務が消えた実例
Fogel氏は、AIによる雇用への影響についても率直に語っている。同社では2005年頃、40の言語でホテルの説明文やカスタマーサービスを人手で翻訳・対応していたが、「現在は機械翻訳に置き換わり、それらの仕事はすべてなくなった」という。
5-2. 「変化のスピード」こそが本質的な課題
Fogel氏は、技術による雇用の置き換え自体は歴史上繰り返されてきた現象だとしつつ、「本質的な問題は、雇用が消える速度と新しい雇用が生まれる速度が、同じペースで進んでいない可能性がある点だ」と指摘する。同氏が例に挙げたのは、50代のトラック運転手のような存在だ。「自動運転が完全に実用化されれば、その人は仕事を失う。どうやって再訓練するのか、社会としてどう対応するのかについて、十分な議論がなされていないことを懸念している」と述べた。
同社では、従業員の再教育(アップスキリング)に継続的に取り組んでいるとし、「AIリテラシー」の向上を経営上の重要課題として位置づけているという。
6. まとめ ― 楽観と危機感を併せ持つ経営姿勢
Glenn Fogel氏の発言から見えてくるのは、AIを積極的に活用して顧客体験とコスト構造を改善しながらも、「モートは存在しない」という強い危機感を持ち続ける経営姿勢である。同時に、AIによる雇用構造の変化については、企業単体では解決しきれない社会的課題として率直に懸念を示している点も特徴的だ。
ビジネスマン・投資家にとっては、AIエージェントの普及が既存の巨大プラットフォーマーにとって脅威となるのか、あるいは規模とネットワークを持つ企業がむしろ有利になるのかという論点について、Booking Holdingsの事例は一つの重要な参考材料になりそうだ。

